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2017.12.31「宮から離れず」

 あけましておめでとうございます。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回の説教の中で、「シメオンやアンナの時代(イエス様の誕生直後)、
すでにエルサレム神殿は30年後にイエス様が宮きよめをする頃と同様の世俗的な様相を呈していた
」といったことを述べています。
ヨセフォスによれば、ヘロデ大王が権威発揚のためにエルサレム神殿の大改築工事を始めたのはその治世の第18年(紀元前20年)。
ヘロデは紀元前4年に死去しますが、神殿の改築工事は継続されたようです。
「建てるのに四十六年かかりました」(ヨハネ2:20)との証言から、工事完成はだいたい紀元26年頃になります。
イエス様の誕生はヘロデの死去より前ですので、改築工事はまだ三分の一しか進んでいない頃でした。
しかしヨセフとマリヤの律法遵守が強調されている文脈から、逆にこの頃にはすでに神殿祭儀が世俗化していたことが推測されます。
イエス様の誕生時点ではなく、ルカ福音書の執筆時点においての形骸化・世俗化という解釈もありますが
聖書はそれ自体で救いを与える書ですが、このように当時の歴史状況を考察すると一層リアルに読み取れるという好例かもしれません。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』2章21-39節 

序.
 凱旋門と並んで芸術の都パリのシンボル、エッフェル塔。それが建てられたのは今から約130年前、日本では明治22年のことです。
パリで行われた万博の記念として建てられたものでしたが、その建設計画が公になったとき、大きな反対運動が起こりました。
その急先鋒の一人が、モーパッサンという有名な小説家でした。
彼はこんなグロテスクな鉄塔は美しいパリの町にはまったくふさわしくない、とあらゆる手を尽くして反対運動を繰り広げました。
ところがエッフェル塔が建つと、妙な噂が流れました。あれだけ建設計画に反対していたモーパッサンが毎日エッフェル塔に通っている、と。
そこで彼の友人が、モーパッサンにその噂は本当かいと尋ねました。「ウィ、本当だよ」。じゃあ君はエッフェル塔が好きになったのかい。
「ノン、ノン。大嫌いだよ。あんなものがパリのどこからでも見えるようになってしまって、毎日地獄だよ。
だから毎日ここに来るのさ。この塔の真下だけが、パリで唯一エッフェル塔を見なくてすむところだからね」。

1.
 イスラエルの慰められることを待ち望みながら聖霊に示されて宮に入ったシメオン。
また同じくエルサレムの贖いを待ち望みつつ宮を離れなかった女預言者アンナ。
モーパッサンの例を出したのは、じつは彼らにとっても当時のエルサレム神殿は決して喜べる場所ではなかったからです。
えっと驚かれるかもしれません。みなさんは今日の聖書箇所から、「宮」つまり神殿に対して、どのような場所を想像されるでしょうか。
それは決して静かに神を求めることができる場所ではありません。いけにえの動物を売り買いする声で溢れた、騒がしい場所でした。
実際、この時は赤ん坊だったイエス様は、30年後、同じ神殿で動物たちが売り買いされている姿を見て怒り、商売人たちを追い出しました。
しかし30年のあいだに神殿がそうなってしまったわけではないのです。シメオンとアンナの時代に、すでに神殿の堕落は起こっていました。
神殿が堕落してしまったのは、当時イスラエルを支配していたヘロデ大王の政策によるものです。
彼はエルサレム神殿を豪華絢爛たるものとすることで自分の絶対的な権力を誇示しようと、大工事を行いました。
その工事が始まったのは、歴史の資料では紀元前20年、すなわちイエス様が生まれる十数年前ということになります。
このときすでに神殿はヘロデによってきらびやかな建物として変貌し、巡礼の目的は物見遊山に変わりつつありました。
しかし建物が豪華になればなるほど、真実な礼拝はそこから消えていきます。それは二千年前も、現代も変わらない事実です。
ヨセフとマリヤが律法に従っていけにえをささげたことが、今日の聖書箇所では事細かに繰り返し記録されています。
それは裏から返してみれば、それだけ当時、多くのユダヤ人たちが律法を守っていなかったことを示しているのです。

