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2013.6.2「無知を知ることが救いの始まり」

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聖書箇所 使徒の働き3章11-26節
 11 この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。12 ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。14 そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、15 いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。16 そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。17 ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをしたのです。18 しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。19 そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。20 それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。21 このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。22 モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。23 その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』24 また、サムエルをはじめとして、彼に続いて語ったすべての預言者たちも、今の時について宣べました。25 あなたがたは預言者たちの子孫です。また、神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける』と言って、あなたがたの父祖たちと結ばれたあの契約の子孫です。26 神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。」

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2013.5.26「ナザレのイエス、ただそれだけを」

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聖書箇所 使徒の働き3章1-10節
 1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。2 すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

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2013.5.19「自分探しは自分壊し」

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※礼拝の中で、信仰生活50年表彰を迎えた森田澄子姉の証しがありました。




聖書箇所 使徒の働き2章1-21節
 1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
 5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。7 彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。8 それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。9 私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」12 人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか」と言った。13 しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者たちもいた。
 14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。15 今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
  すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。
それは、血と火と立ち上る煙である。
20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』

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2013.5.12「待つことは備えること」

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聖書箇所 ルカの福音書24章46b-53節
 46b 「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。48 あなたがたは、これらのことの証人です。49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
 50 それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。51 そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。52 彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。


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2013.5.5「あなたにしかできないこと」

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聖書箇所 ルカの福音書24章44-49節
 44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。48 あなたがたは、これらのことの証人です。49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

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2013.4.28 ライフ・ラインDAY奨励「私たちがスポンサー」

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2013.4.21「ふさわしき場所は天にある」

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聖書箇所 ヘブル人への手紙11章35-12章2節
 11:35 女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。36 また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、37 また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、38 ──この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした──荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。39 この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。40 神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。
 12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

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2013.4.14「栄光の傷跡を見つめて」

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聖書箇所 ルカの福音書24章33-43節
 33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。36 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。37 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。38 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」41 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。42 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、43 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。

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2013.4.7「あなたのために」

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聖書箇所 ルカの福音書24章13-32節
 13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから11キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」19 イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

1.どんな弟子であろうとも
 13節、「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから11キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった」。夕暮れが追い迫る中、復活を信じられないまま、お互いに議論しながらエマオへと急ぐふたりの姿が目に浮かびます。まわりの薄暗さは、まるでこのふたりの心を象徴しているようです。イエス様がよみがえられた、と彼らは聞きました。しかしそこに喜びが生まれない。むしろ不安、失望がある。信じたくても信じられない。自分自身に対するいらだちを、お互いに議論し合うことで紛らわせている。彼らは紛れもなくキリストの弟子でした。しかし彼らはキリストが何度にわたり、わたしはよみがえると約束していたみことばをまったく忘れています。そしてそのことに目を向けることもないまま、夕闇へと向かっていました。
 しかし神に感謝すべきは、イエス・キリストはそのような弟子と一緒に歩んでくださる方です。「あしあと」という詩を聞いたことがあるでしょうか。あるクリスチャンが自分の足どりを振り返ってみたら一組の足跡しかなかった。神は私を見捨てていたのか。そこで神が答える。それはあなたの足跡ではなくわたしの足跡だ。わたしはあなたを見捨てたのではなく、あなたをおぶってきたのだ。
 キリストの弟子とは、キリストと共に歩む人のことです。しかし彼がキリストをそばに感じているか否かという自覚そのものは大切ではありません。大切なのは、私たちの自覚ではなく、神があなたと共に歩んでくださっているという事実です。ひとりぶんの足跡に動揺する弟子に神は共にいてくださいます。復活を信じることのできない弟子たちと共に歩んでくださいます。私たちがイエスとわからなくても、イエスは私たちを知っておられる。そして一緒に歩んでくださるのです。

