「選ばないという選択」をして永遠のいのちを得る機会を永遠に失ってしまったピラトの霊が、いつもどこかの水場に現れては赦しを求めながら手を洗っているという悲しい伝説が残っている山だそうですが、現在では完全にリゾート地です。
伝説の真偽はともかく、一度は行ってみたいですね。ピラトゥス・リゾート提供のプロモーション動画をお楽しみください。
23私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、24感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」25食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。2017 新日本聖書刊行会
1.わが主よ 今ここにて 親しく見(まみ)えまつり 限りなき幸いを 受くるこそうれしけれ
2.恵みの足れる時よ いのちの充(み)てる折りよ 今しばし留(とど)まれや 主と共にわれ過ごさん
3.ここには贖(あがな)いあり ここには慰めあり わが汚(けが)れ きよめられ 御力(みちから)は満ちあふる
4.面影(おもかげ)うつししのぶ 今日だにかくもあるを 御国にて祝う日の その幸や いかにあらん アーメン代表祈祷我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)11さて、イエスは総督の前に立たれた。総督はイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは言われた。「あなたがそう言っています。」12しかし、祭司長たちや長老たちが訴えている間は、何もお答えにならなかった。13そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにも、あなたに不利な証言をしているのが聞こえないのか。」14それでもイエスは、どのような訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。
15ところで、総督は祭りのたびに、群衆のため彼らが望む囚人を一人釈放することにしていた。16そのころ、バラバ・イエスという、名の知れた囚人が捕らえられていた。17それで、人々が集まったとき、ピラトは言った。「おまえたちはだれを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」18ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。19ピラトが裁判の席に着いているときに、彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから。」20しかし祭司長たちと長老たちは、バラバの釈放を要求してイエスは殺すよう、群衆を説得した。21総督は彼らに言った。「おまえたちは二人のうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」22ピラトは彼らに言った。「では、キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはみな言った。「十字架につけろ。」23ピラトは言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」24ピラトは、語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の目の前で手を洗って言った。「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。」25すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」26そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。2017 新日本聖書刊行会
序.
私たちが毎週告白している「使徒信条」に出てくる、いくつかの人名の中には、ウクライナに関係している人がおります。イエス様?それともおとめマリヤ?いいえ、ポンテオ・ピラトです。ポンテオとは、黒海の南側にあるポントゥス地方のことです。黒海。黒い海と書きますが、実際には青い色をした美しい海です。クリミア、オデッサ、など今回の戦争のニュースの中でたびたび出てくる地名は、すべてこの黒海沿岸にあります。当時のローマ帝国の領土の中では、まさに辺境、悪く言えば田舎、ざいごです。ローマ帝国の田舎に生まれながら、エルサレム総督にまで上り詰めたポンテオ・ピラトにとって、ここまで血がにじむような努力をして勝ち取った総督の地位は、どんな手段を使っても失ってはならない、というものだったでしょう。しかしその総督の立場を揺るがしかねない一つの事件が起こりました。それが、ユダヤ人たちが連れ込んできたイエス・キリストであったのです。
1.
ピラトは頭の切れる人物でした。そして二つのものに挟まれたとき、どちらにつけば得なのかを瞬時に判断できる、野性的なカンの持ち主でした。それによって彼はローマ総督にまで上り詰めることができたのです。しかしここでピラトは悩みます。祭司長、長老、律法学者、さらには全議会を敵に回してまでイエスを無罪とするならば、エルサレム中を巻き込んだ反乱が起こるのは目に見えていました。かといってもし罪を犯していない人をあまつさえ十字架刑にかけてしまえば、それがローマ本国に知られたとき、彼の責任が問われることにもなる。
私たち自身もこのような状況を経験するのではないでしょうか。あなたの前に、ふたつの選択肢があります。自分の良心、あるいは信仰に照らしてどちらが正しいか、それはよくわかっている。しかし正しいものがわかっていても、それは正しいと簡単に言えない世界に私たちは身を置いています。あなたを真実から遠ざけるものは何でしょうか。ある時は、人間関係のしがらみでしょう。家族の手前、上司の手前、近所の手前、正しい選択を知っていながらあえて周りに合わせる、そのようなこともあるでしょう。ひとつの問題にぶつかるとき、あなたはそこにいくつもの選択肢を見いだし、どれを選ぶか悩むかもしれません。しかし実際には、選択は二つしかない。あることを選ぶか、選ばないか。それがいくつも積み重なって、選択肢を無限に見せている、それだけです。やるか、やらないか。人生はその選択の積み重ねです。しかし私たちは選択を避けたがる。パウロがギリシャ最大の都、アテネで説教した時、復活を信じていなかったギリシャ人たちはあざ笑いながら、こう言いました。「そのことについては、いずれまた聞くことにしよう」(使徒17:32別訳)。しかし「いずれまた」の機会は永遠に過ぎ去ってしまったのです。そしてパウロがその後にローマ総督フェリクスに福音を語ったときも、総督は神に対する恐ろしさを感じながらも、こう言いました。「今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶこととする」(使徒24:25)。しかしやはり「また」の呼び出しは、永遠に来なかったのです。
2.
