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2016.12.25「あなたは招かれている」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
昨日は多くの教会でクリスマス礼拝や祝会が行われたのではないかと思います。
例年ですと、クリスマス集会の後、年内にもう一度日曜日があって、一年の感謝などをささげるのですが、今年の日曜日は昨日で最後。
来週は元旦となり、何か物足りないような気がします。
今年一年を振り返ってみると、この場では書けないのですが、私にとって大きな出来事がありました。
ある説教で「牧者として留まるために、常に私は自分のやりたいことではなく、二番目の道を選んできた」という証しがありました。
私にとって、二番目の道は何か、いま神様に問うているところです。毎日少しずつ、おぼろげに示されてはいるのですが。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』2章8-20節 

1.
 タレントの武田鉄矢さんが子どもの頃、お母さんにこう質問したそうです。よそのうちはクリスマスにお祝いするけれどなんでうちはやらないの?
するとお母さんはこう答えました。「うちは浄土真宗だからサンタさんは来られましぇん」。
有名なエピソードですが、実際同じような経験をした方はたくさんおられるようです。
その中のひとりが、どうしてもプレゼントがほしい、教会だったらサンタさんが来るんじゃないか、と思い立ち、クリスマス礼拝に潜り込みました。
どうにも居心地の悪さを感じながら、牧師の説教を最後まで聞きました。
ところが牧師の話では、サンタがプレゼントをくれるどころか、人々はクリスマスをサンタの誕生日だと思っていますが、なんて言い出す始末。
しかしイエス・キリストがユダヤのベツレヘムでお生まれになりました、ということだけは耳に入ってきました。
それまでエスさんはアメリカ人だと親から聞いていたので、ちょっと得をした気分になった、と。
その方もクリスチャンとなられましたが、たとえそんな動機であっても、神様はあらゆる機会を用いて、私たちを招いておられるお方です。

 クリスマスに、まず私たちが聖書から教えられることは、神様は招いておられるお方であるということです。
豊栄教会の外に立っているアルミの掲示板には、フレームのところに小さく、次のみことばが印刷されています。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげます。」
あれは私が十数年前に赴任してすぐに作っていただいたものですが、もう少しデザインを煮詰めるべきでした。
みことばがちっちゃすぎて、相当近づかないと気がつきません。
だけどもしクリスチャンが、聖書のことばのなかでひとつだけ誰かに伝えるならば、必ずベストテンに入るものでしょう。
イエスさまは、つまりあなたを愛しておられる神様は、こう呼びかけておられます。
「あなた、疲れていますね。重いもの、背負ってますね。わたしのところにおいでなさい。わたしが代わりに背負ってあげましょう」。
疲れていない人はいません。重荷を背負っていない人はいません。だれ一人として、イエス様の助けを必要としていない人などいません。
神は私たちを、あらゆる手段を通して招いてくださっています。続きを読む
posted by 近 at 17:49 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.12.18「みこころが地でも行われるために」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。週報はこちらです。
いよいよクリスマスですね。当教会もご多分にもれず、イベント 集会が目白押しです。
23日は近所の福祉施設二か所を訪問、24日はイブ礼拝、25日はクリスマス礼拝およびお祝い会。26日は家庭集会の予定です。
7月から豊栄から40キロ北にある村上の教会を兼牧していますので、25日は豊栄のクリスマス祝会も途中退場です。
村上のクリスマスチラシもラクスルさんで作りました。こちらはお試しということで1000部。ある意味、豊栄のチラシよりも力入っています。

