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2013.3.24「今、目の前にある喜びのゆえに」

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聖書箇所 マタイの福音書27章27-31節
 27 それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。28 そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。29 それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」30 また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。31 こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。

序.
 先週の火曜日から木曜日まで、この教会が所属する日本同盟基督教団の第64回教団総会が静岡の掛川で行われました。この第64回は教団の歴史を語る上で極めて重要な会議として記録されることになるでしょう。この10年以上、同盟教団は機構改革を進めてきましたが、今回の総会でそれが実現しました。来年度からは、今までのように牧師や信徒が300人以上集まる総会はなくなります。それぞれの宣教区からその都度選ばれる、100人くらいの代表者による総会となります。
 お祈りいただいておりましたが、私は今回、財務審査委員会の委員長を務めました。名前は立派ですが、誰もやりたがらない奉仕です。今までの総会では、ひとつ一つの議題を扱っていては時間が足りません。そこでいくつかの委員会に議題を小分けしています。委員長は委員会の議長を務め、その内容を本会議で報告します。委員長についての奉仕依頼が来たとき、頭に思い浮かべたのは「やりたくない」という6文字でした。委員会では細かすぎる質問にきりきり舞いされ、本会議ではもっと細かい質問に吊し上げられ・・・しかし依頼を断れるほどえらくありません。腹を決めて、何週間も前から祈祷会で祈っていただきました。私自身も前日には会場入りし、用意した原稿を何度も復唱し・・・なのに、緊張して議事のひとつを飛ばしてしまいました。それを指摘されて頭が真っ白、議員が苦笑している姿が目に入ると顔は真っ赤。何とか総会は終了しましたが、身も心も疲れ切って帰りの道に着きました。

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2013.3.17「十字架の裏側を見よ」

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説教に先立ち、信徒の証しがありました。



聖書箇所 ルカの福音書22章24-34節
 24 また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。25 すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。26 だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。27 食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。28 けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。29 わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。30 それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。
 31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

 今日は、教会員の山ア敬典兄に闘病の証しをしていただきました。兄弟を通して働いてくださった神さまの御名を崇めます。しかしその証しは闘病記というよりは病を通してじつに多くの恵みを得たという告白にあふれています。ある方は「闘病」ではなく「問う病」(この「トウ」は「問いかける」という漢字です)と呼ぶべきだと言います。兄弟のご家族は、最初の手術が成功に終わったはずなのに、どうしてまだ不調が続くのだろうと不安に思ったでしょう。どうして?どうして?ご家族にとって、まさに「問う病」です。しかし兄弟本人は、その中にあっても平安があった。神が必ず私を守り、導いてくださると。それもまた「問う病」です。ただし問いかけた相手は自分です。ちょうど詩篇103篇のように。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」。この病を通して、神様もまた兄弟のたましいに問いかけました。「それでもあなたはわたしに従うか」。彼はその問いかけに強く頷いたと信じます。そして私は病に限定して語ってきましたが、人生のあらゆる問題−−それは厄介ごとのままで終わることは決してありません。その様々な問題を通して、私たちの心の内側にある隠れた思いがあぶり出されていきます。それが試練です。聖書は言います。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか」(ヘブル12:7)。

 試練を通して、私たちは成長します。心に隠れたものがあぶり出され、より神に近づこうとする信仰へと導かれます。しかしもしそうだとすると、イエス様も試練を経験されたということはどう考えるべきでしょうか。28節、「けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです」。主が経験された「さまざまの試練」。ある人は、荒野の誘惑を思い起こすでしょう。またある人は、この後のゲツセマネの祈りを連想するかもしれません。しかしそのどちらにも、弟子はおりません。主は一人で悪魔と立ち向かい、父なる神に絶叫しました。いったいここで主が言われる「さまざまの試練」とは何のことなのでしょうか。私はこう思います。さまざまの試練、それはイエスが弟子たちと共に歩まれた三年半の歩みの日々すべてを指しているのだ、と。その三年半の最後に待ち受けるものを、イエスもまた恐れ、怯え、その見えない格闘の中で父なる神から訓練された。それゆえに「試練」と呼んでいるのだ、と。そして三年半の最後に待ち受けるもの、それこそが十字架の苦しみであります。
 今の私の言葉につまずきをおぼえる方もいるかもしれません。イエスが恐れ、怯え、訓練された、だって?救い主、王の王、主の主であるキリストがなぜ恐れるのか。怯えるのか。訓練される必要があるのか。しかし私たちは、イエスが神でありながら人としてお生まれになったという事実を正しく理解しなければなりません。罪は決して犯されませんでしたが、人としてのあらゆる苦しみをなめられた方、それがイエス様なのです。三年半の公生涯どころか、飼い葉桶に寝かされたその時から十字架を背負っておられました。その人生の中で、一瞬たりとも十字架の重荷を忘れることができた日はなかったことでしょう。

