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2016.8.7「十戒という名の保証書」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
四年に一度の祭典、オリンピックが始まりました。実力は勝っているのに、銀メダルで終わり涙をのむ選手もいるでしょう。
ある人が「銀メダルは恨メダル」と言いました。確かに、「金」を「忄(りっしんべん)」に変えるとそうなります。
国家の看板を背負って大会に出場している場合、惜敗したときには恨みが残ることもあるでしょう。
しかし元女子柔道の谷亮子氏が、「という文字にわずかな「」を加えれば、金よりもい字になる」と言ったそうです。
」という字も、わずかな「」を加えることができれば、どんなよりもいものになるかもしれません。
「わずかなテン」とは何でしょう。努力か、それとも心構えか。解釈と適用はお任せします。週報はこちらです。

聖書箇所 『出エジプト記』20章1-17節 


序.
 今日の聖書の箇所は、十の戒めと書いて「十戒」と言われます。
たしかに、安息日と、両親への尊敬の二つを除き、どれも「○○してはならない」の連続ですので、十戒という表現は間違っていません。
しかし、十戒は決してただの禁止命令ではなく、それは、神と人とのあいだに交わされた契約書と言ってよいでしょう。
神様は、イスラエル人に十戒を与え、この十の戒めに集約された神のおきてを守るなら、イスラエルに救いを与えると約束してくださいました。
それが旧約聖書39巻にちりばめられた律法であり、その律法が十の命令に集約されているのが、この十戒なのです。

 十戒は、イスラエルだけではなく、私たち信仰者すべてに向けられた、神の契約書です。
最初の第一の戒めから第四の戒めまでは、私たち人間が、神さまに対してどう向き合うべきかが、四つの命令で教えられています。
そして第五の戒めから最後の第十の戒めまでは、今度は私たちがこのまわりの人々とどう向き合うべきかが教えられています。
まず神との関係、それから人との関係。この順番が大切なのです。
この背後の十字架の縦棒が神との関係、横棒が人との関係というのはよく聞く言葉ですが、必ず縦棒のほうが長いのです。
まず神との関係が確かなものとされて、そこではじめて私たちは、人々に流される者ではなくて、しっかりと地面に立つ者になれます。
「自分を変える」とか「私が変わればまわりが変わる」とかよく言いますが、そのために必要なのは、神との関係を変えることです。
かつて、ある政党のキャッチコピーに「生活が第一」というのがありました。あるクリスチャンも、礼拝よりも生活が大事、と言います。
しかし礼拝よりも大事な生活などありません。むしろ礼拝と生活を分けてしまっていることが、そもそもの過ちです。続きを読む
posted by 近 at 17:13 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.7.31「感謝は誰がために」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
つい昨日のことですが、ある牧師の葬儀に参列してきました。まだ40歳。これからという年齢です。
格別親しかったということではありませんが、教会のある町が私の母の生まれ故郷でもあり、いつかじっくり話したいと思っていました。
こんなかたちで、昨年亡くなった母の故郷を35年ぶりに訪問することになろうとは考えてもいませんでした。
私に何かできることはなかったのだろうか。おそらく参列した方々みなが、そう思いながらあの場に駆けつけたのでしょう。
しかしそれでも、天国で再会できるという希望が、私たちには残されています。残されたご遺族と教会の上に、天来の慰めを求めます。
週報はこちらです。

聖書箇所 『出エジプト記』16章1-36節 

メッセージの録画ボタンを押し忘れました。撮り直す気力もありませんので、今週はご勘弁ください。

序.
 先日亡くなられた、永六輔さんが、夫婦の成長について語っていたこんな言葉がありました。
結婚して十年間は、愛の夫婦。次の十年間は、努力の夫婦。さらに次の十年間は、忍耐の夫婦。ここまでで三十年ですね。
そして忍耐の次の十年間は、あきらめの夫婦。しかしその後の十年間、そこでようやく、感謝の夫婦になれる、と。
この感謝の十年間が、いつまでも続いていけば最高なのでしょうが、およそ人間のもつ感情の中で、感謝ほど長く続かないものはありません。
イスラエルの民の歴史を挙げずとも、自らの人生を顧みてみればそのことがわかりますが、あえて聖書の実例を見てみましょう。
神が紅海をふたつに割って、イスラエルの民二百万を全員救い出し、エジプト軍を全滅させた出来事を先週学びました。
しかしそのわずか一ヶ月後には、彼らは神への感謝を忘れ、神とモーセにぶうぶう不平を漏らしている姿が、ここに描かれています。
感謝することは難しくありませんが、その間者を保ち続けることはなんと難しいことでしょうか。
一方で、人間がもっともたやすく持ってしまう負の感情は、不信です。
感謝が心の中から忘れられると、不信がそのすき間に入り込んできます。
イスラエル人は、エジプトで自分たちがどれだけ惨めな状態で暮らしていたかをすっかり忘れ、昔のほうが幸せだったと言い始めました。
そして自分たちを奴隷から解放してくださった神を、あろうことか自分たちを荒野で殺すためにここまで連れてきたとまで叫んだのです。続きを読む
posted by 近 at 17:28 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.7.24「あの逃げ水へ進め」

