こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
説教冒頭にあるボウフラの話、ある著名な牧師(故人)から聞いたのですが、平成の人間には相当まゆつばもの。
語っている最中も、頻繁に頷く熟年層もいれば、ホントかよという顔の若年層もおりました。
しかし沖縄の某企業のブログに、同じような話を発見!!これで安心して眠れます。週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの手紙 第一』1章1-10節
1.
「ドラム缶に雨水をためて飲み水にしていた」なんて話を聞いて、イメージがわくでしょうか。
決して無人島の生活ではなくて、戦前戦後の貧しい時代にはそんな光景がよく見られたそうです。
そんな時代、あるクリスチャン青年が落ち込んだ顔をして、ある夜、牧師のところに相談に来ました。
「先生、ぼくはもうクリスチャンになってずいぶん経ちますが、いまだに罪ばかり犯してしまうのです。
ぼくも確かにイエス様を信じて救われたはずなのですが、こんな罪人のままでは、洗礼を授けてくださった先生に申し訳ないのです」。
すると牧師先生が、青年にこう言いました。「よしわかった。今日はもう遅い。明日、朝一番に来なさい」。
翌朝早く、牧師先生はその青年を例の、雨水をためて飲み水にしているというドラム缶の前に連れてきました。
なんと水の中には至る所ボウフラがわいています。
牧師が尋ねました。「君、この水をくんで沸かしたいのだが、ボウフラばかりだよ。どうすればいいと思うかね」。
すると青年は、そばにあった棒でドラム缶を思いっきりたたきました。ボウフラが騒いで、しばらくすると底に沈んでいきました。
そして先生がさっと鍋で水をくんで、言いました。
「救われる前の、私たち罪人の心は泥水のようなものだ。あまりにも汚れていて、底も見えないほどだった。
しかし救われて水がきれいになると、今度は今まで見えなかった小さな罪が浮かんでくるのだ。
このボウフラみたいなものだ。だがその罪に気づいたら、そのたびにこうして胸を打ちたたいて、十字架のイエス様にすがりなさい。
罪はまた沈んでいく。救われるということは罪を犯さなくなることではなく、罪が今までよりもよく見えるということだ。
君の心が罪を自覚するたびに、イエス様を呼びなさい。」続きを読む
最近の記事
(04/20)重要なお知らせ
(09/23)2023.9.17「家族を顧みない信仰者」(創世19:1-8,30-38)
(09/17)2023.9.17主日礼拝のライブ中継
(09/15)2023.9.10「安息日は喜びの日」(マルコ2:23-3:6)
(09/08)2023.9.3「私たちはキリストの花嫁」(マルコ2:18-22)
(09/23)2023.9.17「家族を顧みない信仰者」(創世19:1-8,30-38)
(09/17)2023.9.17主日礼拝のライブ中継
(09/15)2023.9.10「安息日は喜びの日」(マルコ2:23-3:6)
(09/08)2023.9.3「私たちはキリストの花嫁」(マルコ2:18-22)
2017.8.13「もし罪はないと言うなら」
posted by 近 at 14:49
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| 2017年のメッセージ
2017.8.6「わが心に立つバベルの砦」
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
「恋愛と伝道は一緒」なんて言ったら、つまずきになってしまうかもしれませんが、
言葉を尽くして自分の思いを伝えるという意味では、両者は似通っているのではないかと思うのです。
もちろん人を救いの決心に導くのは、聖霊の働きです。
しかしそれまでの信頼関係の積み上げや、言葉を尽くして自分の思いを伝えようとする「努力」は無駄にはなりません。
バベルの塔の物語は、人間同士、言葉が通じ合わなくなった悲劇です。
しかしむしろ言葉が通じないからこそ、人は自分の持っているすべてを動員してコミュニケートしようとします。
言葉が自由に通じるならば、そこまで自分をさらけ出さなくても済むでしょう。
しかしあえて清水の舞台、いやバベルの屋上から飛び降りる覚悟で臨まなければ、どうしても伝えられないことがあるのです。
だれでも、好きになった相手にそんな経験があるのではないでしょうか。
そして、伝道もまさにそうです。目の前の人を救うために、言葉を尽くして、救い主イエスを伝えます。
だからこそ、一度や二度、言葉が通じなかったからやめてしまうということがないように。
「バベルの塔を築くのをやめてはならない」という意味ではありませんので、そのへんは誤解しないでください。週報はこちらです。
聖書箇所 『創世記』11章1-9節
序.
先週、リース元宣教師が天に召されたという知らせが入りました。リース先生と聞いてもご存じない方もいるかもしれません。
二年半前にやはり天に召されたマクダニエル元宣教師とともに、新潟の教会の礎を築くために労してくださった方です。
豊栄を担当してくださったのは主にマクダニエル先生でしたが、リース先生は今の山の下福音教会を中心に活動をされていました。
新潟で働いてくださった数々の宣教師の方々の中でも、リース、マクダニエル先生の滞在期間は群を抜いていました。
先生方の働きがあったからこそ、私たち宣教区の諸教会は今に至るまで守られていると言えます。
豊栄キリスト教会の45周年記念誌の中にも、先生方が豊栄を訪問してくれたときの写真が幾つも載っています。
感謝ととともに、ご遺族、とくに奥様の上に豊かな慰めがありますようにと祈ります。
1.
