試験的ですが、1/23(日)から、当日の礼拝ライブ中継のページの中にある「プログラム」にて、当日の説教原稿をリアルタイムに参照することができるようにします。礼拝中継をスマホで見ている方が多くおられるのですが、電波の関係で、説教の言葉が聞き取りにくいというclaim(クレーム)があったためです。(ちなみに苦情を意味する「クレーム」は和製英語であり、本来の英語でclaimは「正当な主張」を指します。ここではそちらの意味としてご理解ください。)ただ礼拝のライブ中継のページは、実際の礼拝開始よりも半日以上前に公開しています。ですから礼拝より先に当日の説教原稿が読めてしまうわけですが、あくまでも本来の趣旨は、説教者の言葉が聞き取りにくいような場合に参照していただくものです。
というわけで、今後、この「○○年のメッセージ」は、その週の礼拝のライブ中継のぺージをそのまま残していく(今までは上書きしていました)というかたちになります。従来のページにあった、牧師の雑談っぽい記事を楽しみにしていた方も二、三人おられたかもしれませんが、私も最近は無我の境地で生きておりますので、書くこともあまり思い浮かばなくなってしまいました。とりあえず、これからも当教会のブログをよろしくお願いいたします。
序.
今日の説教題は、ヨハネの言葉からそのままシンプルに「悔い改めよ」とつけました。もし、おもての掲示板に「今週の説教:悔い改めよ」と書いたら、それを見ただけで、人々は素通りをしていくのではないかと思います。「悔い改めよ」よりは、「あなたは愛されている」とでも書いたほうが、人々の目を引きつけることでしょう。「悔い改めなさい」と言われて、はいと素直に認めることほど難しいことはありません。しかしバプテスマのヨハネのメッセージが「悔い改めなさい」であったこと、それはたとえこの言葉が人の心にとってはざわざわするものであったとしても、そこを通らなければ、救い主のもとへとたどり着くことはできないことを表しています。ヨハネは言いました。「悔い改めなさい、天の御国が近づいたから」。「天の御国」とは死後の世界のことではなく、救い主イエス・キリストを心に受け入れることを通して生まれる、新しい生き方のことを指しています。では「新しい生き方」とは何でしょうか。それは、常に罪が心と生活にこびりついている人生から自由にされて、神が与えてくださる永遠の御国を待ち望みながら生きていくことのできる人生です。
1.
子どもの頃、健康診断で、生まれつきの不整脈があることがわかって、一日精密検査を受けたことがありました。その検査というのが少し変わっていて、心拍数が記録できる機械を胸に取り付けて、普通に一日を過ごし、また自分がどんな行動をしたかを細かくノートに書いていく、というものでした。普段は何気なく行っていること、寝転がってマンガを読むとか、寝転がってテレビを見るとか、あらゆることを記録するというめんどくさい検査でした。しかし振り返って、こう思うのです。もし私たちが自分が一日の中での汚い言葉や感情、他人や自分を傷つける行動、それに注意を払って記録した場合、きっと帳面に溢れてしまって、途中で記録するのをやめてしまうでしょう。
私たちはどんなに良い人間であっても、罪と関わらずに生きる、ということは不可能です。しかしイエス様が私たちに与えてくださったのは、私たちがどんなに罪を犯してしまう者であっても、そのすべてのさばきをキリストが身代わりになって引き受けてくださったのだから、もはや生きることも死ぬことも、どちらも恐れる必要がない人生です。過去の罪も、明日犯すかもしれない罪も、あらゆる罪に対するさばきを、イエス様は十字架によってご自分が引き受けてくださいました。それを信じる私たちは、もはや罪にひきずられることはないのです。しかしそのためには、今までの人生の中で私たちを苦しめてきた罪の数々を明るみに引っ張り出してこなければなりません。それが、悔い改めよというヨハネのメッセージです。あなた自身を闇の中に捕らえている、今までのあらゆる罪を神さまのもとにさらけ出すのです。それは、「悔い改め」という言葉を聞いて多くの人々が顔をしかめるようなことではありません。むしろ私たちにいのちを与える、光に続く門をくぐること、それが悔い改めだということを知ってください。
2.
