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2018.12.30「乏しいことだらけのあなたへ」(詩23:1-6)

 あけましておめでとうございます。いつか獅子舞のように激しい説教がしたい、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
 さて、牧師によって礼拝説教の長さは違いますが、だいたい20分が理想的、平均は30分と勝手に分析しています。
私の場合、この20〜30分に収めるために、自分の話すスピードに応じて、原稿を3000字前後で作っています。
原稿段階でこの字数を大幅に越えた場合には、何度も推敲して、泣く泣く削り取るということもしています。あたりまえですが。
これだと、計算上は説教が30分を越えることはありません。
 しかし、実際には40分になることはざら、酷いときには50分になってしまうこともあります。
なぜでしょうか。おわかりですね。原稿にない、余計なアドリブを加えてしまうからですね。今回もやっちまいました。
「ある大手寿司チェーンではネタの皿が30分回ったら自動廃棄」(02:40頃)
このくだりは、まったく原稿になかったものでしたが、説教の流れの中で頭に浮かんだのでつい使ってしまいました。
ところが、なんということでしょう。実際は「30分」ではなく「350m」でした。3しか合ってないわ。スシ○○さんごめんなさい。
 ちなみに350mを時間に換算すると、実際に測ったわけではありませんが、秒速5cmとすれば約2時間というところでしょうか。
もし350m=30分として計算したら、秒速20cmになってしまいます。それはそれでゲームセンターみたいで楽しそうですが。
 今年は、なるべく不確かなアドリブを加えないように気をつけます。
しかしこういう失言が楽しみだという人もおりますので、困ったものです。週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』23篇1-6節 


1.
 先日、妻から、ある全国チェーンの回転寿司に連れて行ってもらいました。
いや、実際、車で連れて行ったのは私のほうなんですが、経済的には妻に連れて行ってもらったというか・・・。
ちょっと前までは、回転寿司というのは、まさにグルグル回っているレーンの上を、寿司を載せお皿が動いていくというスタイルでした。
お気に入りのネタが自分の前を通り過ぎるときにぱっと取るのですね。
遠くから狙っていたトロの皿が直前で隣の客にとられてしまうこともあり、なかなか緊張感が抜けない戦いでもありました。
まあ、真ん中に職人さんが何人かいるので、トロお願いというとすぐに出してもらえるのですが、気が弱い人はなかなか声がかけづらいのです。
しかし今は、タブレットがそれぞれの座席に置いてあって、タッチパネルで選ぶのです。
すると、リニアモーターカー顔負けのスピードで、寿司を載せたお皿がシュッと目の前にやってきます。
一皿百円なんて当たり前、ラーメンは出るわ、鰻丼は出るわ、デミグラスハンバーグ、フライドポテト、フルーツパフェ、・・・
豊栄に一軒だけある某ファミレスチェーン店より豊富なメニューが並んでいます。
 こんな豊かなニッポンの平成最後の主日礼拝、「わたしは乏しいことがありません」、現実味のないことばに聞こえます。
しかしもし私たちがダビデのように詩篇を作るとしたら、一行目の後半にはこういう言葉を使うでしょう。「私は乏しいことだらけです」。
確かに食べ物は、捨てるほど有り余っています。
ファミレスが一軒もないような町でも、インターネット回線とクレジットカードがあれば、翌日にはどんなものでも届けてもらえます。
しかしどんなにモノに囲まれていても、これで十分だ、ということがありません。
自動車保険、火災保険、地震保険、生命保険、がん保険、ありとあらゆる保険に加入しても、まだ安心できません。
たましいが生き返るどころか、朝起きての第一声が、「ああ疲れた」という人もいます。
不安で眠れぬ夜に欠かすことのできないウイスキーは、杯からあふれています。
いや、私はクリスチャンですから、そんなことはないですよ、と、もちろんあなたは言うでしょう。その根拠は何でしょうか。
言うまでもなく、「主は私の羊飼い」。だから、乏しいことがないのです。自分自身を羊のようなものと認めるとき、乏しいことがないのです。
私たちは羊です。そして永遠の大牧者イエス・キリストが私たちを導いてくださると信じているから、いつまでも平安の中に生きることができます。

