聖書箇所 マルコ5章1〜10節
1 こうして一行は、湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊につかれた人が、墓場から出て来てイエスを迎えた。3 この人は墓場に住みついていて、もはやだれも、鎖を使ってでも、彼を縛っておくことができなかった。4 彼はたびたび足かせと鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまい、だれにも彼を押さえることはできなかった。5 それで、夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたのである。6 彼は遠くからイエスを見つけ、走って来て拝した。7 そして大声で叫んで言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください。」8 イエスが、「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。9 イエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、彼は「私の名はレギオンです。私たちは大勢ですから」と言った。10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでください、と懇願した。2017 新日本聖書刊行会
「さあ、向こう岸へ渡ろう」。イエスの声に押し出されて、弟子たちが湖の向こう岸にたどり着いたところから今日の物語は始まります。これだけ大変な思いで湖を乗り越えてきたのだ、きっとすばらしいことが起こるに違いない、と弟子たちは考えていたかもしれません。
しかしそこに待っていたのは、レギオンという悪霊に取り憑かれた人間でした。彼は墓場に追いやられ、鎖さえも引きちぎるような、獣じみた人間に変わっていました。朝も夜も、墓場や山の中で大声で叫びながら、自分の身体を傷つけていた、ともあります。そして、レギオンが言わせているのか、それとも彼自身の言葉なのかわかりませんが、「私に関わらないでくれ、私を苦しめないでくれ」とイエスに懇願します。
ここには、悪霊にとりつかれて、人格も生活も破綻して、しかもそこから解放されることも拒んでいる、そのような人の姿を見ることができるでしょう。このような悪霊にとりつかれた人の姿、というのは、いくら聖書に書いてあると主張しても、この世の人々にとっては、カビの生えた迷信としか受け止められません。
ではこのレギオンを含め、悪霊というものは、人間の迷信が生み出したものにすぎないのでしょうか。決してそうではありません。悪霊は狡猾です。現代の日本人は、このレギオンの物語や描写を見て、昔の人はこういう風に悪霊なるものを信じていたんだな、だがこの科学万能時代、もう悪霊なんてものはいないよ、と考えるかもしれませんが、それこそが悪霊の思うつぼなのです。
悪霊は、どの時代においても、どの国においても、人々が常識と考えている事柄を通して、人々を惑わします。二千年前、人々が病や不幸は悪霊がもたらすと信じていた時代、悪霊はそのような人々の常識の中に身を潜めました。現代の日本では、病や不幸は悪霊が原因であるというのは常識ではなく非常識です。だからこの国では、悪霊は、常識の中に身を潜めています。
宗教に頼る人間は弱く、自立していない、という偏見の中に。自由という意味をはき違え、匿名で相手を批判し、否定することで自分のプライドを保つ人間関係の裏に。多様性を強調しながら、相手を受け入れるのではなく大勢に合わせることを求めている世間体の中に。それを守るために、人は救いに背を向け、自分の生き方に満足し、信仰を洗脳か何かのように批判する。
それは、人の罪が生み出すものであると同時に、この国においては悪霊が極めて狡猾に、自分の身を隠しながら人々を闇の中に閉じ込めているという現実があるのです。
しかし、次のことは、時代や国によっても決して変わることがない真実です。イエス様が嵐の海を弟子たちとともに渡ってきたのは、この人に出会うためだったのです。自我や生活が崩壊し、墓場で自分の身体を傷つけながら、死んでいるように生きている、この人を救い出すためでした。そしてイエス様の目には、この現代の日本人の姿もまた、嵐の海を乗り越えて助け出さなければならないものとして映っていることでしょう。
今日の週報の表紙は、佐渡島の有名な観光スポットである、二つ亀という場所です。国内だけでなく、海外からも観光客が訪れて、景色や海水浴を楽しみます。しかしこの二つ亀からわずか800m、徒歩10分くらいのところには、賽の河原という場所があります。生まれてすぐに死んだ子供や、流産や中絶で生まれることができなかった子供への供養として、自然洞穴の中に、数え切れないくらいの地蔵が並べられています。この賽の河原で、亡くなった子どもたちが石を積む、最後まで積み上がれば極楽へ行ける、しかし地獄の鬼たちが必ず邪魔をするので、どの子どもたちも最後まで石を積み上げることができない、という悲しい言い伝えがあるそうです。
この世界のあらゆる人々が、この賽の河原のようです。決して積み上がることのない石を積み続けます。だれもが神との正しい関係を失った結果、家庭も壊れ、自分を正当化しようとします。たくさんの人々に囲まれていても、自分が本当は孤独なのだと思わずにはいられません。墓場には住んでいなくても、まるで墓場のようなひとりぼっちの世界です。鎖をひきちぎろうとしながらも、結局は自分で自分のからだを傷つけている。すべての人がそうなのです。
しかしイエス・キリストは、そのような人々を救うために、嵐の湖を乗り越えて来られるお方です。世は、このお方が与えてくださる救いのすばらしさを知りません。罪の支配からキリストの支配へと移ることが、どれだけの平安と喜びをもたらすのか、知ろうともしません。人々を罪にとどめ続けている悪霊は、自らを常識的と考えて、逆に神から遠く離れてしまっている人間たちをあざ笑っています。おまえたち人間がどれだけがんばろうが、俺の支配から逃れることはできないぜとたかをくくっています。
しかしその悪霊たちが、イエス・キリストの前には青ざめ、身震いします。遠くから走り寄り、主を拝み倒すほどの卑屈さでキリストの前に懇願するのです。彼らは知っているからです。キリストが彼らを滅ぼすことのできる唯一の方であることを。そしてキリストは言葉だけで、一瞬でそれがおできになる方であることを。ゲラサ人の地を支配していた悪霊は、恐怖にかられつつ、さばき主の名前を叫びました。「いと高き神の子、イエスさま」と。それは悪霊が叫んだのか、それとも悪霊に支配されていたはずのこの人が叫んだのかはわかりません。しかしいずれにしても、ここからこの人の回復の道が始まるのです。
今日、悪霊は、現代人が常識と考えているものの中に潜み、人々は自分でも気づかないなかで、悪霊の力に屈服しています。しかし二千年前のユダヤも、21世紀の日本でも、そこから助け出される方法はただひとつ、イエス・キリストの御名を呼び、この方を信じるということです。これからの教会は、福祉や地域活動を大事にしなければならない、という主張は確かにそのとおりですが、だからこそ、私たちはそのような地道な活動を通して、人々の目が福音に開かれて、イエスの御名を呼ぶことができるように、そのために祈り続けることを忘れてはなりません。悪霊さえ身震いして泣き叫ぶ、そのイエスの御名を私たちはいただいています。このイエス・キリストを人々に語り続けていく、そのような一週間として歩んでいきたいと願います。
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