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posted by 近 at 20:55 | Comment(0) | 2013年のメッセージ

2013.3.10「いのちより大切なもの」

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聖書箇所 テモテへの手紙 第二4章1-8節
 1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。5 しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

 星野富弘さんという方をみなさんご存じかと思います。体育の先生でしたが、事故で首から下が動かなくなってしまいました。何年も絶望の日々が続くなか、神の愛に触れて信仰を与えられました。口に筆を加えて描かれたその絵と詩の数々は、多くの人の心に励ましを与え続けています。星野さんの作品のひとつに、「いのちより大切なもの」というのがあります。
 命がいちばんだと思っていたころ 生きるのが苦しかった
 いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった
星野さんはこう言っておられます。「命より大切なもの−−この答えは自分で見つけてはじめて意味があると思い、それぞれの答えがあってよいと考えていた。しかしその質問は東日本大震災以降まったくなくなった」。つまり、あの3月11日以来、「命がいちばんだと」言い張る人がいなくなったと言うのです。考えてみると不思議なことです。この二年間で、約16000人の方がなくなられ、行方不明者も約2700人を数えます。「九死に一生を得た」と普通なら考えそうなものです。しかし生き残った人々は、いのちを得た中でむしろ「いのちより大切なものがある」と考えるようになったということです。それは失った家族との繋がりかもしれません。今も被災地に赴き、被災者に寄り添い続けている人々との絆であるかもしれません。しかしこう考えることもできるでしょう。いのちより大切なもの、それはそのいのちを私に与えてくれた存在であると。星野さんを含め多くのクリスチャンにとって、それは救い主イエス・キリストです。願わくは、あの日から明日で二年を迎える中、少しでも多くの人々がイエス・キリストに出会うことができますように。

 今日開きました、新約聖書の「テモテへの手紙 第二」は、パウロが最後に書き残した手紙です。遺言と呼んでもよいでしょう。かつてはクリスチャンを憎んでいたパウロは、復活のイエス・キリストに出会い、残りの人生をこの方にささげて生きてきました。今さら何を怯える必要があるだろうか。パウロは死を覚悟しながらも、その死の前に怯えることはありません。彼もまた、この手紙を通して「命より大切なもの」を手紙の受取人である若き弟子テモテに伝えます。それは何でしょうか。永遠のいのちです。たとえこの地上の命が尽き果てても、決して消えることのない永遠のいのちのともしび。私はこのともしびを人々に伝えることに生きてきたし、これからも変わらない。この地上のいのちが消えるその瞬間まで、私はキリストを宣べ伝えていく。そしてテモテよ、あなたもそのように生きてほしいのだ。
 パウロの懇願の前に、テモテだけでなく私たちもまた、姿勢を正さずにはいられません。1節をもう一度お読みします。「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」。

 今日は、二年間にわたって教会に仕えてくださった田中敬子神学生、伶奈姉を送り出します。伶奈姉は神学生ではありませんが、彼女が来てくれたこの二年間、子供たちも大人たちもどれだけの力と励ましをいただいたかわかりません。本音を言えば、送り出したくないのです。歓送会なんかしたくないのです。もっといてほしいのです。それは私だけの気持ちではなく、豊栄に集っておられるみなさんの思いでしょう。おそらくある方などは、神学生とも気づかず、昔から来ている教会員だと思っていた、という人もいるかもしれません。それほどまでに、お二人は奉仕教会の私たちを心から愛し、交わり、仕えてくださいました。心から感謝をささげたいと思います。

 今日の聖書箇所には、パウロが自分の人生を振り返り、その上でテモテにこれだけは伝えなければならないと考えたことが残されています。それは、「みことばを宣べ伝えなさい」ということでした。「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」と。最近読んだある方の文章の中に、こういう言葉がありました。パウロは時が良くても、悪くても、と言っている。しかしパウロの宣教において、時が良かったことなど果たしてあったのだろうか、と。
 確かにパウロの人生は迫害と苦しみの連続でした。イエス・キリストを伝えたことによって反対者に袋だたきにあい、死にかけたこともありました。また「このような者は地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない」と群衆から罵倒されたこともありました。ですから私はこう思うのです。「時が良くても悪くても」とは、私たちの言い訳をふさぐための言葉ではないのか、と。人々が耳を傾ければ「良い時」と考え、反対が強ければ「悪い時」と考えてしまう。しかし人々の心を開くのは神ご自身です。人の目にはどのように見えたとしても、私たちがなすべきことはただ語ること。それがパウロの遺言の中心です。


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posted by 近 at 16:43 | Comment(0) | 2013年のメッセージ

2013.3.3「生まれてきてくれてありがとう」

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聖書箇所 マタイの福音書26章20-25節
 20 さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。21 みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」22 すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう」とかわるがわるイエスに言った。23 イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。24 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ」と言われた。

