聖書箇所 マタイ16章13〜20節
13さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。14彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」15イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」16シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」17すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。18そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。19わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」20そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。2017 新日本聖書刊行会
おはようございます。今日は、教会について、イエス様のみことばから改めて教えられていきたいと願います。まずここにはピリポ・カイサリアの地方という言葉が出てきます。ピリポは、この地方の支配権をローマ帝国から許可されていた王、そしてカイサリアとは皇帝を意味する言葉です。国主ピリポが、ローマ皇帝カイサルのために新しく作った町、それがこのピリポ・カイサリアです。そこには至る所にローマ風の祭壇、神殿、またローマ皇帝の彫像が置かれていて、皇帝を神として崇めるために作られた町でした。イエス・キリストは偶然、この町を通りかかったのではなかったと思います。いわば人によって作られた、偽物の神が溢れている町の中で、あなたがたはわたしをだれだと言うか。ローマ皇帝の富と権力を象徴するこの町の中で、それでもあなたがたは、わたしをただ一人の神と告白することができるか、と問いかけておられたのです。
弟子を代表して、ペテロは答えました。「あなたは生ける神の子キリストです」。失敗が多く、反面教師とするほうが多いようなペテロですが、ここだけは私たちはペテロを模範としなければなりません。イエスこそ、生ける神の子キリストです。世の中の人が、イエスを誤解し、あるいはただの歴史上人物としか捉えていない中で、私たちはこの方こそ、救い主であると告白します。そしてイエス様は、ペテロにこのように言われました。18節をご覧ください。
「そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません」。ここでイエス様が「岩」と言われた言葉は、ギリシャ語でペトラと言います。ペテロとペトラ、響きが似ていますが、イエス様がこの二つを並べて語られたのは、ペテロという人間にではなく、ペトラという岩の上に、わたしは、わたしの教会を建てるという意味に他なりません。ペテロは自他共に認める、イエス様の一番弟子でした。しかし人は必ず失敗するものであって、教会の土台はそこにはありません。では教会の土台である岩とは何でしょうか。その答えこそ、「あなたは生ける神の子キリストです」という告白にあるわけです。
わたしの教会、つまりそこがキリストの教会である証拠は、看板に「キリスト」や「教会」ということばが入っていることではありません。建物の上に十字架が立っていることでもないし、オルガンや燭台のような内装が示すわけでもありません。ましてや、牧師や信徒の人間的魅力だとか、教会のアットホームな雰囲気だとか、そのこと自体が、その教会がキリストの認める「わたしの教会」であるしるしではありません。
いま、私たちは、今まで何年も、いや、それ以上に祈りと願いが積まれてきたであろう、この豊栄の真ん中に教会を建てるということをいよいよ建築士の協力のもとに具体化していく時期にやってきました。しかし私たちが建てるのは教会堂ではなく教会です。教会とは何かということを教会員一人ひとりが意識していくことが大切です。私たちは過ちを犯します。もしかしたら、地元の人々にそれでも教会なのかと揶揄されるような不証しさえ残してしまうこともあるかもしれません。それでも、教会が教会であるしるしを、イエス様は私たちに教えてくださいました。それは、「イエス・キリストこそ生ける神の御子であり、私たちはこの方を信じるならば救われる」ということを、一人ひとりが自分の確信、自分の言葉として告白できるかどうか、ということです。それは単に主日礼拝といった公の集会の中で、使徒信条や主の祈りを毎週告白しているか、といったことではありません。イエスこそ神の御子であるということを確信をもって告白できる人には、喜びが溢れています。作り笑いで人をだましていく偽りの喜びではなく、どんな状況の中でも、決して失望せず、むしろ神にどんなことをも期待できる、幼子のような喜びを持っています。それが、私たちが教会であるしるしなのです。
私たちは一人ひとりが、イエス・キリストを信じてきた人生を持っています。ここにも、信じてからすでに五十年を越えている方もおられれば、まだ洗礼を受けてから一ヶ月に満たない方もおられます。そして、あなたがキリストを信じてきた人生は、他の誰とも違います。イエスがあなたに与えてくれた証しは、あなただけのものです。「わたしの教会をこの岩の上に建てる」、つまりイエス・キリストを生ける神の御子、救い主と告白する、岩なる信仰の上にわたしの教会を建てる、とは、それぞれのクリスチャンが、今日まで導かれた人生の中で受けとった恵みを、人々に語らずにはいられない喜びがそこに現れます。
私は高校三年生のクリスマスの時に洗礼を受けました。洗礼を受けて四年間は、教会に忠実に通っていました。でもそれは喜びではなかったのです。教会で奉仕したり、大学の聖書研究会でリーダーを務めていることを通して、誰かに必要とされている、神に用いられているという思いが、それを喜びと錯覚させていました。社会人になって、毎日の仕事が忙しくなると、教会でも以前のように奉仕ができなくなりました。でも、何もできなくなったときに、そこで初めて、今まで自分が喜んでいたというのは、達成感の裏返しであって、本当の喜びではなかったと気づかされました。それはまさにペテロの告白のように、人間ではなく、神さまが心に示してくださったのです。自分は何もできない人間なのだ、それでも、神は私を愛し、私のためにすべてを捨ててくださった。私が何かをすることを期待して死んでくださったのではなく、ただ私を愛して、死んでくださった。そのとき、初めて、それでも神さまのために何かをしたい、神さまを喜ばせたい、という思いがわいてきた。それは私にとって、第二の救いとも言うべき経験、人によってはリバイバルとも言いますが、いずれにしても、私の中に、このイエス様を誰かに伝えたいという強い願いが起こされました。それからもう二十数年が経ちましたが、牧師になってよかったなと思うのは、クリスチャンが喜んでいる姿を、誰よりも近くで見ることができるということです。
誰かにイエス様のことを伝えるとき、そこにはあなたの人生を、あなただけ特別な方法で初めから導いてくださった感謝があふれます。そしてそのようなあなたに、神は天の御国の鍵を与えると言われました。19節をご覧ください。「わたしはあなたに天の御国のかぎを与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」キリストの教会につながっている、私たちひとり一人に、天の御国のかぎがゆだねられています。私たちがイエスは主であるという確信に基づいて証しを立てていくときに、神は必ずそれに応じて、救われる人々を起こしてくださいます。あなた自身が、この福音に触れて、どのように変えられたのか。このイエス・キリストを信じた後、感謝と恵みがどのように溢れて生きているのか。一人ひとりのクリスチャンの証しを、この世界は求めています。人々の声に耳を傾けながら、本当の救いは、このイエス・キリストにある、と語り続けることのできる、本物の教会として歩んでいきたいと思います。
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