みなさん、こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回の説教の中で、混血孤児のために尽力したキリスト者・澤田美喜について触れています。説教の中での説明は、例のウィリアム・ウッド先生の「あなたを元気にする100のミニメッセージ」(p.213)を参考にしているのですが、三菱グループのホームページに、より正確な説明がありましたので、一部引用します。
画像をクリックすると説明ページに飛びますこの子らの母になる
第二次大戦後、日本に進駐した米兵と日本人女性との間に多くの混血児が生まれた。祝福されずにこの世に生を受けてしまった子ら。多くが父も知らず、母からも見捨てられていく。
ある日、満員列車で美喜の目の前に網棚から紙包みが落ちてきた。黒い肌の嬰児の遺体だった。美喜の頭に血がのぼり、心臓が激しく鳴った。イギリスの孤児院ドクター・バーナードス・ホームの記憶が突然よみがえった。美喜は天命を覚えて身震いした。
「日本にはいま大勢の祝福されない混血孤児がいる。そうだ、私はこの子らの母になる…」
夫の理解も得た美喜は憑かれたように行動を開始した。GHQに日参し「大磯の旧岩崎家別荘に混血孤児たちのホームを作らせて欲しい」と訴えた。混血孤児の問題は直視したがらない人が多かったが、教会関係者や一部の在日米国人、それに使命感に燃えた多くの人々に支えられ、美喜は諦めなかった。
執拗に陳情を繰り返す美喜の希望がかなうときが来た。ただし「物納された別荘を買い戻すならば」との条件付きだった。美喜は寄付を募り、私財を投入し、なお足りない分は借金に駆けまわった。GHQの指示ですでに資産を凍結された父久彌は、「世が世だったら、大磯の別荘くらい寄付してやれたのに…」と嘆いた。
昭和22年、美喜はついに別荘を買い戻し、ドクター・バーナードス・ホームのように学校も礼拝堂もあるエリザベス・サンダース・ホームをスタートさせた。美喜、46歳だった。
聖書箇所 マタイ1章18-25節
18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。24 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。
1.
今から約80年前、日本が戦争に敗れて直後のことです。ひとりのクリスチャンのご婦人が、人々でごった返している列車に座っていました。列車が揺れたとき、頭上の網棚から、細長い風呂敷包みが落ちてきました。落ちた衝撃で、風呂敷がほどけました。中から何が出てきたでしょうか。大変ショッキングな話しですが、風呂敷包みに入っていたものは、黒人、あるいは黒人と日本人のハーフと思われる赤ちゃんの亡骸でした。回りの人々は騒ぎだし、そのご婦人は、自分が殺した赤ん坊の死体を捨てに行くところだと間違われてしまいました。幸い、潔白を証明してくれる人がいたので、警察に逮捕されるということはなかったそうですが、なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか、と憤慨し、本当の母親を恨んでも不思議ではない状況でした。
しかし、そのとき彼女は、聖霊のこんな語りかけを聞きます。「もしあなたが、たとえいっときでも、この子供の母親とされたのであれば、なぜ、日本中のこうした子どもたちのために、その母になってやれないのか」。
当時、日本に来たアメリカ軍兵士と、日本人女性のあいだに生まれた子どもたちの中には、父親がアメリカに帰国すると同時に、母親からも捨てられるという子どもたちがたくさんいました。彼女は、そのような子どもたちの面倒を見るために、その後、自分の財産と生活をすべてささげます。そして彼女が作った孤児院は、いまは学校やこども園に姿を変えて、百年経った今も、まだ残っています。
2.