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posted by 近 at 16:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.12.23「とびっきりのよい知らせ」(ルカ2:1-20)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回の説教の中で、原稿にはなかった、童謡「おおブレネリ」をアドリブで紹介しています。(05:00頃)
おおブレネリ あなたの仕事は何」「わたしの仕事は羊飼いよ おおかみ出るのでこわいのよ
得意げに「これがまさに古今東西、羊飼いのイメージです」みたいなことを言っていますが、
あとで調べたら、この歌詞は原曲にはなく、訳詞者(元大阪YMCA主事・松田稔氏)の創作らしいです。
とはいえ、YMCAといえばキリスト教に関係も深く、松田氏も聖書の羊飼いのイメージを織り込んだのかもしれません。
それにしても「わたしのおうちはスイッツランド(=スイス)よ」という台詞には「範囲広すぎだろ!」とクラスのみんなでツッコんだものです。
「わたしのお国は」ならわかりますが。自宅を特定されたくなかったのでしょうか。とりあえずスケールのでかさは幼心にも伝わりました。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』2章1-20節 


1.
 マイナビという、就職情報を提供している会社が、新社会人300人を対象にこんなアンケートをとりました。
「会社から内定の通知をもらったときに、その喜びを一番最初にだれに伝えましたか?」
あえて下の方から紹介すると、3位が友だち、全体の10%。2位が恋人、11.4%。
1位は、おわかりですね。そう、親です。300人中200人の、65.5%。意外性も何もない、回答でした。

 子どもは、人生の中でそう何度もないであろう、とっておきの嬉しいことを、まず親に伝えたいと願います。
そして神さまは、気の遠くなるような時のあいだ、ずっと伝えたかったとっておきの良い知らせ、救い主があなたがたのために生まれた、
これを親ならぬ、羊飼いたちに真っ先に伝えました。
羊飼いは、当時のユダヤでもっとも貧しく、見下されていた者たちでした。彼らは羊の所有者ではなく、羊を預けられていた人たちです。
じつは彼らのいのちは羊よりも軽いものでした。もし羊が狼に襲われそうになったら、自分の身を差し出してでも守れ。
当時の慣習では、預けられた羊を狼に食べられたしまった羊飼いは、羊の耳たぶを取り返すことで、罰から免れたと言います。
そのとき、ベツレヘムの町は、住民登録のためにやってきた人々でごった返していました。
しかし神は、その普通の人々にではなく、この軽んじられていた羊飼いたちに「すばらしい喜び」を最初に伝えました。
なぜでしょうか。御使い自身がこう言っています。「この民全体のためのすばらしい知らせ」と。羊飼いこそ、「この民全体」の代表者でした。

 私たちは、この羊飼いたちこそが「民全体の代表」として、神様に見られていたのだということをまずおぼえたいと思います。
羊飼いたちは、決してこぎれいな人々ではありません。生活に余裕のある人々ではありません。
むしろ人々がなんとなく避けたいと思うような人たち。羊一匹のためにいのちを張らなければ自分が食べていけない人たち。
でも、それが神の目には民全体を表している人たちです。彼ら羊飼いの姿、それがあらゆる人間の共通の姿として、神の目には映っています。



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posted by 近 at 22:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.12.16「私たちは買い戻された花嫁」(ルツ4:1-22)

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今日の説教原稿の中では「ひとつひとつ見ていく余裕はない」と言っている、
イスラエル人(旧約聖書)にとっての「相続地の大切さ」ですが、実際の説教の中では、いくつか例を挙げています。
・エフタの娘は、自分がいけにえにされることよりも、相続地を継承できないことのほうを悲しんだ(士師11章)
・ナボテは、アハブ王に反抗すれば危険にさらされることを知りつつも、相続地の売却はあり得ないと言った(T列王21章)
他にも多くの事例がありますが、地上の相続地に対してこれほど彼らが執着したのであれば、天上の相続地に対して私たちはどうなのか、
それが今回の説教のテーマの一つです。まさに「神の国とその義を求めよ」ということばに尽きるかと思います。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルツ記』4章1-22節 


