聖書箇所 ルカ7章24〜35節
24ヨハネの使いが帰ってから、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。25では、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。きらびやかな服を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。26では、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者をです。27この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。28わたしはあなたがたに言います。女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はだれもいません。しかし、神の国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。29ヨハネの教えを聞いた民はみな、取税人たちでさえ彼からバプテスマを受けて、神が正しいことを認めました。30ところが、パリサイ人たちや律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けず、自分たちに対する神のみこころを拒みました。31それでは、この時代の人々を何にたとえたらよいでしょうか。彼らは何に似ているでしょうか。32広場に座り、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてあげたのに、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに、泣かなかった。』33バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは『あれは悪霊につかれている』と言い、34人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。35しかし、知恵が正しいことは、すべての知恵の子らが証明します。」2017 新日本聖書刊行会
今から約200年ほど前の時代、日本では江戸時代の終わりにあたりますが、当時のドイツにビスマルクという総理大臣がいました。彼は、当時三流国と呼ばれていたドイツを、瞬く間に一流の国家へ押し上げた、優れた政治家でしたが、目的のためならば手段を選ばない、鉄血宰相とも呼ばれました。彼がまだ若い頃のこんなエピソードがあります。ビスマルクが一人の友人と山に行って狩りを楽しんでいたとき、友人が足をすべらせて沼に落ちてしまいました。しかもその沼は深い泥沼で、友人はもがけばもがくほど深みにはまり、しかも刻一刻と沼の底に引きずり込まれていきます。友人が助けを呼ぶと、ビスマルクが声を聞いて、駆けつけてきました。しかしどうしても手が届きません。そこでビスマルクは友人にこう言いました。「すまん、どうしても助けたいのだが、助けられそうにない。君がこれ以上苦しむのを見るのは辛いから、いっそひと思いに打ち殺してやろう」と平気な顔で、溺れている友人に向けて猟銃の狙いをつけました。友人はびっくり仰天、それこそ死に物狂いで抵抗し、小さな柳の枝にすがりついて、沼から脱出しました。ビスマルクに怒りの目を向けると、ビスマルクは涼しい顔をして、「失礼失礼、もし本当に助からないようであれば、この銃をつかませて助けようと思っていたが、まああれだ、やっぱり自分の力で沼から上がるのが男らしいからね」。
少し荒っぽいやり方ではありますが、だれかが助けてくれると考えている限りは、人は死に物狂いにはならない、という教訓を、ビスマルクはすでに青年の頃から知っていた、ということかもしれません。もちろん私たちは、神の助けを信じる者ではありますが、神への信仰が、牧師や他の信徒への人間的依存へとすり替わってしまうことは決して珍しくはありません。イエスは、いま自分のメシア性に対するつまずきの中でもがいているヨハネに対して、あえて多くを語ることをしませんでした。ただ、イエスの周りで何が起きているかだけ、伝えました。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」と。
イエス様は、「女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はだれもいません」と誰よりも評価をされていましたが、それをヨハネに伝えることはよしとしませんでした。人のほめる言葉が、どんな信仰者をも惑わせてしまう誘惑となることを知っておられたからでしょう。しかしそこで私たちは、イエス様の口から、じつに驚くべき言葉を聞くのです。「しかし、神の国で一番小さい者でさえ、バプテスマのヨハネより偉大である」と。ここに真理があります。ヨハネは、イエス様が世に出るための道を備えました。彼は、神が何百年も前から預言しておられた、荒野で叫ぶ者の声でした。彼の働きによって、その後にイエス・キリストによって訪れる神の国が、準備されていきました。私たちはその神の国の住人です。それは、イエス・キリストを信じ、神のこどもとされたことによって与えられた恵みです。そしてその特権、資格は、それ以前の人間で最も優れた者である、バプテスマのヨハネよりも勝っているのです。
こんな話を聞いたことがあるでしょうか。ある、子どものいないお金持ちが、自分のすべての仕事と財産を引き継ぐ者として、身寄りのない子どもたちから何人かを選び、自分の養子とすることにしました。彼はその子どもたちを探し出す仕事と、見つけたこどもたちを養い、ふさわしく教育する仕事を、自分が信頼する執事にゆだねました。そして彼のもとで過ごした子どもたちは、どうしてあらゆる点で自分たちよりも優れているこの執事さんが、お金持ちの養子になれないんだろうか、と不思議に思いました。しかしそれを執事に聞いてみると、彼は笑って、「私はみなさんをご主人様の跡継ぎにするための、ただのしもべです」と答えたといいます。
このたとえ話に出てくるお金持ちは父なる神を、神の子どもとされた者は私たちを、そして一人の執事は、バプテスマのヨハネを表しています。実際に私たちが神の子どもとされたのはイエス様の十字架によってですが、ヨハネはそのイエス様を私たちに伝えるために、その生涯をささげました。それは、神の前に永遠におぼえられている働きではありますが、それでも実際に、神の子どもとされた私たちに勝るものではありません。私たちは、自分では気づいていなくても、そこまで大きな特権、神の子どもとされて、永遠の御国を継ぐ者とされた、という恵みにあずかっているのです。
しかしそのヨハネが自分の生涯をかけて伝えようとした、イエス・キリストをパリサイ人たちは決して認めようとしませんでした。彼らは、ヨハネが与えていた水のバプテスマが、罪を悔い改めるバプテスマであることをまったく心に留めていなかったのです。自分は罪人ではない、自分は他の人間より正しいと言い張り、その心はまったく変わりませんでした。イエス様がここで語られている「弔いの歌」とは、ヨハネが語った、罪の悔い改めを迫る厳しいことば、そして「笛と踊り」とは、罪に囚われている者たちがイエス様を信じることによって、喜びへと解放されることを指しています。しかしパリサイ人は、イエス・キリストが救い主であることを受け入れず、悪霊のしもべ、あるいは大酒飲みの食いしん坊、と言ってあざ笑ったのです。
彼らの姿は、かつての私たちの姿です。そして今も、救いを受け入れない、この世の人々の姿です。イエス様は、最後にこう約束しておられます。「しかし、知恵が正しいことは、すべての知恵の子らが証明します」。すべての知恵の子ら、それはイエスを信じて神の子どもとされた、私たちのことです。私たちが、神の子どもにふさわしく、喜びに満ちて生きていること、そして神の子どもにふさわしく、罪を悔い改め、きよさを求めて歩んでいること、それがまことの知恵です。私たちの罪がイエス・キリストを十字架につけました。イエス様が十字架にかからなければならないほど、私たちの罪は救いがたいものでした。しかし罪はすべて十字架によって取りのけられ、私たちはイエス様の死と復活によって、確かに神の子どもとされました。そのことを信じ、感謝したいと思います。そのとき、私たちは決して朽ちることのない喜びに溢れます。ヨハネが準備し、イエス様によって与えられた、この救いの恵みを一人ひとりがかみしめながら、今週も歩んでいきたいと思います。
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