聖書箇所 使徒2章1〜4節
1五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。2すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。3また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。4すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。2017 新日本聖書刊行会
今日は二千年前に聖霊が信者たちに下られた聖霊降臨日、ペンテコステと呼ばれています。その出来事について描かれている今日の聖書箇所は、まずこのように始まります。1、2節、「五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った」。
「皆が同じ場所に集まっていた」とあり、「すると」天から突然、聖霊が下ってこられたとあります。ここを読むと、皆が同じ場所に集まって祈っていたからこそ聖霊が下ってこられたと解釈しやすいのですが、聖書の強調点は「すると」ではなくて、「突然」です。つまり、弟子たちが集まり、熱心に祈っていたから聖霊が下ってきた、ということではありません。熱心に集まって祈ること自体はすばらしいことですが、それは聖霊降臨の条件ではないのです。人間の知恵を越えた「突然」という神のみこころのなかで、聖霊は人々の間に下ってこられ、教会は誕生したのです。
私たちは、熱心さを信仰のバロメータとして考えやすいものです。熱心に集まること、熱心に祈ること、熱心に伝道すること、しかし時として、その熱心さは熱心でない人を排除します。熱心でないことは信仰が足りないからだと批判します。しかしここでは、みなが同じ場所に集まり、熱心に祈っていたから聖霊が下られたと聖書は語っていません。「突然」という言葉が表しているのは、人間の思いや情熱云々にかかわらず、神はご自分の計画を実行されたということです。人が思いもかけないときに、人が想像もしていなかった方法で、神の計画は始められます。神は二千年前のこの日に、教会を生み出すことを遥か永遠の昔から定めておられました。そしてこの日、人々はいつものように集まっていました。そしてそこに聖霊が一人ひとりの上に下ったのです。
聖霊降臨は、神の国が目に見える形で地上に実現した出来事です。そしてイエス様は、弟子たちにこう語っておられました。「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません」(マルコ4:26,27)。
神は常に、良い意味で、私たちの裏をかかれるお方です。みこころにかなった願いは必ずかなえられると聖書の中にありますが、そういう経験をするときも、私たちが願っているように物事が動いていくのではなく、まるで反対方向に動いているように見えて、しかし蓋を開けてみたら、願いがすべて満たされていた、ということが起こります。この聖霊降臨もそうでした。弟子たちが考えていたような、ローマ帝国がクーデターによって倒れてイスラエルが独立するといった出来事は起こりませんでした。しかしこの聖霊降臨を通して、多くの人々が神に立ち返り、やがて救われた者たちは世界中に散らされ、ローマ帝国が内側からキリストの支配へと飲み込まれていくということへと発展していきます。
二千年前に起きた聖霊降臨の出来事は、人間の計画やわざを越えた、100%神が主導権を握って起こしてくださったものでした。そして私たちは、それぞれの時代の中で、神に用いられる器なのです。しかし誤解しないでいただきたいのは、救われた者たちは、すでに聖霊を受けており、すでに神に用いられる者となっているということです。熱心ではないクリスチャンが聖霊を受けて新しく生まれ変わるということは、聖書は教えていません。新しく生まれるのは信じたときにすでに起こっています。本人がそれを意識しているか否かにかかわらず、すでに聖霊を受けて、新しく生まれ変わっています。そして日々、新しくされ続けています。
私が牧師になって二十数年来、聖霊の力を求めるクリスチャンには数え切れないくらい出会ってきました。しかし聖霊の力ではなく、聖霊そのものを求めるクリスチャンは決して多くありません。この違いがわかるでしょうか。
昭和の話になってしまいますが、当時は世のサラリーマンの給料は振込ではなく、給料袋に入れられて現金で渡されていました。当時のドラマには、給料日に屋台で一杯ひっかけて、給料袋をなくしてしまったというような話がよく出てきました。それが聖霊と何の関係があるのかという話になりますが、給料日にお父さんが家に帰ってきたとき、そこで奥さんが何というかです。「おとうさん、お帰りなさい」。これが正しい奥様の姿です。しかし順番が逆になるとこうなります。「お帰りなさい。給料袋は?」。
聖霊の力を求めるが聖霊そのものを求めないクリスチャンは、帰ってきたお父さんよりも、お父さんが持っている給料袋の方を大事にしているようなものです。しかし私たちは聖霊という言葉を聞くと、与えてくれる力の方を求めがちです。でもイエス様は聖霊を何と呼んだか。慰め主と呼びました。助け主とも呼びました。救い主であるイエスが、聖霊を慰め主、助け主と呼ばれたのです。聖霊は人格を持ったお方です。それぞれの信者と共に笑い、共に喜び、共に苦しみ、共に泣いてくださる方、たとえ目には見えず、声は聞こえなくとも、その方は私たちの心の中で共に生きてくださっています。聖霊は、何があっても決してわたしはあなたを捨てないと約束してくださったお方です。私たちが罪を犯してしまったときにはその罪を気づかせてくださいます。誰でもやっていることだろうと自分を納得させようとするとき、悔い改めへと導いてくださいます。神への悔い改めで済ませて、相手への責任から逃げ出しそうになるとき、私たちを最後まで導いてくださり、和解へと至らせてくださいます。
パウロは、性的な罪を犯し続けていたようなコリント教会の人々にさえ、次のように書きました。
「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です」(第一コリント3:16,17)。
たとえ、どんなクリスチャンであってもです。ペンテコステの恵み、それはたとえ私たちがどんな者であったとしても、神は私たちを聖霊の宮としてくださった。そして決して離れることはない。共に歩み、共に生き、そして神のみこころにかなう民として日々新しく生まれ変わらせてくださる、その保証が二千年の前から今に至るまで変わることなく続いているのです。
ペンテコステ、私たちは聖霊と共に生きる恵みの中で昨日も今日も明日も歩んでいきます。感謝を主にささげましょう。
これぞ昭和のお父さん像。給料日になると千鳥足で帰ってくるお父さんが手から吊り下げているものの中身はいったい何なのか、誰も知らない。(植田まさし先生の「らくてんパパ」より。Amazonにリンクしています)
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