聖書箇所 マタイ10章1〜10節
1イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。2十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、3ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、4熱心党のシモンと、イエスを裏切ったイスカリオテのユダである。5イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。6むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。7行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。8病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。9胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。10袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。2017 新日本聖書刊行会
いまNHKで、徳川家康の生涯を描いた「どうする家康」という大河ドラマを放送中です。残念ながら作り話が多すぎて、絶賛放送中とはいかないようですが、これから話すのは、別の本で読んだ、家康のエピソードです。
家康が大阪城を攻め落としたとき、彼はいささか卑怯な手を使いました。外堀を埋めるだけという条件で一旦豊臣方と和睦した後、約束を翻して内堀も埋めてしまい、翌年に改めて大阪城を攻めて、豊臣方を滅ぼしたのです。いくさの後、豊臣方の生き残った武将たちが、家康の卑怯な作戦を非難しました。すると家康は彼らにこう答えたそうです。「これは自分が考え出した策略ではない。そなたらの主君、亡き秀吉の教えに従ったままである。大阪城が完成したとき、秀吉は我らの前でこう言った。ここは力技では落とすことはできないから、いったん和睦して堀を埋め、二度にわけて落とすべきだ」と。そのときに、そなたらも一緒にいたではないか。これが、気をつけて聞く者と、そうでない者との間に生まれる差なのだ」。
マタイの福音書を記したマタイ、彼は十二弟子のひとりにして、元取税人という経歴の持ち主ですが、うっかり者が多い十二弟子の中では珍しく、彼は「気をつけて聞く者」であったようです。それは9節にある、イエス様が語った言葉に表れています。「胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません」。同じイエス様の言葉を、マルコやルカも書き残していますが、マルコが「小銭」、ルカが「金」としか記していないのに対し、マタイだけは「金貨も銀貨も銅貨も」と記しています。何でしょうか、この細かさは。ちなみにこの時代、すでに銀行はありましたが、紙幣はまだ発明されておりません。
マタイがわざわざ「金貨も銀貨も銅貨も」と書き残しているのは、イエス様が事実そう言われたからでしょうが、それはマタイ自身が一番心をえぐられた言葉であったからでしょう。他の福音書記者が「金」や「小銭」と一言でくくってしまうものを、彼だけは「金貨も銀貨も銅貨も」と、まるでそれぞれの枚数さえも頭の中で数え上げているかのように記しました。
人は、自分が関心を寄せているものに対しては、耳をそばだて、感覚が鋭くなるものです。マタイは、自分自身が胴巻きの中にある残高をいつも気にしていることに気づかされたのでしょう。
主は弟子たちに言われました、私はこれからあなたがたをイスラエルの失われた羊たちのところに遣わす。みことばを伝え、病をいやし、死人を生き返らせ、悪霊を追い出しなさい。旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。生活のことは何も心配せずに、町々を回りなさい、と語られました。それを聞きながらマタイは思ったのです。
「だが自分自身は、胴巻の中の金貨、銀貨、銅貨の枚数を常に気にしながら生きている。主がすべての責任を取ってくださると約束しておられるのに、そこにゆだね切ることができない」と。
十二弟子の中で、最もおのれに正直だった男がここにいる。それがこのマタイだ。しかし主は、このマタイを通して、金貨も、銀貨も、銅貨もいらない。自分の胴巻の中身を自分で知る必要はない。それは主が与え、主が取られる、神が私たちの必要に応じて与えられるものの一つでしかない、と私たちに語っておられるのです。
ヨハネ福音書には、イスカリオテのユダが弟子たちの金入れを預かっていたと書いてありますが、会計は二人体制で、という教会会計の原則に照らすと、おそらく会計補佐はマタイではなかっただろうかと言ったら、少しふざけて聞こえるでしょうか。元取税人であったマタイは、数字に強い、会計にはうってつけの人物だったでしょう。もう胴巻には二十デナリしかない。大食いのペテロのヤツが人の二倍食べるからだ。ああ、銀貨が二枚しかない。だが銅貨はまだ十枚残っている。金貨は靴の裏に一枚隠してあるが、これは本当に万一の時のために死守しなければ。