バプテスマのヨハネは、神が預言者を通して約束された、荒野で叫ぶ者の声の成就でした。彼は、人々が集まっている町の中ではなく、人々が寄りつかない荒野にて、「悔い改めよ」と叫び続けました。するとエルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から人々がヨハネのもとにやって来た、と聖書は記録しています。ヨハネから人々に近づいたのではなく、人々のほうが荒野にいるヨハネのところにやってきたのです。これは、「悔い改め」とは、心の中だけで完結することではなく、必ず具体的な行動が伴うのだ、ということを意味しています。悔い改めと訳されているギリシャ語は、「メタノイア」、直訳すると方向転換、という意味です。多くの人々が悔い改めても変わらないのは、心の中で後悔し、もうやめようと決意するだけにとどまっているからです。しかし悔い改めは方向転換です。今まで自分が生きてきた方法を変えること、そして実際に生活を変えていく、ということです。
そう考えてみると、「悔い改め」の反対語は何でしょうか。「現状維持」です。自分の生活を変えないで、このまま歩み続けようとする思い。それは悔い改めと真っ向からぶつかります。そして悔い改めの必要でない人など、この世には一人もおりません。なぜなら、私たちの心はいつも安定を求め、変わらないことがよいことだと考えるからです。しかし変わることを恐れないでください。いや、神があなたを変えられる、ということを恐れないでください。私たちは過去を懐かしむこともありますが、多くの場合は、今の自分の生き方が一番良い生き方である、と考えます。しかし今の自分の生き方に満足する前に、聖書から、神が私に願っている姿を見つめましょう。そして決して変わることのない神のことばが、聖霊によって照らされて、私たちの心に響くとき、むしろ私たちは変わらなければならないということに気づくのです。
3.
神さまはありのままのあなたを愛している、ということばは真実です。しかしそれはあなたは未来永劫そのままでいいよ、という意味ではありません。罪人さえも愛してくださる神さまは、私たちが罪を悔い改め、罪から離れることを願っておられます。自分の心と生活を見つめましょう。神が私たちにどのような生き方を求めておられるのかは、聖書を読み続けるならば必ず見えてきます。そして聖書が私たちの中にたくわえられていけばいくほどに、私たちは自分の真実の姿が見えてきます。心の中で神よりも大きくなっているものを見いだすことがあります。神に頼らなくてもやっていけるという高ぶった思いを見つけることもあります。もしそれに気づいたならば、それを神さまの前にすべてさらけ出して、神さまが喜ばれる姿へともう一度近づいていく。それが悔い改めるということです。
赦された者は、悔い改める必要がない、というメッセージを聞いたことがあります。しかし赦しと悔い改めは、常に手をつなげながら、私たちに神の恵みの深さ、広さ、高さを教えてくれるものです。赦されたという確信が強くなればなるほど、私たちは悔い改めることの喜びがわかっていくのです。バプテスマのヨハネによる悔い改めは、まだキリストの十字架が起きていない中での、不完全なものでした。しかしそれでも多くの人々がヨハネのもとにやってきて、自分の罪を告白しました。不完全なものの中にも人を変える力があったとすれば、いまや十字架による赦しが確かなものにされたなかでの、完全なものとしての悔い改めは、どれほどの変化を私たちにもたらすことでしょうか。いま、荒野で叫ぶ者の声は、私たち教会です。罪の中に歩み続ける人々に、イエス・キリストの十字架による救いと解放を語ること、それは私たちにゆだねられた、神のわざです。ひとり一人がそのために歩んでいきましょう。
最近の記事
(04/20)重要なお知らせ
(09/24)2023.9.24主日礼拝のライブ中継
(09/23)2023.9.17「家族を顧みない信仰者」(創世19:1-8,30-38)
(09/15)2023.9.10「安息日は喜びの日」(マルコ2:23-3:6)
(09/08)2023.9.3「私たちはキリストの花嫁」(マルコ2:18-22)
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