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posted by 近 at 17:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2017年のメッセージ

2017.12.24「想像を超えた贈り物」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今年、樹齢150年のアスナロを世界最大のクリスマスツリーとして神戸港そばに移設するというイベントがあったそうです。
ところが企画に色々とアラが目立ち、ネットやマスコミからは批判を受けました。
のべ140万人が物珍しさに見に来たそうですが、クリスマス前の一ヶ月だけの期間限定。
お役御免となったツリーは、とりあえず材木に加工したものの神社の鳥居くらいしか使い道が決まっていないそうです。
結局、神戸市開港150周年記念事業とか震災犠牲者への鎮魂とかいう割にはただのお祭りで終わってしまった印象です。
クリスマスツリーをなぜ神社の鳥居に?「樹齢150年→神聖な木→神聖といえば神社→鳥居にGo!」という図式なのでしょうか。
震災への鎮魂とするならば、期間限定で見世物にするのではなく、町を見下ろせるような場所に移植すればよかったのに。
いや、今からでも遅くない、一年間乾燥させたうえ、
全国のキリスト教会の会堂建築に無償で供与すべきだ!クリスマスツリーだけに。

今から50年前、当時の新潟市は新潟港開港100周年記念事業の一環として、敬和学園高校に広大な土地を供与しました。
「社会の礎は教育にあり」という、長岡藩の米百俵に通ずる明晰な視点を新潟市のエライ人たちも持っていたわけですね。
所詮切り倒されてしまうツリーは、「開港記念事業」と呼ぶには将来への視点があまりにも心許ないように思われます。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』2章1-20節 


1.
 クリスマスが近づくと、ほしいものを紙に書いて父親に渡すのが、昔の我が家での決まりでした。
なんでも、うちの父とサンタクロースは昔からの知り合いだそうで、ほしいものを父に言えば必ずサンタさんに伝わるのだそうです。
ただほしいものを紙に書いて渡しても、クリスマスの翌日に枕元にあったのは、ホシカッタノハコレジャナイとため息をつくものばかりでした。
小学校も学年が上がると、さすがにプレゼントは父が選んでいるのだと気づきましたが、あえて私らきょうだいは気づかないふりをしていました。
普段は無口で仏頂面をしている父親が、クリスマスの翌日だけは、ご機嫌だったからです。
父の姿から、人はもらうのもうれしいけれど、じつはあげるほうはもっとうれしいのではないかと思うことがあります。
贈りものには心があります。たとえ贈るのはものであったとしても、それを通して喜んでもらいたいという心がこもっています。
そして神様もまた、すべての人の笑顔を思い浮かべながら、とっておきのプレゼントをこの世に贈ってくださいました。
それが、飼い葉おけに寝かされたみどりご、イエス・キリストです。8節をお読みします。
「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた」。
おそらくこの羊飼いたちは、羊の所有者ではなく、雇われた人々であっただろうと言われます。
当時の羊飼いは、生活も貧しく、身分の低い者としてみなされていました。
そのうえ、預けられたひつじが狼にでも襲われることがあれば、命を賭けてその耳だけでも取り返すことを求められていました。
彼らは、贈りものなどとはまったく無縁な人々でした。しかし神は、この羊飼いたちに真っ先にプレゼントの知らせを持ってきたのです。
9節をお読みします。「すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた」。
主の使い、そして真っ白に輝く、主の栄光は、暗闇の生活に慣れた彼らの目にはあまりにも眩しすぎました。
ひたすら恐れ、戸惑う彼らの耳に、ただ静かな、そして優しい声が聞こえてきます。そしてそれは、彼らにとって信じられない知らせでした。
「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」。

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posted by 近 at 09:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2017年のメッセージ