少し想像が走りすぎですが、マタイの心にイエス様は語りかけました。「金貨や、銀貨や、銅貨を持っていくな」と。他の弟子たちが、その言葉を「金を持っていくな」という程度にしか受け止めなかった中で、マタイは違っていました。その言葉は、彼の心、そして生活をえぐり出すものだったからです。彼はイエス様の言葉をもう一度かみしめます。
「あなたがたの胴巻には、金貨が何枚入っている?銀貨が何枚入っている?銅貨が何枚入っている?それを正確に把握しているあなたを、この世の取税人たちはほめるだろうが、私はそうではない。なぜなら、あなたの宝があるところに、あなたの心があるからだ。財布に金貨、銀貨、銅貨が何枚入っていて、あなたがそれを数えてみたところで、何も得るところはない。何も持たずに、人々のところへ行け。着るもの、食べるもの、住むところ、神の国のために働く者は、神からそれらを与えられるのだ」と。
今から30年以上前、「レインマン」という映画がありました。そこに登場するある知的障害者を演じていたのが、名優ダスティン・ホフマンでした。彼が演じる男性は、重度の知的障がいを持つ一方で、驚異的な能力をいくつか持っており、床に落ちた大量の爪楊枝の数を一瞬で記憶してしまうのです。しかし実際のところ、自分の財布や通帳の中身だけは、抜群の記憶力でいつも把握している人たちがたくさんいると言ったら怒られるでしょうか。彼らは自分を健常者だと考えていますが、いつも病的な不安に囚われています。老後のために二千万円を蓄えておかなければならない。子どもたちのために相続税対策をしておかなければならない。自分に何かあったときも、家族が路頭に迷うことがないように、財産を残しておかなければならない。確かに、この地上では何が起こるかわかりません。イエス様がたとえ話で語られたように、ある農夫が、大きな倉を建てたその晩に、神が彼の命を取られるということも現実に起こります。しかしイエス様がそのたとえ話で言おうとしたのは、だから残される者のために蓄えておきなさいではなく、あなたの富は地上ではなく、天に蓄えなさいということでした。天に蓄えるといっても、天に銀行があるわけではありません。天に蓄えるとは、伝道者の書が「あなたのパンを水の上に投げよ」と言うように、この地上で、自分の財産をだれかに分け与えるということです。会堂建設のための献金も、神のためであるとともに、やがてこの教会に導かれて救われる人々のために、未来に向かって富を投げるということです。自分が生きているあいだには、それが実を結ぶかどうか、わからない、ということもあり得ます。しかしこの地上で、だれかのために、ひいては神のために、私たちが自分の持っているものを差し出すとき、それは決して無駄にはならず、神が豊かに用いてくださるということは約束できます。
数年前に、村上の会堂建設を経験しました。それまで村上教会は、即身仏つまりミイラがあるお寺の隣にあり、ボロボロの借家でした。そして当時の牧師先生がある事件の責任をとって辞任され、その後を私が引き継ぎました。ただ、そんな状態だったのに、ある方が、いまの村上教会が建っている三百坪近い土地を寄付すると言われたのです。教会員とかクリスチャンではなく、県外に住んでいた未信者の方です。しかし牧師住居を含んだ教会堂が建っていない状態で、新しい牧師を招聘することはできません。理事会と何度も話し合い、そこまで整えて、次の牧師に引き継げる体制を作るのが私の仕事になりました。土地は無償で寄付していただきましたが、蓄えが一切ありません。しかし教会は建ったのです。建っただけでなく、新しい牧師を迎えたら、何と四年後に隣にもっと広い教会堂を無借金で建てました。献堂式の説教を頼まれて訪問したら、思わず苦笑しました。四年前に無我夢中で建てた16畳の礼拝堂が、お茶飲みのスペースになっていたからです。しかし村上のみなさんから、この建物がなかったら、今の新しい会堂もまた生まれなかったと言われて、神さますげえなと思いました。村上教会に関しては、もっといろいろありますが、またいずれ話すこともあるでしょう。ただ、私たちがこの地上で富を投げて、それが無駄になるということは絶対にありません。私たちは、自分の胴巻に金貨、銀貨、銅貨がいくら入っているかを勘定します。しかしそれらをすべて失っても、キリストはそれ以上のものを必ず備えてくださいます。胴巻の中にある財産を数えるよりも、主が与えてくださった恵みを一つ一つ数えましょう。それらの主の恵みに対して、私たちは何をもってお返しできるでしょうか。とてもお返しできません。代わりにこう告白しながら、歩んでいきましょう。「私は、神が愛する者にはすべてを備えてくださることを信じます」と。
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(09/08)2023.9.3「私たちはキリストの花嫁」(マルコ2:18-22)
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