聖書箇所 ヨブ1:13-22
13 ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、14 使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、15 シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」16 この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」17 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」18 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。19 そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」
20 このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、21 そして言った。
「私は裸で母の胎から出て来た。
また、裸で私はかしこに帰ろう。
【主】は与え、【主】は取られる。
【主】の御名はほむべきかな。」
22 ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。
昨年、私の出身教会である山の下教会へ行ったときのことです。ある信徒の方が私にこんなクイズを出してきました。「山の下にはあるけれど、豊栄にはたぶんないもの」。答えは、教会のテーマソングだそうです。何でも山の下はジョインというクリスチャンアーチストにお願いして作ってもらったとのこと。その場はへえ、いいですねえと答えましたが、帰りの車の中で、むう、くやしい。うちもほしい。しかし私は肝心なことを忘れていました。テーマソングならすでにあるじゃないか、と。「ブルーリボンの祈り」。もはや楽譜なしで歌えるほど、教会員が歌い続けております。今月の連合婦人会でも五十嵐教会と合同で特別賛美します。また突然で恐縮ですが来週板倉邦雄先生の前でもぜひささげていただきたいと願っています。
勝手にテーマソングにしてしまいましたが、この「ブルーリボンの祈り」は、五十嵐教会の木南先生が、横田早紀江さんの本から作った歌です。今まで色々な所で歌わせていただく中、私自身はどちらかというと歌う方はみなさんにお任せしてもっぱら聞く側でしたが、この歌の中で、少し気になっていたところがありました。それは「苦しみのさなかに送られた聖書」から続く部分です。「ヨブは苦しみにあっても、決して神から離れなかった」。気になるのはこの言葉そのものではなく、「ヨブ」という言葉が歌を聴く人に伝わるだろうか、ということです。聖書を読んだことがない方々が、突然「ヨブ」という名前が歌に登場したときに、えっ、何それと思うんじゃないかと、今だから言えるのです。「今だから」というのは、最近早紀江さんの手記を読み返してみて、納得したのです。木南さんがあえて唐突と思われるような歌詞にしたのは、じつはそのとまどいそのものが、早紀江さんの感覚であった。つまりわかりやすい歌をではなく、早紀江さんの感覚、えっ、ヨブ?なにそれという戸惑いを、聞く人々はこの歌を通して追体験しているのだ、と。
理由がわからないまま、めぐみさんが失踪した中、早紀江さんはめぐみさんの親友のお母さんであった眞保さんというクリスチャンから、聖書を読む会に誘われました。そしてその会のメンバーである岡田さんという別のクリスチャンから、彼女は文語訳の聖書を渡されて、「ヨブ記」を読むようにと何度も言われたそうです。なぜヨブ記?そもそもヨブって何?その戸惑いの中で、それでも早紀江さんはヨブ記から読み始めます。それは彼女の中に何を生み出したのでしょうか。手記の中にこう書かれています。
今考えてもほんとうに不思議ですが、初めて、それも一人で聖書を読んだのに、すべてがピタッピタッと自分に当てはまるようで、みんなうなずきながら読めたのです。いい意味での大きなショックを受けた私は、事件以来初めて深呼吸ができ、久しぶりに空気がおいしいと感じました。ほんとうに苦しい毎日でしたから・・・・
(田早紀江「新版ブルーリボンの祈り」、いのちのことば社、140頁)
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