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2017.3.19「いま救ってください」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』12章12-19節 

1.
 イエスを先頭に向かう小さな群れは、エルサレムに近づくにつれ、大きな行列となっていきました。
それを見たある者は上着を道に敷き、ある者はしゅろの枝を手に取って、そしてすべての者が口をそろえてこう叫びました。
「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に」。
「ホサナ」とは、「いま、救ってください」という意味です。
群衆は、イエス・キリストを主とあがめ、ホサナの叫びは、地を揺るがす大合唱となりました。
その中には、一度死んだラザロがイエスによってよみがえった姿をはっきりと目撃した人たちがいました。
噂が噂を呼び、人々は今すぐにでもイエスがその不思議な力を使ってローマ帝国の支配から我々を解放してくださるのだと歓喜しました。
自分たちの立場を守ろうとしていたパリサイ人たちは、イエスを黙らせるためのすべての計画が一切失敗したことを認め、頭を抱えました。
そしてイエスのまわりの十二弟子たちは、おそらく裏切り者のユダを除き、みな誇らしげな表情を浮かべていたことでしょう。
しかしイエス・キリストご自身の心はどうだったのでしょうか。
 このエルサレム入城と呼ばれるできごとは、新約聖書に四つある、すべての福音書に記録されています。
しかしどの福音書も、このときイエス・キリストがろばの子の上でどんな表情をしていたのかは明らかにしておりません。
自身と誇りに満ちた表情を浮かべていたのか。優勝パレードのように群衆の叫びに笑顔で答えていたのか。
すべての福音書がイエスの表情に沈黙する中で、ルカの福音書だけは、イエスの表情ではなく感情についてこう記しています。
「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。
『おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている』」(ルカ20:41,42)と。
間違いなく、このときイエス・キリストの心には誇りや期待ではなく、悲しみ、そしてむなしさがありました。続きを読む
posted by 近 at 20:45 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.3.12「MOTTAINAIを乗り越えて」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』12章1-8節 

1.
 私は子どもの頃、シイタケが苦手でした。食卓に出ても、いつも手をつけないで残していました。
母親は最初の頃は「シイタケを食べると頭がよくなるんだよ」とか言っていましたが、そのうちにこう言い出すようになりました。
「伸之、食べ物を残すなんてもったいないだろう!アフリカには、食べたくても食べられない人たちがたくさんいるんだよ!」
私は半べそをかきながら、心の中で(きっとアフリカの人たちだって、シイタケは嫌いだよ)とつぶやいていたことを思い出します。
しかしそのアフリカのケニア出身の環境保護活動家、ワンガリ・マータイさんという女性をご存じでしょうか。
彼女は来日した際に「もったいない」という日本語を知り、「MOTTAINAI」精神を世界に広める活動を続けておられます。
彼女曰く、「MOTTAINAI」は究極の環境保護であると持ち上げてくださり、日本人としては誇らしい限りです。
しかし「もったいない」という日本語が、いつも良い意味で使われるわけではありません。
大切な人のために、損得を考えずに犠牲を払った、その行動を他人から「もったいない」と言われてしまうこともあります。
それがイエス様の葬りのために、300デナリもするナルドの香油をささげたマリヤが経験したことでした。
 今日の聖書箇所ではイスカリオテ・ユダのことばだけが強調されていますが、同じできごとを描いているマタイ福音書ではそうではありません。
ユダだけではなく弟子たち全員が憤慨して、こう言ってマリヤを責めたのです。
「何のためにこんな無駄なことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに」。
「何のためにこんな無駄なことをするのか」。日本語に直せば、まさに「なんともったいない」です。
クリスチャンは、神の愛に答えたいと願い、自分の持っているものを神様にお返しします。
しかしそれは、神を知らない人々にとっては、常識外れの行動として目に映ります。そして「もったいない」という言葉が矢のように突き刺さります。
私が大学生の頃、「日曜日は教会で一日過ごしているんだよ」と友人に話すと、「何やってんだ、時間がもったいない」と言われました。
社会人になって、「月給のうち、○○○を神さまにささげている」と同僚に話すと、「何やってんだ、お金がもったいない」と言われました。
マリヤの行動は、イスカリオテのユダはもちろん、ほかのイエスの弟子たちにとっても、理解できない行動でした。
しかしイエス・キリストだけは、彼女の行動に現れている思いをご存じでした。
イエス様は、神を愛し、自分にできることを神にささげたいと願う者たちの心を知っておられます。
今日私たちは、マリヤの姿を通して、私たち罪人の心を変えていく神様の愛を味わっていきたいと願います。続きを読む
posted by 近 at 14:47 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.3.5「礼拝を奪ったのはだれ」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
『君の名は。』で新海誠監督がブレークを果たす前からそれとなく応援していた豊栄キリスト教会。
そんな新海監督よりもさらに当教会が期待を込めて応援してきたのが、クリスチャン漫画家の山花典之先生です。
そんな山花先生の最新作『神様がくれた風景』が、いのちのことば社から満を持して登場です。

