クリスマスカンパっていうから何かもらえるのかと思ったら、クリスマス寒波でした。
それはさておき、二階の牧師書斎の扉が閉まりません。どうやら屋根の雪の重みらしいです。
閉じ込められたというレベルではありませんが、寒いわ〜。
まあ、もともと隙間風だらけの部屋なので、あまり変わりませんけどね。
むしろ明日、明後日と礼拝ができるかどうか・・・明日の夜はイブ礼拝、明後日の朝はクリスマス礼拝です。
全国の諸教会の礼拝が守られますように。
聖書箇所 ルカ1章57〜66節
57 さて、月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。
58 近所の人たちや親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをかけてくださったことを聞いて、彼女とともに喜んだ。
59 八日目になり、人々は幼子に割礼を施すためにやって来た。彼らは幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしたが、
60 母親は「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。
61 彼らは彼女に「あなたの親族には、そのような名の人は一人もいません」と言った。
62 そして、幼子にどういう名をつけるつもりか、身振りで父親に尋ねた。
63 すると彼は書き板を持って来させて、「その子の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた。
64 すると、ただちにザカリヤの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。
65 近所に住む人たちはみな恐れを抱いた。そして、これらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体に語り伝えられていった。
66 聞いた人たちはみな、これらのことを心にとどめ、「いったいこの子は何になるのでしょうか」と言った。主の御手がその子とともにあったからである。2017 新日本聖書刊行会
みなさん、おはようございます。
今日はアドベント第四週、例年であれば、この第四週にイエス様のお誕生について語るというのがお決まりのパターンなのですが、今年は来週の日曜日が12月25日、いわゆるクリスマスにあたります。いわばアドベントが5週間あるような感じですね。それでイエス様のお誕生は、来週に語らせていただきまして、今週は、ザカリヤとエリサベツという老夫婦のあいだに生まれる、イエス・キリストの先駆者、ヨハネの誕生の所から語りたいと思います。
昨年か一昨年くらいだったでしょうか、親ガチャという言葉が流行りました。ガチャというのは、お金を入れてレバーを回すとおもちゃが入っているカプセルが落ちてくるものですが、そのカプセルの中に入っているのがあたりか外れかは運任せです。それをもじって、子どもは良い親のもとに生まれてくるか、悪い親の元に生まれてくるかは運任せ、家庭環境は子どもには選べない、というような意味で、親ガチャという言葉が言われるようになりました。
私たちクリスチャンにとって、子どもの誕生というのは神のみこころの実現です。どんな親であろうが、そこには偶然ではなく、神のみこころが働いていると信じています。しかしそのような信仰がむなしくなるほど、親に傷つけられる子ども、あるいは家庭、といったものが大きな社会問題となっています。そしてこのヨハネが生まれる背景には、神に最も近い祭司である父ザカリヤが、神のことばを信じなかったために子どもが生まれるまでは口がきけなくなるという、たいへん不名誉な出来事があったことが語られています。しかし神は、そんな父の失敗をすべて覆い、喜びで包み隠してくれるほどの喜びを、このヨハネの誕生によって与えられました。子どもが生まれる、というのは、まさにそのような喜びにあふれたものであります。57、58節をご覧ください。「さて、月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。近所の人たちや親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをかけてくださったことを聞いて、彼女とともに喜んだ」。