2017.12.17「正しい人にも福音を!」

murakami_Xmas-001.jpg こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
 村上に新会堂が完成しましたので、市内にクリスマスの案内チラシを配ります。
 カットは、実際の会堂をモチーフに、イラストレーターのまるもりおさんが書いてくださいました。
 「冬の新潟らしく厚い雲と雪がこんこんと降る中にも、雲の切れ間から太陽が出て
 教会を照らしている、という意味を添えた」とのこと。私も色合いが気に入っています。
 実際には鉛色の空が広がることの多い村上(新潟)ですが、
 ここに来た人たちが希望を感じ取っていただけるような教会を目指していきたいですね。
 23日に市内3千戸に配布する予定です。ぎりぎりになってしまいましたが、お祈りください。
 週報はこちらです。

 聖書箇所 『マタイの福音書』1章18-25節 


1.
 「あなたは、いちばん信頼していた人に裏切られたことがありますか?」
そんな質問を、若い女性の読者が多い、ある雑誌の編集部がアンケートをとってみたところ、半数近い読者がはいと答えたそうです。
若い女性向けですから、恋人から裏切られることが多いのかと思ったら、信頼していた友人から裏切られた経験が大半でした。
恋人に対しては、はじめから信頼していない、と答えた人もいたとか。それもまた現代のドライな交際でしょうか。少し悲しくなります。
ヨセフは、婚約者であるマリヤに、裏切られたかもしれないという現実の中で苦しみます。聖書は18節でこう記しています。
「マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった」。
聖霊によって身重になったことがわかった、とありますが、それは後でヨセフが夢で御使いに伝えられたからわかったことです。
最初のうち、わかっていたのは、ただマリヤのお腹が日増しに大きくなっていく、という現実だけです。
ヨセフの目の前に起きていたのは、許嫁であるマリヤが、まちがいなく自分以外の誰かの子を身ごもっているということでした。
 当時の社会では、婚約は結婚とほとんど同じことでした。婚約破棄で簡単に済む事柄ではありません。
いったい誰の子なのか。ヨセフは悩み、傷つき、苦しんだことでしょう。
自分に対するマリヤのまなざし、握りしめた手のぬくもり、将来を語り合った日々。たわいもない会話を積み重ねた、幸せな時間。
それらはすべて真実を隠した偽りだったのか。いや、偽りじゃない。偽りじゃないはずだ。だがマリヤのふくらんだお腹は、彼を苦しめます。
 ヨセフの前には、自分とマリヤの関係を清算するために、二つの選択肢が握られていました。
ひとつは、当時の律法の決まりに従い、マリヤを石打ちの刑にするために当局に引き渡すこと。
そしてもうひとつは、マリヤに離縁状を渡して、まったく無関係な二人として歩んでいくことです。
いずれにしても、彼にはマリヤを失う道しか残されていませんでした。
もしあなたがヨセフなら、どちらの道を選ぶでしょうか。
信じていた者にいつのまにか裏切られていた。目の前の現実がそう語っているその時に、それでも「正しい人」でいられるでしょうか。
自分を裏切った婚約者を、文字通り心の底から赦すことができるでしょうか。

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posted by 近 at 20:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2017年のメッセージ

2017.12.10「まことの恐れを抱いて」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
遅ればせながら、恒例のクリスマスチラシをアップします。比較的重いPDFファイル(2MB)なのでご注意ください。
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今年は地元に6千枚程度、新聞折込をします。たくさん来てくれたら良いですね。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』1章26-38節 

1.
 私の家には物心ついた時から仏壇や神棚がありました。それらにご飯を運んだり、水を取り替えたりすることは私の仕事でした。
毎年秋には近くの神社で祭りがありました。
長い階段を上りきると、大中小の社が三つあって、それぞれに五円、十円、五十円、お賽銭を入れることを決まりにしていました。
総額65円でも、こどもが入れるお賽銭としては十分だろうと、子供心に考えていました。神様もきっと喜んでいるはずです。
お盆には茄子で馬を作り、夕方には浴衣を着てお寺に行き、お墓に線香とお花を供えました。ご先祖様も喜んでいるはずです。
これが99%の日本人の姿でしょう。
仏壇、神棚はもとより、神社やお寺も、怖いとか恐ろしいとか思ったことは一度もありません。

