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緊張の説教論(15)「結語」

 「さらに、自戒も含みつつ、今日の説教者に対して批判せざるを得ないことがある。それは、なぜみことばを取り扱うことに対して緊張しないのか、ということである。もちろん緊張している者は多くいる。しかしそれはみことばを取り扱う緊張ではなく、大勢の前に出ているという緊張である」。
 一年以上前に書いたこの数行の言葉が、この論文のそもそもの出発点であった。今日、私たちは教会で、学校のチャペルで、宣教大会で、数え切れないほどの説教を聞いている。しかし軽快なジョークに笑わせられることは幾度となくあっても、彼は今この説教を神にささげているのだと思わずにいられないような、そのような緊張感溢れる説教に出会ったことはほとんどない。それは明らかに説教の衰退ではないか?人に嬌声は与えても、いのちを与えることのできない説教を神は喜ばれるのだろうか?
 そのような問題意識のもと、緊張の説教論という聞き慣れないものを筆者は取り扱ってきた。以上に挙げたような現状批判は決して筆者だけではない。だがそこに足りないものを緊張という言葉で説明しようとした者は遂に見いだせなかった。実際、緊張という言葉がこの問題を取り扱うに十分な言葉であったかというと甚だ心許ない。しかし聖書は聖霊によって緊張された、神の言葉である。これは筆者の揺るぎない確信である。続きを読む
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緊張の説教論(14)「4-3.“緊張された言葉”によるバルト的宣教限界の打破」

 バルトの聖書論及び説教論が、可謬的な人間の言葉が「神の言葉になる」という命題に尽きることは既に述べた。福音派陣営からは、シカゴ宣言が示すように、「神の言葉になる、ではなく、神の言葉である」という言語十全霊感によって、この命題に反論を示してきた。宇田進氏は「バルトのような聖書観に立つ時、ついには神そのものを、そして福音の真理そのものを確実に知るということが言えなくなるのではないか(53)」というヴァン・ティルによる批判を紹介しているが、まさに妥当な指摘と言えるであろう。
 バルト神学においては、人間の語る言葉が神の言葉になるという。それは礼拝の場において聖霊が与える奇跡である。説教者にとって、自分の語る言葉が神の言葉であるという現実は極めて「畏れ多い」ことである。そこには当然緊張が生まれる。有限なる者の語る言葉が無限なる神の言葉となる緊張、神の御前に語っているという緊張が当然生起する。
 しかしバルト神学において、決して語られない緊張がある。それは、聖書の事実性そのものから生起する緊張である。続きを読む
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緊張の説教論(13)「4-2.バルト説教論の問題点と第二スイス信条」

 「人間の言葉を通してなされる説教がどうして神の言葉になるのか」。説教論の焦眉となる命題は恐らくこれに尽きるだろう。しかし福音派においてこの命題が真剣に取り扱われてこなかったのはなぜだろうか。自明の理として片づけられてしまっているのだろうか。それとも宗教改革の時にその問題は既に決着を見たと考えているのか。あるいはバルト神学の二の轍を踏むまいという危惧がこの問題に対する神学作業を先送りにしてきたのだろうか。バルトの神学においてはこの命題が極めて重要な意味を持つ。バルトの初期の著作である『教会教義学』の中においてその思想は既に見られるが、むしろここでは彼の神学的熟成期の言葉に目を留めてみよう。畏友トゥルナイゼンとの共著である『神の言葉の神学』において、バルトは以下のように述べている。続きを読む
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緊張の説教論(12)「4-1.今日における説教論の研究動向」

第4章 「緊張の説教」と「神の言葉化の神学」

 前章で、「緊張の説教」の三一的定義を行った。従前の説教論が「聖書・説教者・聴衆」という三要素を重視するように、緊張の説教においてもそれらが本来指向する「何を・誰が・誰に」語るのかという枠組みを決して無視しない。しかし従前の説教論においては、説教者と聴衆を一種の対極状態に置き、両者の礼拝内位置を説教に対する「取り次ぎ」と「応答」という行為に特化してしまう。しかしそれは説教者の応答を軽視し、聴衆の説教参与を受動的なものに留まらせるという弊害をも内包している。それに対して、緊張の説教は、説教を総体として神による還元的行為として定義する。説教者も聴衆も神に言葉を与えられ、同時にそれを神に再びささげる。その応答は説教の中で既に自己完結的になされる。説教において、説教者も聴衆も神の器として説教をささげ、最後にアーメンをもってその応答を完結する。
 しかしここでこのような反論も考えられよう。いわゆる「緊張の説教論」なるものはかつてカール・バルトら「神の言葉の神学」が標榜したものとほとんど変わらないのではないか。神の啓示はただ一つイエス・キリストであり、聖書はそのキリストを証しする人間の証言集のようなものである。そのため誤謬も有り得るその聖書を通しての、さらに説教者という誤りのある人間の言葉が神の言葉になるのは、神の恵みである。しかるべき場所でこの聖書の言葉が人によって語られるとき、聖霊の関与によってそれは神の言葉となり、説教を通しての神人の実存的な出会いが生じるのである・・・・「神の言葉の神学」の主張をごく簡単にまとめるならば、以上のようなものになろう。しかし実際のところ、それは「神の言葉」を標榜しつつも「神の言葉化」を説くものでしかない。「神の言葉の神学」は「神の言葉化の神学」である。福音主義を標榜する者は、「神の言葉」である聖書に対する権威と信仰を明確に打ち出しつつ、真の意味で「神の言葉の説教は神の言葉である」(第二スイス信条)と告白する者でなければならない。続きを読む
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緊張の説教論(11)「3-3.説教はだれに語るのか〜説教者と会衆によって神にささげられる」

