聖書箇所 詩100篇1〜5節
<感謝の讃歌。>
1全地よ。【主】に向かって喜びの声をあげよ。
2喜びをもって【主】に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
3知れ。【主】こそ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの。主の民。その牧場の羊。
4感謝しつつ主の門に、賛美しつつその大庭に入れ。主に感謝し御名をほめたたえよ。
5【主】はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで。その真実は代々に至る。2017 新日本聖書刊行会
みなさん、おはようございます。
本日、片山讃美さんが、父・子・聖霊の御名において、神の子どもとなる洗礼の日を迎えたことを、心から感謝いたします。先ほど讃美さんが証しをされたように、彼女の心の中には、私は神の子どもであるという思いと共に、教会の中だからこそ経験する特別なプレッシャー、その二つが混在していました。しかしその葛藤の中で、昨年の夏、見えない力に押し出されるように、彼女は聖ヶ丘で行われたキャンプに参加しました。そこで講師の先生が語ってくださったのは、あの有名なザアカイの話であったと言います。かつて、牧師家庭に生まれながらも思春期になると神を信じることができなくなっていたという、村上宣道先生が、やはりザアカイのメッセージを聞いたとき、それまで何度も聞いていたのにその時に、まったく新しいみことばとして心に迫ってきたと言いますが、それと同じ経験を、讃美さんも経験しました。そして洗礼を決意し、冬のあいだ、約十回にわたって牧師との学びを続けてきました。もしかしたら、讃美さんが洗礼を受けるのを最近になって初めて知った、もっと早く言ってくれたらよかったのに、という方もいるかもしれませんが、思春期特有の恥ずかしさと理解してください。しかし彼女は、福音については決して恥としてはいません。先週の礼拝後に行われた洗礼試問会では、「自分の中で洗礼をとどめておく理由が、もうなくなった」と力強く語り、役員たちを感動させました。今までは、讃美さん、あるいは讃美チャンと呼んでいましたが、これからは讃美姉となります。とはいっても私たちは神の家族でありますから、常にかしこまって讃美姉と呼ぶ必要はありません。讃美さん、と気軽に呼びかけていただきたいと思います。
今日のメッセージは、先ほどの証しの中で、彼女が座右のみことばとして選んだ、詩篇100篇から、語らせていただきます。この詩篇は、巡礼者たちが神殿に入ってきたとき、聖歌隊であるレビ人たちがそれを迎えてささげる讃美歌であったと言われています。おしゃれなバーやレストランに行きますと、(行ったことありませんが)、ウェルカムドリンクと言って、初めてのお客さんに無料で飲み物が振るわれることがあるそうです。この讃美は、いわばウェルカムソングです。一年に一回、エルサレムまでのぼり、礼拝をささげる巡礼者たちに、礼拝で一番大切なものは何かを教える讃美です。1節、2節をお読みします。「全地よ、【主】に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって【主】に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ」。
喜びが繰り返されています。礼拝とは喜びです。喜びそのものです。喜びのない礼拝というのはあり得ません。とはいえ、私たちは、いつも喜んでいられるわけではない。大きな心の重荷を抱えながら礼拝に来る人もいる。罪の悔い改めと共に、すがりつくように礼拝の席に座る人もいます。しかし、たとえそれが悔い改めのゆえの悲しみであったとしても、私たちはこの礼拝にあずかって、悲しみのままではいられないのです。神がこの礼拝に私たちを招かれるのは、私たちを喜びに変えようとしておられるのです。悔い改めは必要ですが、礼拝が終わってもいつまでも悔い改めの涙に留まる必要はありません。礼拝の中で涙は主ご自身が拭いてくださる。この喜びの礼拝の中で、讃美をささげる。感謝を表す。みことばを心に刻みつける。交わりに励まされる。こうして私たちは御霊によって変えられていきます。そして礼拝に来た時とは別の人間になる。御霊により新しく造り変えられた者として、改めて神が自分に用意された一週間へと送り出されていくのです。
讃美さんとの洗礼前の学びの中で、「人生山あり谷ありグラフ」というものを作ってもらいました。これは、自分の今までの生涯であった、良いこと、悪いことをいくつか思い出して、そのときの思いをグラフにしてもらうものです。当然、人生が順調なときにはグラフは山になり、悲しいとき、辛いときには谷になります。しかしそれだけでは終わらないのが、このグラフを作るときに見えてくるのです。讃美さんは、ある時から教会に来るのがいやになった時期があったと言います。しかしどんな時であっても、神は私たちを支えています。人生山があり、谷がある。そしてどんな谷を歩んでいる時にも、主は、じつは私たちに最上のものを用意しておられるのです。この詩篇はその理由をこう歌っています。「私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊」だからである、と。
イエス・キリストは、ご自分を、良い羊飼いであると言われました。そして良い羊飼いは、羊のために命を捨てる、と。このイエス・キリストが羊である私のために命を捨ててくださった、と讃美さんははっきりと信じました。賛美さんの今までの人生、約15年のあいだには、辛いこと、苦しいこともあったでしょう。しかしそれらもすべて山あり谷ありの中での光景のひとつにすぎません。すべてが用いられ、すべてが賛美と感謝に変わっていくのです。
讃美さんとの学びの中で、もう一つ、やや意地悪なクイズを出したことがありました。ジェンガというのをご存じでしょうか。小さな木片を積み重ねて、高くしていくというゲームです。高く積み上げたジェンガが崩れないように、どれか一本だけ柱を抜きたい、どれを抜けば崩れないか、と讃美さんに質問しました。彼女は少し考え込みましたが、やがてすぐに、答えはないということに気がつきました。つまり、どの柱を抜いてもジェンガは崩れてしまう。そしてこれが何のたとえかわかる?と聞いたらわかると彼女は言いました。
言うまでもなく、これがたとえているのは教会です。どの人が抜けても、教会はガラガラと崩れてしまいます。私たちはちょうど一年前にそれを経験しました。連動して誰かが離れることはありませんでしたが、イエス様に羊を委ねられた羊飼いである私の中では、今も葛藤は続き、この意味を教えてくださいと神に問い続ける日々は終わっていません。しかしだからこそ忘れてはいけない、教会員一人ひとりは、誰であってもそこから引き抜かれたら教会そのものがガラガラと崩れていく、かけがえのない柱なのです。
洗礼を受けるというのは、そのような教会の姿そのものを自らも背負う者となるということです。そして讃美さんは、先ほどのクイズに正解を出したことで、教会がキリストのからだであることを正しく受け止めておられます。これから高校生として歩む中で、学業、人間関係、部活、信仰生活、いろいろな葛藤を経験するでしょう。しかし主がいつも共にいてくださいます。そして私たちも彼女の信仰を支えていきます。また私たち自身も讃美さんの信仰を通して励ましを受けていくに違いありません。
一人ひとりが今日の恵みを感謝しつつ、讃美さんのこれからの信仰生活の祝福を祈っていきましょう。この詩篇は最後にこう告白しています。「主は慈しみ深く、その恵みはとこしえまで。そのまことは代々に至る。」私たちを常に導き、支えてくださる、主なる神に、喜びと、感謝と、讃美をもって従っていきましょう。
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