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2017.10.22「目を上げて何を見る」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
自民圧勝で終わった総選挙でしたが、小選挙区制の問題点も改めて露わにされたという印象です。
私の居住する新潟3区では、当選者と次点の差が50票という、まるで田舎の村長さんを選ぶときみたいなことが起こりました。
まさに当ブログのタイトル「村の小さな教会」にふさわしい田舎の選挙区だから?
いやいや、いかにたくさんの票が死票になっているか、という実例です。
新潟3区では自民の候補が落選しましたが(比例で復活。これも問題があると思います)、
「自民圧勝」とは言いつつも、投票率と、全国で死票となった数を総計すれば、国民の過半数の同意も得ていないのです。
それが小選挙区の問題点。
オール・オア・ナッシング(ALL or Nothing)。デッド・オア・アライブ(Dead or Alive)。フィッシュ・オア・ビーフ?違うか。
教会の役員選出も、たとえ総会の時間はかかっても、過半数を得るまでは何度でも投票を繰り返すということが必要です。
上位○名を選ぶとか、牧師が推薦した中で選ぶというようなことをするべきではありません。役員は教会の自浄作用の要諦です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『創世記』13章1-18節 

序.
 以前、クリスチャンが宝くじを買うことは罪ですかと質問を受けたことがあります。
何と答えたか忘れましたが、今だったら、「罪ではないけど、そこから罪に引き込まれていく可能性は高いですね」と答えるでしょう。
私が当てたわけではないので又聞きですが、宝くじの当選金が払い戻される際、銀行からある小冊子が手渡されます。
ギデオン聖書?
だったらいいのですがそうではなくて、その表紙には「その日から読む本」とあります。
頁を開くと、「当選した興奮と付き合い、落ち着いたらローンなどの返済を優先すること」などが書いてあるそうです。
このような本が手渡されなければならないほどに、宝くじに当たるとどんな人でも舞い上がってしまいます。
多くの場合、家族との会話はお金のことばかりになり口論が絶えず、金使いがどうしても荒くなります。
さらに親戚だけでなく、知らない人からも電話を受け、寄付を求められ、断るとなじられ、ノイローゼになります。
私を含めて、そんな大金とは無縁なみなさんですが、
たとえ大金を手に入れても、それまでの生活レベルや仕事を変えないで堅実に生きることを忘れないでください。
短い時間のあいだに手に入れた富は、間違いなく自分や家族を浮き足立たせ、悲劇へと導きます。
富そのものは悪ではありません。しかし努力もせず、そして短い時間で手に入れた富はその人の生活を破壊します。
一方で、長い時間をかけて得た富は、その人の努力と忍耐への報いになります。
しかし報いとはいっても、それは神様が用意しておられる報いのごく一部に過ぎません。富は有限で、一時的なものでしかありません。
本当の報いは、富もこの地上に置き捨てて、天へ私たちが凱旋していくときに、イエス・キリストが与えてくださる冠です。
この世に置いていく富ではなくて、新しい世で待ち受けている永遠のいのちを見つめ続けるものでありたいと願います。

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posted by 近 at 23:40 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.10.15「人生は止まらない」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
この主日は、年に一回のお楽しみ、教会バザーでした。説教時間も当社比30%ほど切り詰めなければならないので緊張モノです。
正午からのスタートですが、30分位前から小さな行列ができるほどに好評を博しております(ホラ話の多い当ブログですが、これはホント)
開場までにお客様が入ってこないよう牧師夫妻が門番をするというよくわからない奉仕があてがわれ、とにかく頑張りました。
バザー来会者が礼拝に繋がることはめったにないのですが、それでも教会の存在を覚えて頂く、大事な機会と考えて、続けております。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ガラテヤ人への手紙』2章20節 