 しかし高校に入り、生まれて初めてキリスト教会に行ったときに、ここは怖いと思いました。
教会の牧師先生や信徒の方たちに怖さを感じたのではありません。
教会が初めての私にも親切で、何もわからない私の隣に座り、聖書を開いてくれたり、ことばをかけてくれました。
怖いと思ったのは、人でも、教会の雰囲気でもありません。ことばにうまく説明することはできませんが、恐ろしさを感じました。
今振り返ってみると、その恐ろしさというものの正体は、目には見えないが確かに教会におられる神そのものに対してでした。
もちろん生まれて初めて教会に行って、そこに聖なるものがおわしますなんてことがわかるはずはありません。
しかし、私が今まで体験してきたもの、私が知っているものとはまったく異質な何かが教会にはいるということははっきりと感じました。

 マリヤに対して御使いは開口一番「おめでとう、恵まれた方」と告げた後、今度は「こわがることはない」と呼びかけます。
マリヤは何をこわがっていたのでしょうか。
「何のあいさつかと考え込んでいた」ということばからは、マリヤの恐れはあまり伝わってきません。
しかしマリヤにかぎらず、すべての人間は聖なる方に近づく、あるいは聖なる方のほうから近づかれるとき、恐れが起こります。
なぜなら、すべての人間は罪人だからです。罪のない、まったく聖なる方に対して、罪人は恐れを抱かずにはいられません。
罪とは聖なる方、つまりまことの神がわからなくなることです。だから人は本当に聖なるものに触れたとき、恐れを抱きます。
西行法師が伊勢神宮を訪れたとき、「どなたかがおはしますかは知らねどもただありがたさに涙流るる」と歌いました。
これが日本人の宗教観だと言われます。しかし本当に聖なるものに触れたとき、人はありがたさどころか恐れを抱くのです。
生まれつきまことの神についてまったく知らない、すべての人間は、本能的に近づくのを避けようとするからです。

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posted by 近 at 22:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2017年のメッセージ

2017.12.3「希望は目に見えない」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『イザヤ書』9章1-7節 

1.
 1節をお読みします。
「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」
ここに挙げられている地名、ゼブルン、ナフタリ、ガリラヤといった町々は、イザヤがこの言葉を語った頃、すでに滅んでいました。
正確に言うと、町は残っていましたが、そこに住んでいた人々はアッシリヤ帝国という侵略者によって捕らえられ、外国へ連れて行かれました。
代わりにこれらの町々には、やはりアッシリヤに征服された外国の民が強制的に移住させられてきたのです。
さらにアッシリヤの暴挙は、それにとどまりません。
今度は、その連れてきた外国人たちを、移住を免れたわずかなイスラエル人たちと結婚させ、混血の人々を生み出しました。
これが、イザヤから700年後のイエス様の時代、ユダヤ人と対立していたサマリヤ人の先祖になります。
「はずかしめを受けた」とは、そのように民族の純血が犯されたという意味のことばです。
 しかしどんな重く苦しい暗やみが支配しているところであっても、神の御手が差し伸ばされないところはありません。
聖書を注意深く読んでいきましょう。1節後半では、異邦人のガリラヤは光栄を「受けた」。
2節では、やみの中を歩んでいた民は、大きな光を「見た」。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が「照った」。
「受けた」「見た」「照った」。これらは、すべて過去形、すなわち、すでに実現したこととして語られています。
 現実には、町は荒廃し、人々の混血が進み、イスラエル人としての誇りや希望はすべてが取り去られていました。
しかしイザヤの目には、彼らの上に神からの大きな、暖かい光が差し込んでいく光景が、すでに起こったこととして鮮やかに映っているのです。
これこそ、私たちがどんなに暗い世相や現実の中に生きていたとしても、決して勇気を失うことがない秘訣です。