こんにちは。あなたの心にキリストGO。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先週、当教会のI兄が、韓国で行われた聖会に参加してきました。韓国みやげとして愛餐会で配られたのが「高麗人参ゼリー」。
私の向かいに座っていたK兄がうまいうまいと言ってむしゃむしゃ食べていたので、私も勇気を出して口に入れました。
封を開けた瞬間から漂う独特の香り・・・口に入れれば言わずもがな。これを美味と賞賛したK兄を心から尊敬しました。
舌よりもむしろ胃そのものに訴えかけてくる味覚の洪水の中で、頭に思い浮かんできたメロディが「この道はいつか来た道」(北原白秋)。
ああ そうだよ。かの北海道名物、ジンギスカンキャラメルを思い出しました。
「激烈な味のゆえに、たいていのいやなことは忘れられます」というあのキャッチコピーが、この高麗人参ゼリーにもきっと書いてあるのでしょう。
ハングルなので読めませんが。
とりあえず、教会にお土産を買ってきてくれたI兄の心遣いに感謝。そのうち、礼拝で証しをしていただきましょう。
週報はこちらです。

聖書箇所 『出エジプト記』14章1-31節 


序.
 聖書になじみがない方であっても、今日の物語だけは知っている、ということがあるのではないでしょうか。
ここにはイスラエルとエジプトとの間の、手に汗握る攻防のシーンが十分に描かれております。
総勢200万人のイスラエルの民が、男も女も、老いも若きも、人も家畜も、行列を組み、自由の身分となってエジプトを出発しました。
しかし一度はイスラエルを出て行かせたエジプト王パロは、やはり心を翻して、エジプトの精鋭を引き連れて彼らを連れ戻そうと追いかけます。
前は紅海、後ろはエジプト軍、追い詰められた絶体絶命のイスラエル二百万人。
しかしモーセが杖を高く掲げると、なんと紅海が割れて、乾いた海底の道をイスラエルは歩んでいく。
エジプト軍もそれを追いかけるが、神が彼らを混乱させ、追いつくことができない。
やがてエジプト軍は気づく。我々がイスラエルを攻めているのではなく、我々はイスラエルの神、主から攻められている側なのだ、と。
しかし逃げることもままならないなか、モーセが手を差し伸べると、海の壁が崩れ、水がエジプト軍を襲い、彼らは全滅してしまったのです。

 まず、多くの人が思うのは、紅海の水がせき止められて道ができるなど、あるわけがない、これは神話にすぎないということでしょう。
実際に、歴史家たちはこう言います。もし本当にこんな出来事が起きたのなら、エジプトの資料に残っているはずだ、と。
しかし、誇り高いエジプト人が、世界最強の軍隊が丸腰の、しかも半数が女子どもの民族に負けたなど、歴史書に書くはずもありません。
むしろ現代の地質学が明らかにしたのは、この紅海は、地震の原因である地球のプレートの境目にあたるところだということでした。
つまり地球の裂け目だというのです。事実、4年前の2012年、紅海で海底火山が爆発して新しい島が生まれています
もちろん海底火山の爆発が水をせきとめたのだとか言いたいのではありません。
しかしこの自然をすべて作られた神は、私たちの想像を超えたことをおできになるお方です。
科学はそれに追いつくどころか、無限大の神に対して人間の知恵は愚かで矮小なことを痛感するのみです。続きを読む
posted by 近 at 09:24 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.7.17「いのち塗られて」