病床にあったお母様の救いの証しなども掲載されています。私も一昨年に逝った母を思い出して泣きました。
難病のためにすでに話せなくなっていたので「口で告白する」ことはできませんでしたが、山花先生のお母様は○○で○○だったそうです
(続きが知りたい方はぜひ本の中で)
上記のリンク先はAmazonですが、できればいのちのことば社直営サイトか全国各地にあるライフセンター書店で購入いただけると幸いです。
豊栄キリスト教会は山花典之先生を応援しています。目指せマンガ界の三浦綾子。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』2章13-17節 

1.
 「セブン」「ファミマ」「デイリー」「ローソン」、言うまでもなくコンビニ各社の略称です。
コンビニというのはもともとアメリカで始まったものですが、だいたい1970年前後に日本でも始まったということでした。
ちょうどうちの教会と同じくらいの歴史ですね。そして約半世紀の間に、全国のコンビニ店舗数は約55000軒。
これからコンビニはますます増えていくだろう、と考えがちですが、じつは十年後には半分以下に減っているかもしれない、と言われています。
理由は、コンビニに商品を運ぶための長距離トラックの運転手が激減しているからです。
過酷な労働条件と時給の低さの中で、若い人たちが運転手になりたがらず、コンビニに商品を届けることができなくなる、と。
コンビニは英語のコンビニエンス、訳すと便利、という意味です。
しかしその便利さは、過酷な運送業界の犠牲の上に成り立っているのだ、ということを最初にお話ししたいと思いました。
 「便利」なことはよいことだ、と私たちは考えます。
しかし便利を追及するあまりに、私たちは自分でも気づかないうちに、大切なものを踏みつけているということがあるのです。
今日の聖書箇所では、イエス様の「宮きよめ」というできごとが語られています。
じつはその背後にも、便利さを追い求めて神の家を商売の場所にしてしまった、巡礼者たちの姿がありました。
14節から16節をもう一度ご一緒に読んでみましょう。
「そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、
宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。
『それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」

 私たちは、このできごとを通して、イエス様が両替人や商売人たちに対して怒りを向けておられる、と考えがちです。
しかし彼らの商売は、現代風に言えば、「巡礼者たちの多様なニーズに応えるため」のものでした。
商売というのは需要と供給のバランスの上に成り立っています。
両替人たちが神殿の中にいるのは、神殿の中で両替を扱ってほしいと望む人々がいるからです。
牛、羊、鳩の商売人たちもまたしかり、神殿の中で、いけにえの動物を売ってほしいと望む人々がいるからです。
それはどんな人々でしょうか。言うまでもなく、ユダヤ国内外から、エルサレム神殿へいけにえをささげにきている、巡礼者たち本人です。続きを読む
posted by 近 at 16:22 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.2.26「絶望から始まる希望」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先週、教会員の一人であるA兄のお祖母さまが天に召され、私が司式をさせていただきました。
そのお祖母さまは信仰告白には至っておりません。
しかし私は、お祖母さまの霊は天国のイエス様のふところで安らいでおられ、再会の希望を語らせて頂きました。
それは、はっきりとした信仰告白には至っていなくても、A兄を通して福音を聞いていることは確かだからです。
それがお祖母さまの中で実を結んだのかは人にはわかりません。ただ人知を越えた神のあわれみにすがるしかありません。
 A兄は教会から数キロ離れた農村部に住んでいますが、今回のお祖母さまも含めて三人をキリスト教式葬儀で天へ送り出しました。
そんなこんなで彼のお母さまの話では「近所で変わり者扱いされている(笑)」そうです。
しかし葬儀を通して、このご家族に対する、親戚や近所の方々からの見えない敬意のようなものを感じました。
家族を失った悲しみはあります。しかしこのご家族を通して、この地域も祝福されているように思います。週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』22篇1-10節 