二年前、宣教区でマクダニエル先生の追悼文集を作りました。リース先生に対しても、同じようにしたいと思っています。
文集作業で一番大変だったのは、40人から寄せられた原稿を、アメリカのご遺族に送るために英語に訳するという作業でした。
私が半年くらいかけて訳したのですが、いま思い出そうとしても、その頃の記憶が欠けているのです。
どうやら脳が思い出すことを拒否しているようです。日本語を英語に直す、それは大変な作業でした。
そこで今日の1節のことばをかみしめます。「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった」。
うらやましい。ただそれだけです。日本語から英語に直し、英語から日本語に直すとかいうような悩みのまったくない世界。
英検何級とか、トーフル(TOEFL)何点とかで、頭の良さを評価されない、すばらしい世界。
しかしかつて世界が一つの言葉だったという事実を、聖書は祝福として描いておりません。
むしろ一つの言葉であったゆえに、一人の言葉が瞬く間に広がって、みなが集まって罪の下り坂を転げ落ちていく様を描いています。
この11章の直前、洪水後の世界に降り立った、人類の生き残り、ノアたち8人に対して、神は次のように語られました。
「生めよ、増えよ、地を満たせ」。しかしノアの子孫から増えていった人類は、この神の命令とは真逆の道を愛しました。
4節をご覧ください。「そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。
われわれが全地に散らされるといけないから」。「地を満たせ」と「地に散らされるといけないから」。
このとき、神のみこころと、人の願いは、まったく逆を向いていました。続きを読む
「恋愛と伝道は一緒」なんて言ったら、つまずきになってしまうかもしれませんが、
言葉を尽くして自分の思いを伝えるという意味では、両者は似通っているのではないかと思うのです。
もちろん人を救いの決心に導くのは、聖霊の働きです。
しかしそれまでの信頼関係の積み上げや、言葉を尽くして自分の思いを伝えようとする「努力」は無駄にはなりません。
バベルの塔の物語は、人間同士、言葉が通じ合わなくなった悲劇です。
しかしむしろ言葉が通じないからこそ、人は自分の持っているすべてを動員してコミュニケートしようとします。
言葉が自由に通じるならば、そこまで自分をさらけ出さなくても済むでしょう。
しかしあえて清水の舞台、いやバベルの屋上から飛び降りる覚悟で臨まなければ、どうしても伝えられないことがあるのです。
だれでも、好きになった相手にそんな経験があるのではないでしょうか。
そして、伝道もまさにそうです。目の前の人を救うために、言葉を尽くして、救い主イエスを伝えます。
だからこそ、一度や二度、言葉が通じなかったからやめてしまうということがないように。
「バベルの塔を築くのをやめてはならない」という意味ではありませんので、そのへんは誤解しないでください。週報はこちらです。
聖書箇所 『創世記』11章1-9節
序.
先週、リース元宣教師が天に召されたという知らせが入りました。リース先生と聞いてもご存じない方もいるかもしれません。
二年半前にやはり天に召されたマクダニエル元宣教師とともに、新潟の教会の礎を築くために労してくださった方です。
豊栄を担当してくださったのは主にマクダニエル先生でしたが、リース先生は今の山の下福音教会を中心に活動をされていました。
新潟で働いてくださった数々の宣教師の方々の中でも、リース、マクダニエル先生の滞在期間は群を抜いていました。
先生方の働きがあったからこそ、私たち宣教区の諸教会は今に至るまで守られていると言えます。
豊栄キリスト教会の45周年記念誌の中にも、先生方が豊栄を訪問してくれたときの写真が幾つも載っています。
感謝ととともに、ご遺族、とくに奥様の上に豊かな慰めがありますようにと祈ります。
1.
