聖書箇所 第二コリント4章11〜18節
11私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。12こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。13「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。14主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。15すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。16ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。17私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。18私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。2017 新日本聖書刊行会
ここから大きい道路に出て、北にまっすぐ行くと、敬和学園高校に着きます。敬和学園高校は、今年で創立55周年を迎えます。25年前の創立30周年の時に、たいへん美しいチャペルができました。私は敬和学園高校の21回生ですから、当然このチャペルはまだできておらず、毎朝の礼拝は体育館で行っていました。確か8時半くらいから礼拝が始まるはずですが、バレー部がぎりぎりまで朝練をやっているのです。5分前くらいになってようやくやめて、のろのろとボールやネットを片付け始めると、私たち普通の学生ものろのろと集まってきて、自分の場所に座っていくという感じでした。当時の敬和学園の入学パンフレットには、在校生の言葉として「礼拝の時間は神様の前に心が洗われます」なんてコメントが書かれていたのですが、嘘つけと思いながら読んでいました。礼拝はギリギリに始まるわ、始まってもうるさいわ、礼拝の間、柔道部の顧問の先生が、柔道部のくせになぜか剣道の竹刀を持って列の間を巡回しているわ、そんな美しい礼拝ではありませんでした。体育館ですし。
ただ、体育館のステージの上の方に大きな垂れ幕が張ってあり、そこに聖書の言葉が大きく書かれていたことは今でもよく覚えています。それが今日の18節のみことばでした。「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」。当時は何のことを言っているのかよくわからなかったのですが、いま振り返ってみると、あのうるさかった礼拝の中にさえ、目には見えないが生きておられるイエス様がおられた、という意味で、もっともふさわしいみことばであったのかもしれません。
「見えるもの」そして「見えないもの」とは何でしょうか。パウロは、その直前の17節で、それぞれを別の言葉を使って表しています。見えるもの、それは「私たちの一時の軽い苦難」、そして見えないもの、それは「それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光」なのだと。イエス以後に現れたクリスチャンの中で、パウロほど苦しみ抜いた人はいなかったはずです。しかし彼は自分が経験した苦難を「一時の軽い苦難」とあっさりと言ってのけます。それは、私たちが地上で経験することは、それがたとえどんなに重い苦しみであったとしても、天に私たちに用意されている永遠の栄光に比べたら、それは軽い、圧倒的に軽いからです。
高校生の頃、数学の中に無限大という概念を学び、感動したことがあります。何に感動したかというと、無限大という概念のもとで、それまで知っている数を学び直してみたときに、1も百億も違いがない、ということです。わかりやすくするために、あえて1と100億という数字を出しましたが、プラスであろうがマイナスであろうが、どんな数字も、この無限大という概念に照らしてみたとき、どれもどんぐりの背比べ、ほとんど違いがないものになります。私たちが、やがて天に待ち受けている無限大の栄光が用意されていることを思うとき、この地上の戦いがどれほど激しいものであろうとも、それはやがて過ぎゆく一時的な、軽い苦難でしかないのです。
今から二千年近く前、ローマ帝国に捕らえられて火あぶりの刑に処せられたクリスチャンの名前を使った、こんな詩が残っています。私は生まれつき病弱の、貧しく卑しい奴隷であった。すべての苦しみ、憎しみ、ありとあらゆる地上でのことは、天の栄光のうちに忘れられる、それはさびしいことでしょうか。地上で私の名がどんなに残されたとしても、それはいつかは朽ち果てていく。しかしそんなことは、まるでどうでもよいことと思えるほどの、はかりしれない永遠のいのち、永遠の光、永遠の神のもとに安らぐ希望。それが私たちに用意されているのです。
しかしキリストに見いだされ、私は奴隷から、神の王子となった。
皇帝に捕らえられ、獣の皮をかぶせられ、火にかけられたとき、御手が火の中から頭上に現れ、私は天に引き上げられた。
そしてふと地上を見下ろすと、兄弟セルギウスが、私の亡骸のそばで、私が地上でどのように戦い抜いたか、壁に証しを書いていた。
しかし、私自身は、すべてを忘れてしまった。
私たちクリスチャンにとって、苦しみそのものが何か価値があるわけではありません。しかしその苦しみが、イエスのためであるときに、それは一切無駄なものはなく、意味を持ちます。パウロは、まさに死を覚悟するほどの苦しみを経験し続けてきました。コリントの教会から拒絶され続けていた数年間は、彼らの産みの親とも言うべき彼にとって、まさに死と等しいような毎日だったことでしょう。しかしコリントの教会が、イエスにふさわしい者として生まれ変わるために、その苦しみの一切は決して無益ではありませんでした。だから彼はこう告白します。12節をご覧ください。「こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いている」と。
パウロがあらゆる困難に耐えることができたのは、それが無駄にならないこと、それが人々をキリストのもとに導くものであることを知っていたからです。自分の身に起こっていることは、文字通りキリストのために起こっているのだ、という確信を持つとき、私たちはどんなことにも立ち向かうことができるし、どんなことにも耐えることができます。この地上で私たちが求めることは、自分自身が楽に生きられることよりも、神の栄光が現れることなのだ、と。15節でパウロは言います。「すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです」。
私たちの人生のあらゆる苦痛も、他の人々の中に感謝が生まれ、神の栄光が現れるようになるために用いられるとしたら、それはまさに宝を生み出すものとなります。昔、豚小屋の管理人をしている老人がいました。ある人が、来る日も来る日も同じように豚小屋の汚物を処理しているその老人の仕事に同情して、「大変ですねえ、仕事がいやになることはないんですか」と聞いたそうです。するとその老人はこう答えました。「ちゃんとした見通しを持っていれば、仕事がいやになることはねえですだ」。
目に見えないものに目を注ぎ続ける、というクリスチャンの生き方は、それと似ています。決して目に見えるものから目をそむけるような生活ではない。やがては朽ち果てていくような、人生の汚物に対しても、責任をもって生きていく。しかしそこで自分を失うことなく生きていけるのは、目に見えないものを、内住の聖霊の目を通して見ているからです。私たちには、光が与えられています。キリストを知らない人々には、決して見えないが、私たちには見えるその光、それは神が天に永遠に続く喜びを用意して下さっているということです。いま、苦しみの中にある方は、イエス様がやがて私たちを迎えにきてくださり、私たちをその永遠の栄光の中に導いて下さることをかみしめましょう。このイエス・キリストを見上げながら歩んでいくとき、地上でのどんな苦難に対しても、私たちは耐え忍ぶことができるのです。その約束を一人ひとりが心に刻みつけて、これからの一週間に向かいましょう。
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