1.
 今日はバザー準備のために、くれぐれも説教の時間は短くしてくださいという厳命を受けております。
最近私が経験したことを通して、神様が人間に与えてくださる、いのちのご計画をともに味わいたいと願います。
教会員の方には、私が15歳のときに骨の病気で左足を切断したという話は何度もしているのでまたかよと言われそうですが、
その後退院してからも、半年に一回、大学病院で検査するという生活を30年以上続けています。
 30年前に私の手術の助手をしておられたA先生が、ずっと私を診察してくださっています。
15歳当時、私は無口で無愛想なこの先生が苦手でした。今も苦手です。
いつもこっちに背を向けて、机の上のカルテを見ながら、こっちを向いて話してくれない。30年付き合ってても、まったく親しくなれません。
でも先日、いつものように診察を受けていたとき、その先生の白髪交じりの横顔を見ていて思いました。
私も30年のあいだ、先生にひと言も心からお礼を言ったことがなかったなあ。でもいきなり、「ありがとうございました」というのも何だかなあ。
すると、何気なくこんな言葉が口に出ていました。「先生、骨肉腫という病気は、30年前は危険なものだったんですよね」。
私のかつての病名が骨肉腫であることは知っていて、当時は危険な病気だったというのを本で読んだことがあったのです。
すると先生は、相変わらずこっちを見ないまま、「今も危険ですよ」と答えました。その態度に腹が立ちました。
などということはなく、その危険な病気にこの先生は30年付き合ってくれたんだなあという思いが湧き出てきました。
次の瞬間、「先生、ありがとうございました」と自然にことばが出てきました。
そのときに先生はこちらを不思議そうな顔で振り返りました。40半ばの男が言うのもなんですが、たいへんに照れくさかったです。

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posted by 近 at 17:39 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.10.8「二つの祭壇」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先日の松原湖研修会では、「宗教改革500年と聖書信仰」というテーマのもと、200人以上の教師・信徒が集まりました。
しかしテーマ以外にはどういう講演内容なのかが事前に知らされていないので、どうも消化不足の感をぬぐえません。
何でも、近年、藤本満氏の著作『聖書信仰−その歴史と可能性』が福音派の聖書理解に一石を投じたそうであります。
そこでその応答として『聖書信仰とその諸問題』(聖書神学舎教師会編)が出版され、・・・正直言うと、よくわかりませんでした。
「(近)先生は二冊とも読みましたか」と講演中、隣に座っていた某先生から聞かれました。え?
お、おう。当然ですよ。こちとら聖書信仰ですよ。プロテスタンティズムの倫理とナントカの精神ですよ。
読んだふりをしながら、とりあえず講演随所で頷いていましたが、それはともかく、松原湖バイブルキャンプの食事は極上です。
だいたい、ルターの宗教改革が信長誕生よりも早いということがいまだに信じられません。いろんな意味でルターは偉大ですね。
週報はこちらです。

聖書箇所 『創世記』12章10節-13章4節 

序.
 牧師が信徒や求道者の方をカウンセリングするとき、ときとして「逃げる」ことを選択肢として勧める場合もあります。
不信仰ではないかと言われそうですが、聖書は、逃げることはどんな場合でも罪だとは教えておりません。
逃げることが適切な場合もあります。
この創世記の終盤には、アブラムのひまごにあたるヨセフが、兄弟に売られてエジプトで奴隷になったというできごとが書かれています。
美少年ヨセフは、主人の妻から「私と寝ておくれ」と上着をつかまれたとき、外へ逃げ出しました。
この箇所から、なぜ彼女を諭すことをあきらめて逃げ出したのかと、彼の行動を批判する説教を、私は聞いたことがありません。
もし自分ではどうすることもできないとき、逃げることもまた選択肢の一つとして、神が扉を開いてくださることもあるのです。
 もちろんカウンセリングの中で、いつも逃げることを勧めるのではなく、「神様に信頼して、立ち向かいましょう」と励ますことも多くあります。
しかしとくに聖書的カウンセリングは、人々の心の状態それぞれに応じて、もっとも適切と思われる答えを示していくものです。
箴言18章14節に、こういう言葉があります。「人の心は病の苦しみをも忍ぶ。しかし心が痛むとき、だれがそれに耐えようか」。
立ち向かえる心の状態の人もいれば、逃げることが最善である状態の人もいます。
その人の心の状態に応じて、ある時にはとどまって戦いなさい、ある時には逃げなさい、それは決して矛盾でも不信仰でもありません。
あるいはヨセフの場合のように、心が壮健であっても、逃げることが神のみこころであった、そういうことも起こりうるのです。