1.
 星野富弘さんの詩に、「いのちよりたいせつなもの」というものがあります。
「いのちが一番大切だと思っていたころ 生きるのが辛かった いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」
じつは旧約聖書、つまりイスラエル人のなかにも、私たち日本人にはわからない、「いのちよりたいせつなもの」があります。
それは「土地」なのです。もう少し正確に言うと、「相続地」です。
自分の土地は先祖伝来のもの、そして先祖が神から授けられ、永遠に保証してくださったものなのだ、という信念、
まさにイスラエル人にとって、「いのちよりたいせつなもの」、それが土地であり、国土なのです。
約2000年間、世界に散らばっていたユダヤ人が、現在の場所に再びイスラエル国家を建国したのが今から70年前の1948年のことでした。
自分たちが神から与えられたと信じる土地を取り戻すのを、彼らは2000年間ひたすら待ち続けたのです。
それが現在の中東問題を生み出した原因でもありますが、その忍耐力というか、バイタリティは、驚嘆に値するでしょう。
旧約聖書のあらゆるところに、相続地がいのちよりも大切なものだという教えが残っていますが、ひとつひとつ見ていく余裕はありません。
しかしひとつだけ触れるならば、旧約聖書には次のような、神からの命令があります。
イスラエル人のうちに、もし土地を継がせることのできる子どもがいない者がいたならば、彼の土地はその者の兄弟に継がせよ、
もし兄弟もいなければ、その者の父親の兄弟に継がせよ、そしてその者の名前を土地と共に必ず引き継がなければならない、と。
これが、イスラエルの中で守られなければならない掟であり、この『ルツ記』のクライマックスに出てくる、親戚たちによる買い戻しの場面です。
『ルツ記』は、単にルツの再婚物語ではありません。またナオミが孫を得て幸せな老後を送るという、それだけの物語でもありません。
かつて土地を見捨てた者たちが、再び土地を取り戻す、それを通して永遠の祝福を与えられる、という物語なのです。

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posted by 近 at 11:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.12.9「イエスの懐に飛び込むならば」(ルツ3:1-18)

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今年トヨサカのクリスマス諸集会は、こんな感じで行います。お近くの方はぜひおいでください。

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週報はこちらです。

聖書箇所 『ルツ記』3章1-18節 


1.
 昨日の新発田朝祷会にて、引退された、ある婦人牧師が、次のような証しをしてくださいました。
数か月前に、本屋さんに行ったときのこと、店内で、何か落ち着かない様子の、同年配の方を見かけたそうです。
最初、通り過ぎようとしましたが、そこで内なる声を感じ、声をかけてみました。すると探している本が見つからない、とのこと。
店員さんに聞けば話は早いのですが、この方のためにあなたにできることをしなさい、という内なる声を今一度感じて、その本を探してあげました。
本が見つかった後、その方がこのように言われたそうです。
「わざわざ本を探してくださるような方に出会えたのも偶然とは思えません。どうか私の悩みを聞いてくださらないでしょうか」。
それから別の店で長い時間、ご家族やご自分の健康についての悩みとかに耳を傾けて、そこからその方にちょくちょく付き合うことになりました。
 その後、忙しくて連絡があまり取れなくなった日のこと、その方にすぐに連絡を取るようにという内なる声を聞いたような気がしました。
そこでご自宅に電話すると、娘さんが出て、「母はつい先日亡くなりました」と言われたそうです。
突然の死だったため、娘さんも混乱していて納骨もまだ済んでいない、というので、急いでご自宅へ駆けつけて、娘さんとお話をしました。
「先生のことは母からよく聞かされていました。私もひとりで苦しいので、これからも家に来ていただいて、お話を聞いてください」
そして今はその娘さんとの繋がりが生まれているとのことでした。
私と一緒に出席した方々からは、神様がふさわしい時と場所を用いて導いてくださった、という感想が出ました。私も同感です。
 ただ、今のような証しはクリスチャンにとって、必ずしも特別な経験ではありません。
神はすべてのクリスチャンを、自分のために生きる者ではなく、他の人のために生きる者となるように、自ら召してくださったからです。
召しというのは私たちが召されたいと思って召されるのではなくて、100%神様の主導権の中で起こる事柄です。
すべてのことに偶然はなく、背後に神のご計画があって、その中で私たちクリスチャンは神のお働きのために用いられます。
ある人は、公に知られる働きに用いられるでしょう。また別の人は、隠れた働きに用いられることがあるでしょう。
しかしどちらも、神様にとっては同じ働きであることは間違いありません。
どのような出来事も、それを用意されたのは神様ご自身です。
そして私たちはその中でさらに神様にふさわしい器として整えられていきます。そのことを信じて歩んでいきたいと思います。

