前 奏8イエス・キリストのことを心に留めていなさい。私が伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった方です。9この福音のために私は苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばはつながれていません。10ですから私はすべてのことを、選ばれた人たちのために耐え忍びます。彼らもまた、キリスト・イエスにある救いを、永遠の栄光とともに受けるようになるためです。11次のことばは真実です。「私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。12耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。13私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」2017 新日本聖書刊行会
1.小羊をば ほめたたうる 妙なるものの音 天(あめ)に聞こゆ いざみ民よ 恵みの主に 栄えの冠(かむり)を ささげまつれ
2.み使いらも うち伏すまで わが主の御傷は照り輝く いざみ民よ 救いの主に 栄えの冠を ささげまつれ
3.戦いやみ 矢叫び絶え 祈りと歌との声は響く いざみ民よ 平和の主に 栄えの冠を ささげまつれ
4.空の極み 地の果てまで みいつの光は照り渡りぬ 父と共に しらす君に 栄えの冠を ささげまつれ アーメン役員就任式(第二礼拝)・教会学校教師就任式(第三礼拝)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)53人々がイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長たち、長老たち、律法学者たちがみな集まって来た。54ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の庭の中にまで入って行った。そして、下役たちと一緒に座って、火に当たっていた。55さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするため、彼に不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。56多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたが、それらの証言が一致しなかったのである。57すると、何人かが立ち上がり、こう言って、イエスに不利な偽証をした。58「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。」59しかし、この点でも、証言は一致しなかった。60そこで、大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているが、どういうことか。」61しかし、イエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。大祭司は再びイエスに尋ねた。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」62そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」63すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「なぜこれ以上、証人が必要か。64あなたがたは、神を冒瀆することばを聞いたのだ。どう考えるか。」すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。65そして、ある者たちはイエスに唾をかけ、顔に目隠しをして拳で殴り、「当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちはイエスを平手で打った。2017 新日本聖書刊行会
1.
四旬節第四週に入りました。十字架の苦しみをおぼえる四旬節は全体で6週間続き、今日はその4週目にあたります。今週の礼拝説教は、イエスが十字架にかかる前に待ち受けていた、ユダヤの最高法院による不正な裁判と、その中で神の子として信仰を貫かれるイエスの御姿を見ていきましょう。
裏切った弟子、イスカリオテのユダの手引きによって群衆に捕らえられたイエスは、大祭司のもとへと連れてこられました。夜明けまで数時間、まさに真夜中でありましたが、祭司長たち、長老たち、律法学者たちがみな集められてきた、と聖書は記録しています。しかしその「みな」の中には正しい裁判を行おうという者は一人もいませんでした。あるいは、わずかにいたとしても、その言葉はまったく記録されていません。それも仕方のないことかもしれません。何しろ、弟子のペテロでさえ、イエスを捕らえた下役たちと一緒になって火にあたっていたほどです。ペテロとしては、チャンスを伺ってイエスを取り戻すためと考えていたかもしれませんが、あまりにも緊張感が欠けています。
すべての常識、すべての正義が狂っていました。無実の人をさばくことに対する恐れも、ためらいも、そして真実も、何一つこの裁判からは香りません。代わりにあったものは偽りであり、殺意であり、狂気でした。偽りの証言が次から次へと現れ、議員たちはイエスのあら探しに夢中になっています。暗やみにともされた庭のかがり火が、彼らのよこしまな笑顔を照らし出す。彼らは無実な人を有罪にすることに対し、何の恥も感じない。ためらいも感じない。良心の痛みも感じない。
2.
私たちは、こんな人々と自分は違うと思いたい。しかし私たちは、聖書の前でしばし立ち止まるべきです。彼らの姿は、もしかしたら自分自身とよく似た姿を表してはいないでしょうか。どこが。どうして私が。それは、みことばを聞いているし、知っている。しかしそれを正しく用いることができない者たちの姿です。58節をご覧ください。「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。」もったいない、と思います。イエス様が実際にこれを語ったとき、「人の手で造られた」とか、「人の手で造られたのではない」とは、一切、語っていません。それは弟子たちでさえも、イエスが復活されたあとで悟ったことでした。つまり、この偽りの証言者たちは、弟子たちでさえまだ悟っていなかった、「人の手で造られたのではない別の神殿」こそ、イエスが建てようとしておられたものだということに気づいていたのです。彼らはここまで真理に近づいていながら、イエス様の言葉を使ってこの方をおとしめることしか考えていない。あえて私たち自身の姿と照らし合わせてみましょう。あなたは聖書のことばを知っているかもしれません。知っているだけではなく、理解もしているかもしれません。しかしその聖書のことばに従っていますか。むしろ聖書を、自分自身の行動を正当化させるために利用していませんか。私たちが罪から離れる決意を持ってみことばを聞くならば、みことばは私たちを変えてくれる神の力となります。しかし今の生活を変えたくないという肉の思いを捨てることなく、みことばを聞くならばどうでしょうか。現状維持を神が認めてくださっているかのようにみことばが聞こえてくるのです。聞くだけでオーケー、行動を変えることまでも求めない、そんなメッセージを聞いて、恵まれました。私は皆さんにそんなえせクリスチャンになってほしくない。
3.