 では、アブラムの場合はどうだったのでしょう。カナンにききんが起きたとき、彼がエジプトに逃げたことは正しかったのでしょうか。
立ち向かうべきか、逃げるべきか。それを見極める鍵となる、一つの言葉が、12章から13章にかけて繰り返し語られます。
それは何でしょうか。「祭壇」です。
アブラムがカナンに到着してまず祭壇を築き、移動した先で新しい祭壇を築き、エジプトから帰って来て祭壇を築き直した。
これは明らかに意味をこめられて、何度も記されているのです。今日の聖書箇所の直前、12章7節をご覧ください。
アブラムは親子二代にわたる希望の地であるカナンに入り、シェケムで最初の祭壇を築きました。
つぎにベテルとアイの中間地点に移り、そこでもまた祭壇を築きました。なぜ彼は祭壇を築いたのでしょうか。
神を礼拝するためです。より正確に言うならば、自分の生活の中に神が生きておられることを感謝するためです。

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posted by 近 at 19:41 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.10.1「そうすれば、祝福しよう」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
1939年に独ソ不可侵条約が結ばれたとき、「欧州の天地は複雑怪奇」という言葉を残して総辞職したのは平沼騏一郎内閣でした。
今まさに極東の天地は複雑怪奇、いったい誰に、何処に、投票すればよいのでしょうか。
日本の政治家たちの言葉、信条、決断の薄っぺらさ。国民が放置されていることへの怒りと悲しみが湧き起こります。
ヒトラーが、大嫌いなスターリンと手を結んだとき、「ベルゼブルを追い出すためのサタンとの契約だ」と側近に語ったそうです。
(新約聖書を読んだことのある人にはわかりますが、これはヒトラーがイエス様のことばをもじったものです)
安倍首相や前原、小池両氏を彼らのような独裁者たちと並べるのは言い過ぎかもしれませんが、
少なくとも「排除」「選別」というような言葉を平気で口にするような人たちから「希望」は感じません。
 ところで、月曜から木曜まで教団の伝道懇談会および松原湖研修会で留守にします。
更新が遅れますので、まだ土曜日ですが、説教原稿だけあらかじめアップしておきます。
ただし豊栄教会の方は、説教原稿を読んだからといって明日の礼拝を休んではいけませんよ。