2.あなたのために、私のために
 イエス、否、ひとりの旅人らしき人が彼らに尋ねました。「歩きながら二人で話し合っているその話は、何のことですか」。二人はあきれたように顔を見合わせます。そしてそのうちのひとり、クレオパがエルサレムの最新情報をこの田舎者に説明していきました。しかし彼の説明に根本的なものが欠けていることにお気づきでしょうか。それはこの十字架と復活の事実が「私にとって」どういう意味を持っているのか、ということです。彼のことばはイエスを愛する弟子というよりはアナウンサー、特派員です。公平ではありますが情熱が感じられません。冷静ではありますが感情が欠けています。この事実が「私にとって」どういう意味があるのか、ということがまるで見えてこない。キリストは十字架にかけられた。それは神の敗北だったのか、それとも勝利だったのか。墓が空っぽであったことに驚かされた。驚いた、で終わりなのか。頭は働いても心が働いていないさめた信仰の姿です。

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2013.3.31「墓をのぞいて見えたもの」

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聖書箇所 ヨハネの福音書20章1-3、11-18節
 1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。
 11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。
序.
 今日は教会暦でイースターと呼ばれる日です。教会の一年の中ではクリスマスと並んで重要な日と言えるでしょう。しかしクリスマスが毎年12月25日と決まっているのに対し、イースターは何月何日と決まっていません。私たちが通常使っているカレンダーは太陽暦ですが、イースターは太陰暦に基づいて決められています。太陰暦による春分の後の満月の直後の日曜日、舌をかみそうなこの計算のもとでイースターがいつになるかが決められています。そのように複雑な計算によって決められるイースターですが、意味そのものは極めて単純です。イエス・キリストが墓の中からよみがえられた日。それがイースターに他なりません。救い主が死んでしまったという悲しみが、救い主は生きておられるという喜びへと劇的に変わった朝。それがイースターです。悲しみは喜びに、涙は笑いに、嗚咽の声は高らかな讃美へと変わった日、それがイースターです。私たちは今日、喜びをかみしめながらこのイースターを過ごしたいと願います。たとえ私たちがどんな疲れや痛みの中であえいでいたとしても、キリストの復活をかみしめていくとき、そこに喜びがわき起こっていくことを聖書は教えています。私たちもその喜びにともにあずかっていきましょう。

1.墓を覗けば
 11節、「しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた」。このマリヤはイエスの母マリヤではなく、マグダラのマリヤです。イエスを救い主と信じ、十字架での最後も見届け、墓に納められる所までも付き従った女性でした。安息日が明けて朝早く墓に来たものの、墓の入り口が開いてイエスの亡骸がなくなっているというショックに泣き悲しむ姿から、今日の箇所は始まります。マリヤはイエスの亡骸が見あたらないという悲しみのどん底に突き落とされました。空っぽの墓を見に来た弟子たちも帰ってしまい、墓のそばには人の気配もありません。彼女は文字通り途方に暮れてたたずみます。誰かが私の主を取って行ってしまった。どこを捜したらよいのか。誰に頼ったらよいのか。マリヤは泣きながら、ただ墓の前で佇みます。しかし彼女はなぜしゃがみこまなかったのか。そこには主の守りがありました。悲しみの中で泣いてもいい。どれだけ泣いてもいい。しかししゃがみこんで顔を下に向けてしまったら、私たちの心もただ悲しみの中に沈み込んでしまう。マリヤはしゃがみこまなかった。どんなに涙が目から溢れても顔を下に向けず、立ち続けた。そしてその目は、やがて墓の入り口に一抹の光が差していることに気がついたのです。私たちもまた、人生で数え切れない涙を流します。愛する者と死に別れる時、夢や希望がうち砕かれる時、いったいどうすればよいかわからない、ただ涙を流すしかない、そんなときがあります。しかしどれだけ瞳が涙で覆われても、地面を見つめるのではなく天を仰いでいきたい。一度叩いても壊れなかった壁があれば、何度でも何度でも叩いていきたい。彼女が見つめた墓は、愛する主が消えてなくなってしまった場所でした。しかし彼女は心を奮い立たせ、もう一度その墓へと近づいた。泣きながら、涙を流しながら、それでももう一度墓の中をのぞき込んだとき、そこからマリヤへの特別な神のはからいが始まっていったのです。
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posted by 近 at 19:11 | Comment(0) | 2013年のメッセージ