宿泊は少し離れたところにあるリゾートホテルですが(少し贅沢)、WI-FIがつながっていました。
今回の研修会のテーマは「ルター宗教改革500年」。久しぶりに、神学校時代のレポートを追加します。
例によって二十年近く前に書いたものなので、近年の研究動向からすると時代遅れに映るかもしれませんが、
こんなのよく一夜漬けで書き上げたものだと思います。ほめてません。
序.
マルティン・ルター
一方、彼の影響を受けた人物の中にトーマス・ミュンツァーがいる。一般的な理解においては、彼はドイツ農民戦争のイデオローグとして、また急進的な煽動者(デマゴーグ)として、決して肯定的な評価はされていない。しかしその四十年に満たない人生の中での、さらに短い神学者としての歩みにおいて、かなりの期間彼はルター派を自認し、また事実ルターの推薦によってある地方教会に司祭の代理として赴任したりしている(1)。しかも彼は「ルターに先んじて、カトリック教会で使用されていたラテン語のミサ式文を、受け入れがたい部分を削除して、ドイツ語に翻訳し、公刊するとともに、聖務日課をドイツ語で編集し公刊した。さらに彼はラテン語の著名な讃美歌をドイツ語に訳し、ルターに先んじて、会衆の歌を教会礼拝の構成要素とした(2)」とあるとおり、会衆が理解できる言葉を率先して用いることで彼らの礼拝への直接参加を誘導した。その意味において、ミュンツァーは少なくとも当初においては、神の言葉をすべての者に提供しようとした宗教改革者のひとりであったと言えよう。
しかしこのミュンツァーとルターは、当初は同じドイツ、とりわけザクセン地方を中心とする宗教改革者として共同歩調をとっていたにもかかわらず、最後には完全に決裂し、互いに憎みあった。聖書のみを繰り返すルターを「肥育豚君あるいは安逸暮らし君が幻を拒否するのは、不思議ではありません(3)」とミュンツァーが揶揄すれば、ルターが彼を「自分でかって出て、主人になり、他の人々を押えつけること以外のことはなんら考えない多くの分派(4)」の代表として非難する、といった具合に。
一般に、この二人がここまで反目しあったのはローマ(カトリック)への対抗策に対してずれが生じたためと言われている。ルターが政治的中立を保ちつつ、民衆的教会形成という穏健な方法でローマに抗しようとしたのに対し、ミュンツァーは皇帝諸侯といったこの世の政治権力を利用するか、あるいは「選ばれた者たち」自身が軍事力をもつことでローマと闘うべきであると主張したからである。
しかし、実のところ根はさらに深い。この両者が政治権力に対しそこまでの違いを見せたのは、彼らの聖書観の違いにあったはずである。なぜなら、両者ともその行動を支えていた規範は、彼らの信仰であり、そして宗教改革者の信仰は彼らの聖書解釈に由来するものでなければならないからだ。そこで今回のレポートでは、ルターにおいてはマタイ伝5章38から42節の説教、ミュンツァーにおいてはザクセン諸侯を聴衆として行ったダニエル2章の御前説教をテキストとして、両者の聖書解釈の違いについて比較してみたい。続きを読む