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みやま市長の文書について思うこと(2019.9.13)

 久しぶりの「牧会卓話」のカテゴリーへの投稿である。(このカテゴリーの投稿では、なぜか「で・ある調」になるがご容赦いただきたい)

 本日のヤフーニュースにて、西日本新聞からの配信として、以下のような記事が紹介されていた。

みやま市.png

 福岡県みやま市の松嶋盛人市長が、先祖の悪行は子孫の精神・身体障害、犯罪者の有無などに影響するとする文書を作成し、職員研修で配布していたことが分かった。12日の市議会一般質問で「差別と偏見に基づく表現だ」との批判を受け「そう捉えられるのは残念」と釈明。西日本新聞の取材に対し「道徳教育の大切さを訴えるつもりだったが、思慮が足りず反省している」と話した。識者は「優生思想につながる危険な考えだ」と指摘している。
 文書(A4判1枚)は「人間の『徳』について」と題し、8月26日の研修で講師役の松嶋市長が管理職22人に配布した。
 100年以上前の「アメリカの家系調査報告に残る記録」を挙げ、1720年にニューヨーク州で生まれた「怠惰な無頼漢」の家系は「6代を経る中で約1200人の怠け者、貧窮、精神や肉体を病む者、犯罪者の存在があった」「300人の嬰児(えいじ)が死亡、440人が病的な行為で肉体的に破滅、前科者は130人」などと記した。
 一方、同年代生まれの神学者の子孫は「65人が大学教授や学校長、100人以上が牧師や神学者」などとし、対比した子孫の一覧表も掲載した。これらはある月刊誌から引用し、一覧表は自ら作成したという。
 松嶋市長はこの比較から「一人の人間の『徳』の有無がいかに家族や子孫に大きな影響を及ぼすか」との自らの論考も載せた。取材に対し「差別の意図は全くなかった。『徳』の醸成の大切さを訴えたい一心だった」と話している。
 人権問題に詳しい西南女学院大の新谷恭明教授(教育学)は「成育環境などを無視した昔からある優生思想を基にした研究で、根拠はなく、これを持ち出すのは無知と言える。配布するのは軽率な行為だ」と指摘した。
 松嶋市長は元みやま市立中学校長で現在1期目。
 
(吉田賢治)


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posted by 近 at 00:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 牧会卓話

弱さを隠すために嘘をつく

いつもインターネットばかり見ているわけじゃないが(ホントですよ)、時々息抜きと情報収集のため、ブラウザを開く。
めったに遭遇しない、ある意味タイミングの悪すぎる謝罪広告に出会ったので、スクリーンショットを撮ってみた。

CBIMG001.jpg
「この度、私たちフォルクスワーゲンは、
クルマづくりにおいて最も重要な部分である、“お客様からの信頼”を傷つけてしまいました。
この場を借りて、深くお詫び申し上げます。」
うむ、殊勝な心がけぢゃ。
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posted by 近 at 15:13 | Comment(0) | 牧会卓話

求められるのは知識、識別力、そして愛

 私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。(ピリピ1:9-11)

 「神社に油」事件が世間をにぎわせている。マスコミ、インターネットに氾濫している情報を整理すると、以下のようになるだろう。
・容疑者はアメリカ在住の日本人国籍の52歳医師。
・数年前よりキリスト教系の宗教団体を立ち上げ、国内・国外で活動してきた。信者は約100人。
・神社仏閣を偶像と悪霊の拠点とみなし、「きよめ」のために油(アロマオイル?)を撒いた。
・警察は、容疑者が日本に帰国次第、逮捕する方向を固めている。
マスコミでは実名を伏せているものの、インターネットで「神社に油」と検索すると、団体名、容疑者の氏名、そして写真も容易にヒットする。

 これらの情報から判断するならば、数ヶ月前に私たちの教会を訪問してきた団体で間違いない。
ある日曜の夕方、一人の中年男性(容疑者本人ではない)および二人の若い女性が牧師との面談を求めて、教会を訪れた。
男性は名刺とチラシを取り出し、「今度新潟XXXで聖会を行うので、ぜひ先生に信徒を誘って来てほしい」と言った。

