聖書箇所 第二コリント5章14〜21節
14というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。15キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。16ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。17ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。18これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。19すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。20こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。21神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。2017 新日本聖書刊行会
今日8月6日は、広島に原爆が落とされた日、そして三日後の9日は長崎にもそれよりやや小さい原爆が落とされました。小さいといってもそれは爆弾のサイズの話であって、二つの原爆が与えたものは数え切れないほどの悲しみでありました。直接の死亡者は広島が14万人、長崎が7万4千人という記録が残っていますが、原爆が落とされてから78年のあいだに、父や母、祖父母、あるいは遠い親戚に原爆を経験した人がいるというだけで、学校や職場、地域で偏見の目にさらされてきたという人々を含めれば、いったいどれくらいになるのでしょうか。
いま、アメリカで「オッペンハイマー」という映画が公開されています。「オッペンハイマー」は原爆開発の指揮をとった科学者の名前で、「原爆の父」とも呼ばれています。この映画は日本ではまだ未公開ですが、二つの原爆が入った木箱が研究所から運び出される様子を見て、科学者たちはこれが実際に落とされるのではないかと不安になるという描写があるそうです。しかし、原爆を作っていながらこれが実際に都市や人間に対して落とされることはないだろう、なんて科学者が考えていた、ということは実際にはあり得ないでしょう。
戦争は、政治家であろうと軍人であろうと、科学者であろうと民衆であろうと、それに関わる、あらゆる人間を狂わせます。オッペンハイマーは平和主義の人格者としても知られている人ですが、その彼が、なぜ原爆の父と呼ばれるほどまでに、この開発に深く関わっていったのか。そこにある、どんな高潔な人間の心の中にも、罪と闇があるという事実を映画に求めることは酷ですが、少なくとも聖書はそれをはっきりと語っています。そして私たちもまた、自分の中であぐらをかいてのさばっている罪の存在を認め、キリストだけに頼る者
となったことを改めて覚えていきたいと思います。
14節の後半でパウロはこう語っています。「一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と」。「一人の人」とはイエス・キリストのことです。すべての人をお作りになった神ご自身であるイエスが、十字架の上で自分の命を捨てた、それはすべての人が死ぬためであった、とパウロは言います。「死」というのは悪い印象しかありませんが、ここには、解放としての死が語られています。つまり、私たちすべての人間は、キリストの死によって、この世界に対して死に、この世界から解放されたのです。死んだ者は自分の評価を気にしません。死んだ者はもはや欲望を満足させることに執着を燃やすことはありません。しかしそれにもかかわらず、キリストが死なれた後、二千年間、いまだに人は自分の欲望に生き、自分がいかに評価されるかに執着します。それは、自分がすでに死んでいることがわかっていないからです。どれだけ手に入れても終わりのない世界。フルカラーの世界のようで、実はまったく色のない世界でしかないことに気づかないまま、人々はいまもその場限りの欲望や評価を追いかけています。しかし、その中で、異色な人々がいます。クリスチャンです。キリストが私のために死に、私もこの世界に対して死んだ、だからこそキリストのために、キリストのためだけに生きる。それが私たちです。
ですが口で言うのは簡単、実際にはそうは生きていない私たちがいます。16節でパウロはこうも語っています。「ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません」。「肉に従って人を知る」という言葉の意味は、「目に見えるもので判断する」ということであり、私たちがかつて身を置いていた、この世のやり方です。キリストを信じたときに、そこから解放されて、私たちはうわべで人を見る生き方からも解放されたはずでした。しかしパウロはさらにこう言います。「かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても」と。
キリストに対して、いまもこの世の栄光を求める人々がいます。それがかつてのコリント教会であり、あるいはパウロ自身でさえそうであったのかもしれません。しかしこの世に対して死んだ者であるクリスチャンが、いまだに世の人々が憧れるような富や権力、信者の数を求めることは愚かではないか。しかしかつてはそのように見ていたとしても、もうそのような見方はしない。いや、できない。なぜならば、キリストのうちにある者は、常に新しく生まれ変わっているからだ。私たちを縛っていたものは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなったのだ、と。
今日の聖書箇所の後半では、何度も「和解」という言葉が出て来ます。しかしすべての和解の出発点は、まず私がイエス・キリストによって新しく生まれ変わることにあります。多くの人が、多くの国が、和解を求めています。しかし自分は変わらないままで、他人を変え、世界を変えることはできません。
ある児童養護施設の職員が、ある男子から「どうして人を殺してはいけないのか」と質問されたそうです。彼は、父親に虐待されて育ち、その父親は、人を殺したあげくに自殺したという人であり、彼は言葉一つにしても大変配慮を必要とする少年でした。「人を殺したらいけないのは当たり前」は、それが当たり前ではない家庭に育ったこの子には通用しません。人を殺したら、その人も、家族も周りの人もみんなが苦しむよねと語っても、その子自身が希薄な家族関係の中で生きてきたので、それもわからない。しかしその時にベテランの先輩がこう答えました。「○○君はリンリンとランランを殺せる?」。パンダの名前みたいですが、それはこの子がいきものがかりとして世話をしていたアゲハチョウの幼虫二匹でした。「殺せるわけがない」と彼が答えたとき、虫でさえそうであれば、ましてや人を殺すことはできないということが肌感覚としてわかってもらえたようだ、というお話でした。
しかし彼がその幼虫を飼うという関わりがなければ、通じなかったかもしれません。関わり。「交わり」と言い替えることもできますが、それがいかに大切なことなのかを思います。和解とは、自分と相手との関わりが変わることです。しかし私たちは自分の中に罪があるがゆえに、自分を変えること、相手を変えること、関わりを変えていくこともできません。だからこそ、まず神のほうから和解の手を差し出してくださいました。この神に自分自身をゆだねることで、神が私を変え、この世界との関わりを変えてくださいます。
しかし、すでにこの世界に対して死んでいるはずの人間は、それを知らず、そして死んでいるにもかかわらず、両手にあまりにも多くのものを抱えすぎているがために、和解のための右手を差し出すことができないのです。抱えているものは、人によってまちまちです。家族、仕事、誇り、経済的不安、人間関係、しかし抱えているものが何かは、大した問題ではありません。大事なことは、和解のために抱えているものを一旦捨てるということです。捨てる、というよりは神の御手にゆだねることです。和解、つまり関係を変えるという道は、決して歩きやすい安全な道ではありません。自分の足で一歩一歩踏みしめながら、何度も蹴躓きながら歩んでいくしかない道です。しかし決してひとりぼっちの道ではありません。常に神が共におられ、そして疲れ果てた私たちを神が背負って歩んでくださる、そういう道です。そして私たちひとり一人は、和解をもたらす全権大使として、今までも、これからも、この場所にあって生かされている者たちです。神との和解、人との和解、それが今与えられている交わりの中から生まれていくことをおぼえながら、今週もお互いに祈り合っていきましょう。
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