0001.jpg リンク先のオリジナルは1MBありますのでご注意ください。

聖書箇所 『ルカの福音書』2章1-7節 

序.
 毎年、年末になると流行語大賞や、今年の漢字というものが発表されます。
今年の漢字というのは、その年の特徴的な世相を漢字一文字で表すというものですが、2016年はどんな漢字が選ばれたでしょうか。
「金」でした。なんでも、今年はリオでの金メダルラッシュ、豊洲市場や東京オリンピック会場に関わる金の問題などがあったからだそうです。
ところが、そのニュースを聞いて、私は待てよ、と思いました。
じつは毎年、この時期の説教の導入で「今年の漢字」に触れているので、過去にどんな漢字が選ばれたかというのがだいたいわかるのです。
四年前の2012年に選ばれた「今年の漢字」も「金」でした。
当時の資料を見ると、こう書いてありました。
2012年はロンドンでの金メダル、年金偽装にかかわる金の問題の表面化。四年前とほとんど変わっておりません。
金メダルはともかく、金の問題は、悪いのは国か都か県かというのが変わるだけで、四年経っても同じことを繰り返しているのだなと思います。
来年の「今年の漢字」に何が選ばれるかまではわかりませんが、おそらく四年後の2020年は、また「金」が選ばれるに違いありません。続きを読む
posted by 近 at 11:15 | Comment(2) | 2016年のメッセージ

2016.12.11「神の赤子は赤心に宿る」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。週報はこちらです。
クリスマスの案内チラシを、今年もラクスルさんで6000部発注。
A4両面カラーで一枚2円也。目に触れるかどうかは未知数ですが、教会会計にはたいへん助かります。
0001.jpg クリックすると、PDFが開きます。2MBと重いのでご注意ください。

聖書箇所 『マタイの福音書』1章18-25節 

序.
 クリスマスの讃美歌の中に、「みどりご」ということばがよく出てきます。
赤ちゃん、つまり「赤子」と同じ意味ですが、なぜみどりごと言うのでしょうか。
辞書で調べたところ、奈良時代の大宝律令という法律で、三歳以下の幼児は「みどりこ」と呼ぶことに決められて、その名残だということです。
幼子の瑞々しい生命力が、新緑の若葉を連想させるから、という説明もありました。
讃美歌としては「赤子」より「みどりご」のほうが情感豊かでよいのですが、
私は赤子ということばから受ける、血管が透き通って、肌が赤みを帯びている、そういうイメージも捨てがたいと思います。
日本語には「赤い心」と書いて「赤心」という言葉があります。嘘偽りない、心の思いという意味です。
「赤」は裸を指します。何も飾らず、何も偽らず、何も取り繕わないのが赤心であり、丸裸の赤子の姿です。
聖書の中で頻繁に出てくる「罪のゆるし」という言葉も、ごんべんの許しではなくて、あかへんの赦しという漢字です。
赦すことも、赦されることも、それは自分の心を丸裸にしてすべてをさらけださなければなりません。
そして今日の聖書箇所には、自分の心を丸裸にして「赦す」ことを問われた、一人の男性の姿が描かれています。
それがヨセフです。まず18節をもう一度お読みします。
「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった」。続きを読む
posted by 近 at 15:06 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.12.4「まことの光を求めて」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』1章6-13節 

序.
 小学生の頃、図書館に入るとまず最初に向かったのが、「まんがひみつシリーズ」という本が並んでいる棚でした。
「宇宙のひみつ」、「人体のひみつ」、「恐竜のひみつ」などが、まんがでわかりやすく説明されていて、
シリーズ物なのですが、競争が激しくて全部を読んだ人はなかなかいない、という、人気のある本だったと記憶しています。
その中で、ひとつだけ、今でもはっきりと覚えている話があります。それは「昆虫のひみつ」という本にあった、蛾の物語でした。
まんがですから蛾のキャラクターも擬人化されていて、ほっぺに傷のあるおっさんの顔です。
で、こんな感じで登場するわけです。「おうおう、おれたち蛾っつうのはな、まっくらな裏通りしか歩けねえんだよ。光になんて近づけますかい」。
そう言いながら、暗やみに向かって飛んでいこうとするのですが、なぜか自分の意思に関わりなく光のほうへ向かってしまう。
すると必死で抵抗する蛾のおっさんに、若い女性に描かれたメスの蛾が二、三匹飛んできて、こう話しかける。
「私たち蛾は、光を感じるとどうしても近づくようにできているの。あら、明るいところでみると意外といい男ね」
すると蛾のおっさんも「いやー、明るい方もまんざら悪くないねえ」と。
さすが昭和、いい時代ですね。こんなまんがが、全国PTA協議会推薦と書かれた本の中に、平気で載っておりました。

