説教は15:30前後から
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前 奏1私たちが聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕はだれに現れたか。2彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。3彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。5しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。6私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。2017 新日本聖書刊行会
1.わが主よ 今ここにて 親しく見(まみ)えまつり 限りなき幸いを 受くるこそうれしけれ
2.恵みの足れる時よ いのちの充(み)てる折りよ 今しばし留(とど)まれや 主と共にわれ過ごさん
3.ここには贖(あがな)いあり ここには慰めあり わが汚(けが)れ きよめられ 御力(みちから)は満ちあふる
4.面影(おもかげ)うつししのぶ 今日だにかくもあるを 御国にて祝う日の その幸や いかにあらん アーメン代表祈祷我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)22彼らはイエスを、ゴルゴタという所(訳すと、どくろの場所)に連れて行った。23彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとしたが、イエスはお受けにならなかった。24それから、彼らはイエスを十字架につけた。そして、くじを引いて、だれが何を取るかを決め、イエスの衣を分けた。25彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。26イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。27彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。28【本節欠如】
29通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。30十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」31同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。32キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。
33さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。34そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。2017 新日本聖書刊行会
1.
「十字架につけろ!」「十字架につけろ!」狂ったように叫ぶ群衆の怒り声、兵士たちに突き飛ばされながら、イエスはゴルゴタの丘にまで連れてこられました。兵士たちは乱暴にイエスの衣を剥ぎ取り、別の兵士たちは地面の上で十字架を組み立てました。そしてイエスの手を、足を、それぞれ十字架の横木と縦木に押さえつけました。兵のひとりが手首を乱暴に押さえつけ、主の五本の指を無理矢理に広げます。そして他の兵士が左手に釘をつかみ、主の手のひらの真ん中に押し当てつつ、右手の金槌を何度も振り下ろす。肉の裂ける音、血の飛び散る音。イエスは釘が打ちつけられる瞬間、どのような声をあげられたのか。それとも歯を食いしばって声を殺されたのか。あまりの痛みに目を閉じられたのか。それとも苦しみの杯を飲み干すために目を見開かれたのか。
しかし、じつはこれらのことは聖書には一切書いてありません。イエスの十字架こそが福音の中心であるにもかかわらず、福音書はどれも十字架につけられる瞬間については、たった一言でしか語っていないのです。マルコの福音書では、24節にあっさりとこう書かれています。「それから、彼らはイエスを十字架につけた」。他の三人の福音書記者、マタイ、ルカ、ヨハネ、すべてこの調子です。彼らが書き残しているのは、「イエスは十字架につけられた」というたった一言のみです。どれだけ屈辱にまみれた瞬間だったのか。どれほどの苦痛であったのか。肉をえぐられ、骨を削られるその痛みについて、一切、記していないのです。十二弟子の一人、マタイのように逃げ出してしまった者であれば見ていないから書けない、ということはあるかもしれません。しかし同じ十二弟子であるヨハネは、十字架の間近でその瞬間を目撃していた者でした。それでもヨハネも、十字架を淡々としか記していません。このマルコを含めて、なぜどの福音書記者も、十字架を淡々としか記そうとしないのか。
2.
それは、福音書記者たちは、この十字架に至っては、罪人の視点で描くことに徹しているからです。あらゆる人間にとって、イエスの十字架はしょせん人ごとでしかありません。兵士たち、祭司長たち、律法学者たち、道行く者たち、共に十字架につけられた犯罪人に至るまで、イエスの十字架が自分のためなのだと考えた者はひとりもいませんでした。彼らにとってイエスの十字架は自業自得でしかありません。神を自称し、それゆえに十字架にかけられて殺されたのだ、と。預言者イザヤが700年前に預言したとおりでした。そしてさらに二千年経った今日においても、人は、イエスの十字架の出来事を聞いたとしても、それを他人事と受けとめていることは何も変わっていません。
人々は言います。二千年前のエルサレムに私は生きていない。なぜ二千年前の出来事が自分に関係があるのか。十字架などというものが今の自分の生活と何の関係があるのか。人は十字架の出来事を、カビの生えた大昔の出来事としか見ようとしません。しかし、十字架はあなたのためでした。十字架で死なれたイエスを、自分とは関係のない昔の人としか受けとめられない、あなたのためにイエスは十字架で死んでくださいました。イエスを十字架につけた後、着物をくじでわけた兵士たち。十字架の一番そばにいながら十字架が見えていない人々の中に、あなたもいました。「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」。むしろ自分こそ救いが必要だということを知らずにあざける人々の中に、あなたもいました。「今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから」。目に見えるものしか信じようとしない愚かさを自ら言い表す人々の中に、あなたもいました。イエスの十字架の右と左で彼をあざけった犯罪人たち。もしキリストがあなたのために死んでくださらなければ、あなたもまた、やがて神のさばきを受けなければならなかったのです。
3.