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posted by 近 at 20:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.12.2「御翼(みつばさ)の下からもう一度」(ルツ2:1-23)

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。来週の土曜日、教会で子どもクリスマス会を行います。
まあ出席者の半分はおとな(教会関係者)ですけどね。
夏休みのアイスクリームパーティからもう半年近くが経ったなんて・・・・。時間が過ぎるのが早すぎて困ります
前回は地元のふたつの小学校の前で配りましたが、今回は折込チラシで配ります。
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来週は大人のクリスマス集会のチラシをアップする予定です。お楽しみに。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルツ記』2章1-23節 


1.
 今週の週報の表紙には、フランスの画家、ミレーの名作として知られる、「落ち穂拾い」を印刷しておきました。
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旧約聖書の教えの中に、外国人、みなしご、やもめなどのために、収穫の際に取りこぼした麦の穂を残しておくというのがあります。
私はミレーがこの聖書の教えをもとに想像して描いたのがこの絵だと思っていましたが、どうも人物の服装が聖書の時代とは合っていません。
ミレーは、この絵について聞かれたとき、「私は見たままを描いただけだ」と答えています。
19世紀初めのフランスでは、実際に旧約聖書の教えに従って、貧しい未亡人などのために落ち穂が残されていたのだそうです。

 とはいえ、見るからに腰が痛くなりそうな絵です。
いくらフランスの社会が、キリスト教の国にふさわしく、貧しい人々に配慮していたと言っても、これは決して楽な作業ではなかったでしょう。
ルツは、ナオミのために、その決して楽ではない、落ち穂拾いという行動を始めていきました。
モアブ人であり、貧しいやもめである彼女にとって、何も頼りにできるものはありません。しかし何はなくてもルツは行動を始めました。
彼女の心にあるのは、イスラエルの神は、たとえ私が生粋のイスラエル人ではなくても、信じる者を拒むことはないという信仰でした。

 そして彼女は、その信仰のとおりのことを経験したのです。
神はボアズという人をルツのすぐそばに与えてくださり、そしてあらゆる配慮と優しい言葉を尽くして、彼女を守ってくださいました。
これはまさに神が私たちをイエス・キリストによって愛してくださった、ひな型と呼べます。
私たちは何をしたから救われたのでしょうか。何か誇るべきものを持っていたから救われることができたのでしょうか。
まったく何もありません。ただ恵みです。その恵みにとどまるならば、決して欠乏の中でも不安を感じることはないのです。
このボアズとルツは後に結ばれ、そしてその子孫からイエス・キリストが生まれます。
ルツがひたすら神に頼り切ったように、私たちもこのイエス様に信頼するならば、暗やみの人生に光が生まれます。
アドベントの期間、この神の恵みをひたすらかみしめるものとして歩んでいきましょう。

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posted by 近 at 23:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.11.25「救いは完全」(第一ヨハネ2:1-6)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
まいど更新が遅くなり申し訳ありません。
以前は当日時間を見つけて更新していたのですが、とうとう土曜更新が常態化してしまいました。
一応、説教原稿はこの時点(夜9時)で終わっていますが、これからクリスマスチラシのデザインにとりかかります。
golgo.jpgコピーライトマークさいとうたかを・さいとうプロ・リイド社
ふう。・・・・・・・・・・・・・・・師走ですね。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの手紙 第一』2章1-6節 
 ▼今回、講壇からリモコンが取り去られていたので録画できませんでした。だれが持っていったのかな

