聖書箇所 マルコ5章21〜24、35〜43節
21 イエスが再び舟で向こう岸に渡られると、大勢の群衆がみもとに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。22 すると、会堂司の一人でヤイロという人が来て、イエスを見るとその足もとにひれ伏して、23 こう懇願した。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」24 そこで、イエスはヤイロと一緒に行かれた。すると大勢の群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
35 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」36 イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」37 イエスは、ペテロとヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分と一緒に行くのをお許しにならなかった。38 彼らは会堂司の家に着いた。イエスは、人々が取り乱して、大声で泣いたりわめいたりしているのを見て、39 中に入って、彼らにこう言われた。「どうして取り乱したり、泣いたりしているのですか。その子は死んだのではありません。眠っているのです。」40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの父と母と、ご自分の供の者たちだけを連れて、その子のいるところに入って行かれた。41 そして、子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。42 すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと厳しくお命じになり、また、少女に食べ物を与えるように言われた。2017 新日本聖書刊行会
数年前から、「一年間で聖書通読」というキャッチフレーズで、週報の片隅に聖書通読日課を掲載しています。言い出しっぺですので、一応、毎日そのスケジュールに従って読んではいますが、ふと気づくと、頭の中に何も入っていないまま、最後のページになってしまっていた、ということもよくあります。それでも自分を責めたりしない、というのが聖書通読を続けていくコツですね。頭に入るときもあるし、入らないときもあります。しかし読み続けることに意義がある。そして読み続けていくと、聖書の世界が少しずつ広がり、さらにみことばがわかる、といううれしいことも起こります。
たとえば、今日の聖書には、自分の娘のためにいやしを願った、ヤイロという人が登場します。聖書通読を続けていると、たとえばこのヤイロのように、病気で死にかけている自分の子どものためにイエス様にいやしを求めてきた父親たちの例が、イメージとして浮かんできます。そして彼らに共通していることは何だろう、というところから、このヤイロの物語を読み解くヒントも浮かんできます。たとえば、てんかんの症状をかかえた息子をいやしてください、と願った父親がいました。彼は「もしできるなら、息子からてんかんの霊を追い出してください」と言ってしまい、イエス様から「もしできるなら、ではない。信じる者にはどんなことでもできるのだ」と言われます。あるいは死にかけている息子のために、家に来て下さいと願った父親がいました。でもイエス様は行きません。「あなたがたは奇跡を見ない限り信じない」とにべもない。それでも食い下がる父親に、「家に帰りなさい。息子は治っています」と言います。半信半疑で、父親が家に帰ると、ちょうどイエス様がそれを語ったその時、息子は治っていたということがわかり、一家みながイエスを信じます。
このような例が教えていることは、子供が死にかけているので助けてほしいと願ってきた父親に対し、イエス様が必ずなされたことは、一度は親がくじけてしまうような言葉や方法で、その信仰を引き上げてくださる、ということです。では、このヤイロはどうでしょうか。22節を読んでみます。「すると、会堂司の一人でヤイロという人が来て、イエスを見るとその足もとにひれ伏して、こう懇願した。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」
彼は、いわば信仰の優等生です。イエス様はどんな病をもいやしてくださるという信仰があります。そして多くの会堂管理者がユダヤ当局の一員としてイエスを敵視していた中で、その立場を投げ出してでも、イエス様の前にひれ伏しました。すでに彼はこの時点で、欠けるところのない信仰を持っていたように思えます。しかしじつは、彼にはひとつだけ、欠けたところがありました。それは何でしょうか。彼は自分が考えたプランの中に、神の力を閉じ込めようとしています。彼は、イエスに助けを求めていますが、自分が考えるようなやり方で助けてください、と制限をつけています。もう一度、彼のことばを繰り返してみましょう。「私の小さな娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」
彼は自分でも気づかないまま、自分の考えたプランの中で神を動かそうとしています。神が、自分の想像を超えた御力によって娘をいやしてくださることを期待するのではなく、神に、私の言うとおりに動いてくだされば、娘は治りますと決めつけている。しかし信仰とはそうではない。受け入れられないものを受け入れる、信じられないものを信じる、常識を越えたものを事実として受けとめること、それが信仰なのです。
信仰とは何でしょうか。それは、神が私の想像を遥かに超えた方であると信じることです。目が塞がれている私に対して、すべてを見ておられる神に全権をゆだねることです。私が神の行動を指定して、そのとおりに動いてくれることではなく、神が私の想像を遥かに超えたみわざをなしてくださると信じること、それが信仰です。確かに私たちはイエス様に何でも求める事ができます。しかしそれは、私たちが想像したとおりに神よ、動いてください、という祈りではありません。私たちの想像を遥かに超えた形で、神よ、あなたのみわざをなしてください。そして私をそのために用いてください、と祈る。そのような信仰は、神を閉じ込める信仰ではなく、むしろ私たちを世間の常識の箱の中から、神の高さ、広さ、深さにまで解放する祈りとなります。
私たちは自分が考えているように神様が動いてくださるようにと願い、一生懸命祈ります。それが信仰だと信じて。でも、神様は私たちよりもはるかに大きく、私たちの想像もできない手段と過程を通して、みわざを現されるのです。もう一度言いましょう、私たちの想像もつかないことを神がしてくださると信じるのが信仰です。確かに具体的に祈ることは必要でしょう。しかしその「具体的」ということにばかり関心がいくあまり、神のみ力をあなたの常識の中に閉じ込めてはなりません。
ヤイロの願いは、一見、信仰的に見えます。しかしキリストは、彼の信仰がいわば「常識的な信仰」にとどまっていることを見抜かれました。娘が死ぬ前にあなたが来てくださって手を置いてくだされば、娘は助かります、それは常識にとどまっている信仰です。娘が死んだ後でも必ずイエス様がよみがえらせてくださる、常識を越えた信仰へと彼が突き抜けていくこと、それを教えるために、イエス様はヤイロと一緒に進んで行かれました。
今日、省略した聖書の箇所は、来週また取り扱いますが、そのあいだにヤイロの娘は死んだ、という知らせが届きました。35節、「イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。』」この時、ヤイロが頭に浮かべていた娘のいやしのイメージ、「イエス様が娘の上に手を置き、祈り、そして娘が立ち上がる」はガラガラと崩れていきました。しかしここからが、本当の信仰の始まりです。人間の目には絶望的な状況です。しかしその時、神は優しくこう言われるのです。「恐れないで、ただ信じていなさい」と。神はあなたにも言われます。「恐れないで、ただ信じていなさい」と。今、試練のただ中にある人よ、あるいは弱さの中で苦しんでいる人よ、どうかみことばを心に留めてください。私たちが期待できない状況の中にあるときほど、想像を超えた神のみわざを期待してください。神様がああして、こうして、助けてくださると自分のイメージの中に神の力を閉じ込めているかぎり、私たちの信仰は成長しません。しかし私が想像もつかないような方法で、神が解決の道を与えてくださるということを信ずる、ただ信じ続けるとき、そこに神の力が働きます。
人生において、無計画、無鉄砲というのは避けなければならないでしょう。しかし、私たちのちっぽけな脳みそで、一切隙のない計画を立て、これでだいじょうぶ、と言うなら、神はそれを必ず砕かれます。それは神を信じる信仰ではなく、神を利用して自分の力と計画を信じている、ニセの信仰だからです。神に大いなることを期待するものだけが、その大いなることを体験することができます。私たちが家庭、教会、職場、至るところで困難にぶつかるとき、そこに自分の想像を超えた神のみわざを働かせてください、と祈りましょう。ただ永遠、そして無限であられる神だけに栄光がありますように、と。
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