最近の記事

2013.10.20「いのちの価値」

 祝福がありますように。豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
この日曜日は、正午から恒例の教会バザーでした。小さな会堂を最大限有効に活用するため、講壇や聖卓も礼拝前から別室へ動かして、必死のバザーです。今回は新来会者を意識しての伝道メッセージとなっています。何か感じたことがありましたら、コメントをお寄せください。
なお今週の週報はこちらです。

聖書箇所 イザヤ43章4節、ローマ5章6-8節
 4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

 6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

続きを読む
posted by 近 at 16:50 | Comment(0) | 2013年のメッセージ

2013.10.13「孤独と孤独感」

 祝福がありますように。豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
来週の日曜日、教会バザーを計画しています。今日も午後、教会員で準備に励みました。しかしこのような外部への働きかけとともに、自分たちの魂の養いを大切にしなければならない   そのような問いかけを、今日の礼拝メッセージに込めています。なお今週の週報はこちらです。

聖書箇所 第一サムエル22章1-10節
 1 ダビデはそこを去って、アドラムのほら穴に避難した。彼の兄弟たちや、彼の父の家のみなの者が、これを聞いて、そのダビデのところに下って来た。2 また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。こうして、約四百人の者が彼とともにいるようになった。3 ダビデはそこからモアブのミツパに行き、モアブの王に言った。「神が私にどんなことをされるかわかるまで、どうか、私の父と母とを出て来させて、あなたがたといっしょにおらせてください。」4 こうしてダビデが両親をモアブの王の前に連れて来たので、両親は、ダビデが要害にいる間、王のもとに住んだ。5 そのころ、預言者ガドはダビデに言った。「この要害にとどまっていないで、さあ、ユダの地に帰りなさい。」そこでダビデは出て、ハレテの森へ行った。
 6 サウルは、ダビデおよび彼とともにいる者たちが見つかった、ということを聞いた。そのとき、サウルはギブアにある高台の柳の木の下で、槍を手にしてすわっていた。彼の家来たちはみな、彼のそばに立っていた。7 サウルは、そばに立っている家来たちに言った。「聞け。ベニヤミン人。エッサイの子が、おまえたち全部に畑やぶどう畑をくれ、おまえたち全部を千人隊の長、百人隊の長にするであろうか。8 それなのに、おまえたちはみな、私に謀反を企てている。きょうのように、息子がエッサイの子と契約を結んだことも私の耳に入れず、息子が私のあのしもべを私に、はむかわせるようにしたことも、私の耳に入れず、だれも私のことを思って心を痛めない。」9 すると、サウルの家来のそばに立っていたエドム人ドエグが答えて言った。「私は、エッサイの子が、ノブのアヒトブの子アヒメレクのところに来たのを見ました。10 アヒメレクは彼のために【主】に伺って、彼に食料を与え、ペリシテ人ゴリヤテの剣も与えました。」

続きを読む
posted by 近 at 15:02 | Comment(0) | 2013年のメッセージ

2013.10.6「人を育てる宣教」

 平安(ピーアン)。豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
 今日の礼拝は、私たちの教会が所属している日本同盟基督教団の台湾派遣宣教師、海老名 浩先生の宣教報告および説教でした。海老名先生のプロフィールは、今週の週報をご参照ください。先生から、録画およびブログ掲載の許可をいただきました。前半25分は台湾の紹介、後半20分が聖書箇所からのメッセージとなっております。
 私もカメラマンとしてがんばりました。途中、中国語で会衆讃美をするところがありますので、どうぞいっしょに歌ってください。

聖書箇所 マタイ28章16-20節
 16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

posted by 近 at 11:03 | Comment(0) | 2013年のメッセージ

2013.9.29「はっきりと主のことばが」

 こんばんは。豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
 今日の礼拝は、講壇交換だったのですが、手違いで録画がなく、説教原稿もありません
代わりに、2001年4月(イースターの日)、当時神学生だった私が豊栄教会で初めて語ったメッセージの原稿を掲載します。当時の豊栄の教会は無牧(=牧師がいないこと)のただ中にありました。その痛みの中で、それでも前に進み出そうとしていた教会と、「うめきの預言者」エゼキエルの姿とを重ね合わせた説教です。今、改めて読み直してみると、今日の私の牧会の原点もここにあるのかもしれません。一言コメントをお寄せいただけたら、それが説教者の糧となります。
 なお、本日の週報はこちらです。

聖書箇所 エゼキエル1章1-3節
 1 第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。2 それはエホヤキン王が捕囚となって連れて行かれてから五年目であった。その月の五日に、3 カルデヤ人の地のケバル川のほとりで、ブジの子、祭司エゼキエルにはっきりと【主】のことばがあり、【主】の御手が彼の上にあった。