 その時点で、この団体のカルト性を見抜いていたわけではない。ただ、この男性の「証し」に違和感を覚えたのは確かである。
彼は大手企業で管理職として勤め、もともと伝統的プロテスタント教会に所属していたという。
だが「K先生という本当の神の人に出会ってから、聖霊様の本当の満たしを受けて、本当の信仰がわかったのです」。

 「本当の」を何度も繰り返す人は、営業マンであれ、宗教関係者であれ、相手よりも自分を納得させるためにこの言葉を乱用する。
新潟の各教会を訪問すると言うわりには、豊栄の近隣にどんな教会があるのか把握していなかったことも不思議だった。
結局私はその集会を積極的にアピールするつもりにはなれなかった。続きを読む
posted by 近 at 08:54 | Comment(0) | 牧会卓話

11.22長野北部地震と信州宣教区

 11/22の夜10時過ぎ、長野県北部と新潟県上越地方を中心に、震度6の地震が襲った。
一時は生き埋めのニュースが飛び込んだが、幸いみな救助されたようだ。
重軽傷を負われた方々のいやしをお祈りします。

 新潟山形宣教区の12教会のうち、佐渡・山形を除く10教会はすべて、下越地方に集中している。
一応各教会に安否確認のFAXを送ってみたが、どこも少し揺れた程度で済んだようだ。
だが信州宣教区15教会はそうもいかなかっただろう。
23日午後9時現在、教団の緊急災害情報掲示板には信州宣教区のうち3教会しか書き込みがない。
15教会の位置関係もよくわからないので、気象庁の震度マップに教会の場所を落とし込んでみた。続きを読む
posted by 近 at 21:31 | Comment(0) | 牧会卓話

2014.11.15「心魂(こころだま)プロジェクト」新潟公演

 昨日、管理人の所に一通のメールが届いた。敬和学園高校の同期、寺田真実(まさみ)君からである。
寺田君は、日本同盟基督教団から台湾に派遣されていた寺田由弘(よしひろ)宣教師の子息である。
彼は大学卒業後、某精密機器メーカーで数年間働いた後、「劇団四季」へ入団した。
13年間、同劇団所属の俳優として活躍した後に退団。
そして昨年から、同じように舞台経験を持つアーチストともに「心魂プロジェクト」を始めている。
この活動は、病院やホスピスにいる子供たちを対象にミュージカルやお芝居を無料で届けることなど、様々な働きを行っている。
地方の病院施設にも無料で訪問し、それと並行して行われる一般向け公演の売り上げを訪問活動の資金に充てている。

 高校時代、私は彼のライバルだった(と、数年前に再会した時に彼が言っていた)。
敬和学園高校は毎年フェスティバル(学園祭)が行われるのだが、三年間を通し、彼と私はいつも演劇部門で鎬(しのぎ)を削っていた。
とはいえ、仲が悪かったわけでもないし、さりとてよく語り合った関係というほどでもない。
私も大学に入ってからしばらくは演劇部にも顔を出していたが、そのうちに自然と離れてしまった。
だが彼は、常に才能を磨き続けた。
メールでは自らを「放蕩息子」と紹介していたが、その生き方は間違いなく、常に神とともにある幸いな人生である。
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posted by 近 at 21:00 | Comment(0) | 牧会卓話

日本同盟基督教団「11.9いっせい防災訓練」結果

 昨日、当教会が所属する日本同盟基督教団の全251教会(伝道所含む)にて「いっせい防災訓練」が行われた。
同盟教団は16宣教区(他教派でいう「教区」)に分かれており、251教会は必ずどこかに所属している。
豊栄教会は「新潟山形宣教区」に所属する12教会のひとつである。
管理人は宣教区長を務めており、今回のいっせい防災訓練の宣教区責任者でもあった。