 先日、敬和学園高校の卒業式があり、関係者のひとりとして出席してきました。校長先生が壇上でひとり一人に卒業証書を手渡していきます。ただ渡すのではなく一言二言、言葉をかけて手渡していくのですね。「敬和大学でもアーチェリーがんばれ」とか「調理師免許とれたらいいな」とか具体的な励ましをいただきながら卒業証書を受け取っていく彼らは本当に晴れがましく見えます。その後、卒業生代表のAくんの答辞がありました。彼はまず「私は、自分を変えたいと思って敬和に来ました」と切り出しました。自分を変えるために、勉強をがんばり、部活をがんばり、学園祭では総合チーフを務めた。そこまではどの高校の卒業式でもよく聞く話です。しかしなぜそこまでがんばろうとしたのか。彼は答辞の終盤で数秒間声を詰まらせて、こう語りました。「それは父親との確執だった。子どもの頃から、何度も父親に手を挙げられたことがあった。自分がなぜ生まれてきたのかわからなかった。父を憎み、自分も生きていても仕方がない、と思っていた。しかし敬和に来た時、ある先生が自分にこう言ってくれた。あなたは私の子どもだ、生まれてきてくれてありがとう、敬和に来てくれてありがとう、と。自分は敬和で変わった。敬和だから変われた」。公の場でここまで語ることのできる勇気に私は敬服しました。同時に、これがまさに敬和の卒業式だと思わされたものです。

 「生まれてきてくれてありがとう」。生まれたばかりの赤ん坊を優しく見つめながら、父母は心の中でそう語りかけることでしょう。「生まれてきてくれてありがとう」。それが敬和学園高校が45年間続けて来た教育方針でもあります。そして神さまも私たちひとり一人にこう語りかけてくださっています。「生まれてきてくれてありがとう」と。しかし今日私たちがイエス様の言葉から受ける印象は逆であるかもしれません。イエス・キリストを裏切り、銀貨30枚で売り渡す約束をしていた弟子、イスカリオテ・ユダについて、イエス様はこう語ります。24節、「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去っていきます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」。

 とても冷たく、突き放した言葉のように思えます。しかし本当にそうでしょうか。もしあなたがイエス・キリストの立場であったならば、こう言ったかもしれません。「ユダ、おまえはわざわいだ。ユダ、おまえなんか生まれないほうがよかったのだ」と。しかしイエスはユダという名前を一言も出さないのです。裏切る本人を前にしながら、まるで別人のことを語っているように。これは何を意味しているのでしょうか。イエス・キリストはユダを見離しておられなかったということです。見離したのはむしろユダのほうでした。イエスは、たとえ裏切りが神の計画の中にあったことだったとしても、それでもユダが心から己の罪を悔い改めることを願っておられました。しかしユダの心には届かなかったのです。ユダの心は変わらなかったのです。ユダは厚かましくも、こう聞きました。「先生。まさか私のことではないでしょう」。このとき、イエス様の表情はおそらく、いや、間違いなく、世界で一番打ちのめされた者として顔をゆがめたことでしょう。自分の罪に目をとめようとしないユダに対し、イエス様は悲しみをたたえながらこう告げるしかありませんでした。「いや、そうだ」と。

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posted by 近 at 18:00 | Comment(0) | 2013年のメッセージ

2013.2.24「顔と顔を合わせて(face_to_face)」

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聖書箇所 マルコの福音書5章25-34節
  25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

 今日の私がいつもと違うことに気づいてくださった方はおられますでしょうか。眼鏡です。いつもの眼鏡をどこかへなくしてしまったので、しかたなく前の眼鏡をかけています。いつもの眼鏡はふちなしですが、これは視界にフレームが入ってしまいますのでちょっとかけづらい。笑い話ですが、縁なし眼鏡を初めてかけたとき、眼鏡をかけていることを忘れて眼鏡を一生懸命探していたことがあります。
 そして人生にも同じようなことはないでしょうか。何かを得るために一生懸命求めている中で、じつは本当に必要なものは全然別のものだったということがあるのです。それがこの女性でした。あなたは何を求めているのですか。もし彼女に問えば「病気が治ること」と答えたでしょう。そのためにイエス様に近づいてきたのです。彼女が求めていたものは健康です。しかし彼女が必要としていたものは、彼女自身も気づいていないものでした。健康ではなく「いのち」です。脳や心臓が活動するという意味のいのちではありません。たとえ病気の連続でも人生に溢れてくる、永遠のいのちが伴う人生の喜びです。
 この12年間、彼女は傷つけられて生きてきました。傷つけたのは医者だけではありません。当時のイスラエルでは、長血の女性はけがれた罪人であり、関わるならば誰でも汚れるとされていました。彼女をひどい目に会わせていたのは医者だけでなく、イスラエルの狭い社会そのものです。医者からは食い物にされ、人々からはつまはじきにされてきた彼女が本当に必要としていたのは、健康の回復以上に、人としての尊厳の回復です。道行く人たちに笑顔を向け、「おかげさまで」と自然に口から出てくるような、心の平安です。そしてそれを与えてくれるのはただイエス・キリストとの出会いだけだということを知っていただきたいのです。