二年前、宣教区でマクダニエル先生の追悼文集を作りました。リース先生に対しても、同じようにしたいと思っています。
文集作業で一番大変だったのは、40人から寄せられた原稿を、アメリカのご遺族に送るために英語に訳するという作業でした。
私が半年くらいかけて訳したのですが、いま思い出そうとしても、その頃の記憶が欠けているのです。
どうやら脳が思い出すことを拒否しているようです。日本語を英語に直す、それは大変な作業でした。
そこで今日の1節のことばをかみしめます。「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった」。
うらやましい。ただそれだけです。日本語から英語に直し、英語から日本語に直すとかいうような悩みのまったくない世界。
英検何級とか、トーフル(TOEFL)何点とかで、頭の良さを評価されない、すばらしい世界。
しかしかつて世界が一つの言葉だったという事実を、聖書は祝福として描いておりません。
むしろ一つの言葉であったゆえに、一人の言葉が瞬く間に広がって、みなが集まって罪の下り坂を転げ落ちていく様を描いています。
この11章の直前、洪水後の世界に降り立った、人類の生き残り、ノアたち8人に対して、神は次のように語られました。
「生めよ、増えよ、地を満たせ」。しかしノアの子孫から増えていった人類は、この神の命令とは真逆の道を愛しました。
4節をご覧ください。「そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。
われわれが全地に散らされるといけないから」。「地を満たせ」と「地に散らされるといけないから」。
このとき、神のみこころと、人の願いは、まったく逆を向いていました。続きを読む
posted by 近 at 17:22
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| 2017年のメッセージ
2017.7.30「信仰が弱まったとき」
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
故星新一氏の小説に「おーい出てこーい」というものがあります。(いつかの説教でも紹介しました)
道ばたに底知れぬ穴があり、最初にそれを見つけた人が小石を投げ入れます。跳ね返る音もしない深い穴でした。
やがて人々は家庭ゴミ、産業廃棄物、使用済核燃料、○○!だのを次から次へと投げ込んでいきました。
穴はそれらを何事もなく吸い込み、そして何事もなかったかのように存在し続けました。
やがて投げ込んだものを人々が忘れてしまうほど時間が経った頃に、空からひとつの小石が落ちてきます。
小説はそんな不気味なラスト(後はわかるな?)で終わっています。この一週間、私も似た経験をしました。
人の心は底の知れぬ穴のようですが、そこに投げ入れてしまったものは必ず後になって自分に返ってきます。
悪しきものを投げ入れていたことを悔い改めるとともに、投げ入れない勇気を持ちたいと思います。
行き場を失った私たちのすべての悪しき思い・・・そんなものさえも完全に受け止めてくださるイエス様にただ感謝をささげながら。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』11章17-45節
序.
まず最初に、先週の説教を振り返ってみます。ベタニヤ村に、マルタ、マリヤ、ラザロという三人の兄弟姉妹が住んでいました。
マルタ、マリヤが女性、ラザロが男性です。今、そのラザロが死にかけていました。
そこでふたりの姉妹は、ふだんから親しくしていたイエス・キリストに使いを送り、この言葉を託しました。
その言葉が3節に記されております。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」。
先週も触れましたが、ここで彼女たちは「ラザロ」と名前を挙げません。「ベタニヤに来て、ラザロをいやしてください」とも頼みません。
ベタニヤから3キロしか離れていないエルサレムの、宗教指導者たちがイエスの命を狙っていることをよく知っていたからです。
だから彼女たちの思いはこうでした。
「主よ。私たちはあなたが今置かれている状況を知っております。ただ、あなたの目をこのベタニヤ村に向かって注いでください。
あなたが愛してくださった者が死にかけていることを、そのお心にとめてください」。
何とすばらしい信仰でしょうか。そしてこの信仰がなくならないように、イエス様は次のことばを使いに託しました。
4節、「この病は、死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」。
これは、ただの慰めの言葉ではありません。
イエス様は、マルタとマリヤが、悲しみの中で信仰が衰えることがないように、この言葉を心の中にとどめておくように願っておられたのです。
40節には、イエス様がマルタに次のように言われています。
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」。
これがまさに4節の言葉を指しているのです。わたしがあなたにあらかじめ伝えておいた、あのみことばを忘れてはいけないよ、と。続きを読む
故星新一氏の小説に「おーい出てこーい」というものがあります。(いつかの説教でも紹介しました)
道ばたに底知れぬ穴があり、最初にそれを見つけた人が小石を投げ入れます。跳ね返る音もしない深い穴でした。
やがて人々は家庭ゴミ、産業廃棄物、使用済核燃料、○○!だのを次から次へと投げ込んでいきました。
穴はそれらを何事もなく吸い込み、そして何事もなかったかのように存在し続けました。
やがて投げ込んだものを人々が忘れてしまうほど時間が経った頃に、空からひとつの小石が落ちてきます。
小説はそんな不気味なラスト(後はわかるな?)で終わっています。この一週間、私も似た経験をしました。
人の心は底の知れぬ穴のようですが、そこに投げ入れてしまったものは必ず後になって自分に返ってきます。
悪しきものを投げ入れていたことを悔い改めるとともに、投げ入れない勇気を持ちたいと思います。
行き場を失った私たちのすべての悪しき思い・・・そんなものさえも完全に受け止めてくださるイエス様にただ感謝をささげながら。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』11章17-45節
序.
まず最初に、先週の説教を振り返ってみます。ベタニヤ村に、マルタ、マリヤ、ラザロという三人の兄弟姉妹が住んでいました。
マルタ、マリヤが女性、ラザロが男性です。今、そのラザロが死にかけていました。
そこでふたりの姉妹は、ふだんから親しくしていたイエス・キリストに使いを送り、この言葉を託しました。
その言葉が3節に記されております。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」。
先週も触れましたが、ここで彼女たちは「ラザロ」と名前を挙げません。「ベタニヤに来て、ラザロをいやしてください」とも頼みません。
ベタニヤから3キロしか離れていないエルサレムの、宗教指導者たちがイエスの命を狙っていることをよく知っていたからです。
だから彼女たちの思いはこうでした。
「主よ。私たちはあなたが今置かれている状況を知っております。ただ、あなたの目をこのベタニヤ村に向かって注いでください。
あなたが愛してくださった者が死にかけていることを、そのお心にとめてください」。
何とすばらしい信仰でしょうか。そしてこの信仰がなくならないように、イエス様は次のことばを使いに託しました。
4節、「この病は、死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」。
これは、ただの慰めの言葉ではありません。
イエス様は、マルタとマリヤが、悲しみの中で信仰が衰えることがないように、この言葉を心の中にとどめておくように願っておられたのです。
40節には、イエス様がマルタに次のように言われています。
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」。
これがまさに4節の言葉を指しているのです。わたしがあなたにあらかじめ伝えておいた、あのみことばを忘れてはいけないよ、と。続きを読む
posted by 近 at 10:22
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| 2017年のメッセージ
2017.7.23「みこころがわからなくても」
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』11章1-16節
序.