週報はこちらです。

聖書箇所 『創世記』11章27節-12章9節 

1.
 アブラムの父テラは信仰の人でした。彼はアブラム、サライ、ロトとともに、聖書にある約束の地、カナンに向けて旅立ちました。
しかし彼は途中、ハランの町まで来たらそこに住み着いてしまいました。サライは、子どもの生まれない体でした。
ロトは性格はよくわかりませんが、後でソドムの町に取り込まれた所を見ると、どうもおカネやモノに弱い人だったようです。
そしてアブラム自身も、家族一人ひとりに問題を感じながらも、現状維持に留まっていました。
ここにいるのは、神の約束の地の一歩手前まで来ていながら、人間関係や現実という見えない壁を越えられない人々の姿です。
 しかしじつは神に用いられた人物として聖書に登場する人々は、みなそのような痛みを抱えていました。
モーセ、ダビデ、エリヤ、ペテロ、信仰の勇者たちもまた、みな自らの弱さやふがいなさに痛みと失望を抱えて生きていたことがあったのです。
しかし確かなことは、神は彼らを定められた時に、みことばをもって召されたということです。アブラムにおいてもそうでした。
神は、偶像にあふれた町ハランで、力強いみことばをもって彼を再び招きます。創世記12章1節から3節までをお読みします。
「その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」。
 この言葉は、テラが死んだ後に語られた言葉ではありません。
神がアブラムにこの言葉を語ったのはアブラムが75歳のとき、それは父テラが145歳のときでした。
テラの一生は205歳と別の箇所で語られていますから、このときテラはまだ生きていたということになります。
しかも亡くなったのはこのときから60年も後ですから、年をとりすぎて町を出られなかったということでもないでしょう。
テラは祝福の地カナンよりも、偶像の町ハランにとどまることを選びました。しかしアブラムは違いました。
この神の言葉に従い、父をハランに置いたまま、サライとロト、その他の人々を連れてカナンへと旅だったのです。続きを読む
posted by 近 at 22:29 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.9.24「任せられたものを生かして」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
代務をしている村上福音キリスト教会の新会堂建設工事も順調に進んでおります。
早ければ12月上旬には移転できるということで、昨日も引っ越しへの準備として教会図書を整理しました。
何せ、余裕な部屋が一つもないギリギリの新会堂です。いらないものは全部捨てていかなければいけません。
ところがここで扱いに困るのが、「△△教会○周年記念誌」といったもの。数えてみたら30冊近くありました。
その教会の歴代牧師、教団理事長や宣教区長、それぞれの教会員、なぜか自治会長まで熱くたぎる文章を書いておられます。
「編集後記」にも担当委員が「願わくは、どうか神の栄光だけがあがめられますように」と祝祷レベルのことまで書いています。
なかなか捨てられませんよね。しかし捨てなければたまっていく一方なのです。
役所では入社してすぐに文書管理の研修を受けます。元公務員の牧師から「捨てられない同僚たち」へのアドバイス。
ただし、教会の書庫に余裕があるのなら無視して結構。他教会の記念誌を並べるのが好きな牧師もまた結構。
1.よその教会から記念誌が届いたら、牧師はすぐに教会員に回覧して、少なくとも自分は全部読みましょう。
2.読み終わったら、その教会に礼状を書きましょう。
3.その後、ためらわずに古紙回収に出しましょう。次に記念誌を開くのは本棚整理の時ぐらいですから。
自分の教会が記念誌を作るときに参考にする?まずしません。するとしても、何冊もいりません。
教会が保存する文書は、自分の教会に関するもので十分です。原則は「文書は作成した団体が保存する」です。
個人レベルで保存すると、引き継ぎのときに厄介ですね。突然担当の牧師や信徒がいなくなったりすると、文書のありかも消えてしまいます。
他の教会や団体から来たチラシや案内は、せいぜい一年も保存したら捨てます。記念誌も例外ではありません。
どうしても捨てられない部分(会堂建築の経緯報告など参考になりそうなもの)は、そこだけコピーしておきます。
記念誌を捨てるのは勇気(と信仰)が必要ですが、その教会には在庫が山ほど余っていますからまったく問題ありません。
参考になれば幸いですが、気分を害されたら申し訳ありません。
タウンページみたいに記念誌も新しいのが来たら古いのを引き取ってもらえるといいんですけどね。
週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』25章14-30節 

