みなさん、こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
俳優(マルチタレント)の渡辺徹さんが先日、敗血症で亡くなられたそうです。61歳でした。ご冥福をお祈りします。「太陽にほえろ」を小学生の時にリアルタイムで見ていた世代としては、デビューした当時はシュッとしたアイドルであった彼が、だんだんふくよかになっていかれた姿を追いかけながら、自分自身も成長してきたという印象があります。牧師になってからはテレビを見なくなりましたが、渡辺徹さんの芝居で印象に残っているのは、竹中直人さん演じる秀吉の大河ドラマで、彼が演じていた前田利家でしょうか。出番はそんなに多くなかったような気がしますが、実際のキャラクターと相まって、良い味を出していました。その後すぐ、同じ前田利家を主人公とした大河ドラマ「利家とまつ」が始まりましたが、唐沢寿明さんの利家よりも、渡辺徹さんのほうが記憶に残っています(すみません)。
大河ドラマで本能寺の変が描かれる際に必ず登場する、信長の愛した能「敦盛」は、「人間五十年・・・」で始まります。聖書は「人の齢は百二十年にしよう」という創世記での神のことばや、「人の齢は八十年」(モーセの祈り)などありますが、五十年を境にして、第二の人生を歩む人は、回りに多い気がします。私も今年51歳になりましたが、50歳を過ぎてから、後の日々はおまけとして考えるようになりました。渡辺さんは61歳で亡くなられましたが、早すぎるという思いを誰もが抱くかもしれませんが、濃密な人生であったことでしょう。奥様はじめ、多くの方々に愛されて、またそれ以上に多くの方を愛した人生だったのではないでしょうか。30歳くらいから糖尿病で苦しんでおられたそうですが、だからこそ人の痛みがわかる人であり、それがいろいろな所に現れていたのだろうと思います。面識はありませんが、彼の演技やキャラクターに励まされて来た者のひとりとして、悲しみの中にある方々の上に慰めがあるように、祈ります。
聖書箇所 イザヤ8章19〜9章7節
19 人々があなたがたに「霊媒や、ささやき、うめく口寄せに尋ねよ」と言っても、民は自分の神に尋ねるべきではないのか。生きている者のために、死人に尋ねなければならないのか。20 ただ、みおしえと証しに尋ねなければならない。もし、このことばにしたがって語らないなら、その人に夜明けはない。21 その人は迫害され、飢えて国を歩き回り、飢えて怒りに身を委ねる。顔を上に向け、自分の王と神を呪う。22 彼が地を見ると、見よ、苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者。
1 しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。2 闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。3 あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。4 あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ。5 まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。
1.
今から約140年前の1883年8月、日本では明治の半ば頃にあたりますが、世界中の多くの都市で、不思議な現象が起こりました。夜が明ける時間になっても太陽が昇らず、9時、10時になっても空が真っ暗だったそうです。ただの皆既日食だという人々もいました。信心深い人々は、神のさばきだと考えて、教会に集まって祈りました。しかしその日は、一日中真っ暗なままでした。人々は生きた心地もせず、徹夜で過ごした人もいましたが、次の日、夜が明ける時間にはいつものように太陽が昇り、人々の喜びの声が溢れたそうです。
この珍現象の原因は、いったい何だったのでしょうか。じつはその日、東南アジアのマレーシア沖にあるクラカトア火山が大爆発を起こしました。このクラカトア火山の爆発は、人類が歴史上経験した火山の噴火の中で、最大のものと言われています。噴火の爆発音は、地球を四周したとされており、吹き上げられた火山灰は、マレーシアからみて地球の反対側にある、アメリカ上空にまで達し、人々は教会に殺到して太陽が昇るように祈ったのです。
今日、どんなに大きな噴火が起きて一日中真っ暗になったとしても、今日が世界の終わりだとパニックを起こすということはないでしょう。インターネットやテレビのニュースで、私たちはすぐに情報を手に入れることができる時代に生きています。しかし、それにもかかわらず、数え切れない人々が、今も暗やみの中をさまよっていることは間違いありません。生きる目的がわからず、生きる喜びを見いだせず、空は明るくても、夜でも人工の光が溢れていても、暗やみの中をさまよい続けている人々が、いかに溢れていることでしょうか。今日の聖書箇所の前半に描かれた人々は、まさに今日の多くの人々の姿にも通じるものです。どんなに夜を明るくしても、どんなに社会を良くしようと叫んでも、心の暗やみは決して晴れることがありません。
2.