先週、日野原重明先生が天に召されたのは、私にとって少なからずショックでありました。
昨日も宣教区で子育て講演会がありましたが、
若い人が胸を張って子育てができる社会は、まず高齢者が胸を張って生きていける社会でなければ、下の世代は成長しません。
二十年前の話ですが、当時の市長が百歳の半寝たきりのお年寄りを訪問したときに、
その方がベッドの上で上半身ひれ伏して、「こんなに長生きしてごめんなさい」と言ったということを役所の先輩から聞いたことがあります。
ですから日野原先生には120歳まで生きていてほしかったと思いました。
じつは私は、日野原先生と競争をしていたのです。
日野原先生がこれからは神様のために生きると誓ったよど号ハイジャック事件は、ちょうど私が生まれる一年ちょっと前のでできごとだと知って、
日野原先生はその後の47年の人生を、私は46年の人生を、お互いに悔いのないように神様のために生きよう、と。
お互いにと言っても、ご本人と約束したわけではなく、私の勝手な決意なのですが。
しかし目標のある人生というのは、張りが生まれます。
日野原先生が先に天に召されましたので、私が「生き方競争」に勝利を収めるのは時間の問題と思われますが、
神にささげたわが人生に悔いなしと、いずれ私が天に召されるときに思えるかどうか。
それはみなさんが私の説教と牧会にちゃんと答えてくださるかどうかにかかっております。よろしくお願いいたします。続きを読む
週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』11章1-16節
序.
先週、日野原重明先生が天に召されたのは、私にとって少なからずショックでありました。
昨日も宣教区で子育て講演会がありましたが、
若い人が胸を張って子育てができる社会は、まず高齢者が胸を張って生きていける社会でなければ、下の世代は成長しません。
二十年前の話ですが、当時の市長が百歳の半寝たきりのお年寄りを訪問したときに、
その方がベッドの上で上半身ひれ伏して、「こんなに長生きしてごめんなさい」と言ったということを役所の先輩から聞いたことがあります。
ですから日野原先生には120歳まで生きていてほしかったと思いました。
じつは私は、日野原先生と競争をしていたのです。
日野原先生がこれからは神様のために生きると誓ったよど号ハイジャック事件は、ちょうど私が生まれる一年ちょっと前のでできごとだと知って、
日野原先生はその後の47年の人生を、私は46年の人生を、お互いに悔いのないように神様のために生きよう、と。
お互いにと言っても、ご本人と約束したわけではなく、私の勝手な決意なのですが。
しかし目標のある人生というのは、張りが生まれます。
日野原先生が先に天に召されましたので、私が「生き方競争」に勝利を収めるのは時間の問題と思われますが、
神にささげたわが人生に悔いなしと、いずれ私が天に召されるときに思えるかどうか。
それはみなさんが私の説教と牧会にちゃんと答えてくださるかどうかにかかっております。よろしくお願いいたします。続きを読む
posted by 近 at 14:38
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| 2017年のメッセージ
2017.7.16「新しい『今』を生きる」

日野原重明先生が天に召されました。105歳だったそうです。
先月末に行われた村上市内の新会堂説明会でも、
日野原先生と星野富弘さんの対談トラクトを配らせていただいた矢先でした。
今頃、天で羽鳥明先生と親しく話し合われている頃でしょうか。
ご遺族の方々の上に励ましがありますように。週報はこちらです。
「生涯現役」として著作や講演など幅広く活動してきた聖路加国際病院名誉院長の
日野原重明(ひのはら・しげあき)さんが、18日午前6時33分、呼吸不全で死去した。
105歳だった。通夜・お別れの会は関係者で行う。
葬儀は29日午後1時から東京都港区南青山2の33の20の東京都青山葬儀所で。
(朝日新聞デジタル)
聖書箇所 『ヨハネの福音書』8章1-11節
序.