1.
 かつてアメリカのプロ・バスケットボール選手で「バスケの神様」と呼ばれていたスーパープレイヤー、マイケル・ジョーダンの話です。
彼が30歳の時に、まだ戦える力を残しながら引退を表明したとき、ある新聞記者が彼にこう質問しました。
「これから、第二のマイケル・ジョーダンは現れると思うか。」つまり、あなたを越える選手が現れると思うか、と聞いたわけです。
そのとき、彼はこう答えました。「いや、第二のマイケル・ジョーダンは現れないだろう」。
彼の絶対の自信に記者たちはどよめきました。しかし彼のことばはこう続きました。
「第二のマイケル・ジョーダンは現れない・・・そして私も他の選手にマイケル・ジョーダンになれとは言わない」。
 たとえマイケル・ジョーダンのプレイがすばらしくても、それを真似する必要はない。
むしろ自分だけのプレースタイルを作り出して、バスケットボールを楽しみなさい、ということなのでしょう。
今日の聖書箇所の中で、見落としがちですが大切なことばがあります。それは、15節の、「おのおのその能力に応じて」ということばです。
「彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた」。
「彼」というのはこのたとえ話の主人であり、言うまでもなくそれは父なる神をあらわしています。
そしてタラントというのは、私たちが与えられた能力を、神のために用いていくことそのものを指しています。
神は、平等に一タラントずつ与えてはおられません。
それぞれの能力に応じて、ある者は五タラント、ある者は二タラント、ある者は一タラントと変化をつけて与えられます。
不公平だ、と私たちは言うかもしれません。よく才色兼備だとか、天は彼に二物を与えた、などということがあります。
私が丸一日かける説教の準備作業を、ある牧師はものの二、三時間で終わらせてしまいます。
説教原稿も作らずに、私よりも理路整然と説教を語る牧師もいます。あえて私を俎に載せましたが、これは不公平じゃありませんか。
しかし神がそれぞれにふさわしい能力を与えてくださったのです。
それぞれにできることは、人のまねをして第二のなんとかを目指すことではありません。
与えられた能力を精一杯生かして、自分にできることを神のためにささげる。
そこには、人の能力をねたむ暇はありません。続きを読む
posted by 近 at 22:04 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.9.17「神の前に富む」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今月に入って、教会に生活資金の援助を求める電話が目立ちます。
かつては、駅の交番で教会の場所を尋ねて直接訪問して援助を求められるという形がほとんどでした。
しかし今はインターネットで教会を検索して、という形になってきているのかもしれません。
今日の電話は県外の方からでした。金銭を送ることはできないと説明させていただきましたが、電話を切った後でも心が泡立ちます。
本当に苦しくて電話されているのか。それともこういう手法の寸借詐欺(!)なのか。
この電話を切った後どうされるのか。なぜ何百キロも離れた教会に、生活費の援助を求めて来られたのか。
 昨夜の祈祷会で、ダビデが祭司アヒメレクにパンの援助を求めにきた場面を学びました。
参考に読んだマックス・ルケードの『ダビデのように』(いのちのことば社)の中に、こんなことばがありました。
 パンと剣。食物と装具  。教会は両方を与えるためにある。それはうまくいっているだろうか。いつもうまくいくとは限らない。人を助けることは、決してきちんと決まりのつく仕事ではない。助けを必要としている人々は、きちんと決まりのつく人生を送ってはいないからだ。・・・(中略)・・・教会のアヒメレクたち(指導者、教師、牧師など)は黒か白を選ぶのではなく、そのどちらとも決められないグレーを選ぶことを余儀なくされている。良いか悪いかではなく、そのどちらもある程度含んでいるものを選ばざるをえないのだ。
もう十年近く前になりますが、ある家族の生活費を約一年以上にわたって援助したことがありました。
資金が尽きたとき、その人は離れていきました。信仰へ導くことができなかったことの悔しさを今もおぼえます。
徒労に終わってしまったのかもしれませんが、本当の結果は地上を去ってイエスにまみえる日まではわかりません。
今日電話してくださった方が、地元の教会に繋がってくださるようにと願います。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』12章13-21節 

1.
 イエス様が人々に対してみことばを語っているさなか、ある人が大声でこう呼びかけました。
13節、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」。
しかしイエス様は「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか」と答え、その求めをはねつけます。
 イエス様には、この人が抱えている問題の根っこがどこにあるのかわかっていました。
それは、貪欲です。貪欲とは、決して満たされない欲望をひたすら求め続ける、人の心に潜む悪です。
たとえイエス様が彼ら兄弟のあいだの仲裁役として立ったとしても、その貪欲に気づかない限り、彼らが永久に納得することはありません。
どんな人の中にでも眠っている、貪欲に気づかせてくれるのはみことばです。しかしどうでしょうか。
みことばを聞いてもこの人は自分の貪欲に気づかず、むしろその貪欲を自分の願う方向へと満たすためにイエス様を利用しようとしました。
彼はイエス様を、救い主ではなくて調停者としか見ていませんでした。
救いを求めてイエスのことばを聞いていたのではなく、この人ならば兄弟をうまく丸め込み相続を有利に進めてくれるだろう、と。
 使徒パウロは、このような人のことを、「敬虔を利得の手段と考えている人々」と呼び、批判しています。
これはとくに現代の日本において、決して無視できないことばです。
私たちは神のことばを行うことによって祝福を受けます。しかし神のことばを行うというのは、人を変えることではなくて、自分が変わることです。
みことばを行うことによって祝福を受けるとは、外からビジネスチャンスが舞い込んでくることではありません。
富んでいるときにも、貧しいときにも、健康なときにも病気のときにも、あらゆるときに、私たちは感謝して満ち足りることを知るということです。
みことばを行うことで、むしろ私たちはこの世では迫害や不利益さえ生じることもあります。
しかしそれでも神のことばのゆえに苦しみも厭わない人は、次に用意されている新しい天と地においては、栄冠を受ける勝利者となります。
逆にイエスを信じていればこの世で楽に生きていくことができると考えている人は、失望して信仰から離れてしまうことになるでしょう。
 私たちはどちらを選び取るでしょうか。答えは決まっています。
もし私たちが本当にイエス・キリストの十字架を信じて救われたのならば、義のために苦しむ道しか残されていないのです。
なぜならば、信じたときに私たちの内に入ってくださった御霊が、あえてそのような道に私たちを強いて行かせるからです。
だからイエス様は別のところでこう語られました。「義のために迫害されている者は幸いです」と。
もし私たちの生活の中に、キリストを信じるがゆえの苦難があるならば、それは私たちが主に従っているがゆえのバロメーターになります。
しかし自ら策を講じて苦難を避けようとする生活を繰り返しているならば、信仰は成長しません。
この世の知恵には熟達しても、信仰はいつまでも幼児のままです。聖霊の御声にいつも従っていくものでありたいものです。続きを読む
posted by 近 at 17:22 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.9.10「同じようにできますか」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
この前の日曜日、私が代務をしている村上福音キリスト教会の新会堂建築工事の起工式・定礎式を行いました。
ほっとしたのでしょうか、その後体調を崩してしまい、今朝まで丸二日間寝込んでおりました。
そんなわけでブログのアップデートも遅れてしまい申し訳ありません。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』10章25-37節 

1.
 今日の聖書は、「よきサマリヤ人のたとえ」と呼ばれており、クリスチャン以外の人にもよく知られております。
しかし有名な箇所であるにもかかわらず、多くの人がその内容を誤解しております。
というのは、この物語のまとめが「私たちもこのサマリヤ人のように、困っている人たちを助けましょう」としばしば受け止められてしまうからです。
もちろん、私たちがこのサマリヤ人のとった行動を模範として歩むことは間違いではありません。
しかしこの物語をイエス様が語られたのは、よい行いをしたからといって神の国に入れるわけではない、ということを示すためでした。
神の国に入る資格は行いではなく、信仰です。
それを示すためにこのサマリヤ人のたとえが語られたのに、クリスチャン、ノンクリスチャン例外なく、この物語から行いを強調します。
 しかし今日の物語をよく味わっていただきたいと思います。
行いによって救われると普段から語っていた祭司やレビ人は、肝心なところでこの半殺しの旅人を見捨てました。
一方でユダヤ人から忌み嫌われていたサマリヤ人は、かわいそうに思い、介抱しただけでなく、この後も私が責任を持ちます、と言いました。
大事なキーワードは「彼を見てかわいそうに思い」という言葉です。
普段は憎み憎まれる関係にありながら「かわいそうに思った」のは、人間の意志の力ではなく、聖霊がこの人の心と行動を導いたからです。
しかしこの律法学者は最後まで気づいていません。彼にとっては「あわれみをかけてやった」です。
「かけてやった」というのは人の意志です。そうではなく、サマリヤ人の心が聖霊によってとらえられたからこそ、彼の中に愛が生まれました。
このサマリヤ人の行動だけを真似しようとしても、それは偽善です。偽善の偽は、人の為すことと書くと同時に、人の為とも書きます。
「人のためだ」という言葉は、じつは自己満足で付き合っている行動を正当化する言い訳になります。
私たちは、このサマリヤ人の物語を読み、行動だけを模範としないように気をつけなければなりません。
イエス様が言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」とは、行動を指しているのではないのです。
行動をつかさどる、心の中の動機を、人間の意志や情熱ではなく、聖霊が私を導いてくださるように祈りなさい。
あなたの人生と生活をキリストの御霊に明け渡しなさい、と命じておられます。
その視点を最後まで忘れることなく、私たちはこの聖書の物語を味わっていきましょう。続きを読む
posted by 近 at 08:10 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.9.3「赦せない友へ」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
私は説教のタイトルをつけるのに苦労するタイプですが、今日の説教題「赦せない友へ」は説教を書き終えた後、すぐに決まりました。
誤解されるようなタイトルですが、二つの意味をかけています。
ひとつは、救われた後もまだ誰かを赦せない思いの中で苦しんでいる、友人のクリスチャンたちへ。
もうひとつは、牧師として歩んではいても、誰かさんに対する赦せない思いを抱えている自分自身へ。
たとえ人間の感情では赦せない相手であっても、その人はキリストにあって私の友なのだ、と。
ちなみに赦せない相手とは当教会員ではありませんので、念のため。つまずかないでくださいネ。週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』18章21-35節 