1.
 今日の詩篇22篇1節は、十字架にかかられたイエス・キリストが、父なる神に向かって叫ばれた言葉として知られています。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。
永遠の昔から、常に父なる神とひとつであったイエス・キリストが、神にのろわれた者とされたのが十字架刑でした。
それでは、イエス様があえて引用するほどに、このもともとの詩篇22篇の作者は、いったいどのような苦しみの中にあったのでしょうか。
私たちは想像することしかできません。いや、想像することさえできない、と言った方がよいでしょう。
しかし私たちはこの詩篇を味わう中で、慰められます。なぜならば、神と永遠に引き裂かれるかのような苦しみ、絶望を口にする1節。
そこから2節、3節へと進んでいくごとに、神から離れていくのではなく、むしろ神に近づいていくことがわかるからです。
 詩人は確かに絶望するほどの痛みを受けました。神が私を完全に見捨てた、と一度は考えました。
しかし彼はその絶望をあえて神の前に吐き出すことを通して、本当の自分をさらけ出すことができたのです。
以前にも説教で触れたことがありますが、遠藤周作という有名なカトリックの作家のエピソードを紹介します。
同じ作家仲間の椎名麟三がプロテスタント教会で洗礼を受けたとき、遠藤は、椎名の奴は大したもんだと言ったそうです。
何がすごいのですかと人が聞くと、遠藤周作は答えました。
「だって、椎名の奴、洗礼を受けたときに、これでようやく神をのろって死ねると言ったんだよ、これが偉いと言わずとして何と言うんだ」。
私は、あるいは皆さんもそうかもしれませんが、このエピソードを初めて聞いたとき、まるで禅問答のように難しく感じました。
しかし信仰生活を踏む中で、少しずつわかってきたような気がするのです。
クリスチャンの恵みは、神の子どもとして、何でも打ち明けることができることだ。
いや、打ち明けるという生ぬるいものではなく、たとえのろいの言葉であろうとも、神にぶつけることができるのだ、と。続きを読む
posted by 近 at 09:56 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.2.19「幼子のように」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『列王記 第二』5章1-19節 

