こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。週報はこちらです。
聖書箇所 『創世記』4章1-16節
1.
子どもに名前をつけることは、親にとって最上の喜びではないかと思います。
かつて同盟教団の理事長をされた岡村又男先生という牧師先生がおられます。
ご両親が女の子を願っていたのに男の子ばかり続けて産まれるもので、また男かというため息まじりにこの名前になった。
そんな噂がありますが、本当かどうかはわかりません。
自分たちの犯した罪によって楽園を追放された人類の始祖アダムとエバは、自分の長男にカインという名前をつけました。
カインが後に犯したあまりにも恐ろしい罪により、カインという名前は悪いイメージがありますが、それは神への感謝を意味する言葉だったのです。
カインは、ヘブル語でカーニーシ、神が得させてくださったという言葉から来ています。
アダムとエバは、最初の子どもが生まれたときに涙を流して喜んだのではないでしょうか。
神様に逆らって罪を犯した私たち夫婦に、神様は子供を得させてくださったのだ。
彼らが楽園を去る前、神はエバから生まれる子孫が蛇の頭を踏み砕くという預言を与えておられました。
もしかしたらこの子が、その約束そのものか、あるいはこの子の子孫から、そのような者が生まれるのではないか。
カインという名前がここまで両親の希望が込められていたのに対して、アベルに対しては名前の言われもなく、あっさりしたものです。
明らかにカインは両親の期待と信頼を背負っていた名前でした。
たとえ彼が後にどれだけ大きな罪を犯してしまうとしても、彼にかけられていた両親の期待と感謝、そして喜びは決して無視することはできません。
カインが両親に愛されずすさんだ心を持ち、アベルがその逆だったという姿を、聖書から読み取ることはできません。
むしろ、両親は表向きには信仰継承に成功していたと言えるでしょう。
二人とも、兄は地の作物を、弟は飼っていた羊からささげものを選んで、神を礼拝していたからです。
しかし両者のいけにえが明暗を分けます。「神はアベルとそのささげものには目を留めたが、カインとそのささげものには目を留められなかった」。
なぜアベルのささげものは受け入れられて、カインのささげものは拒絶されたのでしょうか。続きを読む
最近の記事
(04/20)重要なお知らせ
(09/23)2023.9.17「家族を顧みない信仰者」(創世19:1-8,30-38)
(09/17)2023.9.17主日礼拝のライブ中継
(09/15)2023.9.10「安息日は喜びの日」(マルコ2:23-3:6)
(09/08)2023.9.3「私たちはキリストの花嫁」(マルコ2:18-22)
(09/23)2023.9.17「家族を顧みない信仰者」(創世19:1-8,30-38)
(09/17)2023.9.17主日礼拝のライブ中継
(09/15)2023.9.10「安息日は喜びの日」(マルコ2:23-3:6)
(09/08)2023.9.3「私たちはキリストの花嫁」(マルコ2:18-22)
2017.5.28「何をささげるのか」
posted by 近 at 14:00
| Comment(0)
| 2017年のメッセージ
2017.5.21「罪はどこから始まった」
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
私は自他共に認める事務用品おたくですが、最近手痛い失敗をいたしました。
ゆうちょ銀行から届く「振替受払通知証」をきれいに綴りたいと思い、近所のコメリで「振替伝票用」とあるバインダーを買ってきました。

はじめまして、コクヨのフ-DF30Nです!まるで新入社員のような透明感と清潔感。期待が高まります。
教会に戻り、さっそく一年分たまりにたまった、振替受払通知証の束に、同じコクヨ製の2穴パンチでどんどんどんどん穴を開けました。
ところが何ということでしょう(加藤みどり風に)。せっかく開けた穴がまるでずれており、フ君にまったく入りません。
どうやらパンチの穴間隔は8センチ、フ君のそれは6センチのようです。よく見たらフ君の背表紙にちゃんと「60mmピッチ」と書いてありました。
同じコクヨ製品なのに。パンチとバインダーの相性が最悪とは。しょうがない、6センチ間隔の2穴パンチでも捜してみっか。
ところが6センチ間隔の2穴パンチは日本のどこを捜しても売っていないということがわかりました。
JIS(日本工業規格)でパンチの穴間隔は8センチと決められているということです。
フ-DF30Nはやはりコクヨが出している、様々な伝票を専用に綴るためのものだそう。それならそうと書いておけば良いのに。
あ、「振替伝票用」と確かに書いてありますね。同じ「振替」だから伝票も通知票も同じようなものだと思っていました。
週報はこちらです。

自由にピッチを変えられるこんなパンチもありますが、なんと5000円。あとこんなに穴いりません。
聖書箇所 『創世記』3章1-24節
1.
今日の聖書箇所は、人間の中に罪が入ってきた出来事について語っています。それは蛇がエバに問いかけた言葉から始まりました。
リビングバイブルという、ややくだけた翻訳では、蛇の言葉をまるで再現ドラマのようにこう訳しています。
「本当にそのとおりなんですかねえ?いえね、ほかでもない、園の果物はどれも食べちゃいけないって話ですよ。
なんでも神様は、これっぽっちも食べちゃいけないと言ったっていうじゃないですか」。
神様がそんなケチなことを言うはずがないよね。男だったらドーンと行ってみなさいよ。エバは女ですが。
エバはどう答えたでしょうか。今度はこの新改訳を使いましょう。
2節、「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せられました」。
罪とは何でしょうか。エバの言葉こそが、罪とは何かを教えています。罪は、神のことばを取り違えるところから始まります。
よりわかりやすくするために、もともと神が語られていたのはどういう言葉であったのかを見てみましょう。
ページを前に戻り、創世記2章16、17節で、神はアダムにこのように語っておられました。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
神様のオリジナルの言葉と、エバの言葉とを比べてみて、違いがわかるでしょうか。
「思いのまま」を取り除き、「それに触れてもいけない」と勝手に付け加え、さらに「必ず死ぬ」という警告を「死ぬかもしれない」と薄めています。
エバは、神の愛を疑っていました。彼女にとって、神はすべての所有者なのに肝心なものは独り占めする、恐ろしい方です。
「それに触れてもいけない」と付け加え、「思いのまま食べてもよい」を取り除いているのは、彼女の心の中の疑いを表しています。
じつはこれこそが、罪の本質です。罪とは、何かを盗んだとか誰かを傷つけた、ではありません。
神のことばを軽んじて、神のみこころよりも自分の考えを優先しようとするとき、そこに悲劇が起こります。
私たちにおいてもそうです。聖書の中には、私たちがどう生きていくべきか、何を避けていくべきかが確かに書かれています。
しかし神のことばよりも、自分自身の考えや損得を優先することから、罪は始まります。
盗みや傷害という行いの罪も、もとをただせば神の視線と神のことばを忘れ、自分を神とするところから始まっているのです。
神を正しく恐れなければなりません。神のことばを踏みつけるならば、あなたがたは必ず死ぬと警告されているのです。続きを読む
私は自他共に認める事務用品おたくですが、最近手痛い失敗をいたしました。
ゆうちょ銀行から届く「振替受払通知証」をきれいに綴りたいと思い、近所のコメリで「振替伝票用」とあるバインダーを買ってきました。
教会に戻り、さっそく一年分たまりにたまった、振替受払通知証の束に、同じコクヨ製の2穴パンチでどんどんどんどん穴を開けました。
ところが何ということでしょう(加藤みどり風に)。せっかく開けた穴がまるでずれており、フ君にまったく入りません。