 一般に、説教論は説教者(語り手)と会衆(聞き手)の関係性の中で論じられる傾向にある。説教者は「聖霊の通りよき管として」用いられることを祈りつつ神の言葉を語り、会衆はそれに傾聴し、応答の賛美をし、献金をし、祈りをささげる。福音派の教会においてもそのようなスタイルで説教とそれに続く礼拝式次第は進められていく。しかし関川泰寛氏がルターの礼拝改革の目的を指して言っているように、「礼拝は、わたしたち人間のわざというより、神に招かれた者たちが、神に用いられて捧げる『神への奉仕』である(35)」。
 説教もまた、礼拝の中心である以上、それは神の行為であると同時に、神が私たちに許し給うた奉仕であるということができる。言い換えるならば、説教は神から人間に対する「上からの言葉」であると同時に、神に向けてささげられる「下からの奉仕」でもある。その意味において、今日の福音主義を標榜する教会においてさえ、説教の礼拝論的位置づけが曖昧であると言わざるを得ない。すなわち説教を神から私たちに与えられた言葉として一元的のみに捉えることによって、説教が神に捧げられるものであるという感覚が欠落してしまったのである。その結果は何であったか。会衆に対して、自分の主観や主義主張を神のことばとして押しつける説教者と、消極的な聞き手の立場に徹する会衆の姿である。
 しかしそれは歴史的に正しい姿ではない。フォーサイスはこのように語る。
 説教は、その何たるかを知るプロテスタンティズムでは、つねに礼拝に必須な部分とみなされてきた。それは、神より出でて神を告白し、神へと還る福音のみ言である。説教は実際には人間に語りかけられるが、本当は神に献げられる。これが説教の真の特質である。・・・(中略)・・・使徒たちは説教しないではいられなかった。説教は、使徒たちが、自分を捉えた恵みのみ言に対して感謝と賛美をもってする応答の本質的部分であった。(36)
説教は神に捧げられるものであると同時に、説教者にとっても応答の行為であった。説教を聴いた会衆だけが応答するのではない。説教者もまた語りながら応答しているのである。続きを読む
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緊張の説教論(10)「3-2.説教は誰が語るのか〜聖書の緊張は説教者と会衆を巻き込む」

 前章において、説教史における「緊張の説教」が決して特殊な例でないことを確認した。緊張の説教は預言者や使徒たちの説教に発し宗教改革において再顧され、現代へと続く。その歴史が意味するところはこうである。数千年間、神の民が醸成してきた神学的理解に立ち、神の御前においてそれを真剣に宣明する説教を行うとき、説教者も聴衆もその根底にある聖書の主張そのものが生起する緊張から目をそむけることができない。緊張を生み出すのは生ける神の生けるみことばであるが、その緊張は説教者と聴衆に自発的緊張状態をもたらす。加藤氏は、海老名弾正・小崎弘道と並ぶ、熊本バンドの中心人物であった宮川経輝が説教を常に真剣勝負と公言していたことに言及しつつ、以下のように述べている。
 真剣勝負という表現に含まれているのは、緊張であり、集中である。緊張とは言うまでもなく、硬くなることではなく、関係が張り詰めることである。しかもそれは<ゆるみ>と<張り>の共在が造る力動的な関係である。この場合には、まず説教者と聞き手との間の緊張関係であり、さらに根元的には聖書の言葉との緊張関係であり、神の前にある緊張感である。神が語られるのを聴くところに生まれる緊張である。(29)
筆者がかつて説教演習の際に「間がない」と批判され、「落語じゃあるまいし」と心の中でつぶやいた経験を先に述べた。しかし「<ゆるみ>と<張り>」とはまさに落語の名人芸に通じるもののようにも思われる。名人が数分の演題に気の遠くなるような修練を重ねるように、説教者もまた神の言葉を語る際に修練を欠かしてはならないということだろうか。だが加藤氏は別のところでこうも述べている。「ただしこれは、説教者の単なる雄弁家としての技巧が生み出せるようなものではないであろう。神のみまえにおける畏敬と信頼のこころ、自分を生かす恵みに対する信頼から生まれる自由のこころが生み出すものである。神の子たちの祭典である礼拝にふさわしい緊張なのである(30)」。続きを読む
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緊張の説教論(9)「3-1.説教は何を語るのか〜緊張の説教は「緊張の神学」から生まれる」