いまヒアリという猛毒の昆虫が問題になっておりますが、「罪」という漢字を書くたびに、私は毛虫を連想してぞわっとしてしまいます。
上の「四」に似た字は大きな目のついた頭の部分、下の「非」に似た字は、たくさんの足がついた胴体の部分。
毛虫には罪がありませんので、向こうからしたら迷惑な話だ、と言われるかもしれませんが。
漢字に詳しい人に聞くと、「罪」という象形文字は、毛虫ではなくむしろ人間そのものを指しているということでした。
とくに下の部分、ここが二つに分かれているのは、罪というのは人間そのものを真ん中から分裂させるものを表しているのだ、と言います。
心を分裂させるだけではなく、生活を分裂させます。自分を分裂させるだけではなく、家族も分裂させます。
家族だけではなく、民族を、国家を、世界を分裂させます。
そしてすべての人間が生まれた時にこの罪を持っているのだ、と、聖書は至る所で語っています。
「義人はいない。ひとりもいない」(ロマ3:10)。「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった」(同12節)。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」(同23節)と。
だれもが罪を犯しているのには変わらないのに、自分が罪人であることに気づかない。
むしろ他人の罪を批判することで、自分が他人よりはましな人間なんだと安心するために利用する。
このヨハネ8章に登場する者たちすべてが、イエス様を除き、罪人です。
姦淫の現場を捕らえられた女性、その姦淫の罪を鼻高々に訴える律法学者たち、そして第三者としてそれを眺めている群衆たち。
しかし最後には、この女性を除き、みなが罪を認めて出て行きました。私たちも、その中に含まれているのでしょうか。
願わくは、罪を認めてそこから出て行くのではなく、罪を認めたからこそイエス様のもとに留まった、この女性のようでありたいものです。続きを読む
posted by 近 at 11:38
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| 2017年のメッセージ
2017.7.9「天を仰げば」
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』5章17-26節
1.
イエス様は、どんな病でもいやしてくださる。そんな噂が村から村へ、町から町へと広がっていました。
パリサイ人や律法の教師たちは、怪しげなイエスという男の尻尾をつかんでやろうと考えていたのでしょう。
彼らも含めて、今日もイエス様の周りには足の踏み場もないほどの人だかりができていました。
野外ならまだしも、それが家の中ですから、集まった人々も大変です。
そんな中、突然天井からばりばりという物音が聞こえました。でかいネズミか、それとも晴天の落雷か。
みなが驚いて天井を見上げます。あれ、目が痛い。ほこりや、漆喰のかけらや、木の切れ端がぱらぱらと落ちてくるではありませんか。
当時のユダヤの家屋は屋根がはがしやすい構造になっていました。しかしそれでも、屋根を外すなんて非常識です。
人々が声を上げるなか、四隅を縄でつり下げられて、寝床がゆっくりと真ん中におろされてきました。
そこに寝かされていたのは、寝たきりの中風の人でした。四隅の縄を天井でつかんでいたのは、おそらく彼の友人たちでしょう。
この招かれざる客人を、イエス様はどのように見上げられたのでしょうか。
しかし、イエス様が見つめておられたのは、ぶち破られた屋根でもなく、吊り下げられた寝床でもありませんでした。
20節にはこう書いてあります。「イエスは彼らの信仰を見て」と。「彼らの信仰」とは何でしょうか。
それは、たとえ人々から非常識だと後ろ指を指されても、神に近づこうとする信仰です。
「彼ら」の中には、この友人だけでなく、この寝床に伏している中風の人も含まれています。
イエスは彼らの破天荒な行いを、「信仰」として認められました。私たちの常識や理性が、私たちを神に近づけるのではありません。
たとえ人の目にはどう映ろうとも、イエス様ならば何とかしてくださると信じて、ひたすら主に近づいていくこと。
それがイエスの認められた信仰です。続きを読む
週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』5章17-26節
1.
イエス様は、どんな病でもいやしてくださる。そんな噂が村から村へ、町から町へと広がっていました。
パリサイ人や律法の教師たちは、怪しげなイエスという男の尻尾をつかんでやろうと考えていたのでしょう。
彼らも含めて、今日もイエス様の周りには足の踏み場もないほどの人だかりができていました。
野外ならまだしも、それが家の中ですから、集まった人々も大変です。
そんな中、突然天井からばりばりという物音が聞こえました。でかいネズミか、それとも晴天の落雷か。
みなが驚いて天井を見上げます。あれ、目が痛い。ほこりや、漆喰のかけらや、木の切れ端がぱらぱらと落ちてくるではありませんか。
当時のユダヤの家屋は屋根がはがしやすい構造になっていました。しかしそれでも、屋根を外すなんて非常識です。
人々が声を上げるなか、四隅を縄でつり下げられて、寝床がゆっくりと真ん中におろされてきました。
そこに寝かされていたのは、寝たきりの中風の人でした。四隅の縄を天井でつかんでいたのは、おそらく彼の友人たちでしょう。
この招かれざる客人を、イエス様はどのように見上げられたのでしょうか。
しかし、イエス様が見つめておられたのは、ぶち破られた屋根でもなく、吊り下げられた寝床でもありませんでした。
20節にはこう書いてあります。「イエスは彼らの信仰を見て」と。「彼らの信仰」とは何でしょうか。
それは、たとえ人々から非常識だと後ろ指を指されても、神に近づこうとする信仰です。
「彼ら」の中には、この友人だけでなく、この寝床に伏している中風の人も含まれています。
イエスは彼らの破天荒な行いを、「信仰」として認められました。私たちの常識や理性が、私たちを神に近づけるのではありません。
たとえ人の目にはどう映ろうとも、イエス様ならば何とかしてくださると信じて、ひたすら主に近づいていくこと。
それがイエスの認められた信仰です。続きを読む
posted by 近 at 16:13
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| 2017年のメッセージ
2017.7.2「救いは常識の斜め上」
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
台風が列島を横断し、水害の被害に遭われた方々が多くおられます。
東日本大震災の時もそうでしたが、天地を造られ統べ治める主のみこころは、私たちにはわからないことがあります。
ただ、傷ついた人々にいやしと守りがありますように。週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』3章1-16節
1.