どうやらパンチの穴間隔は8センチ、フ君のそれは6センチのようです。よく見たらフ君の背表紙にちゃんと「60mmピッチ」と書いてありました。
同じコクヨ製品なのに。パンチとバインダーの相性が最悪とは。しょうがない、6センチ間隔の2穴パンチでも捜してみっか。
ところが6センチ間隔の2穴パンチは日本のどこを捜しても売っていないということがわかりました。
JIS(日本工業規格)でパンチの穴間隔は8センチと決められているということです。
フ-DF30Nはやはりコクヨが出している、様々な伝票を専用に綴るためのものだそう。それならそうと書いておけば良いのに。
あ、「振替伝票用」と確かに書いてありますね。同じ「振替」だから伝票も通知票も同じようなものだと思っていました。
週報はこちらです。
聖書箇所 『創世記』3章1-24節
1.
今日の聖書箇所は、人間の中に罪が入ってきた出来事について語っています。それは蛇がエバに問いかけた言葉から始まりました。
リビングバイブルという、ややくだけた翻訳では、蛇の言葉をまるで再現ドラマのようにこう訳しています。
「本当にそのとおりなんですかねえ?いえね、ほかでもない、園の果物はどれも食べちゃいけないって話ですよ。
なんでも神様は、これっぽっちも食べちゃいけないと言ったっていうじゃないですか」。
神様がそんなケチなことを言うはずがないよね。男だったらドーンと行ってみなさいよ。エバは女ですが。
エバはどう答えたでしょうか。今度はこの新改訳を使いましょう。
2節、「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せられました」。
罪とは何でしょうか。エバの言葉こそが、罪とは何かを教えています。罪は、神のことばを取り違えるところから始まります。
よりわかりやすくするために、もともと神が語られていたのはどういう言葉であったのかを見てみましょう。
ページを前に戻り、創世記2章16、17節で、神はアダムにこのように語っておられました。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
神様のオリジナルの言葉と、エバの言葉とを比べてみて、違いがわかるでしょうか。
「思いのまま」を取り除き、「それに触れてもいけない」と勝手に付け加え、さらに「必ず死ぬ」という警告を「死ぬかもしれない」と薄めています。
エバは、神の愛を疑っていました。彼女にとって、神はすべての所有者なのに肝心なものは独り占めする、恐ろしい方です。
「それに触れてもいけない」と付け加え、「思いのまま食べてもよい」を取り除いているのは、彼女の心の中の疑いを表しています。
じつはこれこそが、罪の本質です。罪とは、何かを盗んだとか誰かを傷つけた、ではありません。
神のことばを軽んじて、神のみこころよりも自分の考えを優先しようとするとき、そこに悲劇が起こります。
私たちにおいてもそうです。聖書の中には、私たちがどう生きていくべきか、何を避けていくべきかが確かに書かれています。
しかし神のことばよりも、自分自身の考えや損得を優先することから、罪は始まります。
盗みや傷害という行いの罪も、もとをただせば神の視線と神のことばを忘れ、自分を神とするところから始まっているのです。
神を正しく恐れなければなりません。神のことばを踏みつけるならば、あなたがたは必ず死ぬと警告されているのです。続きを読む
posted by 近 at 22:02
| Comment(0)
| 2017年のメッセージ
2017.5.14「さあ、神の期待に応えて」
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先週、聖書考古学特別講演会のアピールをしましたが、一枚だけ勝手に写真を披露します。

テーブルの上に所狭しと並べられた、これらの土器のかけらはすべて実際に発掘された本物だそうです。
イエス・キリストの時代に使われていた燭台に実際に火を点してみるという実演もありました。
燭台そのものよりも、マッチのほうになかなか火がつかなかったのはご愛敬。
聖書考古学のすばらしさを味わうことができた集会でした。週報はこちらです。
聖書箇所 『創世記』1章26-27、2章4-15節
1.
最初に26節のことばをもう一度お読みします。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」。
ただひとりのお方である神が、「われわれ」と言われるのはおかしいと思われる方がいるかもしれません。
これは、旧約聖書に使われたヘブル語特有の表現で、威光の複数形と呼ばれます。神は誰かと相談して人間を創造したわけではありません。
しかし「さあ人を造ろう」と訳された言葉を心に留めましょう。
ここには、私たち人間に対する、神様からのあふれんばかりの期待が込められています。
神様が天を作り、大地を作り、太陽と月を作り、植物を作り、動物を作ったのは、最重要なものから作っていったのではありません。
人間が生きるために必要なものはすべて準備した。さあ、いよいよ人間を造ろう。
こういう風に考えるのはあまりにも人間的すぎるでしょうか。いいえ、神様にとって、人間は天空や大地よりも重要なものだったのです。
空気も水も食物もないところに人間を造っても生きていけません。だから神様はそれらを先に用意して、最後に人間を造りました。
真っ先に造りたかった、すなわち神様の創造の中心は人間そのものにありました。
その証拠は「さあ」と訳された言葉だけではありません。それに続く、「われわれのかたちとして、われわれに似せて」もそうです。
あらゆる被造物の中で、神がご自分に似せて造られたのは、人間だけです。
すべての生き物に力を与える太陽の光よりも、神の愛と輝きを現しているものを、神は人間の中に造ってくださいました。
満月の夜の平安よりも、神が与える平安を表しているのは、人が神のすばらしさを味わうときの安らぎです。
私たち人間の中には、神の期待が詰まっています。
確かに最初の人間アダムとエバは罪によって堕落してしまい、彼らの子孫にあたるあらゆる人間は、罪人として生まれてきます。
しかしそれでも神は罪人である私たちが信仰によって救われて、もう一度全身全霊をもって神の栄光を表すことを期待されているのです。
「さあ、人を造ろう」。この言葉を、神様から呼びかけられた私たちひとり一人への愛の呼びかけとして心に受け止めましょう。
鎌倉時代の西行という僧は、伊勢神宮を参拝したときにこう歌いました。「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
どんな神様がいるかはわからないが、ここにいるだけで感じられるありがたさに涙がこぼれてくる、そういう意味です。
しかし私たちは神様がどんな方か、知っています。そして私たちひとり一人を作り、期待しておられるお方であることを知っています。
だから私はあえて西行の歌を盗んで、こう歌います。「このものになにができるか知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
私たちが自分をどう評価しようとも、神様は私たちひとり一人に期待をもって、造ってくださったことを心に刻みつけようではありませんか。続きを読む
先週、聖書考古学特別講演会のアピールをしましたが、一枚だけ勝手に写真を披露します。