もしこの女性、澤田美喜というクリスチャンですが、子どもを殺した母親に間違われるというこの出来事がなかったら、その人生はまったく違ったものになっていたかもしれません。そしてマリアの婚約者であるヨセフもまた、もしマリアが救い主の母として選ばれるということがなければ、その人生はやはり違ったものとなっていたことでしょう。聖書にはまずこう書かれています。18節をご覧ください。「母マリヤはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった」。
しかし聖霊によって身ごもったということは、後になって神さまが夢で教えてくださったからわかったことです。まずヨセフが直面した出来事は、マリヤが、まちがいなく自分以外の誰かの子を身ごもった、という現実だけでした。いったい誰の子なのか。自分に対するマリヤのまなざし、握りしめた手のぬくもり、将来を語り合ったその声。それらはすべて真実を隠した偽りだったのか。マリヤのふくらんだお腹は、彼を苦しめます
私たちは、ヨセフの立場に置かれたとき、どのように考えるでしょうか。聖霊によって身ごもったという事実は、まだヨセフには明らかにされていない中で、彼は何を考え、何を選んだのか。怒りに身をゆだね、マリヤを石打ちの刑にするために当局に引き渡すこともできました。そしてもうひとつは、マリヤに離縁状を渡して、はじめから婚約関係にはなかったことにして、彼女が殺されないようにすることです。しかしどっちの方法をとっても、彼はマリヤを失うのです。もしあなたがヨセフなら、どちらの道を選ぶでしょうか。信じていた者にいつのまにか裏切られていた。目の前の現実がそう語っているその時に、それでも「正しい人」でいられるでしょうか。
3.
聖書は、「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った」と記しています。彼は、怒りにまかせて彼女を石打ちの刑にするのではなく、内密に去らせることを決めました。しかしここで私たちは、聖書が伝えようとしていることをよく見極めるべきです。正しい人であったヨセフのように、あなたがたも生きなさい、ということではないのです。彼の正しさは、マリアを石打ちの刑から救うことはできても、婚約関係の中で将来を誓いあった二人の人生を回復することはできません。しかしここで神が彼の前に現れます。それは、「正しい人」であるヨセフにも、「罪から救ってくださる」イエスが必要であったということ。そしてこのイエスの誕生こそ、私たちを完全に救い、回復を与え、幸せにする力であるということです。
20節をご覧ください。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
確かにヨセフは「正しい人」でした。しかしどんなに「正しい人」であったヨセフでさえ、あなたもまた民のひとりとして、罪から救われなければならないということばを真っ先に聞く必要がありました。あなたも今までの人生で、「正しい人」として生きてきたかもしれません。しかし私たちの正しさ、それは薄暗いこの世界では、ある程度の光を放っているような電球のようなものです。しかし太陽のもとにさらされるとき、電球の光など誰の目にもとまりません。私たちは自分のことを、100%しみのない、純白のシーツのように見ているかもしれません。しかし電子顕微鏡でシーツを見ると、その表面は砂漠の岩山のようなごつごつとした、汚いまだら模様に映ります。
結.
ヨセフは眠りからさめると、すぐにその妻マリヤを迎え入れ、子どもの名をイエスとつけました。彼は、信じました。自分の妻の胎から生まれ出る者が救い主であるという約束を。そして自分もまた、その救い主によって救われなければならない者であることを。イエスは、二千年前にベツレヘムで生まれる前に、まずヨセフの心に生まれてくださったのです。私たちがイエス・キリストを信じるということ、それは私たちの心の中に、イエス・キリストが生まれてくださるということです。この方が私を罪から救ってくださる。そう心にかたく信じ、心の真ん中にイエスをお迎えするということです。ある詩人はこう歌いました。「たとえイエス・キリストが、ベツレヘムの家畜小屋に千回生まれ直してくれたとしても、あなたの心に生まれなければ、あなたは永遠に失われたままなのだ」。
しかしキリストを心に生み落とした者は、こう叫ぶことができます。「インマヌエル、神は私とともにいてくださる」と。どんなつらい出来事も、思い出したくない経験も、インマヌエル、神、我らとともにいます、の証しとなります。私たちは一緒にこう叫ぼうではありませんか。インマヌエル、と。あなたを罪の滅びから救ってくださる方がいます。その方は、どんな時でもあなたを愛し、あなたを決して捨てない。そしてその方こそ、二千年前のクリスマスに、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになったイエス・キリストなのです。この方を心に受け入れるために、一緒にお祈りをささげましょう。

2017 新日本聖書刊行会