みことばを使って、逆にみことばから離れさせる。それはサタンの常套手段です。エデンの園で、エバに話しかけた言葉、荒野でイエス様に語りかけた言葉、現代の異端が人々を誘う言葉、どれもサタンはみことばを使って惑わします。より正確に言うと、悪魔に都合良いところを切り貼りした、みことばの適用によって惑わします。しかしそれは、聖書を知らない、あるいは知っていてもよく学んでいないと、違いが見抜けません。ひとり一人の信者が、みことばをしっかりと自分のものにしなければなりません。ヨーロッパにある、石造りの伝統的な教会の写真を見ると、なぜか教会の門扉とか屋根の上といった目立つ場所に翼を生やした悪鬼の像が飾られているのを不思議に思ったことはありませんか。それは、闇の眷属は隙あらば教会に入り込もうとしており、それに対してみことば、祈り、賛美、交わり、礼拝、あらゆる霊的武装をもたなければならないという信仰告白を建築物を通して表しているのです。
罪とは、常にみことばに対する反抗、反逆です。私たち人間は、人生という荒海に乗り出していくひとつの小船のような存在です。その中で「みことばに生きる」とはどういうことか。それは、私の小船を私が動かしていく舵として、神の言葉を用いていくことではない。この荒海よりもはるかに大きな造り主が、必ず私を陸地へと導いてくださると信じ、舵から手を離し、進路を神の視線に合わせていくこと、それが「みことばに生きる」という生活です。聖霊なる神は、聖書を通して私たちの罪を教えます。聖書が私たちの心の中の罪をえぐり出すとき、たとえそれが不快な経験であったとしても、私たちをそれを受け止めなければなりません。そこを通らなければ、私たちの信仰生活は自己満足にすぎず、みことばに導かれたものとは言えないのです。
結.
どんなに偽りの証言を積み重ねてもイエスに罪を見いだせなった大祭司は、業を煮やしてイエスに直接尋ねました。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか」。これは質問ではなく、罠です。自分がキリストであるとさえ言えば、この男を十字架にかけることができる。神に最も近づくことができるはずの大祭司でさえ、悪意と偽りの虜になっていました。しかしイエス・キリストは重く閉ざしていた唇を開きました。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」。ここで沈黙を貫けば、罪に定められなかったのに、どうして口を開いてしまったのか、と考えたこともありました。しかし、ここで口を開いたからこそ、イエスはまごうことなき神なのです。別のところにあるみことばにこうあります。「私たちは真実でなくても、神は常に真実である。神にはご自身を否むことができないからである」。全能の神にも、自分自身を否むことだけはできません。ひとりの悪しき大祭司が神ご自身に尋ねた。「あなたはキリストですか」。その問いに隠れた悪意にむせかえりそうになりながらも、主は答えられた。「わたしが、それです」と。だとしたら、もしあなたが真実な求めをもってイエスにこう尋ねるとき、彼が答えてくださらないことがあるでしょうか。「イエス様、あなたは本当に救い主ですか。本当に私を罪と滅びから救うことのできるお方なのですか。私がどんな人間であっても、あなたは救ってくださるのですか」。イエスは、数え切れないくらい殴られ、打たれ、腫れ上がった頬を緩ませて、こう答えてくださるでしょう。「わたしこそ、それです」と。「疲れた者よ、苦しんでいる者よ、永遠のいのちを求める者よ、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう」と。罪を赦し、十字架ですべての罪を贖ってくださったイエス・キリストを心に受け入れましょう。報 告1.イエスよ十字架に われを引きて 絶えずみもとに保ちたまえ 君のいさお ほむべきかな 十字架のほかは われ誇らじ
2.十字架によりて われ世に死し 十字架によりて 世われに死す 君のいさお ほむべきかな 十字架のほかは われ誇らじ
3.君の御跡を 踏みて進まん 十字架の悩み 日々覚えつ 君のいさお ほむべきかな 十字架のほかは われ誇らじ
4.憂き悲しみも 御名のために 忍ぶわが身は楽しきかな 君のいさお ほむべきかな 十字架のほかは われ誇らじ アーメン天地(あめつち)こぞりて かしこみたたえよ 御恵みあふるる 父 御子 御霊を アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン
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(04/20)重要なお知らせ
(09/24)2023.9.24主日礼拝のライブ中継
(09/23)2023.9.17「家族を顧みない信仰者」(創世19:1-8,30-38)
(09/15)2023.9.10「安息日は喜びの日」(マルコ2:23-3:6)
(09/08)2023.9.3「私たちはキリストの花嫁」(マルコ2:18-22)
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