 この女性にとって、イエス様の前に出て行くどころか、群衆に紛れてイエス様に近づくことさえも非常に勇気のいることでした。もし汚れた女性がそこにいるということがわかってしまったら、群衆は彼女に黄色い歯をむき出し、石もて彼女を追い払おうとするでしょう。その危険におびえながら、それでも彼女はイエス様だけが自分をいやしてくれるという確信をもって行動します。27節から29節をお読みします。
彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。

 クリスチャンの方は、今までもどこかでこの箇所からの説教を聞いたという方もいるでしょう。そしてもしかしたらそこで語られたことは「あなたも、この長血の女性のように熱心な信仰をもってイエスに近づきなさい」というものではなかったでしょうか。そうです、確かにイエス様は彼女に対して「あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。
 しかし次はクリスチャンではなく、求道者の方々にこうお聞きしましょう。「キリストの着物に触ることができれば、きっと直る」という一途な思い、それが信仰なのだという主張に納得できますか、という質問です。多くの求道者は、キリスト教には他の宗教にない真理があると考えて、教会に来て説教を聞いておられるのでしょう。仏教や神道には、百回お参りすれば願いが叶うという、いわゆるお百度参りと言われる教えがあります。多くの新宗教、新々宗教も、その教祖は熱心な修行の末、悟りを得たと主張します。そのようなはじめに熱心ありきという他の宗教と、着物に触りさえすればという聖書の教えはどう違うのでしょうか。
 間違えていけないのは、彼女の一途な行動がイエス様から力を引き出したのだ、これこそ信仰だという発想です。聖書によれば、救いとはイエス様が神の子であり、私の贖い主であることを告白する信仰によるのであり、決してイエス様のお着物や髪の毛に触ることではありません。ではなぜこの女性がイエス様の着物のすそに触ったときに彼女は直ったのでしょうか。それは一方的なあわれみです。父なる神の御力が、イエス様のみからだを通して働き、彼女を救いへの入口に立たせてくださったのです。説教の初めにこう問いかけました。彼女にとって本当に必要なものは何だったでしょうか。長血の病がいやされれば、それが救いなのか。そうではないでしょう。12年間、あらゆる人々に傷つけられ、避けられてきた人生そのものが回復しなければなりません。それまでの12年間さえも感謝をもって受けとめられる、心のいやしが起こらなければならないのです。それこそが彼女に必要なものだったのです。彼女は気づきません。しかしイエス様は気づいておられました。だからこそ、彼女をそのまま人混みの中に去らせようとなされなかったのです。

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posted by 近 at 20:33 | Comment(0) | 2013年のメッセージ

2013.2.17「大いなる山よ、お前は何者だ!」

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聖書箇所 ゼカリヤ書4章1-7節
  1 私と話していた御使いが戻って来て、私を呼びさましたので、私は眠りからさまされた人のようであった。
2 彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」そこで私は答えた。「私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています。3 また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」4 さらに私は、私と話していた御使いにこう言った。「主よ。これらは何ですか。」5 私と話していた御使いが答えて言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」6 すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの【主】のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の【主】は仰せられる。7 大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」


序:
 この教会で奉仕をさせて頂いてから、もう2年が過ぎようとしています。この2年間は一生忘れられない恵みの時であり、ここに導いてくださった主と、こうして温かく迎えてくださった皆さんに心から感謝しています。
この教会で私はたくさんのことを学ばせていただきましたが、中でも、主にあって喜んで仕えておられる皆さんの姿を通して、献身ということの意味を深く考えさせられました。
 神様にあって生きる者、信仰者にとって一番大切なことは、神と共にあることではないでしょうか。私たちはしばしば、ぶどうの木の枝に例えられます。ぶどうの枝にとって幹につながっていることが、いのちの根源であり、枝が幹から離れては実を結ぶことができません。 
 花の中でもひときわ美しいとされるバラの花は、接ぎ木のできる花のひとつです。接ぎ木の目的とは何でしょうか。
野生のバラの花は美しくないかもしれませんが、生命力がとても強く、やせた大地でも逞しく生きることができます。一方温室のバラは美しく奇麗な花を咲かせますが、病気に弱く、虫がつきやすく、手入れが大変です。その温室のバラを野生種のバラに接ぎ木すると、その野生種のバラから、生命力溢れる樹液が流れ込んできて、美しい上に、強い性質のバラができる。
私たちはこの温室に咲く弱いバラです。そのままでは病気になり、虫にもすぐに食べられてしまいます。イエス様という幹からの溢れるいのちの樹液を注がれてこそ、生命力に溢れた信仰生活と、それに伴う豊かな実を結ぶことができるのです。