ある哲学者が言いました。赤ん坊が泣き叫びながら生まれてくるのは、これから自分の人生に待ち受けている苦しみを知っているからだ、と。その言葉が事実かどうかはともかく、私たちはこの世界を知れば知るほど、そこには想像もできないような深い泥沼が広がっていることに気づきます。それに気づかないことそのものが罪の縄目なのです。しかし気づいた人々はそこから抜け出そうとします。しかしどんなにもがいても、人の力では泥沼から抜け出すことはできない。泥が目をふさぎ、泥水が口に入り込む。もし救い主が本当にいるのなら、この泥沼から引き上げて欲しい。しかし誰もが自分のことで精一杯で、他人を助けることなど誰にもできません。「どうして自分がこんな目に会わなければならないのか。神がいるなら、どうして私をこんな泥沼に見捨てたままなのか」。この叫びをわかってくれる人はいないのか。この苦しみをわかってくれる人はいないのか。
だからキリストはこう叫びました。叫ばずにはいられなかった。「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ!」。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。救い主にもっともふさわしくないように聞こえる叫びです。神よ、なぜわたしを見捨てたのか。しかし、この叫びこそ、私たちの罪の身代わりとなった方に最もふさわしい叫びでした。私たちはどれだけもがいても、罪によって縛られ続ける人生でした。なぜ私は見捨てられたのか。見捨てられ続けるのか。その叫びを、私たちの代わりに引き受けてくださった方、それがイエスです。もしイエスが十字架にかけられなければ、私たちはいつまでも見捨てられた悲しみと叫びを続けるしかなかったことでしょう。しかし主は、すべての痛みと悲しみ、そしてさばきを、私たちの身代わりとなってすべて引き受けてくださったのです。
結.
イエス様は、見捨てられそうになったのではありません。本当に見捨てられたのです。「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。それは泣き言のように聞こえるかもしれません。うらみ節のように聞こえるかもしれません。しかし実際には、勝利の叫び、いや、罪と死に対する圧倒的勝利につながる叫びなのです。パウロはガラテヤ教会に書き送った手紙の中で、こう書いています。
「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。」
主は、私たちの代わりに見捨てられました。私たちの代わりにのろわれました。私たちがかぶるべき、いばらの冠を。私たちが打ちつけられるべき、手足の釘を。私たちが吐きかけられるべき、つばきとあざけりを。そして私たちが叫ぶべき、「神に見捨てられた」という絶望者の叫びを代わりに引き受けてくださったのです。この方を救い主として信じるならば、私たちは決して、見捨てられた、と叫ぶような人生を味わうことはないのです。
どうか忘れないでください。あなたの罪、それは過去・現在・未来にわたって永遠の昔から永遠の終わりに至るまで、キリストの十字架によって完全に打ち消されたのだということを。恵みは何があっても決してあなたを離れることはありません。あなたが恵みを忘れることはあっても、神はあなたを忘れることはありません。どんなことがあっても、神の愛は決してあなたから離れることはないのです。あなたが叫ばなければならなかった嘆きは、すべてイエスが十字架で叫んでくださったのですから。どうかこのイエス・キリストを救い主として信じて、永遠のいのちの中に飛び込みましょう。報 告1.主は命を与えませり 主は血潮を流しませり その死によりてぞ我は生きぬ 我何をなして主に報いし
2.主は御父のもとを離れ わびしき世に住み給えり かくも我がために栄えを捨つ 我は主のために何を捨てし
3.主は赦しと慈しみと 救いをもて降(くだ)りませり 豊けき賜物 身にぞ余る ただ身と霊(たま)とをささげまつらん アーメンあまつみ民も 地にある者も 父 子 御霊の 神をたたえよ 神をたたえよ アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。
仰ぎ願わくは、
我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、
我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン