聖書箇所 使徒6章1〜7節
1そのころ、弟子の数が増えるにつれて、ギリシア語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情が出た。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給においてなおざりにされていたからである。2そこで、十二人は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは良くありません。3そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。その人たちにこの務めを任せることにして、4私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。」5この提案を一同はみな喜んで受け入れた。そして彼らは、信仰と聖霊に満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、そしてアンティオキアの改宗者ニコラオを選び、6この人たちを使徒たちの前に立たせた。使徒たちは祈って、彼らの上に手を置いた。7こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。また、祭司たちが大勢、次々と信仰に入った。2017 新日本聖書刊行会
おはようございます。今日は第二礼拝の中で、役員就任式および教会学校教師就任式を予定しております。教会の中には一つとして必要のない奉仕はないわけですが、その中でも、役員と教会学校教師に対しては、このようにとりわけ大切な務めとして意識されています。それは役員や、教会学校教師といったものが、教会の中枢に関わると同時に、それは人のわざではなく聖霊の力を頂かなければならない大切な奉仕であるからでしょう。とくに今日の聖書箇所では、教会が初めて直面した大きな問題の中で、執事、つまり今日の役員が選ばれていったという聖書の出来事から、教えられたいと願います。
まずこの出来事は、「弟子の数が増えるにつれて」と前置きされています。かつて120人程度の小さな群れだった教会は、毎日救われる人々が起こされて、今や数千人の群れとなっていました。時間をかけてゆっくりと成長するとき、ふとしたボタンのかけちがいで起きてしまうこともよく話し合って対応できます。しかしこの時の教会は、これもまた一つの祝福ではあったかもしれませんが、フォローが行き届かないほどに急激な成長を迎えていました。その中でまずギリシャ語とヘブル語という言葉の違いから来るコミュニケーションの問題が出てきました。さらにそこから、おそらく少数派であった、ギリシャ語しか話せないやもめたちに対する配給の問題が生まれてきました。
教会はキリストの生けるからだですから、常に成長を続けます。たとえ礼拝出席者や受洗者の数が増えていかないとしても、それは目に見えるものにすぎません。地上のそれぞれの教会は、目に見えない教会のからだのひとつの部分であり、成長し続けます。しかしその中で気をつけなければならないのは、自分たちの成長がみことばに根ざした成長であるのかということです。
注目したいのは、今日の聖書箇所の中で「弟子」という言葉が繰り返し語られていることです。じつはこの使徒の働きの3章から5章に至るまで、弟子という言葉は一回もでてきません。しかしこの6章で著者ルカは、まるで堰を切ったかのように弟子という言葉を繰り返し使うのです。1節では「弟子たちがふえるにしたがって」、2節「弟子たち全員を呼び集めて」、そして7節「弟子の数が非常に増えていった」。これは決して偶然ではありません。それは、この食料の配給にまつわるトラブルという中でこそ、彼らがキリストの弟子であるという事実が試されていくからです。
私が思うに、今日の聖書箇所は、現代の教会やクリスチャンにとって、とても大切な教訓が含まれている箇所です。少数派であったやもめたちに対して食糧の配給がなおざりになっている、でも使徒、いわゆる先生たちは忙しい、だから信徒から担当者を七人立てて、その人たちにお任せしましょう、という程度の話であれば「弟子」ということばを強調する必要はないのです。しかしここで「弟子」が繰り返し使われている理由は、食料の配給という身近な問題は氷山の一角にすぎず、その下にははるかに深刻な問題が隠れていることを示しています。ここでどう対処するかを通して、キリストの弟子としてふさわしいかどうかが試されていたのです。