テーブルの上に所狭しと並べられた、これらの土器のかけらはすべて実際に発掘された本物だそうです。
イエス・キリストの時代に使われていた燭台に実際に火を点してみるという実演もありました。
燭台そのものよりも、マッチのほうになかなか火がつかなかったのはご愛敬。
聖書考古学のすばらしさを味わうことができた集会でした。週報はこちらです。
聖書箇所 『創世記』1章26-27、2章4-15節
1.
最初に26節のことばをもう一度お読みします。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」。
ただひとりのお方である神が、「われわれ」と言われるのはおかしいと思われる方がいるかもしれません。
これは、旧約聖書に使われたヘブル語特有の表現で、威光の複数形と呼ばれます。神は誰かと相談して人間を創造したわけではありません。
しかし「さあ人を造ろう」と訳された言葉を心に留めましょう。
ここには、私たち人間に対する、神様からのあふれんばかりの期待が込められています。
神様が天を作り、大地を作り、太陽と月を作り、植物を作り、動物を作ったのは、最重要なものから作っていったのではありません。
人間が生きるために必要なものはすべて準備した。さあ、いよいよ人間を造ろう。
こういう風に考えるのはあまりにも人間的すぎるでしょうか。いいえ、神様にとって、人間は天空や大地よりも重要なものだったのです。
空気も水も食物もないところに人間を造っても生きていけません。だから神様はそれらを先に用意して、最後に人間を造りました。
真っ先に造りたかった、すなわち神様の創造の中心は人間そのものにありました。
その証拠は「さあ」と訳された言葉だけではありません。それに続く、「われわれのかたちとして、われわれに似せて」もそうです。
あらゆる被造物の中で、神がご自分に似せて造られたのは、人間だけです。
すべての生き物に力を与える太陽の光よりも、神の愛と輝きを現しているものを、神は人間の中に造ってくださいました。
満月の夜の平安よりも、神が与える平安を表しているのは、人が神のすばらしさを味わうときの安らぎです。
私たち人間の中には、神の期待が詰まっています。
確かに最初の人間アダムとエバは罪によって堕落してしまい、彼らの子孫にあたるあらゆる人間は、罪人として生まれてきます。
しかしそれでも神は罪人である私たちが信仰によって救われて、もう一度全身全霊をもって神の栄光を表すことを期待されているのです。
「さあ、人を造ろう」。この言葉を、神様から呼びかけられた私たちひとり一人への愛の呼びかけとして心に受け止めましょう。
鎌倉時代の西行という僧は、伊勢神宮を参拝したときにこう歌いました。「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
どんな神様がいるかはわからないが、ここにいるだけで感じられるありがたさに涙がこぼれてくる、そういう意味です。
しかし私たちは神様がどんな方か、知っています。そして私たちひとり一人を作り、期待しておられるお方であることを知っています。
だから私はあえて西行の歌を盗んで、こう歌います。「このものになにができるか知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
私たちが自分をどう評価しようとも、神様は私たちひとり一人に期待をもって、造ってくださったことを心に刻みつけようではありませんか。続きを読む
posted by 近 at 10:12
| Comment(0)
| 2017年のメッセージ
2017.5.7「創造の秩序」
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週、聖書考古学の講演会が県内の2教会(同盟・新津、伝福・高田)で行われます。
案内チラシを私が作成しましたので、ここに改めて案内させていただきます。最寄の方はどうぞご出席ください。


私も当日、新津教会にて録音録画の奉仕に励みます。週報はこちらです。
聖書箇所 『創世記』1章1-31節
序.
宅配便で届く段ボール箱に「天地無用」というラベルが貼ってあることがあります。
「天地」、つまり箱の上下を逆にしてはいけないという意味ですが、「無用」とあるから「上下を気にしなくても良い」と誤解する方もいるそうです。
「初めに、神が天と地を創造した」。この単刀直入な切り出しは、まさに聖書という宝箱に貼ってある「天地無用」のラベルだと言えます。
先に天が造られ、次に地が造られました。この順番は決して逆にしてはなりません。
「天」と「地」の関係は、「神」と「私」という関係にあてはめることができます。
青春時代、こんな悩みを持つことがあるでしょう。「私がこの世界に生きる目的は何だろう」「何のために私は生きているのだろう」。
人生に問いを持つことはすばらしいことですが、「私が」「私は」から始まる問いは、いわば「地」を先に、上に、考えることです。
しかし私たちはむしろ「天」を上にしてこう問いかけてみるべきでしょう。
「神が、この世界に私を生みだしてくださった目的は何だろう」「神は、何のために私を生かしているのだろう」。
それは、人生というドラマの主役を、私から神に移すことだと言えます。
もちろんはじめからこんな風に考えることのできる人はいません。人生に問いを持つにしても、「私が」「私は」というところから始めます。
しかし人生のどこかで「私が生まれた意味」から「神が私を造ってくださった意味」と考え方を変えるとき、見えてくるものがあります。
「私の人生の目的」という問いから「神が私の人生を通して表そうとしておられること」へと考え方を変えるとき、物事が新しい光を放ちます。続きを読む
今週、聖書考古学の講演会が県内の2教会(同盟・新津、伝福・高田)で行われます。
案内チラシを私が作成しましたので、ここに改めて案内させていただきます。最寄の方はどうぞご出席ください。


私も当日、新津教会にて録音録画の奉仕に励みます。週報はこちらです。
聖書箇所 『創世記』1章1-31節
序.
宅配便で届く段ボール箱に「天地無用」というラベルが貼ってあることがあります。
「天地」、つまり箱の上下を逆にしてはいけないという意味ですが、「無用」とあるから「上下を気にしなくても良い」と誤解する方もいるそうです。
「初めに、神が天と地を創造した」。この単刀直入な切り出しは、まさに聖書という宝箱に貼ってある「天地無用」のラベルだと言えます。
先に天が造られ、次に地が造られました。この順番は決して逆にしてはなりません。
「天」と「地」の関係は、「神」と「私」という関係にあてはめることができます。
青春時代、こんな悩みを持つことがあるでしょう。「私がこの世界に生きる目的は何だろう」「何のために私は生きているのだろう」。
人生に問いを持つことはすばらしいことですが、「私が」「私は」から始まる問いは、いわば「地」を先に、上に、考えることです。
しかし私たちはむしろ「天」を上にしてこう問いかけてみるべきでしょう。
「神が、この世界に私を生みだしてくださった目的は何だろう」「神は、何のために私を生かしているのだろう」。
それは、人生というドラマの主役を、私から神に移すことだと言えます。
もちろんはじめからこんな風に考えることのできる人はいません。人生に問いを持つにしても、「私が」「私は」というところから始めます。
しかし人生のどこかで「私が生まれた意味」から「神が私を造ってくださった意味」と考え方を変えるとき、見えてくるものがあります。
「私の人生の目的」という問いから「神が私の人生を通して表そうとしておられること」へと考え方を変えるとき、物事が新しい光を放ちます。続きを読む
posted by 近 at 11:31
| Comment(2)
| 2017年のメッセージ
2017.4.30「ここから世界へ」
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
この数年間、当教会では新会堂について祈り求めておりまして、私も時折インターネットで不動産情報をチェックしております。
すると教会から10キロほど離れた「月岡温泉」に廃業した温泉旅館を発見。なんと破格の980万円です。
「おすすめコメント」に「月岡温泉街の通り沿い」としか書いていないところに、なんともやる気のなさ哀愁を感じます。

