講壇と牧会は、切りはなしえない関係にある。その場合、常に講壇が先行し、牧会がそれにしたがわなければならない。牧会も、教会内のさまざまな活動も、団体のあり方も、すべて講壇への応答でなければならない。説教において、神の御旨が示され、その御旨への応答として、教会の活動があり、教会員の生活があるので、説教は常に教会生活の中心でなければならない。牧師が説教の無力を、牧会的手腕で補おうとしたり、教会が御言の宣教を怠りながら、いわゆる交わりと称するさまざまな社会的な会合や、社会事業的な手段方法で補おうとするならば、それはもはや御言による教会とは言えなくなる。それはむしろ、世俗的な団体の一つであると言わなければならない。あるいは、それが、数においては成功を見ることがあるとしても、それはあくまで、キリストの身体なる教会とは言いえないのである。(8)続きを読む
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(04/20)重要なお知らせ
(09/24)2023.9.24主日礼拝のライブ中継
(09/23)2023.9.17「家族を顧みない信仰者」(創世19:1-8,30-38)
(09/15)2023.9.10「安息日は喜びの日」(マルコ2:23-3:6)
(09/08)2023.9.3「私たちはキリストの花嫁」(マルコ2:18-22)
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緊張の説教論(5)「1-3.説教と牧会の統体性を確認する」
今日、説教の無力さを覆い隠すかのように様々な「牧会的」試みや言葉が溢れかえっている。弟子訓練やセルグループ、生活適用誘導型デボーションテキスト、アダルトチルドレンなどの心療カウンセリング、「健康な教会」、「教会が成長するための原則」など、さながら学習塾の広告のごとく、これをやれば教会は伸びると訴えている。筆者はそれらすべてが無駄な試みだとは言わない。その中には聖書からというよりは、企業的効率主義の残滓としか思えないようなものも交じっているとはいえ、多くは人々の魂をつかむために有益なものであろう。しかしもしそれらが、説教が人々の心に届かないために、そのギャップを補完する目的によってなされているとしたら、これほど危険なことはない。今日の危機的状況を見据えるかのように、後藤光三は既に40年前、このように語っていた。
posted by 近 at 08:21
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緊張の説教論(4)「1-2.見える慰めではなく見えない恐れを」
ドイツの神学者H.J.クラウスは「おそれとおののきの中で生きることが恵みの最高のしるしである」というルターの言葉をひきながら、今日の「説教者は、生ける神の前でおそれとおののきの代わりに、安心感と不遜のとりことなっており、ひとたび少しでも突風が吹きつけると、彼はもう一方の奈落である絶望へと吹き飛ばされてしまう(6)」と告発する。私たちはこのようなクラウスの指摘を聞くとき、それがドイツの教会だけではなく日本の福音主義教会にも広がっている現実を見る。「この聖書の言葉を語る者が、緊張せずにはいられようか」という、ごく単純な反語的問いは今や講壇からも会衆席からもほとんど忘れ去られてしまっている。現実への慰めと安心を求めるあまり、説教者も会衆も忘れてしまっているのだ。今私たちは己を顧みてこう問わなければならない。安心を説くことが会衆を慰めることであると短絡的に考え、文脈を逸脱した慰めを語っているということはないか、と。続きを読む
posted by 近 at 16:18
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緊張の説教論(3)「1-1.いのちを与える説教めざして」
第一章 今なぜ「緊張の説教論」か 今日の説教壇を取り巻く状況についての一考察
第一節 「いのち」を与える説教めざして
第一節 「いのち」を与える説教めざして
宗教は今日、人間の幸福のための単なる一手段とか、社会的な一有用物といったところまで、かつてなかったほどに落ち込んでしまった。・・・・(中略)・・・・宗教の領域全体に霊的情熱も霊的深みも欠けている。キリスト教が人間的な文明の言葉を語り、キリストの言葉を語っていない。(1)これは決して21世紀の言葉ではない。今からほぼ百年前、P.T.フォーサイスによって語られた言葉である。不名誉なことではあるが、まるで時代の隔たりを感じさせない指摘と言えるだろう。この一世紀の間、教会は霊的情熱と霊的深みを回復できただろうか。説教はキリストの言葉を語ってこれただろうか。フォーサイスよりさらに半世紀前、ルターを生み出した国の、ある牧師の息子はこう叫んだ。「神は死んだ。否、人間が神を殺したのだ」と。しかし今日、多くの教会の会衆席では、さらに辛辣な囁きが聞こえている。「神の言葉は死んでいる。否、説教者が神の言葉を殺しているのだ」。いまや神の言葉の説教は使い古された例話、現実味のない「愛」や「恵み」の連発で彩られている。そのような説教に会衆は何が期待できるのだろうか。彼らはもはや説教に何も期待していない。説教が語り始められた時、彼らが期待することは一つ、それが一刻も早く語り終えられることである。これらはあまりにも悲観的な指摘に思えるかもしれない。しかし断じて筆者は遠い国の知らない教会の話をしているのではない。日本の教会、その中でも福音派を標榜している、私たちの教会の実状について自戒として記しているのである。続きを読む
posted by 近 at 09:25
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緊張の説教論(2)「序」
神学校の卒業論文(2002年)。十年以上経過していますが、加筆修正はせずに原文のまま掲載します。
序.
神学校三年間の思い出深い授業の一つに説教演習がある。同じ主題や聖書箇所からの説教なのにかくもこれほどと思われるほど各人の個性が現れる。説教の奥深さに感慨深いものを感じた。その場で筆者はよく「間ガナイ」「聞イテテ疲レル」という評価を受けた。批評は謙虚に受け止めざるを得ないが、しかし釈然としないものを常に感じていたことも事実である。(落語を聞いているわけではないのに「間」とはどういうことだ。ましてや神の言葉が他ならぬ自分に対して語られているのだから疲れないはずはなかろう)こんな反論を、カインのごとく顔を伏せながら心の中でつぶやいていたものである。続きを読む
序.
神学校三年間の思い出深い授業の一つに説教演習がある。同じ主題や聖書箇所からの説教なのにかくもこれほどと思われるほど各人の個性が現れる。説教の奥深さに感慨深いものを感じた。その場で筆者はよく「間ガナイ」「聞イテテ疲レル」という評価を受けた。批評は謙虚に受け止めざるを得ないが、しかし釈然としないものを常に感じていたことも事実である。(落語を聞いているわけではないのに「間」とはどういうことだ。ましてや神の言葉が他ならぬ自分に対して語られているのだから疲れないはずはなかろう)こんな反論を、カインのごとく顔を伏せながら心の中でつぶやいていたものである。続きを読む
posted by 近 at 09:08
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緊張の説教論(1)「主要参考資料」
神学校の卒業論文(2002年)として提出した「緊張の説教論」です。
あえて一切の加筆修正をしないことに決めました。
まず参考資料(コメント入り)から挙げます。英書は入れておりませんので、ご了解ください。
今では入手できないものもありますが、参考にしていただけたら幸いです。続きを読む
あえて一切の加筆修正をしないことに決めました。
まず参考資料(コメント入り)から挙げます。英書は入れておりませんので、ご了解ください。
今では入手できないものもありますが、参考にしていただけたら幸いです。続きを読む
posted by 近 at 11:55
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