こんにちは。あなたの心に小さな一票を。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
私が高校時代を過ごした某敬和学園では、毎朝礼拝がありましたが、その日歌う讃美歌の番号が体育館の黒板に書かれていました。
あれから約30年・・・・先日、CBD(キリスト教の通販サイト)からのニュースレターに、あの若かりし頃の記憶を彷彿とさせるものが!
お値段100ドル。これを会堂の壁に掛ければ、讃美歌(新聖歌)もスムーズに開いてもらえるかもしれません。
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しかしよく見ると、「Attendance Today(本日の出席)364」とか書いてあります。
賛美歌の番号じゃなくて、CS出席人数かよ!さすがアメリカ、スケールがでかい。
ただ「先週の出席」はわかりますが、「一年前の出席」ってどうなんでしょう。あまり意味がないような。
日本の教会はCSの出席人数が一桁でも決してめげません。ええ、めげませんとも。週報はこちらです。

聖書箇所 『出エジプト記』12章21-36節 


序.
 二十年近く前のこと、私が四年間勤めた市役所を退職したときのことです。
退職は3月末日でしたが、退職の申し出はその半年前に上司に出しておりました。
しばらくして、課長から、「近さん、部長が部屋に来いってさ」と言われました。
その部長さんは、私も決済を取りに何度か伺ったことがありましたが、強面で、いわゆるこわい人でした。
「三、四年でやめるくらいだったら最初から入ってくるな」と怒鳴られるんじゃないかと、びくびくしながら、部長のところに向かいました。
すると穏やかにこう聞いてきました。「あんた牧師だか神父だかになるためにやめると聞いたけれど、牧師というのはどうやったらなれるんだ」。
私が「神学校という所に行きまして、三年間学びそれから試験を受けます」と答えると、「ふーん、がんばってな」と、ものの五分で終わりました。
 ところがやめるまでの半年間、その部長さんがちょくちょく私を部屋に呼んでくださるのです。
「聖書は何が書いてあるのか」「教会は何をするところなのか」と、ひとつずつ聞いては、私もひとつずつ答えて、五分経ったら「もういいよ」と。
しかし三月の終わりになって、その方が初めて自分自身の話をしてくださいました。
「自分がまだ小さかった頃に、何ヶ月か重い病気にかかって、このまま死ぬのかな、と思うことがあった。
幸い病気は直り、それ以来大病も経験していないのだが、ふとあの時のことを思い出すことがあって、死というものを考えることがある。
でも役所の中でこんなことは人に言えないし、ただあんたはもうやめていく人間だから、付き合ってもらった。今までありがとう」。
その部長さんとは、その後聖書を贈り、今はお付き合いはないのですが、今日の聖書の箇所を学びながら、ふと思い出しました。

 モーセがエジプト王パロに、イスラエルを奴隷から解き放つように語ったとき、パロは決してその言葉を聞こうとしませんでした。
もちろんその強面の部長さんと、かたくななパロが繋がったのではありません。ただ、共通点がありました。
それは、どちらも「死」ということに直面したときに、心が揺れたことです。続きを読む
posted by 近 at 23:14 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.7.10「神の歩幅に合わせて」

こんにちは。あなたの心に小さな一票を。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
さて、南京・・・ではなく、この4月から、 人手不足 次世代伝道の拡充のために、CS(日曜学校)教師も担当するようになりました。
そんなわけで礼拝とCSは、同じ聖書箇所からメッセージしています。手抜きではありません。聴衆の理解度を高めるための牧会的配慮です。
講解説教を14年間続けてきた私としては大きなチャレンジでしたが、礼拝説教ではできないようなこともCSで試みています。
といっても、ネクタイを外してエジプト人のムチにしたりとか、忘年会の隠し芸みたいなノリですが。週報はこちらです。