本:
 1)、背景
 今日の聖書箇所は、あまり馴染みがない箇所かもしれませんが、旧約聖書の小預言書の一つ、ゼカリヤ書、第4章1〜7節のみことばです。
ソロモンの建てた神殿は、神の民の度重なる不信仰によって、紀元前586年、バビロン帝国によって滅ぼされ、民はバビロンへ連行されました。しかしその70年後、神は再び、ご自分の民を故郷エルサレムに帰らせ、神殿の再建を命じられます。その時に主によって立てられた二人の指導者が、祭司ヨシュアと総督ゼルバベルでした。しかし工事は、敵対者たちによって妨害され、15年間もの間、工事の中断を余儀なくされます。神様によって立てられた二人の指導者は、その危機的状況の中で、肝心の指導力を発揮できず、民は、次第に神殿再建の熱意を失い、神殿が完成すること疑い始めました。そのような状況下にハガイとゼカリヤという2人の預言者が、神様から遣わされ、祭司ヨシュアと総督ゼルバベルにみことばを与え、励まし、工事を再会させるのです。

2)、金の燭台
1〜5節、
 ゼカリヤは8つの幻を見ますが、これは5番目の幻、「金の燭台」のまぼろしです。
「金でできている一つの燭台」は、“神の民”を指します。広い意味では“教会”を指すという解釈もあります。燭台には本来、暗闇を照らす目的、使命があります。金は不純物が取り除かれた状態、つまり聖さを表します。神様にとって神の民は、純金のように、美しく、高価で尊いという存在であると言えるでしょう。
上部には鉢があり、その鉢の上には「七つのともしび皿」に「七つの管」がそれぞれについています。聖書の数の7は完全数を表し、その倍数なので、これ以上ない完全さを表します。「七つの管」に灯心がそれぞれについている。つまり49個分の明かりが灯るので非常に明るくなるという意味です。
さらに、「二本のオリーブの木」がその鉢の左右についています。オリーブ木から採れるオリーブ油が直接、その鉢に注がれ、それによって絶えず火を点すことが可能となります。
神の民は、聖く、全き者、神に愛された存在として、この暗闇の世界に対し、燭台の役目を果たしていくようにと召されています。そしてこの世に光を放つためには、私たち一人一人が、通り良き管となって、つきない油である、聖霊の力を絶えず受け続けなければならないことを、この幻は示しています。

3)、6~7節  二つの道、(広い道)
 私たちは神様を信じて救われ、それでそく、天国に行けるかといったら、そうではありません。私たちは地上での生涯を、もういいよと言われるまで、歩まなくてはなりません。そこには2つの道が用意されています。一つは広い道、もう一つが狭い道です。私たちは絶えず、このどちらかを選択しなくてはなりません。広い道は、分かりやすく、見つけやすい道なので、自分の力で楽に歩み出せます。一方の狭い道は、見つけにくく、自分一人の力では歩むのが困難な道です。これが6節の、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」歩む道です。困難な中にも、聖霊と共に歩む道、神様の用意された祝福の道です。
しかし私たちの多くが、自分では狭い道を歩んでいると思っていても、実は広い道を選んでしまっていることがあります。とりわけ目の前に立ちはだかる壁に直面するとき、自分で考えた安全と思える道、楽な方、広い道を選ぶのです。


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2013.2.10「破れ口に立つ教会」

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聖書箇所 エゼキエル書22章23-31節
 23 次のような【主】のことばが私にあった。24 「人の子よ。この町に言え。おまえは憤りの日にきよめられず、雨も降らない地である。25 そこには預言者たちの陰謀がある。彼らは、獲物を引き裂きながらほえたける雄獅子のように人々を食い、富と宝を奪い取り、その町にやもめの数をふやした。26 その祭司たちは、わたしの律法を犯し、わたしの聖なるものを汚し、聖なるものと俗なるものとを区別せず、汚れたものときよいものとの違いを教えなかった。また、彼らはわたしの安息日をないがしろにした。こうして、わたしは彼らの間で汚されている。27 その町の首長たちは、獲物を引き裂いている狼のように血を流し、人々を殺して自分の利得をむさぼっている。28 その町の預言者たちは、むなしい幻を見、まやかしの占いをして、しっくいで上塗りをし、【主】が語られないのに『神である主がこう仰せられる』と言っている。29 一般の人々も、しいたげを行い、物をかすめ、乏しい者や貧しい者を苦しめ、不法にも在留異国人をしいたげた。30 わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。31 それで、わたしは彼らの上に憤りを注ぎ、激しい怒りの火で彼らを絶滅し、彼らの頭上に彼らの行いを返した。─神である主の御告げ─」

