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2012.10.21「常識を飛び越えろ」

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聖書箇所 マルコの福音書2章1-12節
 1 数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。3 そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。4 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。6 ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。7 「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」8 彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。9 中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、11 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。12 すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。
 あるクリスチャンの先輩が初めて教会に行ったときの思い出を話してくれたことがありました。「キリスト教会って言うから、ステンドグラスやパイプオルガンを連想していたんだが、行ったら普通の家に畳敷きで、そこでイエス・キリストの話を聞かされたんだな」と。もしかしたらみなさんも同様の思いを持っているかもしれません。こんなざぶとんで床に座らされて、まわりも何か引っ越しの途中みたいで、教会らしくない。すべては午後のバザーのためです。いや、バザーを通して地域のみなさんに私たちの元気の源であるイエス様を知っていただくためです。私自身もこういう形で礼拝をもつのはめったにないのでいささか面食らっておりますが、しかし一方でこういう形での礼拝に、憧れをもっていた部分もあります。というのは、普段は美しい講壇があり、そして椅子を並べて礼拝を守っていますが、それはヨーロッパ風の礼拝です。少なくともイエス様の時代には、講壇もなかったし椅子もありませんでした。今日の聖書箇所を読んでみてください。人々は家に入りきれず、足の踏み場もなかったようです。大きな講壇や椅子を並べるスペースもなかったんですね。日本には車座という言葉がありますが、まさにここにはそんな情景が描かれているのでしょう。

 アフリカのある国から留学しているひとりの青年がいました。ある朝、彼の日本人の友だちが、電車の中で本を読んでいる彼を見つけました。しかし友人はぷっと笑ってしまった。というのは、アフリカのその青年は、本を逆さまにして読んでいたのです。学校に着いてから、その友人は彼に声をかけました。「さっき電車の中で本を読んでたけど、さかさまだったよ。読むふりをして、本当は寝てたんだろ」。すると彼は不思議そうにこう答えた。「ああ、さかさまだったよ。でも僕たちからみれば、逆さまだと本を読めないと考える君たちの方が不思議だよ」。そして彼は自分の国の話をしてくれた。度重なる戦争で学校は壊され、机もなく、ひとり一人に配られる教科書もない。だから彼らはこうやって車座になって、先生が一冊の教科書を地べたに置き、生徒たちがそれぞれ教科書を覗き込むかたちで授業を続けて来た。だから本を逆さまに読むなんて当たり前だったんだ、と。その話を聞いた日本人学生は、赤面して彼に謝ったそうです。
 車座になって人々に神の愛を教えたイエス様、車座になって教科書を逆さまに読んできた子供たち、じつはこの両者には、車座以外にもうひとつ共通点があります。それは、常識を捨てるということです。逆さまに本を読むなんて、あり得ない。日本人だったら、かの学生だけでなく、みんながそう思うかもしれません。屋根をぶち抜いて、イエス様に直してもらうなんて、非常識だ。当時の人々もそう考えたかもしれません。さらに、安息日に人を直すのは、おきてに反している。安息日は、たとえどんな仕事であっても、してはならないのだ。そんな常識にとらわれているユダヤの偉い人たちもいました。

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2012.10.14「本物の本音に生きる」

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聖書箇所 テトスへの手紙 2章1-15節
 1 しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを話しなさい。2 老人たちには、自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように。3 同じように、年をとった婦人たちには、神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、悪口を言わず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。4 そうすれば、彼女たちは、若い婦人たちに向かって、夫を愛し、子どもを愛し、5 慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、自分の夫に従順であるようにと、さとすことができるのです。それは、神のことばがそしられるようなことのないためです。6 同じように、若い人々には、思慮深くあるように勧めなさい。7 また、すべての点で自分自身が良いわざの模範となり、教えにおいては純正で、威厳を保ち、8 非難すべきところのない、健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて、何も悪いことが言えなくなって、恥じ入ることになるでしょう。9 奴隷には、すべての点で自分の主人に従って、満足を与え、口答えせず、10 盗みをせず、努めて真実を表すように勧めなさい。それは、彼らがあらゆることで、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。11 というのは、すべての人を救う神の恵みが現れ、12 私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、13 祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。14 キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。15 あなたは、これらのことを十分な権威をもって話し、勧め、また、責めなさい。だれにも軽んじられてはいけません。

 ひとりの牧師が、ある教会の修養会に招かれたときのことをご自分の著書の中で書いております。修養会の後、彼はその教会のある信徒からこういう発言を聞きました。「私は教会の中で<ほんね>を言いたい。私は人を赦せない。神を疑うことがある。それが<ほんね>なのに、教会の、いかなる集会でも、それを口にすることが許されない」。するとそれがきっかけとなって、別の人からこんな質問も挙がってきた。「教会員と共に祈っているとき、他人を意識していまい、<ほんね>の祈りにならないので、どうしたらよいか」。
 これは私たち自身の問いかけであるかもしれません。少なくとも、かつての私も、同じような悩みを持っていたことがありました。私はこの牧師ならどう答えるだろうか。そんな思いを持ちながら、頁をめくりました。そしてそこに書かれていたのは、私の予想を越える、厳しい、しかし、冷静な言葉でした。
 正直に言って、私は、一種の失望感を表し、<ほんね>に固執する<ほんね>病とも言うべきものが教会を毒していないかと問うた。・・・・(中略)・・・・自分が自分であることを貫こうとすることが、自分に対して忠実であり、誠実であることとされ、そこで<ほんね>を重んじる。その<ほんね>を貫くことが、ひとを傷つけることがあることを承知しながら、それを捨てない。むしろ、このような自己中心の考え方や生き方が、どれほど深く罪を宿しているものかを考え、悲しむことはない。<ほんね>を捨てて<たてまえ>に生きることが信仰だと考えているから、<ほんね>を捨てることができない分だけ、<たてまえ>としての信仰生活との間にきしみが生じる。しかし、それは決して健康ではない。そのありのままの自分が罪を宿しているかぎり、自分をも損ね、隣人をも損ね、世界をも損ねる。そのことについてはまことに鈍感である。これが教会をも深く毒していると思われるのである。(加藤常昭『愛の手紙・説教』、教文館、2000年、146頁以下)
 「ほんね」と「たてまえ」。「本音」は、ひとつの事柄に対して、感情や欲求を含む特有の価値観に照らして心に抱かれるものと言えます。しかし多くの場合、それを明らかにすると、自分の周囲と軋轢を生み出すことになる。対立を最小限に抑えつつ、あるいは完全に覆い隠し、なおかつ自分の望む方向へと誘導していくために作られる言葉、それが「建前」です。もっとも、わざわざこんな難しい説明を加えなくても、子どもでさえ人間関係において「本音と建前」を使い分けることを知っています。ところがこの本音と建前、外国人の方々には通じないという。てっきり万国共通だと思っていたのですが、日本人特有のものだそうです。しかし私は、果たしてそうだろうか、少なくてもこのテトスの手紙がえぐり出しているのは、当時のクリスチャンたちが本音と建前を使い分けようとしている姿ではないかと思うのです。そして件の牧師が、「ほんね病」なる、自分の内側の感情を絶対視する病に怒りに似た失望を覚えたように、パウロもまたクレテ教会に蔓延する「ほんね病」をあぶり出そうとしているように思えるのです。

 今日の説教箇所は、前回語った所まで遡り、2章全体を取り上げています。この中でパウロは、教会のあらゆる階層の人々へ届くことばを紡ぎ出そうとしています。まず老人たちを皮切りに、年をとった婦人たちへ、次いで彼女らの後輩にあたる若い婦人たちへ、さらに若い人々へ、そして最後に奴隷たちへ。まるで水が高い所から低い所へ流れるように、神の恵みのことばを老人から奴隷に至るまで、まんべんなく巡らせようとしているかのようです。この2章全体を見つめたとき、まるで高速道路の案内板のように、等間隔に、ひとつのメッセージが埋め込まれていることに気づきます。つまり、例えば東京まで高速道で行くとして、東京に近づくにつれて「東京まで200キロ」「東京まで100キロ」という青看板を見るように、ひとつの共通したメッセージが残されているのです。

 それは何でしょうか。一言でいえば「みことばをあなたの本音として生きよ」という勧めです。5節では「神のことばがそしられるようなことのないためです」、8節では、「敵対する者も、私たちについて、何も悪いことが言えなくなって、恥じ入ることになるでしょう」、そして10節では「彼らがあらゆることで、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです」。これらはすべて、神のことばが教会の中で語られるとおりに、ひとり一人のクリスチャンの生活の中に根付いているかどうかを問うています。つまり、クレテ教会で語られているみことばが、決して建前に終わることなく、本音のものとして教会員の中で息づいているのかが問われているのです。

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2012.10.7「知識は愛によって生かされる」

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聖書箇所 コリント人への手紙 第一8章1-13節
 1 次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。2 人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。3 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。4 そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。5 なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。7 しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。8 しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。9 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。10 知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。11 その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。12 あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。13 ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。

1.偶像にささげた肉−−−コリント教会の潜在的分裂
 教会のご婦人方、いや別に壮年方でもよろしいのですが、お肉はどこで買われますか。大体の方はスーパーで、少し年配の方はなじみのお肉屋さんで、となるでしょうが、コリントを含め当時のローマ社会では、食肉を購入するために二つの方法がありました。一つは市場に行って肉を買う、当たり前の方法です。ではもう一つの方法とは。神殿で、市場よりも格安で肉を手に入れることができたのです。神殿といっても偶像の神が拝まれている所です。そこでいけにえとしてささげられた牛や羊の肉が払い下げられていました。さらには、本来偶像にささげられた食肉が、それを隠されたまま、市場で売られていたこともよくあることでした。では、もしみなさんが当時のクリスチャンであったら、どうするでしょうか。つまり、偶像にささげられた肉をそのまま買って食べるでしょうか。いや、そんな肉は偶像の神によって汚されたのだから、割高であっても市場でまともな肉を買う、と言うでしょうか。しかし市場でも偶像にささげられた肉であることが隠されて売られているわけです。あるいは未信者の友人に招かれて食事に誘われたとき、それが偶像にささげられた肉かどうかわからないときはどうするか。コリントの教会は、この問題で教会が二つに割れつつありました。一方の人たちはこう言います。「食べてもいいさ、偶像の神なんていないんだから、たとえささげられた肉であっても、汚れていないよ」。しかしもう一方の人たち、手紙の中で「弱い人たち」と呼ばれている人たちは、偶像にささげた肉を平気で食べているクリスチャンたちにつまずきをおぼえていたのです。
 現代に生きる私たちにとって、こんな食べ物のことで対立する姿は滑稽だと感じるかもしれません。しかし現代の教会でも、教会の分裂をもたらす問題は、どれもごく小さなことから始まるのです。大きなことであれば、みなが注意します。しかし小さなことに関しては、私たちは信仰ではなく一般常識をあてはめ、みことばではなく経験則を用いようとします。そして小さな蟻の穴が大きな防波堤のコンクリートをくずしていくように、小さなほころびが教会の交わりを揺るがせていきます。
 しかし驚くべきことに、パウロはこの聖書箇所で語っているのは、偶像にささげられた肉を食べることが正しいか正しくないかという論点ではありません。ただ彼はこう言うのです。「しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」と。

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2012.9.30「回り道を恐れない人生」

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聖書箇所 イザヤ書48章10節
 見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。
 わたしは悩みの炉であなたを試みた。

1.スピードを求める現代社会。時間の節約を最優先する危険性
 今年は記録的な猛暑と言われましたが、そんなとき、ある方から自家製の梅酒をいただきました。「就寝前にちょっと飲むと、気持ちよく眠れますよ」と言われて、確かに寝付きがよくなりました。水で薄めてちびちび飲み続けたのですが、やがて愛しの梅酒くんとも別れを告げなければならなくなりました。ああ、そうか。自分で作ればいいんだとインターネットで調べましたが、三ヶ月であっさりとした味わい、一年でコクが出てくるといった説明文を読んでいるうちに、時間がかかるのはやだなあと思ってしまいます。スーパーでできあがりの梅酒を買ってくればいいわけですが、やはり自家製にはこだわりたい。でも時間がかかるのはちょっと・・・・すると、やはりインターネットなのですが、そんな私にぴったりの商品が見つかりました。その名も「超音波式果実酒即製器」。梅と焼酎を入れてスイッチを入れると、なんと次の日には梅酒が完成という、ドラえもんもびっくりの夢の機械です。何でも一秒間に四万回という超音波振動が、一日で数ヶ月分の熟成効果を与えるそうです。しかしそうとわかると、今度はそんなに早くできてもなあ・・・・と思ってしまうあたり、人間というのは勝手な生き物だなあと思います。
 私たちの生活はスピードを求めています。以前、こんな話を聞きました。インドネシアで宣教師として働いている先生が、日本の教会でメッセージを頼まれて帰ってきました。空港へ出迎えにきた牧師が言いました。「先生、JRではなくて地下鉄で行きましょう。うまくいけば、5分の短縮になります」。その時に思ったのは、なぜ5分短縮しなければならないのか、と素朴に疑問に思ったと言います。そして疑問は不安に変わった。翌日、その不安は的中した。メッセージの前に、牧師が宣教師にこう言いました。「先生、メッセージは30分程度で、長くても40分以内にお願いします」。5分、10分。永遠のいのちを受け取っているにもかかわらず、なぜそんな短い時間にこだわるのか、理解できなかったとその宣教師は述懐していますが、私たちは教会であってもいつのまにか時間に追い立てられている、いや、もしかしたら教会のほうが世の人々よりもせわしなく動いているということがあるかもしれません。そして時間的な回り道ならばまだいいでしょう。もっと悲しむべきは、生活の中で起こる様々な出来事を自分にプラスか、それともマイナスかで評価して、マイナスと思われるものを切り捨てていくことです。

2.「なぜ」という問いかけは、時として回り道を切り捨てる
 地震と津波で壊滅的な被害を受けた気仙沼市で、ひとりの町医者として人々に寄り添い続ける、あるクリスチャンがおられます。その方が、インタビューでこんなことを書いておられました。(山浦玄嗣「被災地・ケセンから見た3.11」35-37頁、『信徒の友』別巻「その時、教会は」、日本キリスト教団出版局、2012年)
 震災後、テレビ、新聞、雑誌からコメントを求められました。彼らは皆判で押したように、「東北の人は非常に我慢強く正直で善良である。こういう人たちがなぜ、このような目に遭わなくてはならないのか。神さまはなぜこのような酷い目に遭わせるのか。信仰者として今回の出来事をどう考えるか」という質問を投げかけてきました。私は髪の毛が逆立つくらい腹が立ちました。私はそんなことを一度も考えたことがありません。あの惨害の最中に何千人という気仙の人間を診ました。連れ合い、親、子どもを亡くした人たちの話を聞いて一緒に泣いてきました。でも、「なして、おらどァこんたな目に遭わねァばならねァんだべ」という恨み言を聞いたことはただの一度もありません。・・・(中略)・・・そういう人たちに向かって、こんな意地の悪い質問をするのは「お前たちは神さま、仏さまに見捨てられたのだ」と言うのと同じで、人の心を絶望で腐らせる猛毒です。
 この医師は、終わりにこう書いています。
 我々が神さまに対して取るべき態度はたったひとつ、「神さま、あなたは私をお創りになりました。何のためにお創りになったんですか?私はどういう道具なのでしょうか。どうぞ、教えてください」、これしかないのではないでしょうか。我々が神さまの道具なのであって、神さまは我々の主なのです。そこを履き違えてはいけません。
 時間だけでなく、様々な出来事もまた、人生に不必要なこととして切り捨てていこうとする、そんな人間の罪を彼は指摘しています。そして今日の聖書のみことばは、まさに私たちが神に用いられる器なのだということをたった一言で伝えています。もう一度、みなで読んでみましょう。
 見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。
 わたしは悩みの炉であなたを試みた。

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2012.9.23「今日、神の恵みに生きるため」

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※当日は、私たちが所属する日本同盟基督教団・新潟山形宣教区の講壇交換でした。
主任牧師に代わり、山形恵みキリスト教会の武藤正信牧師が、ご自身の牧会者人生の中で継続してきた「朝の祈り」を通して、証しを交えて説教してくださいました。

朝の祈り 2012年6月15日(改訂) 武藤
聖句
「神は、実に、そのひとり子イエス・キリストをお与えになったほどに、□□□を愛された。
 それは御子キリストを信じる□□□が、決して滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
 (ヨハネ3:16。一部編集。□□□は自分の名前を入れる。)

方向
↓↑  主よ。あなたの大いなるあわれみといつくしみを心から感謝いたします。
↑   主よ。しもべはきょうもあなたを愛します。
↑   主よ。しもべばきょうもあなたを喜びます。
↑   主よ。しもべはきょうもあなたにお従いします。
↓↑  主よ。あなたがいつもしもべとともにいてくださることを感謝いたします。
↑↓  主よ。どうかきょうしもべが、
    心の中に思うこと、ロから出すことば、からだで行うこと、
    すべてが主の喜ばれるものとなりますようお守りください。
↑↓  主よ。どうか、きょうしもべがすべてのことを主の名によってなすことができ、
    主の栄光を現すことができますよう導いてください。
↑↓→ 主よ。しもべがきょう接するすべての人に、
    愛を示し、益を与えることができますよう助けてください。
↑   主よ。しもべは今このからだと心をすべてあなたにささげます。
(↓↑↓ もしここで心に示される罪があれば、その罪を告白し、主の赦しを確認する)
↑   主よ。どうか今しもべをあなたの聖い御霊に満たしてください。
(間をおく。……満たしてください。主よ満たしください。御霊に満たしてください……)
↓↑  主よ。あなたが今しもべを聖い御霊に満たしてくださったことを感謝いたします。
↑   主イエス・キリストのお名まえによって祈ります。アーメン。

聖句
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、
 そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9:23)
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、
 キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、
 私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

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2012.9.16「老いを恐れず、老いを楽しむ」

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聖書箇所 テトスへの手紙2章1-5節
1 しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを話しなさい。2 老人たちには、自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように。3 同じように、年をとった婦人たちには、神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、悪口を言わず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。4 そうすれば、彼女たちは、若い婦人たちに向かって、夫を愛し、子どもを愛し、5 慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、自分の夫に従順であるようにと、さとすことができるのです。それは、神のことばがそしられるようなことのないためです。