大広間で礼拝をささげた後は温泉にゆっくり浸かり、その後は各客室に分かれて分かち合い。ああ夢は広がります。
あるいは大浴場でメッセージとか。説教が終わるまで30分、語る方も聞く方も湯船から出られません。これは冗談です。
温泉が引けるかどうかはわかりませんが、とりあえず維持管理が大変ですね。しかし魅力的なのはこの価格。
クリスチャンの方は、セカンドハウスとしていかがでしょうか。その際はときどき当教会にも貸してください。週報はこちらです。
聖書箇所 『使徒の働き』1章3-14節
1.
もう10年以上前ですが、礼拝説教の奉仕である教会を訪問したときのことです。
礼拝が終わって、それぞれと挨拶を交わしていたとき、ある姉妹から、「先生に話を聞いてもらいたい」と言われたことがありました。
その教会は、その直前にある事情で教会が二つに割れ、そして新しい牧師が来てまたひとつになったという教会でした。
相談がありますと言ったひとは、一度教会を去り、そしてまた戻ってきた姉妹でした。彼女は言葉を選びながら、こう言いました。
「戻ってはきたものの、一度は教会を出たという事実は消えません。また元通りになるまでには時間がかかります。
今の教会に私の居場所はありません」。私が何と答えればよいか言葉を探していると、彼女はこう言いました。
「でも居場所なんかいりません。この教会にイエス様さえいてくだされば」。
彼女は何を相談したかったのでしょうか。確かに彼女は苦しんでいました。でも悩んではいません。なぜなら答えをすでに持っていたからです。
あれは彼女の信仰告白だったのだ、と思います。そしてあんな力強い信仰告白は、それまでも、あれからも聞いたことがありません。
この教会に自分の居場所はいらない。ただ神がいてくだされば、私の居場所などいらない、と。
今日の聖書をかみしめているなかで、このできごとがなぜか鮮明に思い出されてきました。
復活したイエス様は四十日後、天へと上られるとき、弟子たちに次のように命じられました。
「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」。
それはこのエルサレムで、やがて弟子たちに聖霊がくだるからでした。しかしすぐにイエス様はこう言います。
「聖霊を受けるとき、あなたがたはエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と。
確かにエルサレムにて聖霊はくだる。しかしその恵みはエルサレムにとどまらず、エルサレムを飛び出してユダヤとサマリヤ、地の果てにまで。
これが、私たちに与えられている信仰です。たしかに私たちは教会にその地名をつけます。
豊栄キリスト教会、新発田キリスト教会、村上福音キリスト教会、といった具合に。
しかし教会が名前に地名をつける目的は、その町の人たちが救われることだけではありません。地名は縄張りではなく、出発点です。
どんなに偶像にあふれた町であろうとも、そこに教会があるならば、福音はその町から出発し、地の果てにまで宣べ伝えられます。
教会は、私たちがそこに居心地の良さを感じながら閉じこもる、私の居場所ではありません。隠れ家ではなく、発射台です。
私たちは聖霊を受けて、救いをもたらす福音をここから地の果てにまで持っていきます。あの姉妹が、私に教えてくれたことです。続きを読む
この数年間、当教会では新会堂について祈り求めておりまして、私も時折インターネットで不動産情報をチェックしております。
すると教会から10キロほど離れた「月岡温泉」に廃業した温泉旅館を発見。なんと破格の980万円です。
「おすすめコメント」に「月岡温泉街の通り沿い」としか書いていないところに、なんとも

大広間で礼拝をささげた後は温泉にゆっくり浸かり、その後は各客室に分かれて分かち合い。ああ夢は広がります。
あるいは大浴場でメッセージとか。説教が終わるまで30分、語る方も聞く方も湯船から出られません。これは冗談です。
温泉が引けるかどうかはわかりませんが、とりあえず維持管理が大変ですね。しかし魅力的なのはこの価格。
クリスチャンの方は、セカンドハウスとしていかがでしょうか。その際はときどき当教会にも貸してください。週報はこちらです。
聖書箇所 『使徒の働き』1章3-14節
1.
もう10年以上前ですが、礼拝説教の奉仕である教会を訪問したときのことです。
礼拝が終わって、それぞれと挨拶を交わしていたとき、ある姉妹から、「先生に話を聞いてもらいたい」と言われたことがありました。
その教会は、その直前にある事情で教会が二つに割れ、そして新しい牧師が来てまたひとつになったという教会でした。
相談がありますと言ったひとは、一度教会を去り、そしてまた戻ってきた姉妹でした。彼女は言葉を選びながら、こう言いました。
「戻ってはきたものの、一度は教会を出たという事実は消えません。また元通りになるまでには時間がかかります。
今の教会に私の居場所はありません」。私が何と答えればよいか言葉を探していると、彼女はこう言いました。
「でも居場所なんかいりません。この教会にイエス様さえいてくだされば」。
彼女は何を相談したかったのでしょうか。確かに彼女は苦しんでいました。でも悩んではいません。なぜなら答えをすでに持っていたからです。
あれは彼女の信仰告白だったのだ、と思います。そしてあんな力強い信仰告白は、それまでも、あれからも聞いたことがありません。
この教会に自分の居場所はいらない。ただ神がいてくだされば、私の居場所などいらない、と。
今日の聖書をかみしめているなかで、このできごとがなぜか鮮明に思い出されてきました。
復活したイエス様は四十日後、天へと上られるとき、弟子たちに次のように命じられました。
「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」。
それはこのエルサレムで、やがて弟子たちに聖霊がくだるからでした。しかしすぐにイエス様はこう言います。
「聖霊を受けるとき、あなたがたはエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と。
確かにエルサレムにて聖霊はくだる。しかしその恵みはエルサレムにとどまらず、エルサレムを飛び出してユダヤとサマリヤ、地の果てにまで。
これが、私たちに与えられている信仰です。たしかに私たちは教会にその地名をつけます。
豊栄キリスト教会、新発田キリスト教会、村上福音キリスト教会、といった具合に。
しかし教会が名前に地名をつける目的は、その町の人たちが救われることだけではありません。地名は縄張りではなく、出発点です。
どんなに偶像にあふれた町であろうとも、そこに教会があるならば、福音はその町から出発し、地の果てにまで宣べ伝えられます。
教会は、私たちがそこに居心地の良さを感じながら閉じこもる、私の居場所ではありません。隠れ家ではなく、発射台です。
私たちは聖霊を受けて、救いをもたらす福音をここから地の果てにまで持っていきます。あの姉妹が、私に教えてくれたことです。続きを読む
posted by 近 at 14:55
| Comment(0)
| 2017年のメッセージ
2017.4.23「シーソーは終わった」
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
私は今もう一つの教会の代務をしておりますが、先日そちらの物品整理をしていたときに、一本のビデオが出てきました。
現代ぷろだくしょん制作、長編アニメ映画『キムの十字架』(1990)。80分の大作です。ジャケットにもシワが入っています。

しかし何気なく箱を裏返して、驚愕の事実を発見。

声優界の重鎮たちがこれでもかというくらいに名を連ねております。山田監督の人脈恐るべし。
1990年というと、『ドラゴンボールZ』が一番輝いていた、ベジータ>>>フリーザ様の全盛期。
ナメック星での激闘の背後で、孫悟空とヤムチャがまさかこんな所で共演を果たしていたとは。
ちなみにピッコロ役の古川登志夫さんはご夫妻共にクリスチャン(カトリック)だそうです。うれしいですね。
週報はこちらです。
<追記>声優陣にある「三浦清志」はどうやら「三浦雅子」氏の誤植のようです。参考サイト:MovieWalker
聖書箇所 『ルカの福音書』24章13-35節
1.
13節、「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった」。
「ちょうどこの日」とは、イエス・キリストがよみがえられたその日のことです。
ふたりの弟子は、そのうちのひとり、クレオパという名前しかわかっていません。
しかし「話し合ったり、論じ合ったり」という言葉から、彼らの話題が、結論の出ない堂々巡りのものであったことがわかります。
それは、イエスは本当によみがえったのかどうか、ということでした。彼らは、仲間の女たちの証言を信じようとしなかったのでしょうか。
じつはその時代のユダヤでは、現代社会では考えられないほどに、女性に対するすさまじい偏見がありました。
当時の格言には、「女たちに律法の教えを伝えるくらいならば、道に捨ててしまったほうがましだ」という言葉さえあるほどです。
クレオパたちも、女性に対する偏見から完全に解放されていなかったのかもしれません。
イエス様がよみがえったという女性たち、しかもその中にはクレオパの妻が含まれていた可能性も、聖書の別の箇所から推測されます。
しかし女性たちの復活の証言は、男たちには喜びを与えませんでした。「暗い顔つきで立ち止まった」ということばにあるとおりです。
彼らは、主がよみがえったというすばらしい知らせを受け入れることができません。
死んだ者がよみがえるはずがない、あるいは女性たちの証言など信用できないという社会的常識にとらわれています。
彼らは確かにキリストの弟子です。信仰を持っていなかったわけではありません。
しかし信仰が、常識や偏見とのシーソーゲームを繰り返しているために、いつまでもどっちつかずの議論を繰り返していたのです。
勝負のつかないシーソーゲームを終わらせるためには、こちら側にもう一人、できれば重くて強い人を座らせなければなりません。
そのために、イエス・キリストは彼らのそばに近づいてくださったのです。
もし私たちが、信仰をとるか、この世の基準をとるかで悩むとき、まず静まってイエス・キリストは今、どこにおられるだろうかと考えましょう。
もし私のそばにおられるのであれば、シーソーゲームではなくて、私たちは信仰の勝利をいただくはずです。
しかしそれが浮いたり沈んだりのシーソー状態になっているのは、こちら側の重みが足りないからです。
イエス様が私のそばにおられないのです。この弟子たちは復活を信じ切れないゆえに、イエスを呼び求めることはできませんでした。
だからイエス様のほうから近づいてくださいました。でも私たちは、イエス様を自ら呼び求めることができます。
今自分がシーソーの片方に座っていると思われるならば、「主イエスよ来てください」と、叫ぼうではありませんか。続きを読む
私は今もう一つの教会の代務をしておりますが、先日そちらの物品整理をしていたときに、一本のビデオが出てきました。
現代ぷろだくしょん制作、長編アニメ映画『キムの十字架』(1990)。80分の大作です。ジャケットにもシワが入っています。