 今日は「破れ口に立つ教会」というタイトルで説教させていただきますが、これは今年の教会の目標聖句として総会資料に書かせていただくものです。まず聖書箇所から「破れ口」について語りましょう。破れ口とは、町を取り囲む城壁に空いた穴のことです。それは落ちたら命がないほどの高い所にあります。そこに辿り着くまでに幾多の危険を冒さなければならないような所にあります。業者を呼んですぐに直せるような穴ではなく、いのちを落とすことを覚悟してでも、それでも真っ先に直さなければならないのが「破れ口」です。なぜならその穴の場所が敵に知られれば、敵は必ずそこを狙ってくる。どんなに高く城壁を築いても、穴が狙われたらひとたまりもありません。破れ口はどんな犠牲を払ってでも直さなければならないもの、しかしエゼキエル書では何と言われているでしょうか。神さまはため息をもらします。「わたしはこの国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった」。

 誰も直そうとしない。誰も目を向けようとしない。エルサレムに住まう誰もが、「安全だ、安全だ」とばかり言っていました。神が私たちを守ってくださる。私たちは選ばれた民なのだから、と。しかし彼らは大きな思い違いをしていました。エルサレムを滅ぼすのは他の国々ではない。神ご自身なのだ。30節で神はこう言われます。「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは破れ口を修理する者を捜し求めた」。ある意味、矛盾する言葉であるかもしれません。この国を滅ぼすお方が、この国の穴を修理する者たちを捜し求めるとは。しかし決して矛盾ではないのです。敬和学園高校が太夫浜にできたとき、創立者である故太田俊雄先生はこのように祈ったそうです。「もしこの学校が、神の聖名を汚し、神の聖旨にそむいて、〈右や左に曲る〉ようなことがあったら、どうか聖名の栄光のために、学園をつぶしてください」と。神の民、そして教会が神のみこころからそれていくならば、最後には神ご自身が彼らを滅ぼされます。
 しかしエルサレムの現実はどうだったでしょうか。預言者たちは口当たりのよい約束を語るばかりで、破れ口を修理するどころかしっくいで上塗りをして、問題を隠すだけであった。祭司は、霊的な破れ口がぽっかり開いていることを語らなければならないのに、きよさを教えることもなく、あまつさえ自分自身が安息日を守らなかった。王や首長たちは民のことなどに目をとめず、自分の利得をむさぼった。そして一般の民たちも、不法に在留異国人をしいたげ、乏しい者、貧しい者を苦しめた。すべての者が破れ口を見ようとしない。一人としてそれを修理しようとする者がいない。

 昨年、私たち豊栄キリスト教会は設立40年の節目の年を迎えました。教会の内外に「破れ口」と呼ぶべきものが開いていることにも、私たちは目を向けなければなりません。教会は、開拓伝道の賜物を豊かに与えられた牧師夫妻によって30年間、導かれてきました。きちんと残された教会総会や役員会の議事録、週報や月報、それらはこの教会がまことに祝福された群れであったことをうかがわせます。しかし教会はいつのまにか変質してしまったのです。当初の救霊の情熱が、保身への努力にすり替わりました。みことばを忠実に語り、聞いてきたのに、律法主義がいつのまにか生活を支配するようになりました。神が与えてくださった自由を忘れ、信仰生活が束縛と不安に変わってしまったのです。共に救いを喜び合ったはずの人々が交わりにつまずき、教会を離れていきました。これは決して個人攻撃ではありません。攻撃しているとすれば、それは不都合な過去を忘れようとする私たち自身の心に対してです。できれば覆い隠したい事実は、いったい誰が語り伝えることができるのでしょうか。それは、経験した者が悔い改めをもって書き表すこと以外にはできないのです。

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2013.2.3「造り、触り、きよめる」

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聖書箇所 ヨハネの福音書9章1-7節
 1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

 東京・浅草にある浅草寺には、本堂の前に「おたきあげ」と言われる、大きな鉄の鉢があります。その中には線香が何本も指してあって、参拝のご老人方がその白い煙をこうやってかぶっている様子を、テレビなどで見たことがある方もいるでしょう。これは中国の道教の影響で、線香の煙が体の中の悪いものを直したり、追い出してくれるという言い伝えによるそうです。もしかしたら今日の聖書箇所でイエス様が盲人の瞼に泥を塗りつけたのも、線香の煙を痛い所にすりつけるのと同じようなものと受けとめられてしまうことがあるかもしれません。しかしイエス様のつばきに力があるわけでも、それでこねられた泥に力があるわけでもありません。なぜことばだけで人を生き返らせ、ことばだけで嵐を静めることのできる方が、あえてことばではなく泥をこの人の瞼に塗るという行動に至ったのか。ことばが神となられたというそのお方が、なぜことばではなく泥を用いられたのか。今日はそのことについてみことばから共に考えていきたいと思うのです。