 教会には全国各地のバイブルキャンプ場から案内が送られてきます。柏崎の聖ヶ丘キャンプなどが有名ですが、そこでは参加者が自然を楽しみながらみことばを聞き、楽しいプログラムを過ごします。小学生キャンプを皮切りに、中高生、大学、ファミリーキャンプといった案内を眺めながら、ある時ふと思いました。なぜここにシニアキャンプ、つまり高齢者向けキャンプがないんだろう、と。疑問が昂じて、キャンプ委員を担当する先生に、高齢者を対象にしたキャンプを提案したことがあります。するとこう言われました。キャンプを企画しても、お年寄りは外に出たがらないでしょう。
 しかし実際は逆じゃないかと思うのです。高齢者の行動力をバカにしてはなりません。以前、山形の教会へ行った帰り道、関川にある「道の駅」へ立ち寄りました。そこには近くにある温泉から引いている足湯があります。運転で疲れていたのでちょっとだけ、と思ったのですが、甘かった。平日なのに観光バスが何台も並び、何十人もの人々が足湯のスペースを取り囲んでいる。全員、お年寄りです。高齢者が外に出たがらないなんて、とんでもない。無言でぬるま湯に浸かっているお年寄りを見ながら、あの足湯スペースの真ん中で聖書のお話しができたらいいのになあと思わずにはいられませんでした。
 これは一つの例ですが、たしかに日本の教会は高齢者が主体的に参加できるプログラムが少なすぎると思います。そしてその原因は、私たちの考え方や態度にあります。「来てくださるだけで感謝。どうぞゆっくりすわっていてください。いやいや、祈っていただくだけで十分。何もしなくて結構です」。首都圏のある教会で、子供たちが教会学校に50人も集まっている教会があります。多くのキリスト教雑誌が取材し、その方法論を学べとかき立てました。一方で同じ町に歴史の古い教会があり、信徒が50人、昔ながらの礼拝を守り続けています。みんなお年寄りばかりで、70歳でも若手と呼ばれます。同じ50人が集まっているのに、どこも取材に来ないし、誰も学びに来ない。この扱いの違いは何でしょうか。またある教会では、頻繁に次世代伝道という言葉を口にします。まるで先の短い今の世代に伝道しても仕方がないと言っているように聞こえるのは気のせいでしょうか。
 もし高齢者が生き生きと参加できるプログラムが教会にあれば、その地域を福音へ巻き込んでいくことができるでしょう。そしてそれが、初代教会の姿であったことを聖書は教えています。旧約聖書のレビ記19章32節で、神はこう命じておられます。「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である」。老人を敬うことが、主を恐れることよりも先んじて語られているのです。初代教会は、そのユダヤ的伝統を捨てることなく、教会でも老人に敬意を払いました。今日の聖書箇所、新約聖書のテトスの手紙はクレテ島の教会に赴任するテトスにあてて書かれたものですが、そこでもテトスがみことばを教えるべきトップバッターとして、まず「老人たち」が挙げられています。1節、2節をもう一度お読みします。「しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを話しなさい。老人たちには、自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように」。
 おそらくテトスはまだ若い牧会者であったと想像されます。自分と年齢の近い青年たちを教えるほうが楽だったし、得意であったでしょう。しかしパウロは語りやすい世代よりも、まず老人を、そして年をとった婦人たちを健全に教えることを命じます。この世代が教会のリーダーだったからではありません。もしそうだったら、わざわざ「大酒のとりこにならず」などと念を押す必要はなかったでしょう。しかしだからこそ、彼らはまずみことばによって変えられなければならなかった。それは、神を恐れるように老人たちを尊敬せよというみことばが、異教社会であるクレテにおいても働くことを示すためでした。みことばがユダヤの家庭だけでなく、教会だけでなく、クレテの社会においても人々を変えていく神の力であることを示すこと、すなわち「神のことばがそしられない」ためでありました。


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2012.9.9「たかが一ミナ、されど一ミナ」

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聖書箇所 ルカ19:11-27
11 人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現れるように思っていたからである。12 それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。13 彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』14 しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません』と言った。15 さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。16 さて、最初の者が現れて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』17 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』18 二番目の者が来て言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。』19 主人はこの者にも言った。『あなたも五つの町を治めなさい。』20 もうひとりが来て言った。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。21 あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。』22 主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか。23 だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。』24 そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。』25 すると彼らは、『ご主人さま。その人は十ミナも持っています』と言った。26 彼は言った。『あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている物までも取り上げられるのです。27 ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。』」


 子どもの頃、こんな童話を読みました。うろおぼえなので、細かいところはご容赦ください。アメリカの田舎に、プリン作りの名人と言われる女性がいました。彼女には5人の娘たちがいて、今日はその末っ子の誕生日です。名人は、朝からお祝いのプリン作りに励んでいました。火をおこし、ゆっくり、じっくりプリンを焼き上げる。ちなみに電子レンジとかない時代の話です。プリンの秘訣は、最後にふりかける、ひとつまみの塩。
 しかしここで名人はふと考えた。せっかくの誕生祝い。この最後の作業は、ぜひ姉たちの誰かにやってもらおう。そこで台所の窓から、庭にいた長女に声をかけました。「ねえ、しばらくしたら、プリンにひとつまみの塩を入れてくれないかしら」「だめよ、お母さん。今自転車の修理で手が真っ黒なの」。すると今度は台所の前を次女が通りかかる。「ねえ、プリン・・・」「だめ、これから宿題をやるの」。理由は適当ですが、確かこんな感じで四人の姉みんなに断られるお話しでした。
 しょうがない、自分でやるか。それまで、お部屋の掃除でもしましょ。名人、台所を離れました。しかし4人のお姉さんたち、断った後でこれが妹の誕生祝いに出すものだと気がつきました。あの子のお祝いなのに、断っちゃった。後味悪いなあ。そこで考え直し、言われたとおり塩を一つまみ入れてあげることにしました。一度断った手前、お母さんにわからないように、誰もいないタイミングを見計らって、4人めいめい、こっそりと。
 そしてその晩、家族ひとり一人の前においしそうなプリンが並びました。おめでとう、と言ってみんな一斉にプリンを口に運ぶ。次の瞬間、あまりのまずさにみなが目を白黒させる。「さいあく〜」と言ったかどうかは覚えていませんが。でもお母さんの心は思わず温かくなりました。この塩辛いプリンは、全員が妹思いの娘たちに育った証しとなったからです。