しかし何気なく箱を裏返して、驚愕の事実を発見。

声優界の重鎮たちがこれでもかというくらいに名を連ねております。山田監督の人脈恐るべし。
1990年というと、『ドラゴンボールZ』が一番輝いていた、ベジータ>>>フリーザ様の全盛期。
ナメック星での激闘の背後で、孫悟空とヤムチャがまさかこんな所で共演を果たしていたとは。
ちなみにピッコロ役の古川登志夫さんはご夫妻共にクリスチャン(カトリック)だそうです。うれしいですね。
週報はこちらです。
<追記>声優陣にある「三浦清志」はどうやら「三浦雅子」氏の誤植のようです。参考サイト:MovieWalker
聖書箇所 『ルカの福音書』24章13-35節
1.
13節、「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった」。
「ちょうどこの日」とは、イエス・キリストがよみがえられたその日のことです。
ふたりの弟子は、そのうちのひとり、クレオパという名前しかわかっていません。
しかし「話し合ったり、論じ合ったり」という言葉から、彼らの話題が、結論の出ない堂々巡りのものであったことがわかります。
それは、イエスは本当によみがえったのかどうか、ということでした。彼らは、仲間の女たちの証言を信じようとしなかったのでしょうか。
じつはその時代のユダヤでは、現代社会では考えられないほどに、女性に対するすさまじい偏見がありました。
当時の格言には、「女たちに律法の教えを伝えるくらいならば、道に捨ててしまったほうがましだ」という言葉さえあるほどです。
クレオパたちも、女性に対する偏見から完全に解放されていなかったのかもしれません。
イエス様がよみがえったという女性たち、しかもその中にはクレオパの妻が含まれていた可能性も、聖書の別の箇所から推測されます。
しかし女性たちの復活の証言は、男たちには喜びを与えませんでした。「暗い顔つきで立ち止まった」ということばにあるとおりです。
彼らは、主がよみがえったというすばらしい知らせを受け入れることができません。
死んだ者がよみがえるはずがない、あるいは女性たちの証言など信用できないという社会的常識にとらわれています。
彼らは確かにキリストの弟子です。信仰を持っていなかったわけではありません。
しかし信仰が、常識や偏見とのシーソーゲームを繰り返しているために、いつまでもどっちつかずの議論を繰り返していたのです。
勝負のつかないシーソーゲームを終わらせるためには、こちら側にもう一人、できれば重くて強い人を座らせなければなりません。
そのために、イエス・キリストは彼らのそばに近づいてくださったのです。
もし私たちが、信仰をとるか、この世の基準をとるかで悩むとき、まず静まってイエス・キリストは今、どこにおられるだろうかと考えましょう。
もし私のそばにおられるのであれば、シーソーゲームではなくて、私たちは信仰の勝利をいただくはずです。
しかしそれが浮いたり沈んだりのシーソー状態になっているのは、こちら側の重みが足りないからです。
イエス様が私のそばにおられないのです。この弟子たちは復活を信じ切れないゆえに、イエスを呼び求めることはできませんでした。
だからイエス様のほうから近づいてくださいました。でも私たちは、イエス様を自ら呼び求めることができます。
今自分がシーソーの片方に座っていると思われるならば、「主イエスよ来てください」と、叫ぼうではありませんか。続きを読む
posted by 近 at 17:14
| Comment(0)
| 2017年のメッセージ
2017.4.16「亜麻布から始まった奇跡」
イースターおめでとうございます。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
当教会ではCSメッセージ(紙芝居)の担当が三週間に一回のペースで牧師にまわってきます。
今回はRon Kenolyの“Jesus is Alive”を延々と聞きながら色を塗りまくりました。
さて教案誌『成長』の原画担当者が変わりましたので、許可は一切受けていませんが、絵柄を比較してみました。


今まではイエス様も弟子たちも町の人もみんなひげ面でしたので、ちょっと新鮮です。ヨハネ?のあごひげのアクセントがおしゃれです。
ただ今回の絵に関しては、「だれも手を触れた形跡がないのに、それに包まれていたイエスの死体がすっぽり抜けたままになっている」
聖書箇所 『ヨハネの福音書』20章1-10節
1.
私は移動の際にはもっぱら車を使う人間ですが、先日たまたま、新潟駅から白新線に乗って豊栄駅まで帰ってくるということがありました。
会議などで上京することもあり、首都圏の電車に乗るのは慣れているのですが、白新線は久しぶりだったので戸惑いました。
まず出入口のドアが自動ではなくて力を入れて開け閉めしなければなりません。
それから、次は何駅に停まりますというアナウンスがちっちゃくて聞こえないこと。たぶん固定客ばかりなので、アナウンスもいらないのでしょう。
でもほとんど利用しない私のような人間には困ります。乗っている間、窓を見つめながら、いまどのあたりかということに注意して過ごしました。
するとあるところで不思議な光景に出会いました。
線路の目の前に広がる住宅地の中に、壁の色から建物の形に至るまで、まったく同じ形をした住宅が数軒、並んでいます。
その家のお父さんがほろ酔い気分で帰って来たときに、隣の家とまちがえたりしないだろうか、とくだらないことを思い浮かべました。
しかし今くだらないと言いましたが、イエス・キリストの復活を信じない人々の中には、おおまじめで同じことを主張する学者もいるのです。
イエスの弟子たちは、もともと隣にあった空っぽの墓をイエスの墓と間違えてしまったのだ。
まだ誰も収められていない墓に何もないのは当たり前なのに、早とちりして、イエスはよみがえったと言い広めたのだ、と。
ゴスペル界の中尾彬、Ron Kenoly。どちらも大御所です
続きを読む
当教会ではCSメッセージ(紙芝居)の担当が三週間に一回のペースで牧師にまわってきます。
今回はRon Kenolyの“Jesus is Alive”を延々と聞きながら色を塗りまくりました。
さて教案誌『成長』の原画担当者が変わりましたので、許可は一切受けていませんが、絵柄を比較してみました。


