アドベント第二週になりました。
相変わらずスロースターターで、クリスマスのチラシを作るのをすっかり忘れていました。
教会員の方から催促されたので、急いで作成。
一年ぶりにラクスルさんに依頼して、今回は2000部、ご近所に新聞折り込みを行う予定です。


裏面のクリスマスメッセージは、ほとんどがウィリアム・ウッド先生の「あなたを元気にする100のミニメッセージ」からの引用です。
本当は引用元を出さなければなりませんが、急いで作ったので書き忘れました。先生、ごめんなさい。
今は新刊で購入するのは難しそうですが、良い本なので買ってください。
今年も食事会はありませんが、少しずつ前へ進み始めています。
「人生最高の一日は過去でも未来でもなく、今このとき」というタイトルだけは自分で考えましたが、コロナ禍と言われ続けている三年間で、それでも今このときは、神が用意してくださった最善の一日なのだという思いを一人でも多くの方々に忘れないでほしいと思っています。
聖書箇所 イザヤ53章1-12節
1 私たちが聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕はだれに現れたか。2 彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。3 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。8 虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。9 彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。10 しかし、彼を砕いて病を負わせることは【主】のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。11 「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。12 それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」
1.
アドベント第二週にはいりました。先週は、同じイザヤ書の8、9章から、救い主の誕生について語りました。そこでは、霊的な暗黒状態の中を、泥沼を這いずるようにして歩んでいた民に、永遠の王、力に満ちあふれた救い主が与えられる、ということが書かれていました。しかし、この53章で描かれる救い主は、そのような力ある王とはまるで正反対のみじめな者でした。正確に言えば、人の目にはあまりにも惨めに見える救い主でした。イザヤは、「私たち」という言葉を使って、こう言っています。1節、「私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたか」。暗やみのなか、もがいていた民は救い主を待ち望んでいました。力強い御腕をもって、外国の強大な敵を打ち破り、解放してくれる人物こそ救い主であると信じて疑いませんでした。しかしその神の御腕が現れた者、イスラエルを救いに導く者は、どんな人物として彼らの中に現れるのか。それが2節です。「彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない」。「ひこばえ」というのはハエではなく、木の根元から生えてくる根のことです。現れたらすぐに切り落とされるので、役に立たないものの象徴とされています。これが救い主なのですね。
いったいどっちなんだ、となるでしょう。私たちのために力ある王が生まれると初めに言っておきながら、その王には、何の輝きもない、役に立たない人物である、と。しかし、ここには以前語った、イエスのたとえ話と同じように、私たちが信仰の目で見ることが求められているわけです。人の目にはつまらない、くだらない者と見なされるような者、しかしその内側に隠された、神のひとり子の持つ、いのちの光。それを見極めることのできる信仰の目が、私たちにも求められているのです。
2.
確かに救いは、恵みです。しかしそれは、救われるためには何も必要ないという意味ではありません。多くの者がくだらないとふみつけていく中にあって、ここにいのちがあるのではないかとふと立ち止まる、信仰の目。それもまた私たちから出たものではなく、神が与えてくださるものなのですが、イエス・キリストを知る、というのは、うわべだけでキリストを見るのではなく、信仰の目でキリストを見る、ということです。キリストは、誕生から死に至るまで、苦しみ抜かれた歩みでした。神の子でありながら糞尿の臭いにまみれた馬小屋の飼い葉桶に生まれた方。時の王ヘロデに命を狙われ、家族共々偶像の国エジプトに下ることを余儀なくされた。しかもその代償としてベツレヘムの幼子たちすべてが虐殺されるという痛ましさ。少年期を過ごしたナザレの町もユダヤ人からは汚れの町としてさげすまれていた所でした。そして三年半の公生涯も、人々の病をいやす一方でご自分は枕するところすらないという流浪の生活でした。やがて弟子たちからも見捨てられ、わずか銀三十枚で売り渡される。十字架での死だけがその地上の生涯に与えられた報いでした。
なぜそこまでしてキリストは自分のいのちを差し出したのか。それはまるで羊のような、すべての人々のためでした。羊というのはかわいいイメージがありまうが、実際には仲間の餌まで奪うわ、怒っても言うこときかないわ、そのくせ方向感覚がないので、すぐに迷子になるわ、という動物だそうです。それは私たち自身の姿でもあります。イエス・キリストはその羊のような私たちのために、文字通りいのちを捨てました。私たちのすべての罪をその身に引き受け、十字架へと向かっていきました。どんなに痛めつけられ、苦しみを与えられても声を上げなかった。私たちがかたくなで、自分の力では救いのために何もできないからこそ、イエスは私たちの罪をすべて負ってくださったのです。
3.
先日、福島県で痛ましい交通事故が起こりました。97歳の高齢者の運転する車が、歩道を歩いていた主婦をひき殺した事件です。彼の車はその後、三台の車に次々に衝突し、ようやく止まりました。ブレーキをかけた様子は現場には残されてなかったということです。だれもが、拳を振り上げて、そんな年齢になって運転しているのが間違いだ、と言うでしょう。家族も、運転免許の返納を勧めていたと聞いています。しかし実際にこれを自分自身に置き換えたとき、ことはそんなに簡単ではありません。あなたの運転は危険だからやめた方が良いと言われて素直にそうですねとうなずけるような人間はいないのです。私も、90歳くらいになって牧師を引退している姿を想像すると、運転免許を返したら礼拝にどうやって通うのか、と口をとんがらせているでしょう。自分の運転が危険だとは思わないし、ましてや自分が他人をひき殺すなどということは考えもしない。それが人間です。他人に対してはどこまでも客観的になりますが、自分に関しては、自分だけは違うと考えるのです。
それは、すべての人間が罪に無力であると言うことに通じます。他人の罪に対しては異常に敏感なのに、自分が罪人であるということには決して気づかず、指摘されても認めようともしません。やはり口をとんがらせて、いや、あの人のほうが私より罪人でしょう、と他人を指差します。人は罪に無力です。自分の力では己の罪に気づきません。自分の力では、自分を変えることができません。自分の力では、救いを得ることはできません。だからこそ、イザヤはこのように宣言しています。10節、「しかし、彼を砕いて病を負わせることは【主】のみこころであった」。神は、私たちすべての人間をそれほどまでに救いたかった。そのために神は、ご自分のひとり子、イエス・キリストを十字架の上で砕くという苦しみに甘んじたのです。
結.
イエス様もまた、天における永遠の神としてのあり方を捨てて、すべての人の身代わりとして、十字架のさばきを受ける道を選びました。父なる神が、そして御子イエス・キリストがそこまでして与えようとした罪の救いを受け取るにはどうすればよいでしょうか。このキリストが私のために死なれたのだと信じ、このキリストだけがまことの救い主であると告白するのです。私たちの罪のさばきは十字架でイエス様が背負ってくださいました。私たちは罪の力から解放されています。
信仰の目によってキリストを信じた私たちは、今も信仰の目によって、歩み続けます。神は私たちの進む一歩先に、常に光をおいてくださっています。その光こそ、私たちに与えられているみことばです。これから先、何が起こるかはだれにもわかりません。しかし次の一歩を下ろしたところには、必ず神はともしびを置いてくださっています。信仰生活はその繰り返しです。常に主が私たちと共におられることをおぼえ、信仰の目をもって、進んでいきましょう。2017 新日本聖書刊行会