聖書箇所 マルコ2章18〜22節
18さて、ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは、断食をしていた。そこで、人々はイエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか。」19イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、断食できるでしょうか。花婿が一緒にいる間は、断食できないのです。20しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。その日には断食をします。21だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんなことをすれば、継ぎ切れが衣を、新しいものが古いものを引き裂き、破れはもっとひどくなります。22まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」2017 新日本聖書刊行会
「クリスチャンの信仰を一言でいうと」と問われたら、どう答えるでしょうか。色々な言葉が思い浮かびますが、「喜び」と答えます。クリスチャンにとって、この答えは決してそんなにビックリするようなことではないでしょう。しかし世の人々は驚くかもしれません。なぜなら、「信仰」という言葉に対して、多くの人々は、厳しい戒律や修行をイメージしているからです。
ヨハネの弟子や、パリサイ人が追い求めていた生活も、そんな生き方でした。自分の欲望を捨て、体を打ちたたいて、感情を押し殺し、断食や祈りを重ねていく生活です。しかしその熱心さと引き換えに、彼らは神の子どもとして最も大切なものを失ってしまったのです。それが「喜び」です。神を喜び、罪人が救われることを喜び、神の与えてくださったすべてを喜んで受け取る。しかし彼らは逆の道を歩みました。さも自分は頑張っていますという顔をして、自分は神に一生懸命従っているんだぞ、と、神よりも周りの人々の目を気にする。そこには、決して喜びはありません。喜びがなければ心は渇きます。その心の渇きを満たすために、彼らは、人からほめられることをいつのまにか求めるようになりました。
人々の目の前で断食や、重々しい祈りをすることで彼らは人々から認められようとしていました。そんな彼らをいつも見ていた人々もまた、信仰とは、宗教とはそういうものなのだ、断食を一生懸命することで神に喜ばれるのだ、という考えに影響されていました。そして人々はイエス様のもとにきてこう質問しました。18節をご覧ください。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか。」
断食そのものは悪ではありません。しかしそれが人に見せることが目的となり、さらに人に強制するものになってしまったら、それは間違いです。イエス様は人々にこう答えました。19節をご覧ください。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、断食できるでしょうか。花婿が一緒にいる間は、断食できないのです」。「花婿」とはイエス様、花婿に付き添う友人たちとは、弟子たちです。彼らは、イエス様と共にいることができるのを喜んでいました。イエス様も、やがては十字架の苦しみが待っていることをおぼえながらも、今は弟子たちと共に時間を過ごすことができるのを喜んでいました。そこには、ただ喜びがあります。人に断食を見せなければ保てないような、ゆがんだ信仰生活ではありません。しかしここでイエス様はこうも言われました。20節をご覧ください。「しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。その日には断食をします」。今がその時なのでしょうか。私たちは花婿たるイエス様が取り去られた者として、断食すべき時なのでしょうか。
いいえ、「断食をする日」は、十字架にかかられた主がよみがえられるまでの三日間だけです。今、確かに主はよみがえられて、私たちと共におられます。私たちは喜びましょう。クリスチャンにとって、毎日が披露宴の連続です。誰の結婚披露宴でしょうか。花婿であるイエス様と、花嫁である教会の披露宴です。私たちクリスチャンは、キリストの花嫁です。イエス様は今は私たちの心の中に生きておられるお方ですが、やがて御使いと共に栄光に包まれて、この地上に降りてこられます。そして私たち花嫁は天へと引き上げられ、永遠にイエスと共に喜びの中に過ごします。今はこの地上では辛いことや不安なこともあるでしょう。しかしその時には、何の曇りもない、永遠の喜びの中に生きることが約束されています。
今日、多くの人々が、様々な問題を抱えて教会に相談に来られます。ある人は家族や職場での人間関係に疲れて。ある人は経済的に困窮して。またある人は、病気のいやしを求めて。イエス様はそのすべてに解決を与えてくださいます。しかし誤解しないでいただきたいのは、そういった問題に対して一つずつ解決を与えていくような御利益宗教の主(ぬし)がイエス様ではないということです。こういったトラブルの根源は、人の心の中にあります。イエス様はその一個一個をピンポイントでつぶしていくのではなく、すべてをまとめて解決してくださいます。神を神として認めようとしないことを聖書では罪と呼んでいます。人がその罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主として受け入れるとき、私たちの罪は赦され、神の愛が私たちの心の中に注がれます。そして、私たちの生活にどんな問題が起きても、それらは決して私を神様の恵みから引き離すものにはならないのだと気づかされるのです。
ある教会でのエピソードを紹介しましょう。子どもの引きこもりを相談しに、一人の婦人が教会を訪問しました。しかし牧師の具体的な助言は「来週から礼拝に出席することを勧めます」だけでした。わらをもすがる思いで来たのに、と失望しましたが、それでもその言葉に従って、通い続けました。しかしあるときの礼拝説教を通して、彼女は自分の理想を子どもに押しつけ、夫に責任を転嫁していたということを示されました。子どものためと言いながら、自分の忠実なコピーを作って、自分をこの世に残し続けようとしていたことにも気づかされたのです。しかし永遠のいのちをイエス様が与えてくださった今、そのような必要はまったくないのだということがわかりました。そして家族との関係も少しずつ変わっていったのです。
このお母さんをはじめ、多くの人が、自分自身という古い革袋を変えようとしないまま、今の生活を何とかしてほしいと願っています。しかしキリストが与える人生の解決は、新しいぶどう酒です。それは、今もぐつぐつ発酵を続けているぶどう酒であり、今までの私という古い革袋に入れてしまうと、破裂してしまいます。この世のしがらみ、この世の価値観、この世の生き方、それをいつまでも捨てずに折り合いをつけようとしている生き方では、イエス・キリストを受け入れたところで必ず破裂します。人生を変えたいと思うなら、自分自身を新しい革袋にしなければなりません。古いものは愛着があり、捨てることに勇気がいります。しかし昨日までの自分、いや、さっきまでの自分と決別し、キリストにふさわしい花嫁として生きていきたいと願うもの、新しいぶどう酒にふさわしい新しい革袋を与えられて生きていきたいと願うもの、そのような人は、人生のどんな悪い状況の中でも、神が次に何をしてくださるのだろうかということを期待する、喜びに満ちた人生を歩むことができます。
イエス様の声を聞いてください。わが愛しき花嫁よ。古きぶどう酒から手を離せ。捨てよ。むしろ新しき御国の祝宴に酔いたまえ、と。今、私たちは毎日このイエスと共に、新しき時代の、御国の祝宴にあずかっています。それが新しいぶどう酒です。新しいぶどう酒は、新しい革袋に。新しい生き方に。新しい人に。永遠のいのちを受けるために、古い生き方を捨て、新しい生き方を手に入れる。そして新しいものはすぐに古くなります。クリスチャン生活も、変化を恐れているならば、自分自身という袋はパンパンになり、神様が新しいぶどう酒を注ぎたくても注げないということが起こります。だから私たちは、失うこと、変わることを恐れてはいけません。何かを失っても、神様はそれ以上のものを与えてくださるのですから。
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