 最初に私たちは、この盲人の心の中を見つめるところから始めていきましょう。この人は、生まれつき目の見えない人でした。そして弟子たちは彼に容赦ないことばを浴びせます。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」。ひどいことばです。弟子たちはひそひそ声でイエス様に質問したのでしょうか。しかしどんな小さな声でも、この盲人には聞こえていたでしょう。生まれつき目の見えない人が、物乞いをして生きていくためには、目以外の感覚を研ぎ澄ます以外にありません。この人の心に近づくために、目を閉じて、自分が道ばたに座り込んでいると想像してみましょう。様々な音が聞こえ、様々な気配を感じます。道をあるく牛馬のいななき。子供たちがあたりを駆け回る足音。店の前に立ち止まる人々のとりとめもない会話。盲人はその様々な音をすべて拾い集める中で、どの方向に向かって作り笑いを浮かべたらよいのかを探ります。たとえ目の前に立っているのが、自分を人間としてではなく、罪の原因についての議論の材料としか見ない人々であっても、瞼の開かない顔を向けて、作り笑いを浮かべながら、施しを待つ。耳は何も聞き逃すまいとそばだてながら、しかし心はかたくなに閉ざす。どんなにひどいことを言われているとわかっても、心は殺す。そうしなければ生きていけない。それがこの人の、闇に閉ざされた心の姿です。

 弟子たちにとっては罪とは何かという材料に過ぎない盲人を、イエス様はあわれみをもって人として見つめておられました。この人の心に、何とかして光を届けたいと願っておられました。だからこそ、ことばではなく泥が必要だったのです。確かに、イエス様のみことばはどんな人をもいやします。しかし心を殺し、どんなことばも、聞いてはいても決して受け入れないならば、ことばの前にまず行動が必要です。今日の説教題はそのために主イエスがなされたことを表しています。「造り、触り、きよめる」。そのひとつ一つを見ていきましょう。

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posted by 近 at 20:07 | Comment(0) | 2013年のメッセージ

2013.1.27「本当の恐れと偽りの恐れ」

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聖書箇所 ルカの福音書12章4-9節
 4 そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。5 恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。6 五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。7 それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。8 そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。9 しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。

 先日、古本屋を散策している中で、懐かしい本のタイトルが目に入ってきました。「てぶくろを買いに」という新美南吉の童話です。なぜ「手袋を買いに」が心に止まったかといいますと、その日私が手袋を忘れて外に出て来てしまったからです。それはさておき、本を開きます。主人公はきつねの母子(おやこ)。ある冬の朝、狐のぼうやは、お母さん、目に何か刺さったと訴えるところから始まります。じつはそれは太陽の光が外の雪に反射しているものでした。生まれて初めて雪景色をみた狐のぼうやは、そのまぶしさをまるで目に何か刺さったように感じたのでした。
 少しあらすじにお付き合いいただきたいと思います。お母さん狐は、坊やに言いました。それは雪よ。夜になったら町に行って毛糸の手袋を買いにいきましょうね。しかしいざ夜になり、町に近づくと、お母さん狐はがくがく震えてしまうのです。友達が人間に捕まってひどい目に遭わされたことを思い出し、一歩も歩けなくなってしまいます。お母さんは坊やの片方の手だけを人間の手に変えると、白銅貨2枚を握らせて、こう言いきかせました。「いい坊や、町へ行って、まるい帽子の看板がある家を探すのよ。それが見つかったらね、トントンと戸を叩いて、今晩はって言うの。そうするとね、中から人間が、すこうし戸をあけるからね、その戸の隙間から、こっちの手、ほらこの人間の手をさし入れてね、この手にちょうどいい手袋頂戴って言うのよ、決して、こっちのお手々を出しちゃ駄目よ」。「どうして?」と坊やの狐はききかえしました。「人間はね、相手が狐だと解ると、手袋を売ってくれないのよ、それどころか、つかまえて檻の中へ入れちゃうのよ、人間ってほんとにこわいものなのよ」。
 この話の続きは、みなさんよくご存じでしょう。言われたとおりに帽子屋の扉をとんとん叩いた狐の坊や、扉の隙間から洩れた店の光があまりにもまぶしいものだから、間違えて狐のほうの手を入れてしまいます。しかし帽子屋の主人は白銅貨が本物だとわかると、そのまま子狐の手にぴったりの手袋を渡しました。戻ってきた坊やは母親に「人間は全然こわくないよ」と言います。そしてこの物語は母狐がこうつぶやくところで終わるのです。「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」と。