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posted by 近 at 14:00 | Comment(2) | TrackBack(0) | 2017年のメッセージ

2017.11.26「祈りに導かれた結婚」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
11/25(土)に東京基督教大学(TCU)で行われた故小林高徳学長の合同葬に出席してきました。
新潟−成田間に、一日一本のみ、飛行機(プロペラ機)が往復しており、今回はそれを利用しました。
葬儀そのものは当然ながら写真は撮れませんので、開式前の廊下や入口の写真のみです。
61歳という若さでしたが、きっと濃密な人生であっただろうと思いました。
人の目には最悪な結果に見えても、神の永遠の計画においては常に最善、それが私たちの信仰です。

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小林先生、天国で会いましょう。週報はこちらです。

聖書箇所 『創世記』24章1-27、56-67節 

1.
 私が妻と初めて出会ったのは、神学校一年目の夏、教団の宣教大会の場でした。
私にとっては電撃的な出会いであったのですが、妻にはそうでなかったようで、あまり詳しく顛末を語ると、だいたい後でけんかになってしまいます。
ともあれ、そのとき私の心の深みには妻の顔がはっきりと刻み込まれたのです。
しかし名前や住所、所属教会を聞くほどの関係には至らず、ひと夏の淡い恋で終わるはずでした。
ところが神学校三年目、再び教団の宣教大会で再会します。しかも向こうから私の方に声をかけてきてくれました。
これはまさに神の思し召し、しっかりと名前と所属教会を確認し、約二年間の交際期間を経て結婚に至りました。
その後どうにかこうにか守られてきましたが、もし神様が二人を引き合わせてくださったという確信がなければ、どうなっていたかわかりません。
それほどまでに、趣味も性格もあらゆることが違っている二人を神様は結び合わせられました。

 今日の聖書箇所は、世界で最も美しい結婚物語と呼ばれる、イサクとリベカの結婚です。
しかしリベカはともかく、イサクについてはほとんど触れられていません。にもかかわらず世界で最も美しいと言われるのはなぜでしょうか。
それは、神様のご計画に基づいていることがはっきりとわかる、不思議な出会いの繰り返しによってこの物語が動いているからです。
イサクの父、アブラハムは息子の結婚相手を捜すために、自分の故郷に、しもべを遣わします。
しかしアブラハムの言葉は、よく読むととても不思議です。真の神を知らないカナン人から妻をめとってはならない、というのはわかります。
しかしアブラハムの生まれ故郷もまた、偽物の神を礼拝していた町であって、そこから彼は父、妻、甥と一緒に出てきたのです。
つまり、生まれ故郷にいる女性が信仰を持っているとは限りません。というよりも、持っていない可能性のほうがはるかに高いのです。
 しかしなぜアブラハムは生まれ故郷にこだわったのか。ここにアブラハムの信仰があります。
神がイサクを通して全世界を祝福するとすれば、自分が故郷に置いてきた親族を第一に祝福してくださる、という信仰が。
だから必ず故郷の町には、イサクのために、イサクとともに、最後まで歩んでくれる女性を神はいますでに与えてくださっているのだ、と。
ここに、アブラハムの、神への絶対的な信頼があります。お嫁さんとなる人が信仰をもっているかどうかさえも、彼は神にゆだねています。
 それに対して私たちは、信仰、信仰と口にしながら実際には自分の経験や推測を優先させることが多いかもしれません。
しかし神は私たちを今まさに導いておられるという信仰をしっかりと持ち、たとえ現実はどうあろうとも、神のみこころに従っていきたいものです。
アブラハムの確信が現れている、7節のみことばを心に刻みつけましょう。
「私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える。』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。」
アブラハムがこのしもべを遣わす前に、すでに神は御使いをしもべの前に遣わしてくださっている、という信仰を握りしめていきましょう。

