聖書箇所 ルカ7章18〜23節
18 さて、ヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに報告した。すると、ヨハネは弟子たちの中から二人の者を呼んで、19 こう言づけて、主のもとに送り出した。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」20 その人たちはみもとに来て言った。「私たちはバプテスマのヨハネから遣わされて、ここに参りました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか』と、ヨハネが申しております。」21 ちょうどそのころ、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩む多くの人たちを癒やし、また目の見えない多くの人たちを見えるようにしておられた。22 イエスは彼らにこう答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。23 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」2017 新日本聖書刊行会
世間では、何かにひっかかって転ぶことをつまずくと言いますが、そこから転じて、キリスト教会では、何かが原因となって信仰に幻滅することを「つまずき」と呼んでいます。つまずく原因の圧倒的第一位は、「牧師につまずいた」というもの。これはもうごめんなさいと謝るしかありません。第二位は牧師夫人につまずいたというパターンですが、後がこわいのでとばします。第三位が「奉仕につまづいた」というパターンです。役員、礼拝司会、献金のお祈り、CS教師、トイレ掃除、確かに教会にはたくさんの奉仕が必要で、誰かがそれを担当しないといけないという面もあるのですが、それだけだとやらされている感ばかりが強くなって、奉仕の源である、救われた喜び、救ってくださった神への感謝が薄れ、奉仕につまずく、ということが起こってしまうようです。
今日の聖書箇所の最後でイエス様は、「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」と言われています。それは、ほかならぬバプテスマのヨハネが、ご自分につまずきかけていることをあわれんでのことばでした。このとき、ヨハネは牢獄の中にいました。そして面会に来る弟子たちからイエス様のことを聞き、イエス様へのつまずきが起きていたのです。そしてつまずきは、この方は本当に救い主なのか、という疑いへと膨れ上がっていました。彼は弟子たちをイエスのもとに遣わし、こう尋ねさせます。「おいでになるはずの方」、つまりイスラエルが待ち望んだ救い主は、ほんとうにあなたなのですか。それとも別のお方を待つべきなのでしょうか、と。
ヨハネのつまずきの原因はどこにあったのでしょうか。それをルカは、ヨハネの弟子たちが、ヨハネの言葉を一言一句、そのまま繰り返している姿を通して浮かび上がらせています。18節後半から20節までを、もう一度読んでみます。「すると、ヨハネは弟子たちの中から二人の者を呼んで、こう言づけて、主のもとに送り出した。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」その人たちはみもとに来て言った。「私たちはバプテスマのヨハネから遣わされて、ここに参りました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか』と、ヨハネが申しております。」
ここに、ヨハネがつまずいた原因が現れています。ヨハネは、自分の弟子を徹底的に厳しく訓練しました。それが、師匠の言葉を一言一句違えることなく繰り返す、弟子の姿に現れています。しかしそれは、イエス様が目指した弟子づくりの姿とは真逆のものでした。師匠の言葉を繰り返し、師匠と同じ考えの中で自分も考える、それに対する異論や反論は許さない。ヨハネがそのような弟子づくりを願ったということではないにしても、ヨハネの弟子たちは、そのように師匠のように考え、そこから逸脱した生き方を認めないという方向へと変わっていきました。福音書の中には、ヨハネの弟子たちが、パリサイ人や律法学者たちと一緒になって、イエスの弟子たちの奔放な生き方を批判する姿も描かれています。人間はその弱さのゆえ、決まり切ったレールの上にいることで安心する、そしてそれはこの世の組織だけではなく、キリスト教会の中でしばしば強調される、「弟子訓練」を徹底すれば教会は成長するという間違ったイメージにも現れています。
みなさんは、誰かから弟子訓練という言葉を聞いたことはないでしょうか。この言葉を強調する人々は、一人ひとりのクリスチャンが弟子訓練をしっかりなされることで、教会は成長すると主張します。では弟子訓練とは何ですか、と聞くと、個人伝道のやり方とか、一分で救いの証しをする方法だとか、あるいは異言で祈るとか、いった答えが返ってくることもあります。しかし伝道、つまりたましいを漁るというのは、訓練という、繰り返しによってだんだんこなれてくるものではありません。教えられて身につくものではなく、自分の中で働いておられる聖霊にゆだね、救いの喜びに溢れて生きるとき、私たちの中にイエス様を伝えずにはいられないという渇きが起こされていくのです。
イエス様は、宣教活動に入られてから十字架にかかられるまでの三年半、常に弟子たちと生活を共にされました。しかし聖書に記されているその三年半で、私たちは弟子たちがめきめきと訓練され成長していく姿を見ることができるでしょうか。むしろ、十字架というタイムリミットが近づく中で、だれが一番偉いかという議論に熱中し、師匠が血の汗を流して祈っているときに眠りこけ、よみがえったという知らせを聞いても信じないという姿です。そしていざイエス様が天に昇られるときには、「今こそイスラエルを再興してくださるのですか」と、相変わらず神の国を地上の王国のように誤解している姿をさらけ出しています。しかしその彼らが、聖霊を受けたときに新しく生まれ変わり、180度生き方が変わります。それが聖書が教えていることであって、弟子訓練が教会を成長させるのではありません。一人ひとりが御霊の与える喜びの中で24時間生きていますか。それがあれば、伝道の方法とかいったものはどんなに荒削りでも、私たちは誰かに福音を伝えたいという思いに動かされます。その思いこそが、教会を成長させるのであり、知識や方法ではないのです。
イエス様が目指した神の国は、自由の国でした。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられている、と。イエスの説く神の国には、弱い者たちが集まるところでした。師匠に絶対忠実な強い者たちの集まる国ではなく、どんな弱い者もイエス様によって慰められ、居場所を与えられている国でした。取税人、罪人、遊女、そして幼子、ありとあらゆる人々をイエスは優しく抱きしめ、受け入れて下さる、自由の国でした。ヨハネが自分にも他人にも厳しかったのに対し、イエス様はご自分が十字架を負う代わりに、人々には底なしの自由を与えてくださったのです。
イエス様は、ヨハネのように厳しく、師の教えに忠実な弟子を育てるために三年半を過ごすこともできたでしょう。しかしそうされませんでした。イエス様は弟子たちを友と呼び、どれだけ年が離れていようと兄弟姉妹と呼びました。教会は、みなが一斉に右向け右をするようなところではありません。それぞれが、人生経験も、信仰生活の上にも、違いがあります。違いがあって当たり前で、違いがあるからこそ自由の国ということができます。そこに、イエス様は三年半留まられたし、今もこの中に生きておられます。与えられている違いを感謝して、歩んでいく者たちでありましょう。
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