将棋を指す人を棋士と言いますが、先日77歳で棋士を引退された、加藤一二三さんがテレビ番組に出演しておられました。
その中で、彼が羽生三冠名人と別の番組で共演されたとき、羽生三冠からこう聞かれました、と紹介しておられました。
「加藤先生、私も先生のようにいつまでも元気で現役を続けたいのですが、その答えを教えてください。」
そのとき、加藤名人が言いたかったのは、「それはね、自分が30歳の時に洗礼を受けてクリスチャンになったからだよ」ということ。
しかし番組進行の手前、羽生名人に対して単刀直入に洗礼受けなさいよとも言えず、結局、「答えは言わなかった」と。
私の説明だとなかなかニュアンスが伝わらないかもしれませんが、たいへんそのやりとりをかわいくおっしゃるのですね。
司会者の芸人さんが「答え、ないんかい」とお約束の突っ込みで笑いをとっていましたが、答えがないのではなく、答えを言わなかったのです。
にこにこしている加藤名人の顔を見ていると、彼はカトリックで私たちプロテスタントと教派は違いますが、
ああ、信仰を持ったからこそ、この方はいつも平常心で戦ってこられたんだなあ、と感動しました。
彼は30歳で信仰を持ちました。日野原先生は牧師家庭に生まれて洗礼は受けていましたが、信仰に目覚めたのは60歳の時でした。
しかし信仰には手遅れという文字はありません。なぜならば、信仰は神からの賜物ですから、早すぎるとか遅すぎるということはないからです。
ニコデモはそのことを知っていたでしょうか。今日はこの求道者ニコデモについていっしょに考えてみましょう。
ニコデモの年齢については聖書に書いてありませんが、彼は高齢者の仲間入りをしていたと思われます。
そして彼は年齢と共に築き上げてきた様々なものをたずさえて、イエス様のもとにやってきました。
そのひとつは社会的地位です。彼はユダヤ人の指導者であり、パリサイ人でした。年齢と地位は、時として人に過度のプライドをもたらします。
年齢的にも、社会的地位においてもずっと格下であるはずのイエス様に教えを請うことには、ためらいがあったことでしょう。
そのためらいは、人目につくことのない「夜」の訪問という行動に表れています。
しかし一番厄介で、そしてニコデモ自身気づいていなかった壁は「常識」でした。年齢は人生経験をもたらします。
しかし人生経験にばかりよりかかるならば、常識の範囲内に限り神を信じるといういびつな信仰になってしまいます。
イエス様はニコデモが抱えている闇を一瞬で見抜きました。そして長々とあいさつを始めたニコデモに、ずばりと一言こう言われました。
3節、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。続きを読む
台風が列島を横断し、水害の被害に遭われた方々が多くおられます。
東日本大震災の時もそうでしたが、天地を造られ統べ治める主のみこころは、私たちにはわからないことがあります。
ただ、傷ついた人々にいやしと守りがありますように。週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』3章1-16節
1.
将棋を指す人を棋士と言いますが、先日77歳で棋士を引退された、加藤一二三さんがテレビ番組に出演しておられました。
その中で、彼が羽生三冠名人と別の番組で共演されたとき、羽生三冠からこう聞かれました、と紹介しておられました。
「加藤先生、私も先生のようにいつまでも元気で現役を続けたいのですが、その答えを教えてください。」
そのとき、加藤名人が言いたかったのは、「それはね、自分が30歳の時に洗礼を受けてクリスチャンになったからだよ」ということ。
しかし番組進行の手前、羽生名人に対して単刀直入に洗礼受けなさいよとも言えず、結局、「答えは言わなかった」と。
私の説明だとなかなかニュアンスが伝わらないかもしれませんが、たいへんそのやりとりをかわいくおっしゃるのですね。
司会者の芸人さんが「答え、ないんかい」とお約束の突っ込みで笑いをとっていましたが、答えがないのではなく、答えを言わなかったのです。
にこにこしている加藤名人の顔を見ていると、彼はカトリックで私たちプロテスタントと教派は違いますが、
ああ、信仰を持ったからこそ、この方はいつも平常心で戦ってこられたんだなあ、と感動しました。
彼は30歳で信仰を持ちました。日野原先生は牧師家庭に生まれて洗礼は受けていましたが、信仰に目覚めたのは60歳の時でした。
しかし信仰には手遅れという文字はありません。なぜならば、信仰は神からの賜物ですから、早すぎるとか遅すぎるということはないからです。
ニコデモはそのことを知っていたでしょうか。今日はこの求道者ニコデモについていっしょに考えてみましょう。
ニコデモの年齢については聖書に書いてありませんが、彼は高齢者の仲間入りをしていたと思われます。
そして彼は年齢と共に築き上げてきた様々なものをたずさえて、イエス様のもとにやってきました。
そのひとつは社会的地位です。彼はユダヤ人の指導者であり、パリサイ人でした。年齢と地位は、時として人に過度のプライドをもたらします。
年齢的にも、社会的地位においてもずっと格下であるはずのイエス様に教えを請うことには、ためらいがあったことでしょう。
そのためらいは、人目につくことのない「夜」の訪問という行動に表れています。
しかし一番厄介で、そしてニコデモ自身気づいていなかった壁は「常識」でした。年齢は人生経験をもたらします。
しかし人生経験にばかりよりかかるならば、常識の範囲内に限り神を信じるといういびつな信仰になってしまいます。
イエス様はニコデモが抱えている闇を一瞬で見抜きました。そして長々とあいさつを始めたニコデモに、ずばりと一言こう言われました。
3節、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。続きを読む
posted by 近 at 18:04
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2017.6.18「いのちの主(しゅ)は私の主(あるじ)」

右側の「リンク集」に、私が代務をしております村上福音キリスト教会が追加されました!