 しかしこの「いっせい防災訓練」、始める前からすこぶる評判が悪かった
というのも、「11.9の日曜日の正午」という開催時間が宣教区長に通達されてきたのは7月。
教団の社会厚生部から正式な文書が送られてきたのは9月である。
すでに各教会では、早い所では2月時点で年間計画を決めている。
当宣教区の某教会ではバザーが予定されていたし、当教会でも恒例の「北区音楽祭」への出場日でもあった。

 しかも正午と言えば、礼拝が終わるか終わらないかという時間帯である。
「もし祝祷の時間に重なったときには、少しずらしてください」と、当日号令をかける役員に伝えておいたが、幸い礼拝は正午5分前に終了した。
しかし信州宣教区の某教会では、ちょうど正午が頌栄から祝祷へのつなぎ部分にあたり、律儀にもそこで号令をかけたということである。
 教団から送られてきたQ&A集では、「訓練が日曜日の礼拝時間に重なっているのはなぜですか」に次のような回答が掲載されている。
教会全員が同時に体験し、震災が起きたあなたの教会の防災対策に生かせるように訓練にするためです」(原文ママ)。
だが礼拝は、一般の会社や学校の勤務状態とはまるで異なる時間である。
偉い人にはそれが分からんのですよ。(『機動戦士ガンダム』第42話より)

 教会にとっての課題は、たまたま礼拝の時間(日曜日の約一時間)に地震が起こった時の対応ではない。
むしろ震災が起きたあと、通信網が分断された中で、どうやって教会員の安否を確認し、フォローしていくかというところにある。
今回の訓練では、2時間以内にインターネットの掲示板に状況を書き込む。
しかし実際に震災に襲われたら、インターネットどころか携帯電話でさえ繋がらなくなることは想像に難くない。
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posted by 近 at 10:03 | Comment(0) | 牧会卓話

ONE PIECEと旭日旗

韓国・ソウルで行われる「ONE PIECE」展が、原作に旭日旗の描写があるということで、会場側が開催を拒否している。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2014071000934
原作のファンの一人として、どうか木を見て森を見ずにならぬよう、会場側にはおぼえていただきたいと願う。

私たち日本のクリスチャンは、韓国のクリスチャンから多くの霊的祝福をいただいている。
同盟教団の中にも、韓国人の牧師先生がたくさんおられるが、すばらしい方々ばかりだ。
私が神学生時代に奉仕した教会も、韓国人牧師によって開拓、伝道されたところだった。
こんな牧師になりたいと思わずにはいられない、愛に満ちた交わりがそこにはあった。

だが、韓国そして中国の若い世代が、日本の過去の戦争犯罪と、現在の日本を混同していることには悲しみを覚える。
「日本のアニメは大好きだが、日本人は大嫌い」というようなゆがんだ主張が、かの国ではある程度の市民権を得ている。
「ある程度」と書いたように、全部ではなく、一部の人々である。
集団的自衛権が必要であり正当であると主張している日本人が、全部ではなく一部であるのと同じように。

「ONE PIECE」ファンの間では「空島篇」と並んで評価の低い「魚人島篇」ではあるが、こんな印象深い場面がある。(アニメ版)
人間を憎み、「凶薬」(ドラッグ?)によって力を得て人間を滅ぼそうとする魚人反乱軍のリーダーに魚人族の王子がこう聞く。
「人間たちがおまえたちにいったい何をしたというのか?」
すると彼は答える。「何も」。
そして次の瞬間、手にしていた銛で、王子のからだを貫いた。

彼は以前のリーダーに植え付けられた「敵意」に支配されていた。
幼い頃の描写では、人間を憎みながら、人間が作った遊園地に憧れて、海面から見上げる場面もあった。
うがち過ぎとの批判も免れないだろうが、このほうがよほど旭日旗よりもはるかに直接的な、作者のメッセージではないかと思う。
70年前の日本の戦争犯罪を、まるで今自分たちが受けている被害のように考え、そこに縛り付けられている一部の若者たちに対して。