ではその、水面下に隠れている、はるかに深刻な問題とは何でしょうか。それは、教会がみことばによって動いていないということです。使徒たちはこう語りました。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません」。ここで「あと回しにして」と訳されている言葉は、他の聖書箇所では「見捨てる」とも訳されています。つまり、私たちがみことばを捨てて、食卓のことに仕えるのはよくありません、と言っているわけです。
でもこれは食卓のことなんかどうでも良いんだ、と言っているわけではありません。ここからが大事です。ここで使徒たちが「私たち」と言っているのは、自分たち使徒のことではなく、キリストの弟子、教会員すべてを指して「私たち」と言っています。今日の言葉に置き換えてみると、私たち牧師が、食事の奉仕などに時間をかまけていられるか、と言っているのでは決してありません。彼らがここで言っているのは、こういうことです。教会が、神のことばに聞かないままに、食卓に仕えるのはよくない、むしろ罪である。
食卓というのは、人間性が一番出てくるところです。ふだんは聖書に立つとか聖書に聞くと言いながら、そこでは私たちは自分たちのメリットとかデメリットのことばかりが頭をもたげ、神のことばを参考にすることもなく、自分たちの経験や常識によって話し合いを進めようとしていきます。それを使徒たちは、教会が神の言葉を聞かずにここまで食卓のことで対立を深めているのは、私たちは悔い改めなければならないと語っているわけです。
彼らの短い言葉を、意訳するとこうなるでしょう。教会とは何のためにあるのか。それは神のことばを聞き、それに従って生きていくためである。しかし教会のいのちである神のことばをひとり一人が聞くために集まっていながら、なぜ神のことばがあなたがたの問題を解決する力となっていないのか。教会のあらゆる営みは、みことばへの応答としてなされていかなければならないのに、食料の配給という問題に対しても、みことばに示されて気づかされるのではなく、問題が大きくなって苦情の申し立てがなされて、ようやく動いている。この現実は、みことばがあなたがたの生活の中で見捨てられていることなのだ、と。
ある会社で問題が発覚し、社長以下、重役たちが集まって話し合った後、出た結論が「これは他の人たちに任せることにして、私たちは祈りとみことばの奉仕に専念することにします」。こういう会社では働きたくないでしょう。これを世の中では責任転嫁、もう少し柔らかい言葉でも丸投げと言うのです。使徒たちが語ったのはそういうことではなかったと私は断言します。教会が、みことばを行動原理とせずに、人員や予算、奉仕者の能力といったことに依存していた、いつのまにかそうなってしまっていた現実を、彼らは悔い改めました。祈りとみことばに専念するというのは、私たちはそんなことにはノータッチですよという意味ではなくて、今まで語ってきたみことばや祈りがまるで信徒の生活、教会の行動原理として生きていなかったという反省でした。そのような緊張感の中で私たちはこの箇所を理解しなければなりません。食糧配給といった現実の問題に対応するために7人の執事が選ばれたということでもないのです。食料配給に象徴される教会内の諸問題に、みことばをもって取り組んでこなかったひとり一人がもう一度悔い改めて、みことばを中心とする教会となるために必要な体制を整えたということです。
そのために選ばれた執事、すなわち役員として必要な資質は、「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たち」でした。ここでいう知恵とは、頭の良さや事務能力ではなく、みことばを指します。御霊によってみことばがその人の生活の中に着実に受肉していることを、だれもが認める人たちということです。それが役員に求められているものです。教会にとって、みことばがどれほど重いものなのかを知っており、そのために自分をささげる覚悟を持った人々を神は求めておられます。
教会が救われた罪人の集まりである以上、問題があること自体は仕方のないことです。しかし私たちがその目に見える問題を、みことばによって正していこうとしないのであれば、それは仕方ないではすみません。語られたみことばが自分の中に根付いていくように常に聖霊に求めながら歩んでいきたいと思います。自分の知恵や経験で解決しようとするのではなく、心に語られ、蓄えられたみことばに立って、問題に立ち向かっていくこと。それが教会には必要であり、牧師や役員はそのためにとくに大きな責任を委ねられている者です。しかし必要な霊的資質は、神が備えて下さるのだということも忘れないで行きたいと思います。一人ひとりが、みことばによって生きることを喜びとする者、まさにキリストの弟子、イエスをかしらとするキリストのからだの一部として、歩んでいきましょう。
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