 少し長く引用してしまいましたが、大人になってこの童話を読み返したときに、この母狐のことばがようやくわかりました。「人間はこわくて、悪い生き物」という思い込みにしばられている彼女は、じつは私たち人間の心そのものなのだと。先日のアルジェリアでのテロ事件は、みなさんも悲しい思いをもって受けとめられたでしょう。アルジェリアでのガスプラントに従事していた日本企業の関係者10名が犠牲になりました。イスラム原理主義の影響を受けた、アルカイダに関係しているテロ集団がその首謀者として公表されています。彼らは人質の首に爆弾をしかけて、みせしめに殺していったということも囁かれています。ある人は言うでしょう。イスラム原理主義ってイスラム教の一派でしょう。やっぱり宗教って怖いね、と。しかし自分が被害者になったわけでもないのに宗教って怖いねと簡単に言ってのける人の心もまた怖いと思います。いやむしろ、すべての宗教を十把一絡げにまとめてしまい、怖い怖いと避けて通る人の心のほうがテロよりもはるかに私たちの生活になじみのあるものであるぶん、危険さを感じます。「手袋を買いに」でソフトに描かれてはいるが、確かにそこに存在するのは、私たちを偽って食い物にしようとする、恐れの感情です。母狐は坊やに言います。私の友達が人間にひどい目に会わせられたんだよ、と。自分が当事者となったわけではない、しかし十把一絡げに「人間というのは恐ろしくて悪いやつなんだ」と思い込んでしまい、それを子供へと引き継いでいく。ただの童話を深読みしすぎと言われてしまうかもしれませんが、少なくとも新美南吉は狐が書きたくてこの童話を世に出したのではないでしょう。彼は人間を書いたのです。どんな人間にもある心の闇と壁が、小さな出会いを通して砕かれ、徐々に光さしていく、その希望を童話に託したのです。

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posted by 近 at 19:25 | Comment(0) | 2013年のメッセージ

2013.1.20「犠牲の報酬」

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聖書箇所 ヨハネの福音書4章46-54節
  46 イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。48 そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」49 その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」50 イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。51 彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。52 そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、第七時に熱がひきました」と言った。53 それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。54 イエスはユダヤを去ってガリラヤに入られてから、またこのことを第二のしるしとして行われたのである。

 以前、ある信徒の方がこんな経験を話してくださいました。休日に、まだ幼い自分の子どもが高熱を出した。急いでかかりつけの医者に行くと今日は休みだからと他の病院に回され、そこに行くとベッドの空きがないのでと、何十キロも離れた大きな救急病院を紹介された。しかしそこでその親御さんは病院に頭を下げた。そこまで行く時間はありません。どうか子供を診てください。何度も頭を下げると、病院側も対応してくれた、と。細部は違っているかもしれませんが、私がその話を聞いて思わされたのは、親は子供のためならば何でも捨てられるということでした。いつかの説教で「子故の闇」という言葉を紹介しましたが、しかし子のためだったら私のプライドなどいくらでも捨ててやる、というのが親の変わらない姿。46節、47節をもう一度お読みしたいと思います。
 イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。

 「王室の役人」の「王室」とは、当時ガリラヤを支配していた国主ヘロデ・アンテパスであろうと思われます。この王は、降誕物語に出てくるヘロデ大王の息子にあたりますが、自分の不品行を公然と批判したバプテスマのヨハネを殺害したのもこのアンテパスでした。イエス様が後にこのアンテパスを「あの狐」とさえ呼んでおられるほどの悪王でした。聖書にははっきりと書いていませんが、そのアンテパスに仕える役人が、イエス様にわが子のいやしを求めるのは、とても勇気のいることだったでしょう。公に人々の前でイエスのいやしを求めることは、自分の主人であるアンテパスに伝わることを覚悟しなければなりません。そしてそれは最悪、この役人の命が奪われる結果になるかもしれません。しかし今、自分の息子が死にかかっている。息子の命と引き替えに、彼は自分の地位、プライド、そして自分の命を捨てました。そしてカナから数十キロ離れたカペナウムから、イエスのもとへやってきたのです。どうか私の子どもが死なないうちに下ってきてください、と求めるために。

 新約聖書には、イエスにいやしを求める数多くの人々が登場します。彼ら彼女らに共通しているのは、大なり小なり、みな犠牲を払って主に近づいているということです。例えば、自分の娘のいやしを願ったツロ・フェニキアの女性がいました。この地方の人々はユダヤ人からは混血として軽蔑されていました。しかし彼女もまた、自分の娘のためにプライドを捨てて主に近づいたのです。逆に、ユダヤ人だが同じように自分の娘のいやしを願った会堂管理者ヤイロがいました。当時、ユダヤ人の宗教指導者がイエスを敵視していた中で、会堂管理者であるヤイロが置かれた立場は極めて困難なものでした。しかし彼もまた、自分の娘のために地位も命も捨てました。他にも長血の女性、ローマの百人隊長、盲人バルテマイなど、イエスにいやされた人たちを挙げればきりがありません。しかし共通しているのは、彼らは富、地位、偏見、葛藤、敵意、およそ私たちが神に近づくことを妨害するあらゆるものを捨てて、主に近づいているのです。そしてそのように犠牲を払って近づく人を、イエスが手ぶらで追い返したという記録は聖書には決してありません。


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posted by 近 at 17:33 | Comment(0) | 2013年のメッセージ