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posted by 近 at 20:59 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.11.19「ボクはイサク」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
私はたまに説教の中で落語やコントを挿入することがありますが、いつも準備不足で中途半端な印象がぬぐえません。
今回も「子ども祝福式」を礼拝の中で行った流れの中で、説教全編を少年イサクの独白という形にしたのですが、やっぱり準備不足。
46のおっさんが照れながら朗読劇をするような感じになりました。昔は原稿も一晩で暗記できたのですが。
いつか、アブラハム役を募集したうえで、練習をしっかり行って再演したいと思います。
週報はこちらです。

聖書箇所 『創世記』22章1-19節 

1.
 ボクはイサク。お父さんの名はアブラハム。お母さんの名前はサラ。
小さい頃は、イシュマエルというお兄さんがいたけれど、あるとき、ハガルさんという本当のお母さんといっしょに家を出ていってしまった。
それから、ボクは自分で言うのもなんだけど、お父さんお母さんから、本当に大切にされてきたんだ。
お父さんは、しょっちゅうボクを丘の頂に連れて行く。そこからは、今住んでいるカナンの場所が全部見渡せる。
そしてお父さんはボクを振り返ってこう言うんだ。
「見ろイサク、これらすべて、天の神様が作られ、わしらに与えてくださったんじゃ。わしのものは、すべておまえのものじゃ」。
お母さんは、いつも羊の肉じゃイサクが飽きるからと、ときどき行商人が集まる市場へ連れて行ってくれる。
でも市場に行くと、会う大人たちみんなが、お母さんにこう言うんだ。「かわいいお孫さんですね」って。
お母さんは最初の頃は、孫じゃありません、息子です、とむきになっていたけど、最近では適当に「ええまあ」とか言ってやり過ごすようになった。
でも、知らない人がみたら、やっぱりお母さんはお祖母ちゃんにしか見えない。だってお母さんが90歳の時にボクが生まれたんだもの。
おばあちゃんどころか、ひいおばあちゃんに見られたって不思議じゃない。おとうさんだって、ひいおじいちゃんだ。
ときどきボクが食事の時にふたりにそう言うと、お父さんは大声で笑う。そしてその後、必ずボクの目をまっすぐ見て、こう言うんだ。
「イサク。わしが100歳、母さんが90歳の時にお前が生まれた。だがお前を生んだのは、わしでも母さんでもない。
神様がわしらへの約束を守って、お前をこの世界に生んでくださったんじゃ。だから何があっても、神様への感謝を忘れてはならんぞ」。
ボクがうなずくと、お父さんはにっこり笑う。お父さんは笑うと皺だらけの顔がもっとくしゃくしゃになって、目が皺のあいだに隠れてしまう。
そんなお父さんの笑顔がボクは大好きだ。お父さんとお母さんが、いつまでも元気で、ずっと一緒に暮らせたらいいなあ。

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posted by 近 at 13:10 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.11.12「目をさまして語り続けよう」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
ブログ移転しました。経緯の詳細は旧ブログのほうに載せておりますが、今後ともご愛顧ください。
移転を機に、ブログ名称も「村の小さな教会」から「豊栄の風〜T-Breeze」に変えました。
当教会の有志で構成している、合唱グループの名前からとっています。決して、SEA BREEZEのパクリではありません
旧ブログを立ち上げてから約6年、「村の小さな教会」で検索すると上位にヒットするようになったのですが、また仕切り直しです。
新ブログは、スマホで見ても従来のうっとうしい広告表示がまったく出て来ません。快適。ぜひスマホ版もお試しください。
スマホ版では私の顔がサムネイルで連続して出てくるので、これもある意味うっとうしいかもしれませんが。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの黙示録』3章1-6節 