聖書箇所 『出エジプト記』3章1-14節 


序.
 先週の説教から、この『出エジプト記』を学んでいます。この聖書の出来事は、今からおよそ3500年前の時代に起きたことです。
モーセの同胞であるイスラエル人は、寄留しているエジプトで、彼らの奴隷として扱われていました。
ただの奴隷としてであればまだ希望があったでしょう。
しかしエジプトの王パロは、イスラエル人の力をそぐために、男の子は生まれたらすぐにナイル川に投げ込んで殺せと命じていました。
そのように、まったく将来に希望のない暗黒の時代に生まれたのが、後にイスラエルの指導者となるモーセです。
先週の説教では、このモーセが、神のご計画の中で、パロの王女に拾われて、養子として育てられていくという不思議を見ました。
彼は40歳になるまで、エジプトの宮殿で、当時最高の学問と教養を学んでいきます。
ここで、モーセに起こったことを、教会学校の紙芝居の一枚を使って説明します。
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posted by 近 at 20:55 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.7.3「『さて』で始まる主の計画」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回の説教の導入で、「『さて』という言葉が、出来事が切れ目なく続いていくことを示す」例話として、「南京玉すだれ」を紹介しました。
「あ、さて、あ、さて、あ、さて、さて、さて、さて」と実演したのですが、家人からは「かんでるうえにすべってるよ」と言われました。ぐぬぬ怒り(ムカッ)
そう言えば、かの国民的アニメ『ドラゴンボール』でも、ナレーターの八奈見乗児さんが「あ、さて」で前回のあらすじを始めていましたね。
これも、物語が切れ目なく続いていくことを示すものなのでしょうか。
ちなみに『ボトムズ』次回予告での、銀河万丈さんのナレーションも、独特の言い回しが説教者には参考になります。
世代の違う人にはまったく興味のない話になってしまい、すみません。週報はこちらです。

聖書箇所 『出エジプト記』1章1節-2章10節 


序.
 かつて市役所の老人福祉課に勤めていた頃、新潟市内に何カ所かある老人憩いの家を巡回する仕事をしたことがありました。
ある憩いの家に行ったとき、たまたま大道芸人がそこを訪れており、私もその方の芸を眺めていました。
妙に耳に残るフレーズでして、「あ、さて、あ、さて、あ、さてさてさて、さては南京玉すだれ、・・・・」、そこからはおぼえておりませんが。
今日の聖書箇所で「さて、ヤコブといっしょに、・・・」という書き出しが目に入ったとき、あのときの「あ、さて」のフレーズを思い出しました。
どうでもいいことのように思われるかもしれませんが、玉すだれと出エジプト記がそれぞれ「さて」で始まるのには、じつは大きな意味があります。
「さて」という言葉は、今では日常会話でほとんど使うことがありませんが、本来は話を切れ目なく続けていくためのものなのだそうです。
そして例の南京玉すだれも、すだれを動かして竿にしたり、そこから旗だとか、橋だとか、さまざまなものに切れ目なく形を変えていく芸なので、
芸人の口上として「さて、さて、さて」と言うのがきまりのようです。
 この出エジプト記の最初に出てくる「さて」という言葉も、それとまったく同じです。
出エジプト記という書物がこれから新しく始まるのではない。
むしろこれから語られることは、今まで創世記を通して示されてきたことがこれからも続いていくということを、「さて」という言葉で表しています。
言い換えるならば、創世記で語られてきた預言や意味不明の出来事が、この出エジプト記において次々と明らかになっていくのです。
アブラハム、ヤコブ、イサク、ヨセフに与えられた経験やみことばが、この出エジプト記のできごとを通して、次々と現実のものになっていきます。
 ここで、私たちは創世記の中で、イスラエル人の先祖アブラハムに神が約束されたことばを開きたいと思います。
創世記15章13節から14節までをお読みします。「そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。
あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。
しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる
」。続きを読む
posted by 近 at 08:00 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.6.26「困難を分け合う人生」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週から、USTREAMを使ってリアルタイムに礼拝を中継する試みを始めたのですが、途中で映像が止まったり、あまりうまくいきません。
何よりストレスがたまるのは、見ようとするたびに長めの広告が流れること。
かといって広告を外すために有料にすると月何千円もかかるようで、なかなか頭の痛いところです。
週報はこちらです。

聖書箇所 『使徒の働き』27章1-44節 


序.
 二年前に起きた、韓国の旅客船セウォル号沈没事故は、まだ私たちの記憶にも残っていることでしょう。
乗員乗客のうち、約300名が亡くなり、そのうちの250人が修学旅行で乗っていた高校生でした。
そして遺族の怒りを最も駆り立てたのが、船長はじめ乗員のほとんどが、事故発生後に船から真っ先に逃げ出していたということでした。
しかし韓国の社会だけが特別ということではないでしょう。
今日の聖書箇所に出てくる船員たちも、やはり乗客を見捨てて逃げ出そうとしました。
ある評論家が、こんなことばを残しています。「苦しみが人を作るのではない。だが苦しみはその人の本当の姿をあぶり出す」。
ベストセラーになった自己啓発本のタイトルに、「ピンチはチャンス」というのがありました。危機のときこそ、その人が成長する機会である、と。
しかし危機を通して人は成長するのではありません。危機のときに、その人が平時の時に粛々と培ってきた成長が試されるのです。続きを読む
posted by 近 at 17:23 | Comment(2) | 2016年のメッセージ