エリサベツは不妊の女性で、しかも年老いていました。当時のユダヤ人社会では、不妊は女性にとって恥とされていました。「あなたの子孫をわたしは祝福する」という、祖先アブラハムへの神の約束のことばに従えない、子どもを産めない女性は神の祝福にあずかれないと考えられていたのです。
私たちにとって、不幸とは何でしょうか。ある男性は、働き盛りの時にがんに冒されて、健康ばかりか仕事まで失いました。ある女性は、女手ひとつで育ててきた一人息子を交通事故で失いました。しかしそれでもなお、彼らはその中で生きがいを求め、教会に導かれ、信仰に出会い、懸命に生きています。がんが完治したわけではなく、子どもが生き返ったわけでもない。しかし彼らは、もはや不幸の世界の住人ではなくなっています。子供が生まれないことは不幸ではありません。次から次へと病に襲われることも不幸ではありません。月並みな言葉ですが、不幸とは、自分が不幸だと感じてしまったときに始まるのです。そして自分自身がもしそう感じてしまっていたとしたら、神さまが今まで与えてくださった恵みを一つずつ数えてみましょう。エリサベツにとって、この出産に至るまでの10ヶ月は決して安らかな日々ではなかったでしょう。先ほど言ったように、祭司である夫ザカリヤは、あなたがた年老いた夫婦から子どもが生まれるという神の言葉を信じなかったために舌がもつれ、会話ができなくなっていました。しかしそれもまた、不幸ではなかった。その苦しみを通して、エリサベツとザカリヤの夫婦は、同じ信仰を持って、同じ神を見上げて、生きる者へと変えられていったのです。
それがはっきりと現れたのが、生まれてきた子どもに名前をつけるという場面でした。子どもが生まれてきて八日目、イスラエルではこの日に男の子には割礼を行います。割礼というのは、男性の包皮を切り取るという儀式ですが、それがイスラエルに生まれた男子としてのしるしでした。そして同時に、この日に子どもは名前をつけられます。そしてイスラエルでは、子どもにつける名前というのは、すでに親族に与えられている名前をつけるのが習慣でした。しかしここでエリサベツは、ヨハネという名をつけなければなりません、と人々にはっきりと宣言します。これは一体何を表しているのでしょうか。生まれてくる子どもの名前をヨハネとつけなさい、というのは、御使いがザカリヤに与えた命令でした。しかしザカリヤは、子どもが生まれることそのものを信じなかったために、口がもつれてしゃべることができなくなりました。しかし彼は、しゃべれなくなったなかで、子どもの名前をヨハネとつけなければならないという神の命令をしっかりとエリサベツに伝えていたということがわかります。
そして人々がエリサベツだけではなくザカリヤにも身振り手振りで尋ねると、彼も書き板に力強く書き込みました。「その子の名はヨハネ」と。ザカリヤは一度は神のことばを信じなかった夫でありました。しかし彼らは、困難の中で一つとさせられたのです。夫婦は、その年数によって夫婦となるのではありません。一致は、困難の中で与えられていくのです。一致は、見えない絆とも呼び換えることができるでしょう。困難の中、神のみこころは何かを必死で祈り求めて行く中で、夫婦はその絆を確認しました。まだ信じていない夫、または妻がいる場合でも同じです。困難の中で、一方が最善の方法を神のことばに求めていくならば、必ず他方も導かれていきます。夫婦、家庭、社会、あるいは教会、そこには困難の中にこそ現れる一致が待っています。
ザカリヤが「その子の名はヨハネ」と書いた瞬間、彼の唇はほどけ、賛美があふれました。ヨハネとは、「主はいつくしみ深い」という意味です。それに対してザカリヤという名前は、「主はおぼえておられる」という意味があります。このザカリヤという名前も、何世代ものあいだ、彼の親族のあいだでつけられてきた名前でした。主はおぼえておられる。主は我らの痛み、悲しみ、そして約束をおぼえておられるという告白でした。しかしもうこれ以上、「ザカリヤ」の名前を引き継ぐ必要はない。神が私たちをおぼえておられるこそ、希望を失うべきではない、という約束はいまや実現した。ザカリヤという名前にしがみつく必要はなくなった。その名はヨハネ。主はいつくしみ深い。
ザカリヤの唇からは、賛美があふれて止まりませんでした。神のことばを疑った祭司から生まれる子どもが、今度はその神ご自身をお迎えする者として歩んでいく。神のご計画はあまりにも深く、そのあわれみは尽きることがない。私たちはいよいよ来週、主の降誕を迎えます。神によって一致を与えられ、神の与えてくださった絆を互いに堅く結びつけながら、約束の子、ヨハネのようにイエス・キリストの降誕の良き知らせを、人々に伝えて行きましょう。