今まではイエス様も弟子たちも町の人もみんなひげ面でしたので、ちょっと新鮮です。ヨハネ?のあごひげのアクセントがおしゃれです。
ただ今回の絵に関しては、「だれも手を触れた形跡がないのに、それに包まれていたイエスの死体がすっぽり抜けたままになっている」
(村瀬俊夫「ヨハネの福音書」、『新聖書注解 新約1』、いのちのことば社、539頁)
という「亜麻布の奇跡」のディテールがもう少しはっきりと描いてあるとさらに良かったですね。これからに期待です。週報はこちらです。聖書箇所 『ヨハネの福音書』20章1-10節
1.
私は移動の際にはもっぱら車を使う人間ですが、先日たまたま、新潟駅から白新線に乗って豊栄駅まで帰ってくるということがありました。
会議などで上京することもあり、首都圏の電車に乗るのは慣れているのですが、白新線は久しぶりだったので戸惑いました。
まず出入口のドアが自動ではなくて力を入れて開け閉めしなければなりません。
それから、次は何駅に停まりますというアナウンスがちっちゃくて聞こえないこと。たぶん固定客ばかりなので、アナウンスもいらないのでしょう。
でもほとんど利用しない私のような人間には困ります。乗っている間、窓を見つめながら、いまどのあたりかということに注意して過ごしました。
するとあるところで不思議な光景に出会いました。
線路の目の前に広がる住宅地の中に、壁の色から建物の形に至るまで、まったく同じ形をした住宅が数軒、並んでいます。
その家のお父さんがほろ酔い気分で帰って来たときに、隣の家とまちがえたりしないだろうか、とくだらないことを思い浮かべました。
しかし今くだらないと言いましたが、イエス・キリストの復活を信じない人々の中には、おおまじめで同じことを主張する学者もいるのです。
イエスの弟子たちは、もともと隣にあった空っぽの墓をイエスの墓と間違えてしまったのだ。
まだ誰も収められていない墓に何もないのは当たり前なのに、早とちりして、イエスはよみがえったと言い広めたのだ、と。
ゴスペル界の中尾彬、Ron Kenoly。どちらも大御所です
続きを読む
posted by 近 at 21:46
| Comment(0)
| 2017年のメッセージ
2017.4.9「十字架からの三つの言葉」
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』19章23-30節
1.
私が洗礼を受けたのは高校三年生、1990年のクリスマス礼拝の時でした。その日、家に帰った私は、父親に向かってこう言ったそうです。
「お父さん、今日からぼくはお父さんの子どもではありません。生まれ変わって神様の子どもになりました」。
父親はよっぽど寂しい思いをしたのでしょう、毎年正月になると親戚の前でこの話を披露して、私が動揺するのを楽しんでいるようです。
私の記憶によれば、「今日からぼくは神様の子どもになったよ」とは確かに言いました。
しかしいくら何でも、「お父さんの子どもではありません」なんてひどいことは絶対に言っていないはずなのですが。
父親はともかく、親戚がキリスト教に悪い印象を持たないかどうか、心配しています。
イエス・キリストが十字架の上から母マリヤにこう呼びかけたとき、彼女はどう思ったでしょうか。「女の方。そこに、あなたの息子がいます」。
これが、この地上で息子から母親に送った最後の言葉となりました。
目の前で、手足を太い釘で十字架に打ち付けられ、息も絶え絶えのわが子から「お母さん」と呼びかけられるのではなく、「女の方」と。
太平洋戦争で九死に一生を得たというあるお年寄りがこう語っていました。
戦地で死んでいく仲間たちが最後に口にしたのは「天皇陛下万歳」ではなくて「お母さん」というたったひと言の言葉だった、と。
「女の方」という呼びかけは、いま母の前で死の苦しみにもだえている息子の言葉にしては、あまりにもよそよそしすぎるように思えます。
しかし息子イエスが十字架に打ち付けられていたとき、母マリヤもまた自分の十字架を背負っていました。
マリヤは、聖霊によってイエス様をお腹に宿して以来、イエス・キリストがすべての人の罪を背負いながら歩んでいる姿を見つめ続けてきました。
そしてこの最後の十字架の時に至っても、イエス様の口から出て来たのは「お母さん」ではなく、「女の方」という遠い言葉でした。
しかしそれでも彼女はひと言も叫ぶことなく、ひたすら食い入るように十字架のわが子を見つめていたに違いありません。続きを読む
聖書箇所 『ヨハネの福音書』19章23-30節
1.
私が洗礼を受けたのは高校三年生、1990年のクリスマス礼拝の時でした。その日、家に帰った私は、父親に向かってこう言ったそうです。
「お父さん、今日からぼくはお父さんの子どもではありません。生まれ変わって神様の子どもになりました」。
父親はよっぽど寂しい思いをしたのでしょう、毎年正月になると親戚の前でこの話を披露して、私が動揺するのを楽しんでいるようです。
私の記憶によれば、「今日からぼくは神様の子どもになったよ」とは確かに言いました。
しかしいくら何でも、「お父さんの子どもではありません」なんてひどいことは絶対に言っていないはずなのですが。
父親はともかく、親戚がキリスト教に悪い印象を持たないかどうか、心配しています。
イエス・キリストが十字架の上から母マリヤにこう呼びかけたとき、彼女はどう思ったでしょうか。「女の方。そこに、あなたの息子がいます」。
これが、この地上で息子から母親に送った最後の言葉となりました。
目の前で、手足を太い釘で十字架に打ち付けられ、息も絶え絶えのわが子から「お母さん」と呼びかけられるのではなく、「女の方」と。
太平洋戦争で九死に一生を得たというあるお年寄りがこう語っていました。
戦地で死んでいく仲間たちが最後に口にしたのは「天皇陛下万歳」ではなくて「お母さん」というたったひと言の言葉だった、と。
「女の方」という呼びかけは、いま母の前で死の苦しみにもだえている息子の言葉にしては、あまりにもよそよそしすぎるように思えます。
しかし息子イエスが十字架に打ち付けられていたとき、母マリヤもまた自分の十字架を背負っていました。
マリヤは、聖霊によってイエス様をお腹に宿して以来、イエス・キリストがすべての人の罪を背負いながら歩んでいる姿を見つめ続けてきました。
そしてこの最後の十字架の時に至っても、イエス様の口から出て来たのは「お母さん」ではなく、「女の方」という遠い言葉でした。
しかしそれでも彼女はひと言も叫ぶことなく、ひたすら食い入るように十字架のわが子を見つめていたに違いありません。続きを読む
posted by 近 at 10:33
| Comment(0)
| 2017年のメッセージ
2017.4.2「たとえピラトであっても」
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
神学生の頃に通っていた教会の主任牧師であったキム先生は面白い方でした。
思いついたことはすぐに始めてしまう、韓国人の典型みたいな人でした。(悪口ではありませんよ)
ある週のこと。「今日は教会史から人物説教をします」と、アイルランドからヨーロッパ各地へ宣教した聖コルンバヌスについて語り始めました。
しかし40分過ぎてもコルンバヌス、なかなかアイルランドから出て行きません。
そろそろ会衆の集中力も限界に達したかと思われたその頃、「では、続きは来週」と、適用のかけらもないまま説教を閉じてしまいました。
私を含めて三人いた神学生はみな唖然。現在それぞれが同じ教団で牧会していますが、集まるたびにこの話が出てきます。
そして翌週、キム先生は何事もなかったかのように、講解説教に戻っていました。
あれから17年。「続きは来週」こそありませんが、長い聖書箇所を強引に区切って、説教が不鮮明になってしまうことはよくあります。
今回の説教も、人間的にはそんな反省しきりです。しかし神が欠けを満たしてくださることを信じて、次も語ります。週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』18章28-40節
1.
「主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」。
ご存じ、『使徒信条』の一節です。
私たちを含めて、多くの教会の、毎週の礼拝で唱えられている『使徒信条』。
その中で、イエスの母マリヤとともに名前をあげて唱和されているのが、一番弟子ペテロでも、使徒パウロでもなく。
よりによって、このポンテオ・ピラトであることは皮肉と言えるかもしれません。
使徒信条でポンテオ・ピラトという名前が唱えられるのは、イエス様の誕生、受難、そしてよみがえりが、
決してクリスチャンが作ったおとぎ話ではなく、人類の歴史の中で確かに起こった出来事であることを示すためだと言われています。
ポンテオ・ピラトは、紀元26年から36年までの10年間、ユダヤ総督として実際に赴任していたことがわかっています。
この聖書箇所、ピラトがイエス様に対面した時期は、その10年間のちょうど真ん中くらいではなかったかと推測されます。
イエス様を処刑しようとする大祭司カヤパは、夜中に不正な裁判を開き、偽の証言を使ってイエス様を死罪にあたるとしました。
しかしローマの属州であったユダヤでは、たとえ犯罪人といえども、処刑するためにはローマ総督の承認が必要でした。
できるだけ早くローマの裁判を受けさせて処刑するため、彼らは夜が明けきらぬうちに総督ピラトのところへとイエス様を連行しました。
ところが外に出て来たピラトが、「あなたがたはこの人のために何を告発するのか」とユダヤ人に尋ねても、彼らは正面から答えようとしません。
「もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう」。
ピラトはこの言葉を聞き、ピンと来たはずです。これはただの内輪もめではなく、裏に何かが隠れている、と。
ちょうどその時は、過越の祭りの直前でした。過越の祭りは決してただの宗教行事ではありません。
ユダヤ国内だけでなく、世界中に散らされたユダヤ人数十万人がエルサレムに集まってきます。
このとき、普段はカイザリヤというローマ風の町に常駐しているローマ総督は、エルサレムの総督府に滞在します。
