聖書箇所 詩121篇1〜8節
<都上りの歌。>
1私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。2私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。3主はあなたの足をよろけさせずあなたを守る方はまどろむこともない。4見よイスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。5主はあなたを守る方。主はあなたの右手をおおう陰。6昼も日があなたを打つことはなく夜も月があなたを打つことはない。7主はすべてのわざわいからあなたを守りあなたのたましいを守られる。8主はあなたを行くにも帰るにも今よりとこしえまでも守られる。2017 新日本聖書刊行会
今日の聖書箇所は、たいへん有名なみことばであると同時に、私たちの心になんとも言えない感動を与えてくれるものです。この天地を作られた神の偉大さ、雄大さ、そしてその神が私たちをいつも守って下さるという平安、そういったものがこみ上げてきます。先週、数年前に村上教会の会堂建設に関わったエピソードについて話しましたが、現在の村上教会がある場所は、村上市のシンボルである臥牛山、地元の人のあいだではお城山と言われていますが、そのすぐ近くにあります。元豊栄の教会員だった高橋兄が車で案内してくれて、ある方が寄付して下さるというその土地に行ったとき、鬱蒼とした木に取り囲まれて、狭い道の先に廃屋が建っているような場所でした。第一印象はあまりよくなかったのです。しかし後ろを振り返って、空を見上げると、新潟では珍しい青い空に、青々としたお城山がそびえていて、たいへんよい眺めでした。そのとき、このみことば、「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは天地を作られた神から来る」、それが心の中に響いたことを昨日のように思い出します。振り返ってみますと、たくさんのトラブルに囲まれていた村上の会堂建設をそれでもあきらめずに最後まで行うことができたのは、そのみことばが与えられて以来、ここが神が与えられた場所であるという確信を失うことがなかったからだと思います。そしていま、私たち豊栄キリスト教会の会堂予定地についても、神が与えられた場所であるという確信を与えられています。どんなことが待ち受けていたとしても、すべてを神は益に変えてくださり、新しい主の宮を通して、私たちの宣教を祝福してくださるでしょう。
ただ、今日のみことばについて、もしかしたら私たちは日本人の感覚で解釈することで、本来のみことばの意味を誤解していないか、と思うことがあります。つまり、「私は山に向かって目をあげる」という言葉を、頂上は万年雪が、峰は青々と美しく、山裾が霞に揺れている、そんな美しい光景を連想して、その美しい自然の背後に生きておられる神をほめたたえる、ということはないでしょうか。自然の背後に生きておられる神をほめたたえることは間違っていませんが、実際にこの詩篇121篇でうたわれている「山」、それは日本でよく見かけるような山ではなく、イスラエルの山々です。人をよせつけぬ岩山、ごつごつとした塊が立ち並び、雪も緑もない、赤茶けた山々、それがここで歌われている山々です。しかし詩人は、この赤茶けた山々を見上げながら、歌うのです。「私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」。
数年前、新幹線を乗り継いで、静岡県の掛川というところに行ったことがありました。東京まで約二時間、そこで新幹線を乗り換えてさらに二時間乗るとようやく着くのですが、新幹線の窓から、富士山が本当によく見えるのです。小さく富士山が見えるとかではなく、麓を走っているような感覚です。まあ普段から新幹線に乗り慣れている人は、富士山くらいでいちいち声を出したりしません。そういうのは地方から出てきたおのぼりさんだけです。私ですか?窓におでこをこすりつけて、大きな声を上げてしまいました。しかし私の向かいにいたおばあちゃんはもっとすごかった。座席の上にぴょこんと正座して、富士山に向かってナンマンダブと拝んでいました。ただ、私もイエス様を信じていなかったら富士山を拝んでいたかもしれません。
富士山に限らず、日本にはそのような美しく、壮大な山がたくさんあります。しかしこの詩篇でうたわれている山は、じつは、日本の山とは対極にあるような、赤茶けた山々です。自然に恵まれている日本人は、古来より自然に守られているという感覚をもって、自然そのものを神として拝んできました。しかしイスラエルにおいては、自然はむしろ神の恵みとは対照的な、荒々しい姿で、人々の生活を追い詰めていきました。しかしそれにもかかわらず、聖書を信じるイスラエル人たちは、信仰によってこう告白したのです。「私の助けは、この天地を造られた主から来る」と。赤茶けた山々を正面に見ながら、彼らは神をほめたたえます。それが私たち日本人に聖書が伝えようとしている本物の信仰です。それは日本の山々の、目に見える美しさゆえにその背後に神をほめたたえる私たち日本人が知らなかった信仰です。赤茶けた山々だけが広がり、自然が牙をむいているような過酷な現実があっても、その背後には、神が確かに生きておられるのだ、と告白する、それがまことの信仰です。
私たちひとり一人の目の前にも、山があります。不毛の山です。赤茶けた山々です。家族・上司、同僚、友人、あるいは自分自身。その心のかたくなさが、あなたには見えます。あなたはそれを変えようとします。山の岩肌に拳を打ちつけ、砕こうとします。だが何度打ちつけても、ひびも入らず、拳を痛めるだけ。そんな中であなたはあきらめ、関わりをやめようとします。だが本当の問題は、山そのものではありません。その山々さえも造られた神を見ることをせず、目の前の山ばかり見ていることに問題があるのです。目の前の山を打ち崩すことではなく、その山を含めてすべてを支配しておられる神を見つめましょう。間違えないでください。私たちの助けは山から来るのではありません。あなたの助けは、主から、天地を造られた神から来るのです。
詩人は告白します。「主はあなたの足をよろけさせずあなたを守る方はまどろむこともない。見よイスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない」と。この詩篇は何千年もの間、多くの人々によって口ずさまれてきました。なぜでしょうか。その告白が事実だからです。天地を造られた方が確かにおられるのです。岩肌をむき出している山々のように苦渋に満ちた人生です。しかしそのあらゆるところで、あなたを守ってくださる方が確かにおられるのです。天地を造られた方、それは神でありながら人として生まれた方、イエス・キリストご自身のことです。
キリストを信じる前、私の心の中にはいくつかの山がありました。自分の人生から永久に消し去ってしまいたい記憶の山々が。だがキリストを信じたとき、私は、その山々をも造られた方がキリストなのだと知りました。そして、私とキリストを出会わせるためにその山々があったのだと気づきました。キリストを信じるとき、私たちの人生は光を取り戻します。過去の痛みさえも、喜びと感謝に変わります。過去の傷さえもそう変わるのですから、まだ見えない明日にさえ、希望を持つ事ができます。それはただイエス・キリストだけになし得る奇跡です。イエスは神でありながら、私たち罪人の身代わりとして十字架にかかってくださいました。十字架において、すべてが逆転します。痛みが喜びに、傷が感謝に、失望が希望に、そして自分のためだけに生きていた人生が、神と隣人のために生きる人生へと変わっていきます。
どうか、今日あなたの心にキリストとの出会いがあるように。そして聖書の言葉が心に刻まれますように。
「私の助けはどこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」と。
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