1.
 どんな人間にも欠点、いや弱点があるものです。
ビジネス街を颯爽と歩くキャリアウーマン。しかし彼女には仕事のために家族を犠牲にしているという負い目がありました。
その負い目を封印するかのように、さらに仕事に没頭すればするほど、家族と過ごす時間は消えていきました。
今日登場するナアマンは、約2800年前の人です。
しかし現代人と同じように、何不自由なく手に入れた中でも彼の心をいつも沈ませているものを抱えていました。それがツァラアトでした。
ツァラアトは、以前の聖書の訳では重い皮膚病と訳されていました。
しかし実際には、ツァラアトは皮膚の下にこそ病の根源があります。どれだけ皮膚をかきむしり、取り除こうとしてもツァラアトには届きません。
それはやがて全身に広がり、筋肉から皮膚を腐敗させ、ついには手足の形をも歪めていきます。
ナアマンは有能な将軍でした。ただ戦に長けていただけではありません。
イスラエルにとって隣の敵国であるアラムの王があえて手紙を書いて通行を求めるほどに、王からも信頼を得ていた側近でもありました。
力、富、名声、彼の人生に欠けたものは何一つないのに、ツァラアトの病は彼が人生を心から楽しむことを妨げ続けるのです。
 このツァラアトは、すべての人間の中に潜んでいる、罪を象徴しています。
どれほどすばらしい人生を送っているように見えても、罪はあらゆる人の中に潜んでおり、私たちが心から人生を楽しむことを妨げています。
人は、悪い行いとして現れてくるものを罪と呼び、自分はそれを抑えているから罪人ではないと言います。
しかし罪の本質は、外側に出て来る行いではなく、内側に隠れている心の深みにこそあります。
ツァラアトの本質が皮膚の下に潜んでいるように、罪の本質も外の行いではなく心の中に隠れているものを解決しなければなりません。
しかし、心の中にあるものをどうやって取り除くことができるでしょうか。それは、私たち人間の努力や心構えでは不可能です。
私たちの創造者である神ご自身が、見えない御手をもって私たちの心の深みに手を差し入れてくださらなければ、罪は解決されません。
将軍ナアマンが、ツァラアトから解放されていく道のりを学びましょう。
そこには、私たちがイエス・キリストを信じることによって罪から解放されていく道のりが語られているのですから。続きを読む
posted by 近 at 16:47 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.2.12「バアルか、キリストか」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
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聖書箇所 『列王記 第一』18章15-40節 

序.
 今から90年前の1927年、中近東にあるシリヤのラス・シャムラという町で、古い粘土板が発見されました。
考古学者が何年もかけて調査したところ、これはモーセと同じ頃かそれよりも古い時代にまで遡るものだとわかりました。
しかし人々が驚いたのはそこからです。
その粘土板からは、聖書に繰り返して登場する異教の神バアルが他の神々と戦う物語が解読されたからです。
 バアルはそれまで旧約聖書以外の資料がほとんど残っておらず、その実態についてはほとんどわかっておりませんでした。
しかしこのラス・シャムラ文書の発見によって、断片的だったバアル神話の全体像が明らかになったのです。
バアルは豊かな収穫を約束する神でした。しかしその収穫は、バアルが牛の姿をとって自分の妹である別の神を犯すことから始まります。
バアル神話は、男女の性行為を通して収穫が約束されるという禍々しい営みで満ちておりました。
神が自分の妹を犯すという近親相姦、また神が獣に姿を変えて人間と交わるという獣姦。
旧約聖書には、バアルを信じる者たちが高い丘の上や青々とした木々の下で口にするのも憚られるような淫らな行ないにふけったこと、
またバアル神殿では巫女による売春や、同性同士の性交が営まれていたことが記されています。
それがバアル礼拝であり、神がカナン人を絶滅させてでも決して取り入れてはならないと厳しく命じられたことでした。
預言者エリヤが自分の命をかけて戦ったのは、いま国中にはびこっている、この偶像バアルとその教えに対してであったのです。続きを読む
posted by 近 at 17:10 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.2.5「ソロモン王の光と影」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
昨年から、礼拝説教とCSメッセージは、同じ聖書箇所から語るという試みを続けています。
同じ箇所から語っても内容がだいぶ変わるということも時々あり、今回もまたそうでした。
CSメッセージではソロモンに知恵が与えられ、それを用いて本当の母親を見分けた(「大岡裁き」のモデル?)できごとが語られました。
しかし礼拝説教ではいわゆる「大岡裁き」には触れず、知恵が与えられたソロモンがその知恵を生かし切れなかったのはなぜか、でした。
子どもたちはCSと礼拝の二回、同じ箇所から聞いているので、混乱しないだろうかという心配もないわけではありません。
しかし一つの聖書箇所を異なる切り口から見つめることで、みことばの芳醇さを味わってほしいとも思います。
いやあ、聖書って本当におもしろいですね(故・水野晴郎風に)。週報はこちらです。