そしてエルサレムに派遣されているローマ兵の数も一時的に増員されます。
過越の祭は、ユダヤ人は神に選ばれた民で、ローマに従うことなどあり得ないという民族的不満が一気に爆発しかねない一週間でもありました。
その過越の祭の直前に、訳ありの犯罪人がわざわざ明け方に連れてこられる。それはピラトにもことの重大さを意識させたに違いありません。続きを読む
神学生の頃に通っていた教会の主任牧師であったキム先生は面白い方でした。
思いついたことはすぐに始めてしまう、韓国人の典型みたいな人でした。(悪口ではありませんよ)
ある週のこと。「今日は教会史から人物説教をします」と、アイルランドからヨーロッパ各地へ宣教した聖コルンバヌスについて語り始めました。
しかし40分過ぎてもコルンバヌス、なかなかアイルランドから出て行きません。
そろそろ会衆の集中力も限界に達したかと思われたその頃、「では、続きは来週」と、適用のかけらもないまま説教を閉じてしまいました。
私を含めて三人いた神学生はみな唖然。現在それぞれが同じ教団で牧会していますが、集まるたびにこの話が出てきます。
そして翌週、キム先生は何事もなかったかのように、講解説教に戻っていました。
あれから17年。「続きは来週」こそありませんが、長い聖書箇所を強引に区切って、説教が不鮮明になってしまうことはよくあります。
今回の説教も、人間的にはそんな反省しきりです。しかし神が欠けを満たしてくださることを信じて、次も語ります。週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』18章28-40節
1.
「主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」。
ご存じ、『使徒信条』の一節です。
私たちを含めて、多くの教会の、毎週の礼拝で唱えられている『使徒信条』。
その中で、イエスの母マリヤとともに名前をあげて唱和されているのが、一番弟子ペテロでも、使徒パウロでもなく。
よりによって、このポンテオ・ピラトであることは皮肉と言えるかもしれません。
使徒信条でポンテオ・ピラトという名前が唱えられるのは、イエス様の誕生、受難、そしてよみがえりが、
決してクリスチャンが作ったおとぎ話ではなく、人類の歴史の中で確かに起こった出来事であることを示すためだと言われています。
ポンテオ・ピラトは、紀元26年から36年までの10年間、ユダヤ総督として実際に赴任していたことがわかっています。
この聖書箇所、ピラトがイエス様に対面した時期は、その10年間のちょうど真ん中くらいではなかったかと推測されます。
イエス様を処刑しようとする大祭司カヤパは、夜中に不正な裁判を開き、偽の証言を使ってイエス様を死罪にあたるとしました。
しかしローマの属州であったユダヤでは、たとえ犯罪人といえども、処刑するためにはローマ総督の承認が必要でした。
できるだけ早くローマの裁判を受けさせて処刑するため、彼らは夜が明けきらぬうちに総督ピラトのところへとイエス様を連行しました。
ところが外に出て来たピラトが、「あなたがたはこの人のために何を告発するのか」とユダヤ人に尋ねても、彼らは正面から答えようとしません。
「もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう」。
ピラトはこの言葉を聞き、ピンと来たはずです。これはただの内輪もめではなく、裏に何かが隠れている、と。
ちょうどその時は、過越の祭りの直前でした。過越の祭りは決してただの宗教行事ではありません。
ユダヤ国内だけでなく、世界中に散らされたユダヤ人数十万人がエルサレムに集まってきます。
このとき、普段はカイザリヤというローマ風の町に常駐しているローマ総督は、エルサレムの総督府に滞在します。
そしてエルサレムに派遣されているローマ兵の数も一時的に増員されます。
過越の祭は、ユダヤ人は神に選ばれた民で、ローマに従うことなどあり得ないという民族的不満が一気に爆発しかねない一週間でもありました。
その過越の祭の直前に、訳ありの犯罪人がわざわざ明け方に連れてこられる。それはピラトにもことの重大さを意識させたに違いありません。続きを読む
posted by 近 at 14:42
| Comment(0)
| 2017年のメッセージ
2017.3.26「イエスの懐に飛び込め」
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
福音派に属する日本の多くの教会では、『成長』(いのちのことば社)を教会学校(CS)の教案誌として使っていると思います。
内容が「グレード1」(えい児科)から「グレード5」(中高生・成人科)まで分かれておりますが、この3月をもって
「グレード2」(幼児〜小学1、2年生)の聖書物語の絵を30年以上にわたって担当していた山田彰子さんが勇退されるそうです。
30年以上ということは、私が26年前に救われてCS教師の奉仕を始めた頃から、山田さんの絵を使っていたということですね。
今は『視覚教材』という別冊が販売されているので、スキャンしてパソコンでちょちょいと色を塗ればできあがりますが、
当時は3cm四方くらいの絵を四つ切り画用紙に大きく模写し、『土曜ワイド劇場』を観ながら色を塗っていたことを思い出します。
山田さんの絵は細かい線をほとんど使わないので(服の縦縞模様くらい)、模写するのが楽でした。
とはいえ色を塗るのは時間がかかり、真犯人が崖の上で白状し始めてもまだ色塗り終わらない、ということもよくありました。
『成長』3月26日分、尻餅をつくユダと、優しげなイエス様。
山田さん、30年以上の間、お疲れさま&ありがとうございました。週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』18章1-11節
序.
あるテレビ番組で、何組かの夫婦を選んで、あることを実行してもらうという企画がありました。
それは何かというと、二人だけの思い出の場所で待ち合わせをしてください、というものでした。
なんだ、簡単じゃないかと最初は誰もが思うのですが、そこにこんな条件がつきます。ただし、決して打合せや相談はしないでください、と。
つまり、夫、妻それぞれで、「ここが二人の思い出の場所に違いない」と思われるところに行って、相手が来るのを待つというものです。
残念ながら予告篇だけでその結果は見ていないのですが、もし私たち夫婦がそこに選ばれたら、どこで待ち合わせるだろうかと考えました。
そして、たぶん、ふたりそれぞれが選ぶ思い出の場所は、完全に食い違う結果になるのではないかなあと思います。
妻と私が初めて出会った場所は、いまから18年前、1999年の夏に箱根で行われた、同盟教団の宣教大会でした。
私はその頃、将来の伴侶を熱心に探しておりまして、妻と出会ったときに、この人だ、と思いました。
ところが、妻のほうはまったくそのような電撃は受けず、むしろ食事の席なのに、昔足を切断した話とか始める、困った人という印象だった、と。
じゃあ妻と確実に待ち合わせすることができる、思い出の場所はどこだろう?と考えると、なかなか思い浮かびません。
しかし夫婦にとって、これは相手をどれだけ理解しているかを確認する、よいテストではないかなとも思います。
1.
いま、イエス様と弟子たちは、最後の夜を過ごすために「園」へと入って行かれました。そこは彼らがよく会合に使っていた場所でした。
何かあったら、ここで必ず待ち合わせれば、必ずみんなと会える、そんな思い出の詰まった場所であったのかもしれません。
しかし「イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた」という2節の言葉が、心に痛みます。
ユダは紛れもなく弟子のひとりでした。思い出もすべて共有してきたはずの彼が、紛れもなくいまイエスを裏切ろうとしているのです。
ここでは「園」としか書いてありませんが、ほかの福音書と照らし合わせれば、ここは間違いなくゲツセマネの園であることがわかります。
このゲツセマネで、イエスは十字架の苦しみを父なる神に何度も叫びました。
どうかこの杯をわたしからとりのけてくださいと血の汗を流しながら祈りました。
おそらく、イエスはいままでもこのゲツセマネの園を、父なる神と真剣に祈る場所として用いていたのでしょう。
弟子たちもまたこのゲツセマネで、イエスの言葉を聞き、祈りを教えられ、師と弟子の関係を越えた暖かい交わりを受け取っていたはずです。
そこは、イエスと弟子たちとの信仰の原点とも呼べる場所でした。そしてユダもまた、その信仰をここで分かち合った者のひとりでした。
だからこそユダは、イエス様と弟子たちが最後にここで時間を過ごすに違いないと考えて、自らが先頭に立って、兵士たちを連れてきました。
待ち合わせ場所をすれ違えるような関係であったら、どんなによかったことか。
しかし三年半、イエスと弟子たちと生活を共にしてきたユダ本人が、確かにいま裏切り者として、このゲツセマネの園に踏み込んできました。
私たちは、その痛み、悲しみを少しでも理解できる者として、この聖書の記事をおぼえていきたいと思います。続きを読む
福音派に属する日本の多くの教会では、『成長』(いのちのことば社)を教会学校(CS)の教案誌として使っていると思います。
内容が「グレード1」(えい児科)から「グレード5」(中高生・成人科)まで分かれておりますが、この3月をもって
「グレード2」(幼児〜小学1、2年生)の聖書物語の絵を30年以上にわたって担当していた山田彰子さんが勇退されるそうです。
30年以上ということは、私が26年前に救われてCS教師の奉仕を始めた頃から、山田さんの絵を使っていたということですね。
今は『視覚教材』という別冊が販売されているので、スキャンしてパソコンでちょちょいと色を塗ればできあがりますが、
当時は3cm四方くらいの絵を四つ切り画用紙に大きく模写し、『土曜ワイド劇場』を観ながら色を塗っていたことを思い出します。
山田さんの絵は細かい線をほとんど使わないので(服の縦縞模様くらい)、模写するのが楽でした。
とはいえ色を塗るのは時間がかかり、真犯人が崖の上で白状し始めてもまだ色塗り終わらない、ということもよくありました。