1.
 「赦せない人がいる」という相談を受けることがあります。
そしてその相談者もクリスチャンで、赦せないという相手もクリスチャン、場合によっては同じ教会員、ということもあります。
いやあ、世の中には人間が80億もいるんですから、赦せない人だって一人や二人はいるでしょ、という軽いノリで答えたいところですが、
真面目なクリスチャンからの相談の場合、牧師も真面目に答えなければいけません。なぜかというと、次にこういう質問が来るからです。
「でも、私が他人の罪を赦さなければ、神様も私の罪を赦してくださらない、と聖書に書いてあるじゃないですか。
だから私は赦したいのです。でもあの人が私にしたことを思うと、頭に血が上って、どうしても赦せないのです」。
 今日の聖書箇所は、まさにその、「聖書にこう書いてあるじゃないですか」と引用される箇所です。
「兄弟が私に罪を犯したら七度まで赦すべきですか」と聞いてきたペテロに、イエス様は「七度を七十倍するまで」と答えられました。
言うまでもなくこれは490回まで赦せという意味ではありません。完全数七をさらに七十倍、すなわち無限に赦しなさい、ということです。
さすがイエス様、懐がデカイ!と言いたいところですが、実際に赦せない相手を持っている人には、あまりにも酷な命令です。
さらにイエス様は「あなたがたも心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさる」とさえ言われました。
赦さなければ、私たちは天の神様から救いを取り上げられて、永遠の地獄へと落とされるということなのでしょうか。
 しかしイエス様のたとえ話に出てくる、この悪いしもべが「借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した」という言葉を誤解しないでください。
これは、私たちも人を赦さないならば、せっかく与えられた救いを取り上げて地獄に投げ込まれる、という意味では決してありません。
聖書は、私たちの救いが絶対であるということを教えています。
それは、イエス様の十字架は、過去犯してしまった罪だけでなく、将来に犯してしまう罪のさばきも引き受ける、完全な救いだからです。
すでに信じて救われた私たちが、だれかを赦さないからと言ってその救いを取り上げられて結局地獄に落とされるということは決してありません。
そもそも、地獄とは永遠につづく、いつまでも終わりのないさばきです。
もし「借金を全部返すまで」という期限つきの地獄があったとしたら、そんなものは地獄の名に値しない偽物でしょう。続きを読む
posted by 近 at 20:49 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.8.27「心を耕されよ」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
教会には毎週たくさんのダイレクトメールが届きますが、「なぜこれをウチに送ってきた?」と首をかしげるものも少なくありません。
先日届けられた、『事例式 寺院・墓地トラブル解決の手引』(新日本法規出版)も、そんな中のひとつ。
チラシには「寺院と檀家などの間で生じるさまざまなトラブルをこの1冊で解決!!」とあります。
事例紹介をめくってみると、ひとつとしてキリスト教会の墓地についての記載はありません。なぜ送ってきたのでしょうか。
なるほどお寺の世界はこうなっているのかという知識はつきますが、ちょっと内容が過激です。
「寺の方針に異議を唱える檀家を離壇させたい」
「破門した弟子から賃金を要求されてしまった」
「宗務総長選挙に落選したので宗派離脱の通知をした」
「教師資格のない息子を後任住職にするため、宗派を離脱し単立化したい」
しかしもちろんこれらは極端な例で、宗教は違えど「わかるわかる」と思うような事例もありました。
「住職の妻や息子は、もっと寺に関わるべきだと言われた」
「寺の将来を考え何かイベントをするべきだと檀家から言われた」
「早朝の鐘の音がうるさいと苦情がある」「自宅から墓地が見えて不愉快だと言われた」
住職の家族も、牧師の家族と同じ悩みを抱えているのでしょうか。週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』13章1-23節 

