「さらに、自戒も含みつつ、今日の説教者に対して批判せざるを得ないことがある。それは、なぜみことばを取り扱うことに対して緊張しないのか、ということである。もちろん緊張している者は多くいる。しかしそれはみことばを取り扱う緊張ではなく、大勢の前に出ているという緊張である」。一年以上前に書いたこの数行の言葉が、この論文のそもそもの出発点であった。今日、私たちは教会で、学校のチャペルで、宣教大会で、数え切れないほどの説教を聞いている。しかし軽快なジョークに笑わせられることは幾度となくあっても、彼は今この説教を神にささげているのだと思わずにいられないような、そのような緊張感溢れる説教に出会ったことはほとんどない。それは明らかに説教の衰退ではないか?人に嬌声は与えても、いのちを与えることのできない説教を神は喜ばれるのだろうか?
そのような問題意識のもと、緊張の説教論という聞き慣れないものを筆者は取り扱ってきた。以上に挙げたような現状批判は決して筆者だけではない。だがそこに足りないものを緊張という言葉で説明しようとした者は遂に見いだせなかった。実際、緊張という言葉がこの問題を取り扱うに十分な言葉であったかというと甚だ心許ない。しかし聖書は聖霊によって緊張された、神の言葉である。これは筆者の揺るぎない確信である。続きを読む