 皆さん、おはようございます。そして、初めまして。東京基督神学校3年、というよりは山の下福音教会の、といった方が馴染みがあるでしょうか。近 伸之と申します。遠くても近、と覚えてください。これから一年間、月一回程度ではありますが、共にみことばを通して同じ主を見上げ、礼拝していきたいと思います。よろしくお願いいたします。
 しかしもしかしたら、週報をごらんになってあれっと思われた方もいるかもしれません。それもそのはず、今日は全世界で主の復活、イースターが祝われているのに、メッセージがどうしてエゼキエル書なのか、ということです。もちろん私もいくら浮き世を離れ千葉の神学校にこもっているからといって今日が何月の第何週なのかということを忘れているわけではありません。ただ、今年のイースターはイエス様のご生涯を直接語るのではなく、みことばを通して私たちを導き、復活の希望を与え続けている主の恵みをエゼキエルという旧約の預言者の歩みから辿っていきたいと考えたのです。ですから聖書の朗読はエゼキエル書1章1〜3節からですが、メッセージはエゼキエル書の全体から語らせていただきます。聖書もエゼキエル書のあちこちに頻繁に飛ぶかもしれませんが、どうぞみことば全体から恵みを頂く喜びに共に浴したいと願うものであります。
 前置きが長くなってしまいましたが、皆さんはエゼキエルという人物についてどの程度ご存じでしょうか。私どもの神学校の校長であり新潟の諸教会にも馴染みの深い下川友也先生は聖書通読一千回という途方もない目標をライフワークにしておられますが、このエゼキエル書は聖書通読の際にレビ記と並んでつまずきやすい箇所であります。一度でもこの書に目を通された方ならご存じかと思いますが、何しろ導入からわけのわからない幻が始まり、読んでいけば読んでいくほど混乱していく、という人がほとんどではないでしょうか。
 しかしエゼキエル書は、まず次のことをはっきりと教えています、それは神が人をご自分のご用のために招かれるとき、人を圧倒する幻や劇的経験ではなく、必ずはっきりとしたみことばを用いてその者を呼ばれるということであります。続きを読む
posted by 近 at 21:19 | Comment(2) | 2013年のメッセージ

2013.9.22「自由だけど、心は一つ」

いつもご覧いただきありがとうございます。当日の週報はこちら

聖書箇所 使徒の働き5章12-16節
 12 また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行われた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。13 ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。14 そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。15 ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。16 また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。

続きを読む
posted by 近 at 19:07 | Comment(0) | 2013年のメッセージ

2013.9.15「加齢は幸福」

いつもご覧いただきありがとうございます。当日の週報はこちら

聖書箇所 創世記47章7-10節
 7 それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、パロの前に立たせた。ヤコブはパロにあいさつした。8 パロはヤコブに尋ねた。「あなたの年は、幾つになりますか。」9 ヤコブはパロに答えた。「私のたどった年月は130年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」10 ヤコブはパロにあいさつして、パロの前を立ち去った。
続きを読む
posted by 近 at 17:27 | Comment(0) | 2013年のメッセージ

2013.9.8「自由の国」

いつもご覧いただきありがとうございます。当日の週報はこちら

聖書箇所 使徒の働き4章32-5章11節
 4:32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。33 使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。34 彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。36 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、37 畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
 5:1 ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、2 妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。3 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。4 それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」5 アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。6 青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。7 三時間ほどたって、彼の妻はこの出来事を知らずに入って来た。8 ペテロは彼女にこう言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」彼女は「はい。その値段です」と言った。9 そこで、ペテロは彼女に言った。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」10 すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。入って来た青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。11 そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。
続きを読む
posted by 近 at 13:51 | Comment(0) | 2013年のメッセージ

2013.9.1「絶望なくして恵みなし」

いつもご覧いただきありがとうございます。当日の週報はこちら

聖書箇所 マルコの福音書7章14-23節
 14 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。15 外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」17 イエスが群衆を離れて、家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。18 イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。19 そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。20 また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」
続きを読む
posted by 近 at 19:22 | Comment(0) | 2013年のメッセージ

2013.8.25「ただ十字架だけを」

いつもご覧いただきありがとうございます。当日の週報はこちら

聖書箇所 ガラテヤ人への手紙2章16-21節
 16 しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。17 しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。18 けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。
続きを読む
posted by 近 at 09:58 | Comment(0) | 2013年のメッセージ

2013.8.18「悔い改めはただ神に」

いつもご覧いただきありがとうございます。当日の週報はこちら

聖書箇所 詩篇51篇1-13節
指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき
1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。
4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。
 それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。

5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
6 ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。
7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。
 私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。
8 私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。
9 御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。

10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。
13 私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。

続きを読む
posted by 近 at 20:45 | Comment(0) | 2013年のメッセージ