2016.6.19「信じたとき、聖霊を受けましたか」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『使徒の働き』19章1-20節 


序.
 今、アメリカでは第45代大統領を選ぶための激しい戦いが続いております。
共和党はすでにトランプ氏に一本化、対する民主党も、ヒラリー氏でいよいよ決まりかという状況ですが、そこからがようやく本番です。
新しく選ばれた大統領が、聖書の前で宣誓を行うのは来年の1月20日、まだ半年以上、アメリカではお祭りが続きそうです。
さて、アメリカの歴代大統領の中で、あなたの最も尊敬する人物は誰ですかと聞くと、多くの人がリンカーン大統領と答えます。
彼の偉業のなかで最も有名なのは、なんといっても奴隷解放宣言でしょう。
しかしある本で読みましたが、奴隷解放宣言が出されても、黒人奴隷の中には自分たちが自由にされたことを信じない者もいたそうです。
彼らはあまりにも長いあいだ奴隷として苦しんできたがゆえに、こんな自分たちが自由になれるはずがない、と決めつけてしまっていたのです。
 今日の多くのクリスチャンも、「信じたときに聖霊を受ける」ということについて、彼らと同じようにはじめから決めつけてしまっています。
もちろん自分が初めてイエスを救い主として信じたときのことは覚えています。そのときの感動は、決して忘れはしないでしょう。
しかし「信じたときに聖霊を受けましたか」と聞かれたら、「はい、確かに受けました!」と答えることができるでしょうか。
むしろ、聖書は信じたときに聖霊を受けると約束しているのに、自分は例外のように受け止めてしまっています。続きを読む
posted by 近 at 17:27 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.6.12「拝まずにはいられない」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
牧師は説教のタイトルを先に決める派と後で決める派に分けられますが、私は後者のタイプです。
毎回、説教のタイトルを考えるのはたいへん苦労します。しかし、今回の説教題は、本文を書き上げる前に浮かびました。
どんなに優れた説教者でも、本当に満足できる説教は生涯でも二、三回あるかどうかと言われます。
まさに今日のメッセージは、私にとってそのような説教そのものとなるでしょう。
罪人なるすべての人間が無意識に支配されている偶像礼拝の桎梏!
同時にキリスト者による、救い主イエスに対する絶えざる歓喜の礼拝!
まったく相反する二重の意味を込めて「拝まずにはいられない」という説教題が与えられました。主よ感謝。

しかし妙にすんなり決まったと思ったら、どうも昔聞いた「愛さずにはいられない」というフレ−ズをパクっていたことに気づきました。
どこかの国のオリンピックのロゴマークで酷評された某デザイナーも、こんな感じだったのでしょうか。
ちなみに、ウィキペディアで「愛さずにはいられない」を調べると、こうなります。
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みなさん、パクりすぎです。私も人のことは言えませんが。週報はこちらです。

聖書箇所 『使徒の働き』17章16-34節 


序.


 先月、長野県の松原湖バイブルキャンプ場というところに行ってきました。隣の県なのに、おそろしく時間がかかるところにありまして、
いつもは最短距離をまっすぐ行くのですが、今年はなぜか諏訪湖を見たくなり、ちょっと早めに出発しました。
そして諏訪湖から隣の茅野市というところに入ったのですが、そこで不思議なものを発見しました。
写真を取り損ねたので、帰って来てからインターネットで調べて印刷したのですが、わかりますかね?
茅野駅前のビルの真ん前に、しめ縄を張った、でっかいジャガイモがどんと置いてあるのです。
じつはジャガイモに見えるのは、大きな石でありまして、駅前再開発の工事中に掘り出されたものだそうです。
あまりにも見事な大石だったので、何かいわれがあるはずと思って慎重に掘り出したけれども、
後で調べたらこの場所にそれらしい言い伝えとか、何もなかった、と。
しかし横にある説明文にこう書いてあるのです。「悠々の時を経た巨大岩石が、突然、地上に出現したことは単なる偶然とは思えない。
我々を守る神の磐座(いわくら)であると信じ、シンボルとして、駅前縄文公園隣接に永久保存することにした」。