聖書箇所 『列王記 第一』3章1-15節 

序.
 今から420年前のちょうど今日にあたる1597年2月5日、長崎で26人のカトリック信者が十字架刑に処せられました。
その中で最も最年少にあたるルドビコ茨木という少年は、わずか12歳でした。
処刑を担当していた役人は、まだ幼いルドビコをあわれに思い、「もしキリシタンの教えを捨てれば命を助けてやる」と言ったそうです。
しかし彼は「御奉行様、この世の束の間の命と天国の永遠の命を取り替えるわけにはまいりません」と毅然と答えた、と書き残されています。
彼ら26人が十字架の上で殉教したのと同じ日、キリストのために地上の命を捨てた先達をおぼえながら、信仰を学んでいきましょう。
 先ほどお読みしたソロモンがイスラエルの王として即位したのは、12歳とは言いませんが、まだ若かったことは間違いありません。
彼の父ダビデは王国の礎を築いた、偉大な王でした。
まだ若いソロモンが父ダビデの後を引き継ぐのはどれだけの重荷であっただろうか、想像に難くありません。
自分と父を比較して批判する者たちを黙らせるだけの富、力、栄光を求めてもおかしくはありません。
しかしソロモンは、主を愛し、父ダビデを尊敬していました。
そして自分が父に及ばない小さな者であることを認める謙遜さを持ち合わせていました。
だから彼は、夢の中で一つの願いを許されたとき、こう願いました。
このしもべのような小さい子どもが、数え切れないあなたの民の声を聞き取り、正しいさばきを行えるように、知恵と判断力をください、と。
それは、神のみこころと一致したと聖書は記しています。
さらに神は、知恵だけではなく、ソロモンが願わなかった富と誉れをも与える、と約束してくださった、とも。

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posted by 近 at 08:49 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.1.29「弱さを知る者は強さをも知る」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
礼拝メッセージを音声や動画でネット公開している先生は少なくありませんが、私のように動画と原稿両方というのはあまりないようです。
原稿を公開することで、様々なリスクを負います。著作権のあるものや間違った内容を引用して、批判される恐れもあります。
しかし今日、多くの教会で、牧師によるハラスメントや誤った聖霊理解が横行していることを聞いています。
ネットを通して、外部のクリスチャンの方にもこの教会の説教をチェックしていただくことで、健全性を証しできると考えています。
とはいえ原稿どおりに話していないこともよくあります。今日の説教もそうですね。
動画も見ていただけると幸いです。週報はこちらです。

聖書箇所 『士師記』16章4-31節 

序.
 司会者には、ずいぶんと長い聖書箇所を読んでいただき、感謝いたします。
今日は旧約聖書の物語から、サムソンというひとりの信仰者の生き様あるいは死に様を通して、私たちの信仰について考えましょう。
とは言いましても、「信仰者」という言葉のイメージからはまるで遠い、サムソンの生活ぶりです。
サムソンは、生まれる前から神様に選ばれて、生まれた時から神様に人生をささげられた、ナジル人という、特別な人でした。
神様の祝福として、彼は驚くような怪力が与えられていました。しかし彼は、与えられた力を正しく用いることができません。
怪力をもてあましながら、このデリラという、魅力的ではあるが危険な心を持っている女性と関係を結ぶ、ただれた生活を過ごしていました。
 サムソンの悲劇は、自分自身を知らなかったということに尽きます。
まず彼は、自分の中に弱さがあるということを知りませんでした。サムソンがデリラの本心に気づいていなかったはずがありません。
デリラはいきなり、「どうすればあなたを縛って苦しめることができるのでしょう」と直球で聞いてきます。
いくらだらしない男でも、これで気づかないはずはありません。
しかし彼の愚かさは、デリラの思惑を知りながら、自分は大丈夫だと考えて、いわば危険なゲームを楽しんでいたところにあります。
自分の中にある弱さを知らない、それがサムソンの愚かさです。続きを読む
posted by 近 at 19:24 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.1.22「神の戦にふさわしい者とは」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
太郎を眠らせ 太郎の屋根に雪ふりつむ
次郎を眠らせ 次郎の屋根に雪ふりつむ(三好達治『雪』)
そんな名詩の叙情を吹き飛ばすかのような大雪です。先日は教会員の方に車を掘り起こして頂きました。
こんな雪の中でも、礼拝を求めて集まってくるひとり一人。礼拝には、いのちがあふれています。
これを読んでくださっている方々もそういう方なのでしょう。今週も祝福がありますように。週報はこちらです。