1.
 今日の聖書箇所はヨハネの黙示録、イエス様がサルデスの町にあった教会に対して語られたみことばです。
しかしその言葉は、叱責から始まります。しかもその激しさは尋常ではありません。「あなたは生きているとされているが、じつは死んでいる」と。
これは、いのちを与えられたキリスト者にとって、なんと悲しむべき、イエス様からの言葉であるでしょうか。
 この黙示録が書かれたのは、ローマ帝国の時代ですが、サルデスは、かつてリディア王国という国の首都があったところでした。
リディアはペルシャ帝国に滅ぼされ、サルデスはそのペルシャ帝国の重要拠点のひとつとなるのですが、
そのペルシャもやがてギリシャのアレキサンダー大王に滅ぼされ、そしてこの手紙が書かれた時代は、ローマ帝国の重要拠点となっていました。
今日の週報の表紙には、このサルデスの遺跡の写真を掲載しました。
これは公衆浴場とシナゴーグの複合施設です。これだけでも、サルデスの町の豊かさが伝わってくるのではないでしょうか。
SardisBathcomplex.jpgLydia_ancient_times-ja.png

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posted by 近 at 15:48 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.11.5「家庭は庭のごとく」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
まったくアナウンスもないままに、トップ記事に、私が兼牧している村上教会の会堂建築趣意書を掲載してしまいました。
そんな中、ブログをよく見ていてくださるという千葉県のKさんから会堂献金へのご協力をいただきました。ありがとうございます。
会堂献金に限らず、今までも、兵庫県のKさんはじめ、多くの方からささげものを送っていただきました。
この場を借りて、改めてお礼申し上げます。なんか催促しているような感じに聞こえたらすみません。
 村上教会の会堂献金は、現在、献金目標額400万円のうち、2%くらい集まっております。
献金者には領収証とニュースレター、そしてあわよくばもう一回ということで振込用紙も送らせていただきます。
どうかお祈りをよろしくお願いいたします。週報はこちらです。

聖書箇所 『創世記』19章1-38節 

序.
 敬和学園大学の新井明学長がよく言っていた言葉に、「敬和学園大学は、木を育てるように人を育てる」というのがありました。
この場合の木というのは、自然に生えている木のことではなく、人間が一本一本地面に植えていく木のことを指しています。
教育というのは、木を植えて、肥料をやり、水をやる、それを毎日続けるように、手塩をかけて育てていくこと、それは人も同じだ、と。
 「家庭」という言葉があります。欧米からの留学生が興味深いことを言っていました。「家庭」という言葉は日本にしかないそうです。
英語に「family」という言葉がありますが、これは「家庭」ではなくて、「家族」である。
また同じく英語で「home」という言葉があるが、これも「家庭」ではなくて、「今人が住んでいる家」という意味にすぎない。
家庭的な雰囲気を表すときに使う「アットホーム」という言葉は、和製英語と言って、日本人が作った英語だそうです。
アメリカ人に「アットホーム」と言っても、単に「家にいる」という意味で、暖かな雰囲気というニュアンスは伝わらない、ということでした。
 面白いなあと思いました。日本人も外国人も家族を大切にしますが、「家庭」という言葉は、日本にしかないのだということ。
日本人は、まさに木を育てるように人を育てるというのが、言葉に表れているのです。庭というはまさにそうじゃないですか。
庭に花を植え、木を剪定し、美しく整えていくように、子どもたちを大事に大事に育てていくのが、家庭なんだというわけです。
 今日の聖書箇所は、聖書を読んだことがない人でも「ソドムとゴモラ」の話だというと、あっ聞いたことがあるという有名な場面です。
一見、罪にあふれた町へのさばき、という暗い事実しか見えません。しかしその背後にあるひとつのメッセージを学びましょう。
それは、まさに「家庭」を作ることを軽んじていたロトの過ち、そしてそれでもなお彼を愛し、命を助けてくださった神のあわれみです。続きを読む
posted by 近 at 18:12 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.10.29「われ無力なれど」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
私が東京基督神学校に在籍していた頃、ギリシャ語等を教えてくださった小林高徳先生が、61歳の若さで天に召されました。
母校は十年前に閉校し、その働きは東京基督教大学神学部の大学院に引き継がれて今に至っています。
小林先生はその東京基督教大学の学長として尽力され、これからも活躍が期待されていましたが、神は先生を引き上げられました。
 神学校に入ると、ギリシャ語の最初の授業で「ホ・ヘ・ト」という暗号めいたものを覚えます。
もちろんイロハニホヘトではなく、ギリシャ語特有の、男性・女性・中性名詞の冠詞を横につなげたもの。
たったこれだけを覚えるのにも苦労する一年生に、さらなるギリシャ語の容赦なき洗礼を授け続けた先生の姿を思い出します。
口癖は「簡単ですねえ、ふふふ」(ニヤリ)。あっ、思い出したらだんだんむかついてきた。
それは冗談ですが、すばらしい先生でした。天国でもう一度授業を受けたいものです。どうかご遺族の方々に慰めがありますように。
週報はこちらです。
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(東京基督教大学のホームページから引用)
小林高徳 東京基督教大学・日本長老教会東関東中会 合同葬のお知らせ
東京基督教大学学長・教授、日本長老教会東関東中会教師 小林高徳が2017年10月24日に召天しました。
ここに生前のご厚誼を深謝し謹んでお知らせ申し上げます。
東京基督教大学・日本長老教会東関東中会 合同葬を下記のとおり行いますのでご案内申し上げます。
日時:11月25日(土) 13時〜14時30分(受付開始11時30分)
場所:東京基督教大学チャペル 千葉県印西市内野3-301-5
葬儀委員長:廣瀬 薫(東京キリスト教学園 理事長)