9章1節で、イザヤはこう語りかけます。「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。」
イザヤがこのことばを語った数年前、ここにあるゼブルン、ナフタリの地方をはじめとして、北イスラエル王国はアッシリアという東の大国によって滅ぼされました。そしてアッシリアは、生き残ったイスラエル人と外国人を強制的に結婚、子どもを産ませました。生まれた子どもたちは、アッシリアを退けた南ユダの人々からは外国人としてみなされて、今度こそ本当に国は分裂してしまいました。それが、イザヤの時代に彼らが抱えていた、深い闇でした。
しかしもういちど9章の1節を見てみましょう。「しかし、苦しみのあったところに、闇がなくなる。」彼らの上に、神が確かに光を照らしてくださいました。その光とは、神のことばです。空が明るくなれば、夜が終わるのではありません。あるひきこもりの青年がこう言いました。一晩中ネットサーフィンをして、カーテンから光が漏れてくるとき、遠くで犬の散歩の音や、新聞配達の音が聞こえると、どうして自分の生活はここまで昼夜逆転してしまっているんだろう、ここから戻ることができるんだろうか、と叫びだしそうになる、と。しかしそんな彼の生活が変わるきっかけになる出来事がありました。それは、朝5時過ぎからやっていた、ライフ・ラインという福音番組でした。回らない頭でぼんやりとテレビ牧師のメッセージを聞いていたとき、どうしてかわからないけれど、何か心が温かくなるような思いになったと言います。その青年もやがて教会に導かれて、クリスチャンになりました。神のことばが語られるとき、神のことばを聞くとき、そこに、私たちの人生を変える、ほんとうの夜明けが始まります。
3.
そしてこの神のみことばは、私たちにはっきりと救い主の誕生を約束しています。6節、「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる」。不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君。それらはすべて、救い主イエス・キリストを指しています。人としてこの地上に生まれながらも、神でもあられたお方。私たちを罪のさばきから救うために、ご自分が十字架で犠牲になることを選ばれた、まさに平和の君と呼ばれるにふさわしい方でした。そしてここでもイザヤのくちびるは時を超えて希望をうたいます。「今より、とこしえまでと」。
彼はイエス・キリストが生まれる七百年以上前に生きた人間でした。しかしにもかかわらず、この救い主を見上げ「今より、とこしえまで」と叫ぶのです。彼の目には、救い主イエス・キリストが馬小屋に生まれ、十字架で勝利を宣言する光景が、遠い将来ではなく、今目の前に起こっていることとして映っていました。「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」。ご自分の御子を十字架に渡してまで、人々を救おうとされる。ここには、神がご自分の存在をかけて、いのちがけで成し遂げようとされた、本物の希望があります。永遠の神が、時を超えて必ず実現してくださる、ほんとうの希望がある。イザヤは今それを確信し、それゆえに「今よりとこしえまで」と叫ばずにはいられなかったのです。
結.
私たちにとって、ほんとうの希望というのはどこにあるのでしょうか。ただ地上の現実だけを見て、心の目を開こうとしないならば、決してそこには希望はない。ただみことばを通して、永遠の神がすでに暗やみを打ち破り、光を与えてくださっているという心の目をもって現実を見るときに、そこにほんとうの希望が見えるのです。そして神が私たちに与えてくださった希望とは、このイエス・キリストが私たちのために生まれる、という永遠の約束にほかならない。私たちは何という大きな希望を今すでに手にしているのか。それを心に刻みつけましょう。ひとり一人が、この暗やみの時代の中にあっても、イエス・キリストによって与えられるほんとうの希望をつかみ続けていきたいと願います。

2017 新日本聖書刊行会