村上の特産品である「鮭(サケ)」をモチーフにしています。
画像がちっちゃいのでサメと間違えそうです。
ちなみに村上市のキャッチフレーズは「サケ(鮭)とサケ(酒)とナサケ(人情)の町」。
完全に
お腹(とっくり?)にプリントされた「情」の文字と、やたらかわいらしいお顔のミスマッチ。
サケかサカナかタメイキか。町作りの方向性を巡り、行政も試行錯誤しているようです。
村上教会のブログも、今後どうやって記事を増やしていくか、試行錯誤の真っ最中。
ぜひ向こうも応援してください。サケとサケとナサケのブログです。パクってすみません。
サケリンをクリックすると村上市公認、サケリンの部屋にジャンプします。そちらもよろしく。
週報はこちらです。
聖書箇所 『創世記』9章1-7節
序.
妹尾河童という著名なイラストレーターの方が書かれた、自伝的小説である「少年H」という作品があります。
数年前に、俳優の水谷豊とその実際の妻である伊藤蘭ご夫妻が、映画の中でも主人公の両親を演じたことで話題になりました。
この両親は熱心なクリスチャンで、愛と厳しさをもって、主人公のHを育てました。
しかし戦争の混乱は、教会を傷つけ、この家庭もその波に翻弄されていきます。
主人公であるH少年は、人生に絶望して自死を考えるまでになりました。しかし実際に線路に飛び込もうとしたときに、彼は気づきます。
自分の頭がどんなに死にたいと願っても、からだは生きたいと願い、頭に反抗するということを経験するのです。
小説に描かれ、そしておそらく実際に妹尾さんが経験したことなのであろう、このできごとは、私たちに教えてくれます。
人間のいのちの主がその人ではなく、人間の筋をつくり肉をつくられた神ご自身なのだということを。続きを読む
posted by 近 at 16:54
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2017.6.11「蒔く者と刈る者がともに喜ぶため」
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週の主日礼拝は、今年同盟教団からタイへ委託派遣される長谷部愛実宣教師のメッセージです。
彼女は昨年度まで、私の出身教会である山の下福音教会の主任牧師を17年間務めておりました。
なお今から約30年前に私がその教会に導かれたときには、彼女のお父さんが主任牧師でした。
彼女とは先輩後輩の関係が色々と入れ替わったりとか、まあ色々あったのですが、いまは大切な同労者です。
支援会のホームページもどうかご覧ください。
パワーポイントでのメッセージですので、固定式のカメラでは少し内容がわかりにくいかもしれません。ご容赦ください。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』4章34-38節
今週の主日礼拝は、今年同盟教団からタイへ委託派遣される長谷部愛実宣教師のメッセージです。
彼女は昨年度まで、私の出身教会である山の下福音教会の主任牧師を17年間務めておりました。
なお今から約30年前に私がその教会に導かれたときには、彼女のお父さんが主任牧師でした。
彼女とは先輩後輩の関係が色々と入れ替わったりとか、まあ色々あったのですが、いまは大切な同労者です。
支援会のホームページもどうかご覧ください。
パワーポイントでのメッセージですので、固定式のカメラでは少し内容がわかりにくいかもしれません。ご容赦ください。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』4章34-38節
posted by 近 at 19:45
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2017.6.4「聖霊は決して見捨てない」
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
毎年ペンテコステの日は、わが同盟教団では「国外宣教デー」に定められており、教団から派遣されている宣教師のために祈ります。
今年度は、礼拝の中で七組の宣教師家族からのビデオレターをプロジェクターで映し、みなで祈りました。
それも紹介したいところですが、公開すると障害や危険がある国も含まれておりますので、ご容赦ください。週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』14章16-21節
1.
