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2022.1.9主日礼拝説教「みことばはあなたを通して成就する」(マタイ2:13-23)




 数年前、しばらく音信不通であった古い友人から年賀状が届き、すごく大きな文字で一言「大願成就」と筆書きされていました。翌年からまた音信不通になりまして、はたしてどんな願いだったのか、そして叶ったのかどうなのか、聞かずじまいになってしまいました。
 日本語でいう「成就」という言葉は、人間の願いが叶うことですが、聖書で使われている「成就」とは、みことばによって示されていた神のご計画が、実際の出来事を通して満たされていくことを意味します。そして今日の聖書箇所の中では、出来事の節目節目に、この「成就」という言葉が出てきます。とくにイエスの父であるヨセフが、御使いの声に素早く反応し、行動を起こす姿を通して、神の計画が成就していくことは、私たち信仰者の模範とも言えるでしょう。しかし同時に、明らかに神が望んでおられないような、ヘロデ大王による幼児虐殺ですら、「成就」という言葉が用いられていることにも気づきます。神はこのような出来事さえ、ご計画されたということでしょうか。それは愛の神にそぐわないのではないでしょうか。

 いえ、そうではありません。神は、善人も、悪人も、すべての人の心を知っておられます。そして人が心に抱く悪、実際に行動に移される悪でさえも、この世界にご自分の計画される良きことをもたらすためのピースとして用いられるのです。ベツレヘムという町は、イエスが生まれた町、ダビデが生まれた町として有名ですが、もう一つ、イスラエル人の先祖であるヤコブの妻ラケルが葬られた場所でもあります。妊娠していたラケルは、ベツレヘムにたどり着く前に、難産の中で子どもを産み、直後に亡くなりました。そのときに生まれた子が、後にイスラエル十二部族の一つを担う、ベニヤミンでした。
 ヘロデ大王による幼児虐殺は、預言者エレミヤによって語られた預言の成就と書かれています。エレミヤの時代、ベツレヘムを含む、南ユダ王国は、東の大国バビロンによって滅ぼされ、人々は捕虜として連れて行かれました。エレミヤは、苦しみながらベニヤミンを産んで世を去って行った母ラケルと、バビロン軍に子どもたちを連れ去られた母たちを重ね合わせて、この預言を語りました。「ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」しかし、このエレミヤの預言にはまだ続きがあります。そのいなくなった子どもたちが、やがてバビロンで増え広がり、再びこのイスラエルに帰ってくる、とエレミヤ書では、この直後に預言されているのです。
 ヘロデの幼児虐殺の犠牲になった子どもたちが何十人か、それとも何百人かはわかりません。しかし闇の後には光があり、苦しみの後には慰めがあります。この世で何が起ころうとも、それは私たちを滅ぼすものにはなりません。良きことも悪しきことも、あらゆることは、神の計画をひとつずつ満たしていくパズルのピースなのです。最後には、白も黒も含めて、私たちが想像もできないようなすばらしい絵が実現します。あなたはそれを信じますか。

 もうひとつ、今日の聖書箇所の中で「成就」と並んで繰り返されているのは、ヨセフの従順です。客観的にこのヨセフに襲いかかった出来事を見れば、彼は薄い氷が張った湖を渡って向こう岸へ渡らなければならない旅人でした。一歩踏むところを間違えれば、たちまち氷は破れ、彼も、妻も子どもも、暗い湖の底へと沈んでいきます。しかし神は、御使いを通して、彼にみことばを与えました。そして、彼はただひたすらそれに従いました。御使いが「立って、エジプトに逃げよ」と命じれば、彼は立って、エジプトに逃げました。ヘロデの死後、御使いが「立って、イスラエルに行け」と命じれば、彼は立って、イスラエルに入りました。神のことばに、そのとおりに反応し、そしてすぐに行動しています。従うことが、祝福を受けるための唯一の道です。
 神を信じるとは、神に従うことです。神を信じていると言いながら、神のみこころに従わない、それは信じているとは言えません。従いたい、でも従えない自分がいるんです、という言葉を聞きます。しかしその言葉が、甘えを正当化する言葉にならないように気をつけましょう。イエスを信じて救われたとき、私たちは心に聖霊を受けました。従うために必要な力は、すべてこの聖霊から出てきます。自分にはできない。従えない。それは確かでしょう。しかし私の中にいる聖霊は、そのようなときにはこう問いかけてこられます。本当に従えないのか。むしろ従わないのではないか。私たちが、自分の中で、聖霊の声を聞くのか、それとも罪人である自分の声を第一とするのか、それが従うか従わないかを産み出します。ヨセフについて、聖書は多くを語っていません。しかし彼の従順、そして行動は、彼の中にもすでに聖霊が働いておられ、彼はその声に従った姿を証言しています。私たちも、そのように生きることができます。心の中におられる聖霊の声に耳をすませて、歩んでいきたいと願います。

 最後に、「彼はナザレ人と呼ばれる」という預言ですが、旧約聖書のどの預言書にも、これと同じ言葉は出てきません。マタイは、「預言者たちを通して語られた」と言っています。預言者たち、すなわち、旧約聖書が繰り返して、救い主について語っていることは、救い主は、人々にさげすまれ、苦しみを味わうということでした。そして、当時、「ナザレ人」という言葉は、単にナザレの町の人ということだけではなく、役に立たない、ゴミみたいなやつら、という差別的な意味でもあったのです。しかしイエスは、「ナザレのイエス」という言葉を決して拒まれませんでした。生まれたところは、ダビデの町であるベツレヘムでしたが、イエスがご自分を表すときに用いられた称号は「ナザレのイエス」でした。人々はなぜ私をダビデの子と呼ぶのか、と聞くことはあっても、人々はなぜ私をナザレのイエスと呼ぶのか、とは決して言われませんでした。さげすまれ、見捨てられた町ナザレ。しかしペテロは、生まれつき足のきかない人に、こう言って、人生を変えました。「ナザレのイエスの名によって、歩きなさい」。
 「彼はナザレ人と呼ばれる」。それは、人々が見向きもしないような人の友と呼ばれることをイエスは恥としなかった、ということです。あなたがどんな罪を抱えていたとしても、私は決して見捨てず、あなたのためにわたしのいのちを捨てる、それがナザレ人イエスです。この方が、打ちひしがれた心の中に入ってくださるとき、どんな人間も生まれ変わるのです。みじめで、あわれで、弱い者といつも一緒にいてくださる方、それがナザレのイエスの意味です。あなたは自分がみじめで、あわれで、弱い者であると認めることができるでしょうか。もしそれにうなずくことができるならば、イエスはあなたの中に住んでくださいます。どうか、このイエス・キリストにある、慰めに満ちた人生が、あなたの中に与えられますように。

posted by 近 at 20:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2022年のメッセージ
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