こちらは2006年に出た最新版。昭和のバージョンはこんなさわやかな感じではなかったです続きを読む
posted by 近 at 22:12 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.11.27「初めにことばがあった」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
最近、説教映像をYoutubeにアップロードする作業のたびに、いつも画面の隅にピコ太郎(さん)の「PPAP」が出てきます。
ただ何度観ても、何がおもしろいのか、私にはわからないのです・・・・
もしかしたら、私が最初から批判的に見てしまっているからかもしれませんね。
逆にみんながおもしろいと感じているからおもしろいはずだと、最初から胸襟を開いたうえで観れば、おもしろく感じるのかもしれません。
(それが他人志向だという批判もあるでしょうが)
説教もまたしかり。とくに私ら牧師は、他の牧師の説教を聞くとき、どうしても批判的に聞いてしまうことが多いのです。
「互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」(ピリピ2:3)というみことばを心に留めていきたいと思います。
同じYoutuberとして(意味わかってない)、ピコ太郎(さん)に負けていられませんね。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』1章1-5節 


1.
 今日から、教会は待降節を迎えます。待降節はアドベントとも呼ばれます。
クリスマスまでの四週間、日曜日ごとに一つずつ、キャンドルにともしびをともしていきます。
最後の週はすべてのキャンドルに火を点し、イエス・キリストがこの地上に人として生まれてきてくださったことを感謝する時を迎えます。
大事なことなのでもう一度繰り返しますが、クリスマスはイエス・キリストが人として生まれてくださった、神の時です。
人として生まれてきた」。何という不思議な表現でしょうか。すべての人間の中で、イエス・キリストだけにあてはまることばです。
それでは、イエス・キリストは二千年前のクリスマスまで、どこにいたのでしょうか。どこで何をしていたのでしょうか。
その答えが、今日のヨハネの福音書の冒頭のことばです。
 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」。
いま私たちが読んでいるのは、戦後の訳ですが、日本で最初の翻訳では「はじめに、おかしきものござる」と訳されていたそうです。
「はじめに、おかしきものござる」。もちろん、「おかしきもの」とは変なもの、おかしいものという意味ではありません。
私たちの常識を越えた、すばらしい存在という意味です。
そして、それこそが、人としてこの世にお生まれになる前の、イエス・キリストを表すことばでした。
初めに、ことばがあった」。この「ことば」こそ、イエス・キリストです。
ことばは神とともにあった」。イエス・キリストは、いつも父なる神とともにおられたお方でした。
ことばは神であった」。イエス・キリストは、人ではありません。神そのものでした。
人が修行の結果、神のような力を身につけて、キリスト教の教祖になったのではありません。
神であるお方が、私たち人間の罪の姿をあわれみ、人としてこの地上に来てくださったのです。続きを読む
posted by 近 at 10:44 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.11.20「恐れつつイエスに近づけ」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』13章53-58節 


1.
 今日の聖書箇所には、イエス・キリストのふるさと、ナザレの人々が登場します。
彼らは、イエス・キリストが幼い頃からよく知っておりました。イエスの母マリヤ、またイエスの兄弟たちのこともよく知っておりました。
しかしよく知っていたからこそ、彼らはイエスをまっすぐに見ることができず、救われる機会を失ってしまったということができます。
そこまでイエス様と親しく、極めて近いところにまでいながら、人々はどうしてイエス様につまずいたのでしょうか。
それは、自分たちが知っている人間イエスが、イエス・キリストのすべてだと考えたことにありました。
30年間、大工として汗にまみれ、家族と共に暮らしていた、人としてのイエス。それが彼らの知るイエス・キリストでした。
しかしそれがイエス・キリストのすべてではありません。
郷里の人々は、人としてのイエスは知っていても、神としてのイエスについてはまるで知りませんでした。いや、知ろうとしませんでした。
今、目の前の言葉や行動からにじみ出る、キリストの神性を受け入れようとしませんでした。
そこに人々の高ぶりがあり、彼らはイエスを見つけることに失敗したのです。続きを読む
posted by 近 at 20:09 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.11.13「嵐の中で見失ったもの」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』8章22-25節 