1.
 牧師になるために私が神学校で学んでいた頃、ある先生が神学生を相手に、この箇所から語ってくださいました。
イエス様が教えられた、種が成長するために大事なことは、どんな種をまくかではない。だれが種をまくかでもない。
問題は、どこに蒔かれたか、ということなのだ。
だから君たちは、将来教会に遣わされた時には、どこからみことばを語るかで、悩んではいけない。
自分の説教のまずさを嘆いてはいけない。だからもし信徒が君たちの説教を批判してきたら、「土が悪かったんだ」と胸をはれ。
しかしそれは心の中の確信にとどめておいて、素直に「ごめんなさい」と謝りなさい。それが牧会の長続きするコツである、と。
 聞いていた神学生は苦笑しましたが、確かにイエス様が丹念に語っているのは、
何を蒔いたか、だれが蒔いたか、ではなく、どこに蒔かれたか、ということであることは間違いありません。
道ばた、薄い岩地、茨の中、柔らかい地、そのどれも、みことばという種を受け止めた人の心を表しています。
この道ばたや柔らかい地というのは、その人のそれまでの人生経験や家庭環境から作り出されるものではありません。
幼い頃から両親の愛に育まれ、教養に溢れた人でも、道ばたのように、みことばに対して頑なな心を持つ人がいます。
かと思うと悪習慣や犯罪に手を染め続けていた人が、たまたま聞いたみことばに心を突き刺され、人生を180度変えられる、
すなわち柔らかい地であった人がいます。それは100%、人ではなくて聖霊なる神の働きです。
その日、礼拝が始まったときにも、抱えている仕事の不安が落ち着かず、心そぞろであった人が、
その礼拝の説教を通して、自分の不信仰を示されて、悔い改めるということがよく起こります。
これは、道ばたとか柔らかい地というのが、人間の力ではなく、聖霊なる神の働きによることを示しています。
だから私たちは、今、自分の心がどうであろうと、今までの生活がどうであろうと、
自分は道ばた、自分は茨、と自己評価する必要はありません。ただひとつ、聖霊なる神が私の心から石を取り除き、クワで掘り起こし、
みことばを受け入れることのできる柔らかい地に変えてくださいと願いながら、みことばを受け止めていきましょう。続きを読む
posted by 近 at 18:02 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.8.20「神の家族の破れそして回復」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『創世記』16章1-16節 

1.
 「あのとき、あんなことを言わなければよかった」「あんなことをしなければよかった」。そんな後悔に引きずられる経験はないでしょうか。
こんな失敗に共通しているのが、「焦り」です。焦っていなければ、もっとじっくりと考えることができたはず。そう後悔している人は多いのです。
焦りの中で、神のみこころとは真逆の行動へと向かってしまったのが、このアブラムの妻、サライでした。
彼女は、やがて子どもを産むという確かな約束を神様から与えられていました。
しかしその約束にかかわらず、神様の時計は何年も止まってしまっているかのように見える。そして自分はどんどん年をとっていく。
その焦りの中で、彼女は夫アブラムにこのように訴えました。2節をお読みします。
「ご存じのように、主は私が子供を産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。
たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう」。
サライは、神を信じています。しかし彼女にとって、神は子どもを与えてくださる方ではなく、子どもを産めないようにしておられる方でした。
焦りは、神への不信感を生み、神への不信感は、神なしで目的を達成しようとする誤った行動へと私たちを駆り立てます。
彼女は、どうしても子どもが欲しかった。
自分のお腹から子どもが生まれるといういつになるかわからない約束よりも、今すぐ子どもを胸に抱きたかった。
そしてサライは、自分の女奴隷ハガルに代理出産をさせることで、子どもの母になろうとしたのです。

 なぜ神は、サライが子どもを産めないようにしておられたのでしょうか。
それは人間的な期待、希望的観測がすべて打ち砕かれたときにこそ、私たちは神の恵みの中にしがみつく者となるからです。
たとえ86歳の年寄りのアブラムでも、若いハガルとならば子どもをつくることができる、サライはそう考えました。
この考えこそ、まだ人間の力に拠り頼んでいる証拠です。私たちが手に力をこめているあいだは、神は奇跡を起こしません。
私がこの手にこめる力も失い、もう何もできない、自分自身には何も期待できない、と絶望するときに、初めて神の力が私を覆います。
私が自分の能力を頼みとしているとき、神は動いてくださいません。
いやむしろ、私たちの我、エゴが心の中に充満しているがゆえに、聖霊が自由に働くことができない、と言ったほうがよいでしょう。
しかし私は何もできないものだということを痛感するとき、そこで初めて神の力が内側から私を変えていきます。
サライとアブラムはそれを知るべきでした。そして私たちひとり一人も。続きを読む
posted by 近 at 16:57 | Comment(0) | 2017年のメッセージ