 この国では、神が人を造られたとは語られず、人が神を造る、ということが常態化しています。
現代でさえ、工事現場で発見された、何のいわれもない石を神の宿る石とするくらいです。
縄文時代からの何千年のあいだ、日本人はいったいどれだけの神を造り出してきたことでしょうか。
キリスト教を外国の宗教だと批判する人々は、日本には古来から八百万の神が生きておられると言います。
しかしその神々とは、私たちの祖先が自由勝手に作り出し、しめ縄をはって、拝んできた神そのものです。
造られたものは、それを造った存在を越えることはできません。人間によって造られた神々は、造った人間を守ることはできません。
そしてそんなものは神ではありません。偶像です。偽物です。私たちの時間を奪い、真理への目を曇らせ、滅びへと至らせるものです。続きを読む
posted by 近 at 18:35 | Comment(0) | 2016年のメッセージ

2016.6.5「四コマ人生」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
日曜午後から月曜夜まで、教団事務所に用事があって、泊まりがけで上京しておりました。
週一回しかブログ更新しないのに、それも遅れてしまい、心待ちにしてくださっていた方々、もしいれば、申し訳ありません。
白新線、上越新幹線、山手線、小田急線、東急バスと乗り継ぎましたが、とうぎょうのひとのはぢわりはすまほばっか見てんね。
(拙訳:「都内では、車内でご一緒した方々の8割はスマホから目を離されませんでしたね」)
自分がスマホを持っていないゆえのひがみかもしれませんが、なんか殺伐とした感じです。
新潟駅に着いて白新線に乗り換えたら、ほろ酔いのじいちゃん二人組が向かいの高校生二人にいきなり昔話を始めました。
高校生たちも最初はスマホをいじりながら無視していましたが、豊栄で降りる前にちらっと見たら、四人すっかり打ち解けていました。
新潟はやっぱり平和ですね。こんなほっとする新潟が私は大好きです。
ちなみに白新線は車両ドアが手動で、乗った最後の客が自分で開け閉めします。平和というか、単にイナカなだけかも。
週報はこちらです。

聖書箇所 『使徒の働き』16章6-34節 


序.
 朝、新聞を開いて最初に読むのは四コマ漫画、という人は、真面目なクリスチャンにはあまりいないようですが、
今日の聖書の物語は、それこそ四コママンガにたとえることができるかもしれません。
四コママンガでは、よく起承転結ということが言われます。一コマ目で始まり、二コマ目で展開、三コマ目で逆転、そして四コマ目でオチ。
今日の箇所でいう「起」は、まず神がパウロに「マケドニアの叫び」の幻を与えられるところでしょう。
そして「承」は、マケドニアで船で向かった最初の港町ピリピで、紫布の商人ルデヤに出会い、神が彼女の心を開いてくださったこと。
しかし三コマ目の「転」、順調な滑り出しに見えたピリピ伝道が、あろうことか占いの霊につきまとわれ、さらには牢に捕らえられてしまう。
しかし神のオチは、挫折では終わらない。真夜中の賛美、奇跡的な地震、そして看守とその家族みながイエス・キリストを信じるのです。

 今日の物語を四コママンガに例えたのには、はっきりとした根拠があります。どんなマンガでも、必ず作者が必要です。
では、ここに書かれている作者はだれでしょうか。言うまでもなく、すべてを働かせて益としてくださる、主なる神です。
パウロの行こうとしていた道を次々にとうせんぼして、トロアスでマケドニア人の夢を見させたのは神でした。
彼らに確信を与えてただちにマケドニアへ向かわせたのも神です。ルデヤの心を開いてバプテスマを受けさせたのも神。
占いの霊にとりつかれた若い女奴隷を通して、叫ばせたのも神。霊を追い出された儲ける術を失った主人たちの心を頑なにしたのも神。
真夜中の牢の中で、パウロとシラスの唇に賛美を与えたのも神。囚人たちの心を整えて、その賛美に耳を傾けさせたのも神。
牢屋の土台が揺れ動くほどの地震を起こし、しかし不思議なことに扉と足かせだけうまいこと外してくださったのも神。
しかも囚人たちをひとりも逃げ出させなかったのも神。看守の心を開いて、一家すべて信仰へと導いてくださったのも神。
人の目にはラッキーと見えることも、アンラッキーと見えることも、すべては神の永遠のご計画の中に描かれた、必要な伏線です。
すべてが必要なものとして用意されており、それらが織り交ぜられて、神の作品となっているのが、私たちの人生そのものなのです。続きを読む
posted by 近 at 16:48 | Comment(0) | 2016年のメッセージ