聖書箇所 『士師記』7章1-8節 

序.
 有名な戦国大名、武田信玄の名前を聞いたことがあるかと思います。
彼の姉は、桶狭間で有名な今川義元と結婚して駿河、今の静岡県へ嫁いでおりました。
信玄が13歳の時、その姉から貝遊びのためにとたくさんのハマグリが送られてきたそうです。
すると信玄は、畳二畳ほどの小部屋にそのハマグリを積み上げさせて、その数を数えました。
そして、次に自分の何人かの家来をかわりばんこに呼んで、「このハマグリの数はどれくらいあるか、数を当ててみよ」と尋ねたそうです。
ある者は「一万くらい?」と言い、またある者は「二万はある」と答えました。
しかし実際には3700余りしかなかったのです。そこで彼は家来にこう言いました。
「人数は少なくてもよいのだ。三千の兵を持つ者なら一万の兵に見せることもできる。目で見たことに頼る者になってはならない」。
家来たちはわずか13歳の信玄の知恵に驚きを隠せなかったということです。続きを読む
posted by 近 at 18:24 | Comment(0) | 2017年のメッセージ

2017.1.15「罪のかたまりからの解放」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先週の今頃まで、新潟は雪がほとんど積もらなかったのですが、後半に入ってからまるで今まで天の窓が詰まっていたかのように、
雪、雪、雪・・・・度重なる雪かきで体力を使い果たし、今週はダウンしていました。
今日は珍しく、朝から青空が広がっています。少し元気が出て来ました。
みなさまもくれぐれもご自愛ください。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』18章9-14節 

序.
 私たち夫婦は、自他共に認めるおしどり夫婦ではないか、と勝手に思っておりますが、車の中だけは別です。
車を走らせて十分くらい経つと、もう妻の機嫌が悪くなっています。
私がハンドルを握ると性格が豹変し、というより素の自分が出てしまい、他のドライバーのマナーの悪さを批判してしまうからです。
「どうしてもうこんなに暗くなっているのに、あの対向車はライトをつけないんだよう」とか、
「どうしてウインカーも出さないで、いきなり隣から割り込んでくるんだよう」とか、
「どうしてBABY IN CARとかいうステッカーを貼っているくせにあんなに急ブレーキばかりかけるんだよう」とか、とにかくうるさいと言われます。
教会員や他の牧師を乗せるときにはそんなことはまったく言いません。しかし妻と乗るときには、なぜかお口に歯止めがきかないのです。
とはいえ、どうしてそんなに他のドライバーの批判をしてしまうのか、ははっきりと原因がわかっています。
自分の運転スキルは他人よりうまい、そして自分のように運転しないドライバーは間違っている、と考えてしまうからです。
まさに今日のみことばのとおりです。「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者」とは、私自身のことです。
しかしここで決して見落としてはならない、大切なことばがあります。「者たち」って書いてます。みなさんも同類です
ある人は言うでしょう。いやいや、わたしは車を運転しませんし、そんな、他人の文句を言いながら走ったりしません、と。
しかし車の運転について語ったのは、それこそひとつのたとえ話です。
自分の生活、言葉、心、そういうものを振り返ってみてください。
私たちは例外なく、取税人よりもパリサイ人のほうに属する者ではありませんか。
すでに救われた者たちがこの取税人で、そうでない人たちがパリサイ人、ということではありません。
私たちは100%、このパリサイ人の側にいる者なのだと受け止めるべきなのです。続きを読む
posted by 近 at 08:46 | Comment(0) | 2017年のメッセージ