ピラトが、イエス・キリストを無実だと感じたことは間違いがありません。「あなたはユダヤ人の王なのか」「あなたがそう言っています」。その短い会話のあと、どれだけ自分に不利な証言をされても何も答えようとしないイエス。ピラトの心に起こった感情や、言葉を拾い出してみましょう。14節、「それには総督も非常に驚いた」。18節、「ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである」。23節、「ピラトは言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか」」。ピラトは気づいていました。最初の驚きは、最後には確信に変わっていたのです。このイエスという男に罪はない、と。しかし彼の心ははっきりとそう気づいていたのに、彼は結局その道をまっすぐ進もうとしなかった。26節、「そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した」。
じつのところピラトは、選択を避けたつもりだった。彼は群衆の目の前で手を洗い、「この人の血について私には責任がない」と宣言した、とあります。ユダヤ人の側にも、イエスの側にも、どちらにも私はくみしない、彼はどちらも選ばない。そう言って、彼は選ばない、という選択を選びました。どうかみなさんは忘れないでください。たとえ選ばないという道を選んだつもりであっても、それは事実、選ばないと宣言する道を選んでしまっている、ということなのです。ピラトも、アテネの人々も、総督フェリクスも、そして現代の多くの人々も、福音を聞くとき、その話はまた今度、とはぐらかします。しかし選択を先に延ばすことは、じつはすでに選択してしまっていることに他なりません。そしてどんな選択にも、必ず結果が待ち受けているのです。
結.
彼は永遠のいのちを求めることよりも、手を洗う水の器を求めた。キリストのみ声を待ち望むかわりに、キリストの声が届かないところにまで主を追いやった。神を喜ばせるよりも、群衆のきげんをとろうとした。私は、みなさんに懇願します。ポンテオ・ピラト、そして彼と同じようにこの二千年間、永遠のいのちに至る選択を保留したまま世を去った数え切れない人々のようにならないでください。なぜポンテオ・ピラトの名が使徒信条に加えられているのか。それは、後の時代の人々への警告です。ピラトのようになってはならぬ、と。福音にあと一ミリまで近づきながら、福音から永遠に遠ざかってしまった彼のようになってはならぬ、と。今日、確かに福音と出会ったならば、今日、信じるということ。選択を保留することは、すでに選択をしてしまっていることなのです。今日のところは、私には福音はいりません、と。いったい二千年のあいだに、どれだけの人々がそう考え、永遠に救いの機会を失ってしまったことか。地獄に落ちたたましいが、その失敗を取り戻せるものならと、業火の中で歯ぎしりしている声が聞こえるでしょうか。
聖書の中には、ピラトがその後どうなったかは記録されておりません。しかしローマの歴史書によれば、彼はこのときから数年後に、ローマ総督の地位から罷免されたことがわかっています。そしてスイスには、ピラトの名前がつけられている山があり、ピラトの幽霊が毎日、どこかの水面に姿を現しては、いまだに両手を水につけて赦しを求めているという伝説さえ残っています。それは伝説にすぎませんが、私たちが選択すべき時と選択すべき道を間違えることがないようにという警告です。イエス・キリストを信じましょう。永遠のいのちを選びましょう。その祝福は、信じた今日から始まるのです。報 告1.血潮したたる主の御頭(みかしら) とげに刺されし主のみかしら 悩みと恥にやつれし主を 我はかしこみ君(きみ)と仰ぐ
2.主の苦しみは我がためなり 我は死ぬべき罪人(つみびと)なり かかる我が身に代わりましし 主の御心はいとかしこし
3.懐かしき主よ 計りしれぬ 十字架の愛にいかに応えん この身と魂(たま)をとこしえまで 我が主のものとなさせ給え
4.主よ主のもとに帰る日まで 十字架の影に立たせ給え 御顔を仰ぎ御手によらば いまわの息も安けくあらん アーメンみ恵みあふるる 父 御子 御霊の ひとりの御神に み栄え尽きざれ アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。
仰ぎ願わくは、
我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、
我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン