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2022.1.2主日礼拝説教「星の下には何がある」(マタイ2:1-12)




 毎年1月6日は、キリスト教の暦では公現日といって、東の国の博士たちが御子イエスを礼拝した日とされています。礼拝説教も、この出来事から語らせていただきます。

 さて、この東の国の博士たちは、宗教画などでは必ず三人描かれていますが、聖書では三人とは記されていません。贈り物が三つなので、たぶん三人だろうと昔から引き継がれてきただけで、実際には何人で来たのかはわからないのです。「博士たち」とありますが、実際には博士は一人で、あとは付き人であったかもしれません。逆に、ある国では、この博士たちは三人とも大国の王であり、それぞれ自分の国から一万二千人の兵を引き連れてきた、という伝説もあるそうです。しかし私たちは、あくまでも聖書から、今日のところを考えていきましょう。ヘロデ王やエルサレムの民が動揺したのは、博士たちが引き連れてきた数ではありません。彼らが語った言葉にありました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。
 クリスマスのメッセージを思い出してください。羊飼いたちに天使が語った言葉、「今日、ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになりました」。それは良い知らせ、グッドニュースでした。しかし博士たちが語った言葉、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」、これは王と民にとって動揺をもたらす悪い知らせ、バッドニュースとなったのです。
 この二つの知らせは、同じ内容を指していました。しかし受け取る者によって、神のことばは良い知らせにもなり、悪い知らせにもなります。言い換えれば、私たち人間の心が、神のことばを待ち望んでいるか、それとも余計なことと考えているかどうかで、同じメッセージが良い知らせにもなれば悪い知らせにもなるのです。それは神の責任ではなく、人の責任です。

 ヘロデ大王は、暴力と策略を駆使して、自分の王位を守り続けていました。エルサレムの民は、そのヘロデの悪を知りつつ、自分たちの生活を守るために、見て見ぬふりをしていました。救い主であり、ユダヤ人の王である方は、ヘロデが与える偽りの平和など、すべて吹き飛ばすほどの喜びを与えてくれるはずでした。しかし彼らには見えていなかったのです。自分たちの想像力が届く範囲でしか、平和も喜びもわからなかったのです。だからユダヤ人の王がすでに生まれているという知らせに対して、歓喜の叫びを上げるどころか、今の生活が変わってしまうかもしれないことにおびえ、動揺したのです。
 祭司長たちと律法学者たちは、「みな」、ヘロデに集められたと書いてあります。そして彼らは、救い主が生まれるならばここしかない、とベツレヘムを指さしました。しかし「みな」、だれひとりとして、博士たちについていこうとしませんでした。民も、祭司も、律法学者も、あらゆる者たちが、ヘロデの支配を受け入れて、そこから抜け出そうとしなかったのです。救い主が与える、まったく新しい生き方を、彼らは拒絶しました。それは、人間の想像を超えた神の恵みと力を、まさに想像する力を失ってしまっているのです。

 視覚障がい者の方が多く生活しているキリスト教の福祉施設を訪問した牧師の体験です。入所者と共に礼拝をささげ、キリストの十字架を語りました。メッセージの後、ある方がこんなことを言われました。「先生、私たちは生まれつき目が見えません。ですから十字架で流された血の、赤い色もわからないので、想像するしかないのです。」。「それは大変ですね。どうやって説明したらいいのだろう。」「いえ、説明する必要はありません。説明は想像の邪魔になります。そして私たちに約束された永遠の御国が、想像することもできない色彩に溢れていることを思うと、言葉に言い尽くせない喜びしかないのです」。

 イスラエルの民は、何百年も救い主を待ち続けていたはずでした。しかしエルサレムの人々は、実際に救い主がお生まれになったと聞いたとき、ヘロデとともに動揺しました。それは、救い主が与えてくださる、圧倒的な恵みに満ちた人生を想像することをやめてしまっていたからです。想像できないのは、考えることをやめてしまっていたからです。ヘロデに逆らえば、捕らえられ、殺されてしまう、という状況の中で、彼らは社会の不正、虐げられた人々の苦しみ、それらを考えることをやめて、ただ自分の生活が維持されることだけを求めました。そうすれば、恐怖と暴力が支配し、常にヘロデの監視の目が光っている国の中でも、生きていける。しかしそれは生きているとは言いません。自分のいのちと生活を守ることばかりを考えた数十年間のなかで、彼らは救い主が与えてくださる光を想像することもできない、ただ今まで自分が生きてきた中で経験してきた、つまらない喜びを持ち続けることしか考えが及ばない。もし子どもが生まれたときから地下室の中で育てられたら、天井に吊り下げられたランタンでさえ、これが太陽だと信じ込み、外へ出て行くという意思さえ持たないのです。それは、二千年前のエルサレムだけの話ではありません。今日のあらゆる人々に共通することです。自分が経験したことしか信じることができないから、神が約束してくださっている永遠の御国の栄光が見えない、わからない。信仰をいただくことによって、私たちが神の子どもになるということが、いったいどれだけの特権と栄光が約束されることなのか、クリスチャンですらわかっていない人も多い。それは私たちが今までの人生で経験したことのないものですから、信じるしかないのです。ですから、信仰とは、飛び込むことだと言えます。そして本来、私たちクリスチャンは、人々にこう励ますことができるはずなのです。飛び込むことでしか、見えない世界があるのだ、と。
 私たちが、自分が経験したことだけを基準としていたら、いつまでも地べたを這い回っているだけでしょう。飛び込むことでしか、見えない世界があるのです。そこに飛び込むために必要なのが、信仰です。神は私たちのために永遠の光輝く御国を約束してくださっています。それを手に入れよ。それを見失うな。東の国の博士たちが、ベツレヘムの星をひたすら見つめながら、その下に確かにある、救い主との出会い、礼拝を求めて、旅をしてきたように、私たちも、神が約束されたものを求めながら、その前味であるこの礼拝、そして信仰生活を喜ぼう。どうかひとり一人が、自分に約束されているものが、想像さえ届かないほどの圧倒的な世界であることをおぼえて、これからの一年も、ひたすら信仰に立って、救い主のもとへと歩みを進めていきましょう。

posted by 近 at 19:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2022年のメッセージ
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