聖書箇所 マルコ2章1〜12節
1数日たって、イエスが再びカペナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。2それで多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。イエスは、この人たちにみことばを話しておられた。3すると、人々が一人の中風の人を、みもとに連れて来た。彼は四人の人に担がれていた。4彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。5イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。6ところが、律法学者が何人かそこに座っていて、心の中であれこれと考えた。7「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」8彼らが心のうちでこのようにあれこれと考えているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを考えているのか。9中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。10しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。11「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」12すると彼は立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行った。それで皆は驚き、「こんなことは、いまだかつて見たことがない」と言って神をあがめた。2017 新日本聖書刊行会
みなさん、おはようございます。ある教会員の方が、先日こんなことをお話ししてくださいました。少し前に、地元の高校生が礼拝に出席してくださったのですが、ここが教会というよりは絵に描いたような民家ですので、いまどきの高校生にはどうかな、と思いつつ、その教会員は感想を聞いたそうです。そうしたら「確かに古いけど、逆に、こういうほうが落ち着く」という答えが返ってきた、と。私も古い家が好きなほうですので、そんな話を聞くと、「じゃあ、いっそのこと、ずっとここでやっていこうか」と一瞬だけ思いましたが、いやいや、やはりそんなわけにはいかない。その理由の一つは、このスペースでは、今の人数でほぼ限界だからです。これは教会に限りませんが、ある建物に入っている方の数が、その収容人数の八割を超えると、それ以上は増えないと言われます。人間の心理として、席が埋まっているのが目に入ると、繰り返し来たいとは思わないそうなんですね。もちろん、行列のできるラーメン屋のような例外はあります。しかしそれは、行列してまで食べること自体が、満足感を得る手段となっているわけです。しかし残念ながら、行列してまで聞きたい聖書のお話というレベルに私は届いておりませんし、みなさんが家族や友人を教会に誘うとき、「狭いから座れないカモよ」と前置きしなきゃいけない教会というのも申し訳ない。ですから、今は子どもたちを合わせて約30名くらいですが、これから50名の礼拝を目標としています。50名を受け入れるためには、駐車台数はその半分、25台が余裕をもって駐められる数字になります。ここを残したままでは25台駐めることは難しいので、取り壊した上で、教会堂と牧師館、駐車場を整えていくことになるでしょう。完成に至るまでは、これからもどんなことが起こるのかわかりません。しかし主は知っておられます。だから恐れる必要はありません。心を合わせて、新しい宮をささげていきましょう。
さて、今日の聖書箇所の中には、イエス様が入られた家は人々が押し寄せ、足の踏み場もないほどであったことが書いてあります。先ほど八割云々と言いましたが、イエス様には適用できません。行列ができるラーメン屋は極上のラーメンを提供しますが、イエス様はそれよりもはるかにまさる神の恵み、みことばといやしを人々に与えました。だから人々は、座る場所があろうがなかろうが、イエス様のもとに押し寄せたのですね。しかしそこに、四人の人に担がれた、中風の人が運ばれてきました。私たちがこれから計画している教会堂には、車椅子の方でも安心して使うことのできる、多目的トイレを作ろうという話をしています。礼拝堂も、体調の悪い方が少し横になってでも一緒の礼拝が守られるような設備を考えているところです。
しかし二千年前は、そんな優しい時代ではありません。中風の人を担いだ四人の人が来たとき、「どうぞどうぞお入りください」と出入り口に近い人たちが外に出て道を空けてくれるようなことはありません。出入り口からイエス様のところまでぎっしり人が埋まり、みんなイエス様のほうしか見ていない。その中には、イエス様の言葉尻を捉えて訴えようとしている宗教指導者たちもいました。彼らも、そんな四人に担がれた中風の人に気づいて席を空けるなんてことはしません。季節がいつかはわかりませんが、この家の中から吹いてくる世間の風は、彼らにとって冷たかったのです。
しかしだからこそ、彼らは信仰を働かせる機会を神様から頂きました。どうすることもできず、天を見上げたとき、彼らは気がついたのです。正面から入れなければ、上から入ればよいではないか、と。おそらく外階段を使って、四人の人は中風の人を担いだまま屋根に上がりました。そして人さまの家にもかかわらず、屋根をはがし、この中風の人を床(とこ)に寝かせたまま、イエス様の前へと吊り下ろしたのです。
ある貧しい国から政府の補助を受けて、日本の大学に留学していた青年がいました。ある朝、日本人のクラスメイトが、電車の中で本を読んでいる彼を見つけました。しかしそのクラスメイトは、思わず笑いそうになったそうです。というのは、彼が本を逆さまにして読んでいたからです。電車を降りた後、クラスメイトは彼に声をかけて、こう言いました。「さっき本を逆さまに読んでいたろ。読むふりをして、眠っていたんじゃないのか」。すると彼はこう答えました。「ああ、さかさまだったよ。でもそれが僕の国では当たり前なんだ」。彼の国は度重なる内戦で荒れ果て、子どもたちは教科書さえも配られない。そこで教師は、一冊の教科書を地べたに置いて、それを取り囲むように子どもたちが座り、授業を続けて来た。だから本を逆さまに読むなんて当たり前だったんだ、と。その話を聞いた日本人学生は、赤面して彼に謝ったそうです。
日本のように教科書、いまはタブレットでしょうか、子どもたち全員にそれが行き渡る国であれば、逆さまに本を読むなんてあり得ない。それが常識です。しかし貧しい国では、その常識が逆転します。信仰の世界でも同じです。神を知らない人々の常識は、神の国で生きる人々にとっては非常識、ということも決して珍しくありません。屋根をぶち抜いて、イエス様に直してもらうなんて、非常識だ。人々はそう考えました。しかし常識の向こう側に行かなければ、常識を越えた神の恵みに出会うことはできません。屋根をべりべりと剥がして布団ごとつり下げるなんて、明らかに非常識です。常識を越えています。しかし本当に大切なもの、本当に必要なものは常識の向こう側にあるのです。キリスト教は外国の宗教だとか、救いを必要としているのは一部の人間だけだとかいう、この国の常識を乗り越えて、本当の救いを受け取ってほしいと願ってやみません。
この中風の人は、すべての人間の姿です。私はとりあえず健康だから関係ない、ではありません。私たちは、あらゆる人間が罪という病に冒されています。それは生まれたときすでに背負っている病であり、あるひとつの方法以外には、決していやされることはありません。そのたったひとつの方法とは、イエス・キリストを救い主として信じることです。そうすれば罪のさばきから解放され、私たちは本当の意味で立ち上がることができます。
しかし聞いたことのない方を信じることなどできません。出会ったことのない方を信頼することなどできません。だからこそ、私たちはどんな方法であっても、人々に教会に来ていただきたいのです。そして私たちからキリストの香りをかいでほしい。キリストを信じた者がどれほど喜びと希望にあふれて歩むことができるのかを知ってほしい。それができるのは人間ではなく、ただ神だけです。「子よ、あなたの罪は赦された」と優しく呼びかけてくださるイエス・キリストだけです。どうか、この方を信じることができますように。そして私たちクリスチャンがことばや、対応する姿勢を通してキリストを証ししていくことができますように。
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