 なぜこの話を思い出したかと言いますと、今日の聖書箇所に表れている主人の気持ちは、このお母さんの思いに繋がるものではないかと思ったからです。私たちはこの主人が、しもべたちを競わせているように感じるかもしれません。実際、三人目のしもべは、そんな恐ろしい主人と考えたからこそ、せっかく預けられた一ミナをふろしきに包んでいました。しかし決してそうではないのです。この「主人」、イエス様と読み替えてもいいと思います、イエス様が求めているのは、この一ミナを何倍にするかという結果ではないのです。それがたとえ10倍であろうと、5倍であろうと、数字は問題ではない。神は外側の数字ではなくて、内側の心を見られます。自分はこの一ミナを何倍にできるかわからない、でも主人のことばに従おう。だって私はご主人様の喜ぶ顔が見たいんだ。これが私たちと神さまとの関係です。神の子どもとされた喜びの中で従うのであって、奴隷のような恐れの中で従ってはいません。もし奴隷根性ならば、その選ぶ道はリスクのない道です。つまりほめられもしないが、怒られもしない。利益も出せないが、損失もない。一ミナをふろしきに包んだしもべは、まさにその典型でした。現状を維持すれば、それでよいだろう。しかし予想に反して、何も失っていないにもかかわらず、このしもべは叱責されました。なぜでしょうか。その現状維持は、主人を愛していないことの証明だったからです。主人を喜ばせようとしてではなく、主人の叱責を受けないために、一ミナをふろしきに包んだからです。

 私たちは、自分が10倍、5倍の実を結ぶことを願います。しかし今日の箇所を注意して読んでみましょう。10人のしもべがそれぞれ一ミナを預けられました。しかし結果が紹介されているのは、その中の3人だけです。想像力を働かせてみると、残りの七人の中には、商売に失敗してすっからかんになったやつもいたんじゃないか、と思うのです。しかしあえてイエス様はこのたとえ話の中では触れない。触れる必要がなかったのです。悪い例は一つだけで十分でした。失敗を恐れて、何もしないという道を選んだひとりのしもべ。それに対してよい例はふたつ。主人の喜ぶ顔が見たくて、失敗を恐れなかったしもべたち。残りの七人の中に、たとえもうけに失敗した人がいたとしても、彼らもまた「よいしもべ」としてほめられたふたりのほうに含まれています。私たちがよいしもべと呼ばれるのは、失敗をしないからではなく、主人を愛してその願いに従うときです。今日の聖書箇所には、この主人が王になることを望まず、後から使いをやった国民たちというのも出て来ます。これも含めて、聖書は私たちがどの道を選んで生きていくのかと呼びかけます。喜ばせるべき主人として愛していくのか。私をさばく恐ろしい方として逃げるのか。私の人生と生活には入り込んでほしくない、不都合な存在として拒み続けるのか。あなたはどの道を選びますか。願わくは、この方を愛し、その喜ぶ顔が見たいという生き方でありますように。奴隷として仕えるのでも、敵として拒絶するのでもない、私を子どものように愛し、しもべとして認めてくださる方が預けてくださった一ミナを握りしめて、立ち上がってほしいと願うのです。

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posted by 近 at 14:58 | Comment(0) | 2012年のメッセージ

2012.9.2「イエスを喰らう」

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聖書箇所 ヨハネ6:51-60
51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」52 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って互いに議論し合った。53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」59 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。60 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」


 先日、実家に帰省した折、父から数枚の写真を渡されました。今から20年以上前、敬和のフェスティバルで私が演劇に出演していたときのものです。(写真を見せる)
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 ほとんど心霊写真です。このとき、フェスティバルの演劇部門のチーフを任されたのはよかったのですが、まったく脚本が決まりませんでした。脚本ができないと、稽古と言っても、発声練習くらいしかすることがないのです。毎日屋上にのぼって、みんなで「あえいうえおあお〜」とか叫んでいました。そんな私を見て、敬和のある先生が「ひかりごけ」という戯曲を紹介してくださいました。

 しかしいざその戯曲を紐解いてみると、とんでもない内容でした。人肉、つまり人の肉を食べるという話だったからです。太平洋戦争末期、冬の北海道沖で軍用船が座礁します。船長以下、乗組員は何とか脱出するのですが、真冬の知床では、食べるものが何もない。洞窟に潜り込み、全員が日に日に衰弱していく中で、船長は決断します。生きのびるために、仲間の肉を喰らうしかない。この脚本のタイトルになっている「ひかりごけ」とは、人の肉を喰らった者は、首のまわりにぼんやりと浮かぶ青白い光を指します。この船長は、仲間の血をすすり、肉を喰らってでも生きのびなければならない、と仲間に言います。死んでいいのは、天皇のために命を捨てるときだけだ、と。
 そして船長の行動は暴走し、狂気へと向かっていきます。仲間の肉を食べることを拒絶して餓死寸前の仲間さえも、あと二、三日すればどうせ死ぬのだと吐き捨て、殺してしまうのです。乗組員は船長以外、みな死ぬか殺され、そして船長は救援隊に助け出されました。しかし彼がなしたことも明るみに出て、彼は裁判にかけられます。その時には彼も狂気から覚めており、仲間を喰らったことを悔いながら、死刑宣告も受け入れるのですが、最後に彼は驚きます。というのは、裁判所にいる判事、検事、弁護人、そして傍聴人に至るまで、首のまわりに青い光が浮かんでいたからです。この船長は生きるために確かに仲間を殺し、そしてその肉を喰らった。しかし戦争とは、その国のすべての者が、国のためと言いながらじつは仲間を殺し、その肉を喰らうことなのだという痛烈な批判をもって、この戯曲は終わっています。

 この脚本を初めてみんなで読み合わせしたときの衝撃は、いまだに覚えています。こんなのやりたくないと言った女子学生もおりました。そしてイエスの話を聞いていた弟子たちの衝撃はそれ以上だったでしょう。イエスは言われました。「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちにいのちはありません」。最後の60節を見ると、この言葉に多くの弟子たちが失望し、イエスのもとを去っていったとあります。それほどまでにひどい言葉でした。特にユダヤ人にとって、血に触ることさえも大きな罪として教えられていましたので、その血を飲むなどとは到底受け入れられないことでした。なぜイエスはここまで言われたのでしょうか。誤解を招く、というレベルを越えています。しかし語った。語らなければならなかった。なぜか。救いというのは、彼らが考えているほど生やさしいものではないのです。動物のいけにえをささげることで罪が赦される?善行を繰り返すことで罪が帳消しにされる?そんなことはあり得ない。私たちすべての人間が抱えている罪を取り除く方法はただ一つ。「人の子の肉を食べ、その血を飲む」。あらゆる人間が嫌悪感を抱かずにはいられない、そのような言葉を用いてイエスは私たちがそこまでしても救われなければならないのだということを示されました。

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posted by 近 at 13:44 | Comment(0) | 2012年のメッセージ

2012.8.26「ひとりのために」

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聖書箇所 マルコの福音書5:1-20
 1 こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。2 イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。3 この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである。5 それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。6 彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、7 大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」8 それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け」と言われたからである。9 それで、「おまえの名は何か」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。11 ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。12 彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」13 イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。14 豚を飼っていた者たちは逃げ出して、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々は何事が起こったのかと見にやって来た。15 そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。16 見ていた人たちが、悪霊につかれていた人に起こったことや、豚のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。17 すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。18 それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。19 しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」20 そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。

 小学生の頃、「エクソシスト」という映画をテレビで見たことがあります。ある少女が悪魔に取り憑かれてしまい、エクソシストと呼ばれる男性が呼ばれます。パジャマを着た少女が宙に浮かんで、首が人形のように360度ぐるぐる回る光景は、当時の小学生にはそれは恐ろしいものでした。その恐ろしい少女に、黒い服を着た男性が十字架を握りしめて近づいていきます。隣で見ていた父に聞きました。「お父さん、あの人は何?」「ああ、あれがエクソシストだよ」「エクソシストって何?」父はちょっと間を置いてこう答えました。「まあ、牧師とか神父のことだな」。たぶん父も、生の牧師や神父を見たことがなかったのだと思います。しかしおかげで、敬和に入るまでは、私は「牧師=悪魔祓い師」だと思い込んでいました。

 今日の聖書にも、汚れた霊につかれた人が登場します。しかしハリウッド映画のように、宙に浮かんだり、360度首が回転したりはしません。はるかに現実的な姿で、そして人間としての尊厳がそこなわれた姿で、彼は登場します。この人は墓場に住み着いていました。鎖の端をじゃらじゃらと地面に引きずりながら、昼も夜も墓場で叫び続け、さらに自分のからだも傷つけていました。この汚れた霊は、自らの名をレギオンと呼びます。レギオンとはローマ帝国の軍団用語で、6000人からなる大隊を意味します。その6000の内なる声がひとりの人の人格の中にひしめき合っていたのです。他人への怨み、憎しみ、責任転嫁、劣等感の数々が彼の中にこだまし続けます。お前はダメだ、お前はダメだ、破壊せよ、殺せ、そのような声が常に心の中に聞こえ続ける。そのような人はどうなるでしょうか。人格が崩壊し、精神が分裂を引き起こします。自分の体、心、ありとあらゆるものを否定し、憎み、破壊衝動に苛まされます。それが、今墓場から出て来たひとりの人の姿です。

 しかしそんなひとりの人の姿を見ても、私たちはこうつぶやくでしょう。なるほど、確かに悲惨な話だ。だが私に関係があるとは到底思えない。しかし今日の聖書箇所の中心はこの悪霊が私に関係あるかないかではありません。そのような悪霊でさえ、イエスが神の子であることを知っており、震えながらひれ伏したということです。それでも私たちは、自分には関係ないと言えるでしょうか。確かに一般人としての生活を送り、家庭でも社会でも自分の居場所を持っているように見える。しかし「無知」という一点では悪霊以下です。本当の自分の心を知らない。自分の心の中を見つめようとしない。おぞましさに蓋をして、何食わぬ顔をして生きている。しかし一皮むけば、私たちの心は妬み、悪意、憎しみ、虚栄に満ちている。そこから解放されることを願いもしない。聖書は罪の報酬は死であり、その死は永遠の死であると警告しています。この悪霊につかれた人が墓場から出て来たというのは、じつはこの人の人生が死からいのちへと移っていくはじまりであることを暗示しています。もし私たちが、聖書の言葉を今読みながらそれを心に受け入れることなくまた閉じてしまうならば、私たちは墓場から動こうとしないということです。