今、私たちは、この同盟教団から世界中に派遣されている、七組の国外宣教師ご家族からのビデオレターを受け取りました。
数年前、やはり同盟教団から派遣されていた、ある宣教師が、この礼拝の場で証しとメッセージをしてくださったことがありました。
それから数週間して、その先生からメールをいただきました。
「来年、子どもが帰国して先生(近)の母校である高校で学びたいと希望しているので、パンフレットを送ってほしい」と。
二つ返事で引き受けて、さっそく母校の事務局へ赴いて、資料や入学願書を受け取り、その先生のもとへ送りました。
しかしその後、お子様がその学校を受験されたのかどうか、まったく連絡がなく、そのうち私も失念しておりました。
それから暫くして、その先生は数年間続けられた宣教師を辞されて、国内で牧会に励むということを聞きました。
具体的な理由はわかりませんが、ただひとこと、家族のことを考えてそう決めた、と語っておられたそうです。
それを聞いたときに、私は自分自身が、どれだけ宣教師のために祈っていたのだろうという悔い改めを示されました。
お子様がその高校を希望している、とその先生がメールで伝えてきたとき、私は頼られて嬉しい、くらいしか考えていませんでした。
しかしその背後には、異国で淋しさを覚えている中でもう日本に帰りたい、というお子様の叫びがあったのかもしれません。
宣教師一家は、本人だけでなくその配偶者も子どもたちもそろって、「宣教師」であることを求められています。
先ほどの国外宣教師からのビデオレターも、宣教師だけではなく奥さん、子どもたち全員が映っていました。
何の屈託もない笑顔に見えることでしょう。
しかしそのかげで、子どもたち自身も意識していない中で、宣教師の子どもとしての重圧がのしかかっているのかもしれません。
宣教師家族は、どんなに幼い子どもであっても宣教師のひとりとして生きることを求められています。
あの先生のご家族も、傷ついた心で歩んでいたのではないか。そして私たちは、いや私は、それを想像し、祈ってこなかったのではないか。
宣教の祝福のために祈ってはいても、彼ら家族のメンタルのためにはどれだけ祈っていたのだろうか。
その意味で、私たちはこのビデオレターに映し出された映像の背後にある、宣教師とその家族が背負っている重荷をおぼえたいのです。
また、時には家族そろって日本に一時帰国してリフレッシュする機会が与えられるように、経済的にもささげていきたいのです。続きを読む
毎年ペンテコステの日は、わが同盟教団では「国外宣教デー」に定められており、教団から派遣されている宣教師のために祈ります。
今年度は、礼拝の中で七組の宣教師家族からのビデオレターをプロジェクターで映し、みなで祈りました。
それも紹介したいところですが、公開すると障害や危険がある国も含まれておりますので、ご容赦ください。週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』14章16-21節
1.
今、私たちは、この同盟教団から世界中に派遣されている、七組の国外宣教師ご家族からのビデオレターを受け取りました。
数年前、やはり同盟教団から派遣されていた、ある宣教師が、この礼拝の場で証しとメッセージをしてくださったことがありました。
それから数週間して、その先生からメールをいただきました。
「来年、子どもが帰国して先生(近)の母校である高校で学びたいと希望しているので、パンフレットを送ってほしい」と。
二つ返事で引き受けて、さっそく母校の事務局へ赴いて、資料や入学願書を受け取り、その先生のもとへ送りました。
しかしその後、お子様がその学校を受験されたのかどうか、まったく連絡がなく、そのうち私も失念しておりました。
それから暫くして、その先生は数年間続けられた宣教師を辞されて、国内で牧会に励むということを聞きました。
具体的な理由はわかりませんが、ただひとこと、家族のことを考えてそう決めた、と語っておられたそうです。
それを聞いたときに、私は自分自身が、どれだけ宣教師のために祈っていたのだろうという悔い改めを示されました。
お子様がその高校を希望している、とその先生がメールで伝えてきたとき、私は頼られて嬉しい、くらいしか考えていませんでした。
しかしその背後には、異国で淋しさを覚えている中でもう日本に帰りたい、というお子様の叫びがあったのかもしれません。
宣教師一家は、本人だけでなくその配偶者も子どもたちもそろって、「宣教師」であることを求められています。
先ほどの国外宣教師からのビデオレターも、宣教師だけではなく奥さん、子どもたち全員が映っていました。
何の屈託もない笑顔に見えることでしょう。
しかしそのかげで、子どもたち自身も意識していない中で、宣教師の子どもとしての重圧がのしかかっているのかもしれません。
宣教師家族は、どんなに幼い子どもであっても宣教師のひとりとして生きることを求められています。
あの先生のご家族も、傷ついた心で歩んでいたのではないか。そして私たちは、いや私は、それを想像し、祈ってこなかったのではないか。
宣教の祝福のために祈ってはいても、彼ら家族のメンタルのためにはどれだけ祈っていたのだろうか。
その意味で、私たちはこのビデオレターに映し出された映像の背後にある、宣教師とその家族が背負っている重荷をおぼえたいのです。
また、時には家族そろって日本に一時帰国してリフレッシュする機会が与えられるように、経済的にもささげていきたいのです。続きを読む
posted by 近 at 13:52
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