第三章 緊張の説教論とは何か

 ドイツ教会闘争下、ヒトラーに抗した告白教会の代表的説教者であるハンス・ヨアヒム・イーヴァントは、説教者の責任について次のように述べている。
 啓示の職務、神の言葉の職務によって我々に委ねられた責任は、まことに恐るべきものである。務めを果たすたびに、この宣教のわざをなすたびに、自分が今伝えているこの神の言葉は、いのちを与える言葉として伝えられているのか、それとも、人を殺す言葉としてであるかとの問いのもとに、常に立たせられるからである。死せる教会とは、殺された教会に他ならない。教会を殺す者は、説教壇に立っている。しかもそれを知らないのだ。(23)
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緊張の説教論(8)「2-3.近現代における説教の緊張意識と権威の喪失」

 宗教改革が生み出したカトリックとプロテスタントの対立は、その後三十年戦争という悲劇的結末を迎える。その厄禍はあまりにも大きかった。そしてルターやカルヴァンが再発見した、神の言葉のダイナミズムは彼らの直系の子孫よりはピューリタニズムや敬虔主義に受け継がれたかに見える。特に説教における緊張意識という言葉は、ジョナサン・エドワーズを中心とするアメリカにおける大覚醒における説教を連想させやすい。彼の説教『怒れる神の御手の中にある罪人』の次のようなくだりはあまりにも有名である。
 邪悪さの故に、あなた方はさながら鉛のように重く、非常な重さと重圧のせいでまっしぐらに黄泉路を下るのです。もし神が御手を放せばたちまち落下し、底なしの深淵に急降下し没してしまうでしょう。すると、あなた方の健康な身体、気苦労、思慮分別、最上の計画、正しい振舞いの一切は、蜘蛛の巣が落下する石を止められないように、あなた方を支えて地獄に堕ちないようにする力を失ってしまいます。仮に神の至高の御心が存在しなければ、この大地はあなた方を一瞬も支えないでありましょう。(17)
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緊張の説教論(7)「2-2.古代から宗教改革期にかけての説教者の緊張意識」

 この緊張意識は、その後の古代教会においては説教だけではなく信仰告白の整備といったかたちでも継承されていった。そこにはユダヤ主義やグノーシス主義といった思想的対決、また皇帝教皇主義などとの政治的対決といった外的要因が大きく関わっている。しかし中世に入り、徐々に説教はかつての律法主義的解釈のごとく訓話的なものとなっていき、そこに含まれていた緊張意識は希薄化する。聖書の代わりに公教要理が用いられ、教訓的ではあるが聖書的とは言えない説教が幅を利かせるようになっていく。泉田氏の言を借りるならば「説教はついに礼拝儀式の片隅においやられてしまった(14)」のである。続きを読む
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緊張の説教論(6)「2-1.聖書にみる、説教者の緊張意識」

第二章 「緊張の説教」の歴史的文脈

 後藤光三は『説教論』の中で、「三千人の悔い改めという、キリスト教会最初の出発を飾る奇跡的な勝利は、実に聖霊降臨の結果として行なわれた大伝道の際の、ペテロ初め11人の使徒たちの説教によるものであった(10)」と述べている。教会の進展の陰には常に説教があった。ペンテコステ然り、宗教改革然り、大覚醒然りである。しかし説教は決して教会と共に生まれたわけではない。後藤の言うとおりペンテコステがキリスト教会の出発だとしたら、説教は明らかにそれ以前にあった。説教の起源は捕囚後のシナゴーグ礼拝に留まるものではなく、旧約の預言者たちのメッセージへと遡及できるものである。
 旧約の預言者たちは、王から貴族階級、祭司、民に至るまであらゆる社会階層に警告と悔い改めを説き続けたが、それは決して社会的・宗教的不正の糾弾だけではない。新約聖書の記者たちが証言しているところによれば、それは究極的にはイエス・キリストを啓示する性格を有していたのであり、例として使徒ペテロを通して次のように言われている。
 この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。(第一ペテロ1章10,11節)
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posted by 近 at 08:52 | Comment(0) | 説教論