聖書箇所 第二コリント4章1〜10節
1こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。2かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。3それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。4彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。5私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。6「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。7私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。8私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。9迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。10私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。2017 新日本聖書刊行会
毎日暑い日々が続き、何もしたくないと考えてしまうのは私だけでしょうか。そんなとき、ヘンデルの『メサイア』を聞きます。教会では、最後の部分だけがハレルヤコーラスとして知られていますが、メサイア全曲は、約二時間半に及ぶ大作です。聞くだけでも一苦労ですが、ヘンデルはこのメサイアを、ちょうどこの時期、8月22日から9月14日までのわずか24日間で書き上げたといいます。その間、食事も睡眠もほとんどとらなかったそうです。神が信仰者を用いて、大きな仕事をなさるとき、確かに神はその人にそれを遂行するのに必要な力も与えてくださいます。パウロは自分自身を振り返ってこう言いました。1節、「こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません」。パウロとヘンデル、そして幾多の偉大な仕事を成し遂げた信仰者の人々に共通しているのは、「あわれみを受けた」というへりくだりです。人は大きな仕事を与えられたときに気分が高まりますが、高まりだけでは続きません。しかし自分を救い出してくれた愛のためになら、どんな努力を傾けても惜しくはない。神の愛にはそのような力があります。
さらにパウロの2節の言葉に注目しましょう。「かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで」と、しつこいくらいに言葉を重ねています。これは、パウロが実際、このようないわれのない批判を受けていたことを表しています。コリント教会の中には、パウロの教えに反対していた敵対者、偽教師たちがいました。彼らは、パウロが隠れた手段を用いて、悪巧みによって我を通し、福音のメッセージを勝手に曲げた、と言って彼を非難したのです。神のために働こうとするとき、悪魔による妨害も働きます。そして悪魔は、外側から無関係な人を使って攻撃するよりも、内側から家族や友人を使って攻撃することを好みます。
しかし、私たち自身の動機が誤解され、行動が悪く取られ、言葉が曲げられて解釈されるときでも、決してあきらめてはいけません。福音を伝えるということは、パウロのような熟練した使徒でさえ、困難な仕事でした。私たちは伝道と聞くと、どうしても特別伝道集会を想像してしまうようです。ある教会で牧師が信徒に講壇から「伝道しましょう」と呼びかけたら、説教後に「じゃあ特伝を計画しましょう」という声がさっそく挙がったそうです。しかし「特別伝道」とあるように、それは特別なのです。伝道イコール特伝ではなく、伝道というのは決して派手ではないが、信徒自身が毎日の信仰生活の中で少しずつ、はっきりした成果は見えない中で、それでも語り続けていることが伝道であって、特別伝道集会とは、その刈り取りをするためのものでしかありません。パウロでさえ、「一人でも二人でも救うためなのです」と別のところで語ったほどに、伝道は地道な働きでした。リバイバルさえ始まれば、何千人も面白いように救われていく、といったものでは決してなく、福音宣教は困難な仕事です。なぜここまで困難なのか。それは、この時代を支配しているサタンが、人々の心に覆いをかけて、暗闇の中に閉じ込めてしまっているからだ、と聖書は言います。信じた者たちは、神のかたちであるキリストに似た者にされるのですが、その証しの光さえも届かないほどに、滅びに至る人々の心はサタンによって覆われてしまっているのだ、と。しかしそれでもなお、私たちには、語り続けることしかできません。誰が救いに定められていて、誰が滅びに至るのかということには、私たちにはわかりません。見かけや言動で判断することもできません。そうであれば、乱暴な表現に聞こえるかもしれませんが、手当たり次第に語り続けるしかないのです。しかし下手な鉄砲数打ちゃ当たるとは少し違います。伝道に力を与えるのは、祈り、そして感謝です。
私たちが福音を伝える人々は、かつての私たち自身です。福音の力を知らず、キリストを救い主と知らず、何も知らないのに拒み続けていた私たちのかつての姿です。しかし神は、私たちをあわれみ、キリストの十字架への信仰を通して、私たちは闇から光へと変えてくださいました。それを実際に経験した私たちしか、このイエス・キリストを語ることはできません。逆に言えば、イエス・キリストによって私たちが救われたことを、だれかによって教えてもらったことを経験している私たちだからこそ、今度は自分がだれかに伝えることで、神の恵みがさらに広がっていくことを知っているのです。
「土の器」という言葉に初めて出会ったのは高校生の時ですが、松本清張の「砂の器」を思い出しました。その小説の中で暴かれる連続殺人事件の犯人は、ようやくつかんだ幸せを守るために、彼は過去を知る人々を殺してしまうのですが、「砂の器」とは、どんなに幸せを詰め込んでいってもぼろぼろ崩れていく、そのような彼の人生を象徴しています。パウロが語る「土の器」も、砂の器に比べてことさらに頑丈なわけではありません。小さな衝撃で壊れてしまうようなものにすぎません。それは私たち人間としての弱さそのものを表しています。弱さ、というよりは、無価値、と言ってもよいでしょう。しかしもし私たち自身が無価値であろうとも、私たちの中にイエスという宝があるならば、無価値の者が、他のどんなものよりも価値のある者となるのです。いつでも、かんたんに、こわれてしまうのが人間です。しかし私たちクリスチャンはこう告白することができます。弱さはわれわれのもの、しかし栄光は神のもの。私たちはまったく神に依存しているからこそ、弱いようで強い。苦しみに囲まれていても、絶望することはない。人々にどんなに迫害されても、神に見捨てられるようなことは決してない。途方に暮れても、決して希望を失わない、と。
ある若い牧師が、教会で中傷を受け、牧会から退こうと考えたことがありました。それを聞いた一人の老牧師が彼にこう言ったそうです。「みことばを語ることをあきらめてはいけない。天の御座の周りにいる御使いでさえ嫉妬せずにはいられないような、特別な仕事をあなたはゆだねられているのだから」と。それは牧師から牧師に語られた言葉ですが、信徒もまた同様です。福音を伝えるという、教会に与えられた仕事は、御使いでさえねたむほどに尊い働きであり、私たちはそれをあきらめてはいけない。あきらめそうになるとき、私たちに与えられたあわれみを思い出しましょう。闇が光の中から現れよ、という言葉で世界を造られた神が、再びその光をもって、私たちの心を闇から光へと変えてくださった、その救いの恵みを思いだし、かみしめるときに、どんな霊的攻撃があっても、立ち続けることができます。私たちに与えられている尊い使命に踏みとどまりましょう。そして語り続けていきましょう。
最近の記事
(04/20)重要なお知らせ
(09/23)2023.9.17「家族を顧みない信仰者」(創世19:1-8,30-38)
(09/17)2023.9.17主日礼拝のライブ中継
(09/15)2023.9.10「安息日は喜びの日」(マルコ2:23-3:6)
(09/08)2023.9.3「私たちはキリストの花嫁」(マルコ2:18-22)
(09/23)2023.9.17「家族を顧みない信仰者」(創世19:1-8,30-38)
(09/17)2023.9.17主日礼拝のライブ中継
(09/15)2023.9.10「安息日は喜びの日」(マルコ2:23-3:6)
(09/08)2023.9.3「私たちはキリストの花嫁」(マルコ2:18-22)
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/190523529
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック
http://blog.sakura.ne.jp/tb/190523529
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック