聖書箇所 『ルカの福音書』7章1-10節
1イエスは、耳を傾けている人々にこれらのことばをすべて話し終えると、カペナウムに入られた。2時に、ある百人隊長に重んじられていた一人のしもべが、病気で死にかけていた。3百人隊長はイエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、自分のしもべを助けに来てくださいとお願いした。4イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。5私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました。」6そこで、イエスは彼らと一緒に行かれた。ところが、百人隊長の家からあまり遠くないところまで来たとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスにこう伝えた。「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。7ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。8と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」9イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」10使いに送られた人たちが家に戻ると、そのしもべは良くなっていた。2017 新日本聖書刊行会
今日の聖書箇所は、マタイの福音書にも同じ物語が記録されていますが、詳しく見てみると微妙に異なっていることに気づきます。そこでは、長老たちではなくて百人隊長自身がイエス様のもとにやってきます。自分のしもべを直してください、しかしおいで下さる必要はありません、あなたのおことばだけをください、と言うのです。しかしこのルカの福音書では、百人隊長は自分ではなく長老たちを通してイエス様に来て下さるようにお願いし、そして実際にイエス様が来られると、来ていただく必要はありません、おことばだけをください、と言います。つまり、マタイの福音書ではこの百人隊長のしたことのエッセンス、大事な部分だけが強調されているのに対し、ルカの福音書ではその背後で省略されていることもすべて記録しています。それは、イエス様が驚くほどの、みことばの権威を全面的に信じる信仰を彼は持っていた、しかしその信仰もはじめからそうだったわけではなく、揺らぎがあったということです。
「しもべ」が人ではなく道具とみなされていた当時、この百人隊長はまぎれもなく、愛の人でした。しかしいざユダヤの長老たちに仲介を頼み、イエス様のもとに送り出した後、彼の中には信仰のうずきが起こったのです。自分のしていることは、自分の信仰と合致しているのか。権威の下に生かされているにすぎない者が、最高の権威である、神を動かそうとしていることではないのか、という問いです。確かにユダヤの長老たちを通してお願いすれば、イエス様は来て下さって、しもべは助かるにちがいない。しかしそれは、自分の願いによって神を動かそうとすることだ。権威の下にある者である私は、それを信仰とは呼ばない。信仰とは呼べない。ただ言葉だけで良い。言葉さえいただければ、しもべはいやされる、と。それこそ、イエス様さえも驚かせた、この百人隊長の唯一無比の信仰でした。
自分のしもべを殺させないために、あらゆる手を尽くして、神さまにすがりつく。それもまた信仰でしょう。しかし神さえも驚かせるような信仰ではありません。言うなれば、誰でも容易にとびつく信仰です。すべてを知っておられる神がそれでも驚かれるような信仰などあるのでしょうか。ある。それが、この百人隊長の信仰でした。ただ、おことばをください。それだけが、今の私に必要な唯一のものなのです、と。
数年前、祈祷会の中で、当時、私が関わっていたある教会のために祈って下さいとお願いしたことがありました。何が起こったかということは話すことができない。しかしただ神のみこころがなるように、その教会のために祈ってほしい、と。それはまさに難しい注文というものかもしれません。実際、詳しいことが分からなければ祈れない、具体的なことを教えてくれ、と私に伝えてきた方もおられました。しかし具体的なことがわからなければ祈れない、果たしてそうでしょうか。それはむしろ、具体的な情報を知ることで、神さまにこうしてくれ、と解決方法まで指定する、そのような祈りを生み出します。しかし、神が本当に働かれるとき、そこには必ず、人間の考えや計画を超えたことが起こるのです。なぜそれが起こるかというと、いささかでも人間的な要素が混じっていると、人はそれを自分の努力や功績にしてしまうからです。神は、私たちを高ぶらせないために、私たちの願いをはるかに超えたことを起こして下さいます。ですから私たちに必要なのは、「これをこうしてください」という指示型の祈りではなく、ただ幼子のように現状を訴える祈りです。私にはこれがどうすれば解決されていくのかわかりません。しかしあなたはご存じであり、すでにそれは用意されています。ただみこころだけをなしてください、と。
今日の聖書箇所を改めて読み直してみると、面白いことに気づきます。「ただおことばだけをください」と百人隊長は願いました。その「おことば」とは、「あなたのしもべはいやされた」という権威ある宣言です。しかしイエス様は、それすらも口にしていないのです。イエス様がここで語られていることばは一つだけ、「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません」。そして起こったことは、「使いに送られた人たちが家に戻ると、そのしもべは良くなっていた」という事実です。「あなたのしもべはいやされた」という宣言を百人隊長が求めていたとしたら、それはありませんでした。しかしいやしは確かに起きたのです。ですから今日の箇所が教えていることはこうです。百人隊長の信仰は、当初、ユダヤの長老を通してイエス様を呼びよせるという信仰でした。しかし神は彼の中にうずきを与え、人を通してではなく、ただ神のことばだけに信頼する信仰へと変えました。しかしさらにもう一段階の、信仰の高みが最後に語られています。私たちが願うみことばが語られないとしても、神のなさることは常に私たちにとって最善であるということです。
以前、ある方が「みことばが与えられた」と言われて私に報告してきたことがありました。しかしその与えられたみことばは、神が語ってくださったみことばというよりは、その方の以前からの願いに合致するみことばという面が強いように感じられました。それは独りよがりの信仰を生み出すものになるのです。私たちがこういうみことばを与えてくださいと願うとき、その人は、神が人間の思いを超えて働かれるのに、それを指示、制限しているのかもしれないということに気づくべきです。何でもわたしの名によって願いなさいとイエス様は言われました。しかしそれは自分の願いではなく、神のみこころを求めるものでなければなりません。信仰とは、自分の描いた設計図どおりに神が動いて下さるようにと願うことではありません。私たちの中にまだ神を動かそうとする気力が残っているときは、神は私たちがどうしてこんなことばかりが起こるのかと思うようなことを次から次へと与えて私たちを疲れ果てさせます。しかし疲れ果てて、人間の計画がすべて塞がれたとき、私たちの心にはみことばがこだまします。
そのみことばは、私たちが望んでいたみことばとは異なるかもしれません。しかしみことばには神の権威があります。みことばによって神はすべてのことを動かします。礼拝説教だけではなく、祈祷会、毎日のディボーションや聖書通読など、あらゆることを通して神は私たちにみことばを与えてくださいます。そのみことば一つ一つによって、私たちは神のみこころの中に生かされていることを確信し、「私の願いではなく、あなたのみこころがなりますように」「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と告白します。一人ひとりの歩みが、みことばによって力が与えられて、みこころへと向かっていくものとなりますように。
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