聖書箇所 『創世記』18章16-33節 

1.
 今日は教会学校でも私が同じところから語りましたが、紙芝居とは別にこんな紙を使いました。
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これがいったい何をあらわしているかわかりますか。
いうまでもなく、アブラハムがソドムの町をさばきから救うために次々に神様に訴えた数字です。
彼は、もしかしたら神の逆鱗に触れてしまうのではないかと覚悟しながら、次々に数字を落としていったのでしょう。
まず私たちは、聖書が、この数字のやりとりをひとつひとつ記録していることに目を留めるべきでしょう。
50人、45人、40人、30人、20人、10人、それらの数字を出しながら神と交渉していく、
アブラハムの緊張感をこれでもかというほどにくわしく書き綴っています。ここには、アブラハムのとりなしの必死さが刻み込まれています。
一言でまとめたり、何かをはしょったりすることができない。その口からでる一言一言がまさに命がけのものであった、ということです。
 アブラハムの命がけの態度は、どこから生まれているのでしょうか。そりゃ、信仰からさ、と言うのは簡単です。
ではその信仰を具体的なことばで言い表すと何か。それは、彼は、自分の無力さを知っているということに尽きます。
アブラハムは、自分も、ソドムの人々も、すべての人間が神の前にまったく無力であることを知っていました。
神の正しさに照らすならば、罪に汚れたソドムの町は、神の手で滅ぼされることに何の言い訳もできません。
しかし無力であるからこそ、アブラハムは命がけでソドムのためにとりなします。じつは祈りの力というのは、無力からこそ生まれます。
私たちは何もできない。自分の性格を努力して変えることもできないし、わずかな時間、罪から離れて生きるということさえもできない。
自分が無力だからこそ、全能なる神にしがみつきます。祈ることしかできません。しかしだからこそ、いのちがけで祈る。
それがアブラハムの証ししている信仰です。
 私たちクリスチャンは、神以外に逃げ道を焼き捨ててしまった人々です。
世の人々は、クリスチャンは神に逃げ込んで努力をしないと批判します。しかしむしろ私たちは神以外に何に対しても逃げ込むことをしない。
たとえそれが努力だとか人との絆だとかいう心地よい言葉であったとしても。
自分がとことん無力な者であることを知っている。しかしだからこそ、神にしがみつく。
それが私たちの祈りであり、アブラハムが神の前で表した、いのちがけでソドムの人々のためにとりなした姿です。続きを読む
posted by 近 at 22:48 | Comment(0) | 2017年のメッセージ