山田さん、30年以上の間、お疲れさま&ありがとうございました。週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』18章1-11節
序.
あるテレビ番組で、何組かの夫婦を選んで、あることを実行してもらうという企画がありました。
それは何かというと、二人だけの思い出の場所で待ち合わせをしてください、というものでした。
なんだ、簡単じゃないかと最初は誰もが思うのですが、そこにこんな条件がつきます。ただし、決して打合せや相談はしないでください、と。
つまり、夫、妻それぞれで、「ここが二人の思い出の場所に違いない」と思われるところに行って、相手が来るのを待つというものです。
残念ながら予告篇だけでその結果は見ていないのですが、もし私たち夫婦がそこに選ばれたら、どこで待ち合わせるだろうかと考えました。
そして、たぶん、ふたりそれぞれが選ぶ思い出の場所は、完全に食い違う結果になるのではないかなあと思います。
妻と私が初めて出会った場所は、いまから18年前、1999年の夏に箱根で行われた、同盟教団の宣教大会でした。
私はその頃、将来の伴侶を熱心に探しておりまして、妻と出会ったときに、この人だ、と思いました。
ところが、妻のほうはまったくそのような電撃は受けず、むしろ食事の席なのに、昔足を切断した話とか始める、困った人という印象だった、と。
じゃあ妻と確実に待ち合わせすることができる、思い出の場所はどこだろう?と考えると、なかなか思い浮かびません。
しかし夫婦にとって、これは相手をどれだけ理解しているかを確認する、よいテストではないかなとも思います。
1.
いま、イエス様と弟子たちは、最後の夜を過ごすために「園」へと入って行かれました。そこは彼らがよく会合に使っていた場所でした。
何かあったら、ここで必ず待ち合わせれば、必ずみんなと会える、そんな思い出の詰まった場所であったのかもしれません。
しかし「イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた」という2節の言葉が、心に痛みます。
ユダは紛れもなく弟子のひとりでした。思い出もすべて共有してきたはずの彼が、紛れもなくいまイエスを裏切ろうとしているのです。
ここでは「園」としか書いてありませんが、ほかの福音書と照らし合わせれば、ここは間違いなくゲツセマネの園であることがわかります。
このゲツセマネで、イエスは十字架の苦しみを父なる神に何度も叫びました。
どうかこの杯をわたしからとりのけてくださいと血の汗を流しながら祈りました。
おそらく、イエスはいままでもこのゲツセマネの園を、父なる神と真剣に祈る場所として用いていたのでしょう。
弟子たちもまたこのゲツセマネで、イエスの言葉を聞き、祈りを教えられ、師と弟子の関係を越えた暖かい交わりを受け取っていたはずです。
そこは、イエスと弟子たちとの信仰の原点とも呼べる場所でした。そしてユダもまた、その信仰をここで分かち合った者のひとりでした。
だからこそユダは、イエス様と弟子たちが最後にここで時間を過ごすに違いないと考えて、自らが先頭に立って、兵士たちを連れてきました。
待ち合わせ場所をすれ違えるような関係であったら、どんなによかったことか。
しかし三年半、イエスと弟子たちと生活を共にしてきたユダ本人が、確かにいま裏切り者として、このゲツセマネの園に踏み込んできました。
私たちは、その痛み、悲しみを少しでも理解できる者として、この聖書の記事をおぼえていきたいと思います。続きを読む
posted by 近 at 18:09
| Comment(0)
| 2017年のメッセージ