中韓には、70年以上前に実際に経験した痛みを今なお忘れ、許すことのできない方々がおられる。
日本と日本人は、そのような、すでに高齢となられた方々に誠意をもって対応しなければならない。
「すでに中韓共に、条約によって賠償を放棄した」という日本側の言い分は、政治的には真であっても、
人間の感情としては、それを盾にして、このような方々の思いを踏みつけるべきではない。

だが、日本の文化に囲まれて育ってきたにもかかわらず、自分たちを被害者のように語る若い世代に対しては、こう問いかけたい。
「あなたがたの祖父でも父でもなく、あなたがた自身に対して、私たち日本人が何をしたというのか?」
ONE PIECEを良く読んでいる彼らなら、その問いにどう答えるべきかがわかるだろう。
過去を語り継ぐとは、憎しみを語り継ぐことではない。過去を引き継ぐとは、理由なき憎しみを引き継ぐことではない。
旭日旗に目を留める観察眼があるならば、この漫画に込められた、はるかに建設的なメッセージに気づくことを願ってやまない。
posted by 近 at 09:55 | Comment(0) | 牧会卓話

「雨が降っても槍が降っても・・・・」

台風8号が日本を縦断中である。7月に来る台風では、史上最大と言われている。
昨日は、新潟県内も各地で大雨洪水警報が出された。また佐渡市では50年に一度の降水量を記録した。
私の住んでいる、新潟市北区でも河川の氾濫が危惧され、一部の地域では避難準備も発令されていた。
幸い教会員の住んでいる地区は外れていたが、鳴り止まぬ雷鳴、降り止まぬ豪雨は予断を許さない。
私たちも、万一に備えて避難所への持出品を用意しながら、教会員の名前を挙げながら祈り続けた。
昨日は水曜日であり、私たちの教会では夜に祈祷会を行う曜日にあたる。
午後3時を過ぎる頃には、雷雨も収まり、警報も解除され、無事、集会を守ることができた。
散会後、数名の信徒を見送りながら、教会前のぬれた道路を見つめた。
まるで朝の豪雨が幻と思われるかのように、落ち着いた路面になっていた。

だが一日を振り返ると、判断に苦慮したところがあったのも事実である。
午後、警報は解除されないが、しかし天候は落ち着いてきたように見えた時間帯が長く続いた。
夜になる前に、集会を開くべきかどうか判断し、連絡しなければならない。そこで悩んだ。
牧師の中には、「雨が降っても槍が降っても、集会は必ず守りなさい」と指導する人がいる。
そしてそれを「集会を死守する」という立派な信仰だと考える人々がいる。
彼らは、たとえ行政や警察がどれだけ警報を鳴らし、被害を食い止めようとしても、車を走らせて、集まってくる。
それが信仰の戦いだと言うのである。

村上密牧師のブログで、あるアメリカの教会が、暴風雨の中、海岸洗礼式を強行したことが掲載されていた。
http://maranatha.exblog.jp/21855370/
また私の神学校の恩師も、かつて授業の中で同じような事件について語っていたことを思い出す。
集会を守らなくても結構と言っているのではない。
だが、なぜ集会を守るのかを考えてほしい。
警報が発令され、万一の場合に備えて自宅で待機することが求められている中で、
「それでも私は集会出席を守る」というのは信仰ではない。
むしろ自分の外の世界を顧みようとしない、ただの自己満足である。

神が最も喜ばれるのは、どんな悪天候の時でも集会出席を守ることではない。
集会出席そのものが目的化してはならないのである。
そのような非常事態のときに、教会に来て祈り、礼拝することよりも大事なことがある。
おびえる家族や隣近所の人々と共にいてあげて、励ますことである。
そして教会ではなくて、自分の家の中で、取りなしの祈りをささげ、御名をほめたたえよう。
クリスチャンひとり一人が、自分の信仰を冷静に見つめていくことを学んでいけるように。
posted by 近 at 12:08 | Comment(0) | 牧会卓話