序.
 免許と名がつくものは、運転免許でも、調理師免許でも、学科と実技の二種類をこなさなければなりません。
どんなに学科試験がよくても、実技が未熟であれば免許はもらえません。信仰も同じです。
私たちは、恵みによって、信仰をいただいて救われます。しかし救いに至る信仰は、実際の試練を通して試されなければなりません。
神は、試練を通して、私たちが頭でっかちの信仰者で終わらないように、訓練されるのです。
誤解してはなりませんが、それは救いの免許を失わせるためではなく、むしろ救いに至る信仰を強めるためのものです。
昨日までは何もなかった、私たちの平和な生活に今日、突然起こった苦しみ。
そして二千年前、岸を離れる時には落ち着いていたガリラヤ湖に突然起こった大嵐。
それは、同じく神さまが愛する者たちに与えたもうた試練でした。その試練の中であなたは何と叫ぶのでしょうか。
「主よ、助けてください」とイエスさまにしがみつくのか、それとも「私が滅んでも何とも思わないのですか」と恨み節を垂れ流すのか。
 それまでの弟子たちは、自分たちは他の人々とは違う、イエス様の直弟子なのだ、という誇りを持っていました。
しかしそんな形だけの信仰は、いわばタンスの中のゴールド免許みたいなものです。実際には運転しないから、事故も起こさない。
試練を経験していないから、いざとなると信仰をいかに働かせたらよいかわからず、パニックに陥る。
彼らが嵐の中で見失ったものが何か、それは三つありました。
ひとつ、彼らはイエス様のみことばの約束を見失いました。
ふたつ、彼らはイエス様がいっしょに舟に乗っているという事実を見失いました。
そしてみっつ、彼らは嵐の中でさえ眠っておられる、主が与えてくださる平安を見失いました。
私たちが彼らの失敗を学び、自分自身への戒めとするために、この三つを順に見ていきましょう。続きを読む
posted by 近 at 17:47 | Comment(1) | 2016年のメッセージ

2016.11.6「ただ信じ続けなさい」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『マルコの福音書』5章21-24、35-43節 


1.
 22節、「すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。
「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
ヤイロは会堂管理者でした。会堂管理者とは何でしょうか。
読んで字のごとく、ユダヤ教の会堂、通称シナゴーグの管理を任せられていた人です。
会堂の管理を任せられていた、というと、何か寺男のような、戸締まりや掃除をしたりする人を連想するかもしれません。
しかしユダヤ人の社会においては、会堂は単に礼拝をするところではなく、社会生活の中心そのものです。
日本では、檀家という言葉がありますが、あれはもともと江戸時代、人々が村から勝手に出て行かないように、幕府が始めたものだそうです。
同じように、ユダヤ人の会堂もまた、宗教的・政治的・社会的にユダヤ人たちをまとめるためのものでした。
会堂管理者とは、その意味で大きな権威を持っていた人であったと言えます。
 しかしすでにこのとき、エルサレムの宗教指導者たちは、イエス・キリストとその弟子たちを敵とみなしていました。
イエスに協力する者は、だれであっても会堂から追放せよという命令書が、国中の会堂管理者のところにも回っていたことでしょう。
ヤイロは、会堂管理者として、中央の方針に従い、イエス・キリストと距離を置かなければなりませんでした。
しかしヤイロの心は揺れていました。たった今、自分の娘が死にかけている。
そして人々が救い主と噂している、イエス・キリストだけが、娘をこの病からいやすことができるのではないだろうか。
会堂管理者という立場で、イエスに敵対するか、それとも病気の娘の父親という立場で、イエスの前にひれ伏してお願いするか。
彼は悩んだに違いありません。そして悩んだ末、後のほうを選びました。
聖書は、彼の葛藤には一切触れず、彼が決断した行動だけを語っています。それが、この22節です。
「会堂管理者ヤイロは、イエスの足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。
「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください」と。続きを読む
posted by 近 at 17:21 | Comment(1) | 2016年のメッセージ

