聖書箇所 『マルコの福音書』2章23〜3章6節
23ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときのことである。弟子たちは、道を進みながら穂を摘み始めた。24すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか。」25イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが食べ物がなくて空腹になったとき、ダビデが何をしたか、読んだことがないのですか。26大祭司エブヤタルのころ、どのようにして、ダビデが神の家に入り、祭司以外の人が食べてはならない臨在のパンを食べて、一緒にいた人たちにも与えたか、読んだことがないのですか。」27そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。28ですから、人の子は安息日にも主です。」
1イエスは再び会堂に入られた。そこに片手の萎えた人がいた。2人々は、イエスがこの人を安息日に治すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。3イエスは、片手の萎えたその人に言われた。「真ん中に立ちなさい。」4それから彼らに言われた。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」彼らは黙っていた。5イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった。6パリサイ人たちは出て行ってすぐに、ヘロデ党の者たちと一緒に、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。2017 新日本聖書刊行会
牧師になるための養成機関を、神の学校と書いて神学校と言います。私は千葉県にある神学校で三年間学び、この豊栄に赴任してきましたが、その神学校は、同じ敷地にある系列校を含めると、年齢も国籍も異なる、約二百名の学生が集っていました。そしてその全員が、日曜日になると、神学生としてそれぞれの教会で奉仕していました。一人の後輩女子が、当時、私が奉仕していた教会の週報がほしいと言うので、あげました。週報を集めると何かもらえるキャンペーンでも学校が始めたのかと聞くと、さにあらず、趣味で集めているとのこと。約四百教会の週報を集めたという彼女が言うには、週報にも個性があるそうです。たとえば週報に必ずショートメッセージが入っている、トラクト型。集会予定や牧師の一週間の予定まで丹念に書かれている掲示板型。そして結構多いのが、表紙に「礼拝厳守」と毎回必ず書かれている看板型。今の豊栄教会の週報を彼女が見たら、何型と言うでしょうか。
当教会では週報に「礼拝厳守」と書くことはしていませんが、礼拝が信仰生活の基本であることは意識しています。しかし礼拝は「守らなければならない」という義務ではなく、恵みと献身の証しとして、自発的なものであってほしいと願います。神さまは、「安息日を聖とせよ」と命じられました。旧約時代は、安息日は土曜日でしたが、キリスト教会では安息日をイエス様がよみがえられた日曜日としています。神が安息日を聖とせよと命じられたのは、天地創造の一週間の最後の七日目に、神に造られたすべてのものが、自分たちを作ってくださった神のみわざに感謝し、その栄光をほめたたえる日だからです。クリスチャンは一週間の最後の日ではなく最初の日を安息日としていますが、喜びをもって礼拝をささげることに関しては、決して違いはありません。
安息日は、神が用意された、恵みの日です。それは、神に作られた、あらゆる被造物がこの日、感謝をもって神に礼拝をささげる日です。神は、この礼拝を通して私たちのたましいを休ませ、喜びにあずからせるために「安息日に仕事をしてはならない」と定め、特別の日とされました。しかしパリサイ人や律法学者たち、イエスの時代の宗教指導者たちは、この安息日の決まりを自分たちの宗教的権威を高めるために利用しました。具体的に言うと、安息日にしてはならないことを勝手に作り出し、人々を縛りました。貧しい人々が、他人の麦畑で落ちている穂を拾うことは認められていましたが、安息日にそれを行えば罪であるとされました。安息日に瀕死の病人を助けることは認められましたが、急を要しない病人をいやすことは禁じられました。そしてこのときも、パリサイ人たちはイエスの弟子たちが麦の穂を摘んで食べようとしていたことを見て、批判しました。しかしイエス様はそこではダビデが行ったことを引用し、「安息日は人間のために作られたのだ」と宣言されたのです。
安息日は、あれをしてはいけない、これをしてはいけないと人を縛るための日ではない。安息日は、神を喜び、神を礼拝し、感謝をささげるための日である。それを教えるために、イエス様は会堂に入りました。しかしそこで起こったことを通して、礼拝とは何かがもう一度明らかにされます。礼拝は喜びをもって神をほめたたえ、神のことばに聞きます。しかしそれだけではありません。聞いた神のことばは、私たちの実際の行動を通して実を結んでいくのです。イエス様の前に、片手のなえた人がいました。パリサイ人たちは彼を無視しました。しかし真の礼拝は、苦しむ人々に寄り添うことへと進ませます。もしイエス様が彼をいやせば、批判されます。しかし主は彼の苦しみ、痛みを無視することなどできませんでした。その手をとり、いやされたのです。
パリサイ人たちはイエスを訴えるために、この有様をじっと見ていました。彼らは礼拝に出席してはいましたが、その心の中はイエス様を批判し、訴えることで支配されていました。そんな礼拝は、喜びなど一切ない、ただの苦痛でしかありません。しかし彼らはそのことにさえ気づかなかったのです。もちろん私たちは、そんな礼拝をささげてはいないでしょう。しかしあえて申しましょう。私たちもまた礼拝を、神に感謝する場所から、人をさばく場所へと変えてしまう可能性はゼロではないのです。自分の心の中にあるわだかまりを下におろし、ただ主のみことばに聞く。そこに聖霊が働き、私たちの心を砕いてくださるのです。自分が赦されていることを実感し、人々から受けた悪を私たちも赦し、和解を与えてくださる神をほめたたえる、それが礼拝であり、神が願っておられる安息日でもあります。私たちが、人として互いに赦し合い、お互いを喜び合う幸せをいただくために、安息日はつくられたのです。
私たちは、礼拝の中で語られる言葉に、自分は無理だ、自分は従えない、と考えてしまうことがあります。それは、この片手のなえた人にとってもそうだったのではないでしょうか。片手がなえている人に対して、「手を伸ばしなさい」というのは理不尽な命令に聞こえます。しかし彼が、ただその言葉に従ったとき、奇跡が起こりました。聖書は言います。「彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった」。礼拝は、みことばに従う場でもあります。そしてみことばに従うとき、その人にはいやしがあり、救いがあります。私たちの手はなえてはいないかもしれません。しかし心は、ふとしたことで簡単になえてしまうものです。ですから心を主の前に差し出しましょう。人をさばき、自分を誇り、人々のいのちに無関心の、なえた心を差し出しましょう。私たちがそれを主の前に差し出すならば、安息日にふさわしい神への賛美と喜びが与えられるのです。
しかし私たちは、悲しい現実も見なければなりません。パリサイ人たちは礼拝から出て行くとすぐに、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた、とあります。礼拝の場で、この片手の萎えた人は人生が変わりましたが、パリサイ人たちは依然として憎しみの中に留まり続けました。それは神の前に自分の醜い姿、弱い姿を認めなかったからです。私たちはそこに倣ってはいけません。あなたを愛し、十字架の上で身代わりとなって死んでくださったイエス様の愛を、この礼拝の場でかみしめましょう。安息日は私たちのために用意された幸いな日です。その恵みを存分に受け取って、新しい一週間へと踏み出しましょう。
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