 キリストは何のためにこのゲラサ人の地にやってきたのでしょうか。この汚れた霊にとりつかれた、ひとりの人を解放するためです。私たちはなぜこの礼拝に集められているのでしょうか。自分の心の罪を見つめ、そこから救い出されるためです。世は、このお方が与えてくださる救いのすばらしさを知りません。罪の支配からキリストの支配へと移ることが、どれだけの平安と喜びをもたらすのか、知ろうともしません。人々を罪にとどめ続けている悪霊は、人々が考え出したストレス解消法やカウンセリングをあざ笑っています。そりゃ少しは効果があるかもしれないが、結局は俺の支配から逃れることはできないぜとたかをくくっています。しかしその悪霊たちが、イエス・キリストの前には青ざめ、身震いします。遠くから走り寄り、主を拝み倒すほどの卑屈さでキリストの前に懇願するのです。なぜでしょうか。彼らは知っているからです。キリストが彼らを滅ぼすことのできる唯一の方であることを。そしてキリストは言葉だけで、一瞬でそれがおできになる方であることを。ゲラサ人の地を支配していた悪霊は、恐怖にかられつつ、さばき主の名前を叫びました。「いと高き神の子、イエスさま」と。彼ら悪霊にとっては、イエスの名は自分を滅ぼす者です。だから彼らは恐怖しかおぼえません。しかしすべての人間にとって、イエスの名は自分を救う者です。あなたにとって、イエス・キリストをどのように受けとめるかは、あなたの人生のすべてよりも大切なことがらです。あらゆる問題からの解放が、ただこのイエス・キリストの御名にあるのです。

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posted by 近 at 07:58 | Comment(0) | 2012年のメッセージ

2012.8.19「言葉が言葉となるために」

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聖書箇所 ヨハネの福音書9:1-7
 1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

 中学生の頃、二年間ほど入院していましたが、こんな経験をしました。入院病棟の廊下で、可愛らしい子どもの声が聞こえました。おそらく家族の見舞いに来たのでしょう。声の調子から、ちょうど今の賛美さんくらいの年齢だったと思います。病院は回診も終わった午後過ぎで、見舞客も少なく、しんと静まり返っていました。その子の声が病室にまではっきりと聞こえました。そしてその子は無邪気に、お母さんにこう聞いていました。「こんなにたくさん、どうしてここに入っているの?何か悪いことでもしたの?」刑務所じゃないんだよ、と笑って済ませる程度のたわいない言葉です。しかし次の瞬間、遠くの病室から怒鳴り声が聞こえました。「何だと!もう一回言ってみろ!」続けてお母さんらしき声が短く「しっ!」と叫んでぱたぱたと走り去っていく足音が聞こえました。

 今日の聖書箇所を読み返すたびに、この時の経験を思い出します。「大人げない」と一言で済ますのは簡単です。しかし入院患者の中には、何気ない一言にここまで過剰に反応するほど不安に苛まされている人もいるのです。そしてあの日の幼子よりもはるかに残酷な言葉を弟子たちは口にしています。「先生、彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」。しかしこの生まれつき目の見えない人は、決して声を荒げません。まるで目の前で起きていることが何も聞こえないかのように、この人の姿は自分を出そうとしません。聞こえていないはずがないのです。目の見えない人が生きていくためには、ほかの感覚を研ぎ澄ませていくしかないからです。でも彼は弟子たちの言葉にまったく反応しない。息を殺すという表現がありますが、彼は息ではなく心を殺していたのです。外の世界で誰が何を言おうとも、決して反応しないほど、心そのものを殺していました。生まれたときから社会でじゃま者扱いされてきた人生。ただ道ばたで物乞いをするしかなかった人生。彼がその屈辱と絶望を抑えるためにどのように生きてきたか想像がつきます。生きるために耳をそばだてつつ、心はふさぐのです。自分の感情をすべて殺す。外の世界への関心もすべて殺す。そうすることで彼はようやく生きていたのです。

 目の前の病人の心を考えない弟子たちと、心を殺していた病人。そのただ中でイエスは言われました。3節、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」。ここでも私は、あの日の親子を思い出します。彼らは「しーっ」と人指し指を口に当てて、その場を逃げ去っていきました。しかしイエス様は逃げません。逃げる代わりに宣言します。「神のわざがこの人に現れるためです」と。私たちが逃げるのは、答えを持っていないからです。しかしイエス様は持っておられる。「すみません」「失礼しました」そのような謝罪の言葉で終わらせる方ではなく、現実を変えることのできる、人生の答えを持っておられます。
 しかし弟子たちのひどい言葉にさえ心を動かさないほど、心を殺している人にどんな言葉が届くでしょうか。だからイエス様の口から出て来たのは言葉ではなく、唾でした。なめらかな慰めの言葉ではなく、ねばねばした唾をイエス様は地面に落としました。何のために?土をこねるためです。泥を造り、それを彼のまぶたに塗ってあげるためです。イエスの言葉は、湖の嵐を静め、死人を生き返らせる力を持っています。しかし生まれつき目の見えない、この人はどんな言葉をも受け入れない。言葉の前に、その心を解き放つ必要がありました。

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posted by 近 at 18:47 | Comment(0) | 2012年のメッセージ