2016.10.30「約束の虹」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『創世記』9章12-17節 


序.
 個人的な発表で恐縮ですが、先日、私は45歳の誕生日を迎えました。
いや、講壇からプレゼントをおねだりしているわけではありません。
先日、教会の45周年をお祝いしたのを思い出して、ちょうど自分が生まれた頃に、教会はここにできたのだなあと感慨を深めたのです。
教会の45周年記念会では、たくさんの方が来てくださいました。だからもし最初に挨拶をする場があれば、
「今日は私の誕生会にお集まりいただいてありがとうございます」と言って笑わせようと思っていたのですが、
あいにく出番は最後のお祈りだけでした。
 45年前、正確には、46年と7ヶ月前ですが、この教会の献堂式が行われました。
しかしすぐに専任牧師を招いて教会として始めることはかなわず、恵み園という幼稚園として始められたそうです。
当初から、幼稚園ではなく教会としていくべきだ、と豊栄伝道を支援してきた他の教会から大きなプレッシャーを受けていたようです。
恵み園は二年で閉園となり、初代牧師を迎えて教会として歩み始めました。
しかしそれで教会を出て行った方もおられ、産みの苦しみは並大抵のことではありませんでした。
 しかし、私たちの目の前には、いつも虹があります。
たとえ母の胎を傷つけながら生まれてきた子どもであろうとも、わたしは決してあなたを捨てないという神の約束が、私たちには与えられています。
確かに教会は救われた罪人の集まりであるがゆえに、ぶつかることもあります。
事実、45年以上の教会の歴史の中で、教会を去って行かれた方も多くおられます。
祈祷会で、それらの方々の信仰回復のために祈っておりますが、しかし私たちには、永遠の虹の約束が与えられています。
私たちは、ただの罪人の集まりではありません。同時に、イエス・キリストを信じる信仰によって、聖なる者とされた者たちの集まりです。
だからこそ、決して失望することなく、たがいに赦し合って、天の約束を見上げていきましょう。続きを読む
posted by 近 at 21:11 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.10.23「神は時間を気にしない」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
毎週、礼拝説教をこつこつアップロードし、いつ炎上するんじゃないかと冷や汗をかきながら、はや記事数も次回で300を数えます。
約5年のあいだに頂いたコメントは9!しかも半分が自分の返信。とほほ。打ち切り寸前の漫画家さんの気持ちです。
彼ははじめから書きません。
ソロソロやめようかと思っていた矢先、なんと関西のK市の読者さんから心のこもった贈り物を頂きました。
ありがとうございます。そんなあなたに送るみことばです。「遠い国からの良い消息は、疲れた人への冷たい水のようだ。」(箴言25:25)。
むしろ自分向けのみことばでした。気を取り直して、もう少し続けます。コメント、もっと入れてください。
週報はこちらです。

聖書箇所 『イザヤ書』46章3-4,12-13節 


序.
 おそらく名前を知らない人はいないであろう、日野原重明先生のお誕生日は、ちょうど今月、10月4日だそうです。
しかしほとんどの人々は、先生のお誕生日そのものより、で、今年いくつになったの、というほうに興味があるでしょう。
今年で満105歳だそうです。
日野原先生は、お父さまが牧師という家庭環境に生まれました。7歳でキリスト教のバプテスマを受けておられます。
3年前に93歳で亡くなられた奥様との出会いは、教会学校の先生をしていた姉妹を、その教会の役員に紹介されて、だそうで、
その生涯をクリスチャンとして堅実に歩んでこられました。
しかし60歳を前にして、あの有名な「よど号ハイジャック事件」に巻き込まれたとき、こう思ったそうです。
これまで信仰は持っていたけれども、内実は医師としての名声を追い求めてきた人生であった、
これからの人生は、神のために、人のために生きよう、と。それからの生き様は、私たちがテレビなどで知っているとおりです。続きを読む
posted by 近 at 12:27 | Comment(4) | 2016年のメッセージ