1.
 新発田朝祷会という、カトリック、プロテスタントの方々が月に一回一緒に集まって祈る集会があり、そこで面白い経験をしました。
何人かのグループになって、順番に祈っていたのですが、私の二つ前の方が「日曜日の各教会の礼拝が祝福されるように」と祈りました。
それはいいのですが、その方の滑舌が少し悪くて、「日曜礼拝」が「一応礼拝」と聞こえてしまうのです。
「いちおう礼拝」「いちおう礼拝」と連発されるので思わずくすっと笑いがこみあげてきて、「一応、礼拝」ではいけない、と思いました。
そうしたらその方の祈りを受けて、次の方がまた、日曜日の各教会の礼拝の祝福のためにお祈りくださいました。
今度は「日曜礼拝」という言葉ではなく、「主日礼拝」という言葉を使っていたのですが、やはり同じように滑舌がよろしくない。
「しゅじつ礼拝」が「しゅじゅつ礼拝」と聞こえてしまうのです。でも、今度はクスッと笑うことはありませんでした。
ああ、そうだ、いちおう礼拝じゃない、手術礼拝だ。礼拝を通して心の中の悪いものを取り除いていただくのだ、と思わされました。
 私たちにとって、礼拝とはどちらでしょうか。「一応」礼拝か、「手術」礼拝か。
一応はさておき、手術という言葉もなんかこわいなあと思う方もいるかもしれません。
しかし礼拝とは、ただほっとする時間、というわけではありません。本当の意味でほっとできるのは、私たちの中に絡みついている汚いもの、
聖書はそれを罪と呼びますが、それをイエス・キリストに取り除いていただく時、それがまさに手術礼拝ならぬ、主日礼拝ではないでしょうか。
 だじゃれのような切り出しで申し訳ないのですが、言おうとしていることは大真面目です。
1節で、まずヨハネはこのように書いています。
「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。
もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです」。

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posted by 近 at 21:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.11.18「故郷へ帰ろう」(ルツ1:1-22)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
最近、当ブログについて「説教はともかく前フリがくだらない」というお叱りを身内から受けました。
昔はいきなり「週報はこちらです」だったんですけどね。
それだけだと味気ないかなあと思って、前フリにいろいろ書いてるんですが、そうか、そうですか。バキっ←何かを蹴る音
 小学生の頃に学研の『学習科学』か何かで、秋田の伝統行事「なまはげ」の写真を見たことがありました。
出刃包丁を握りしめて、どこかの茶の間に陣取るなまはげ二人組。隣で私と同じくらいの年のイガグリ坊主が泣いています。
それは、今の私を形成する原風景の一つとなりました。これは、はたして自分の生きている時代に繋がっているものなのか、と。
写真の中に、古くさいテレビはあるけれど(おそらくナショナル)、番組は映っていないので昭和30年代かもしれない。
日めくりカレンダーはあるけれど、いつの年かは小さくて見えない。
男の子(イガグリくん)は映っているが、どてら姿で時代不明。もしかしたらもういい大人になっているかもしれない。
鬼(なまはげ)なんて嘘だと信じたい。自分の時代と繋がる何かがあれば、嘘だと安心できる。
しかしこれが現代のものだと特定できるものが、何一つ写真の中にはない。それが不安をかき立てる。
 大人にとって、「時代から切り離されたもの」はノスタルジックで良いものです。しかし子どもにとっては、恐怖の対象でしかありません。
教会に対して、日本人が抱いている敷居の高さというのは、あの時の感覚に繋がっているのではないでしょうか。
自分が今まで触れたことのないもの、教会、牧師、宗教、それは、あの時の私のように怖さを感じるものかもしれません。
というわけで、ちょっとくだらないと言われそうな文章も入れて、敷居を低くしてるんですよ
今ではなまはげは大好きなもののひとつです。
わが同盟教団の悲願、秋田開拓が実現した折にはぜひ「秋田なまはげキリスト教会」と名づけてほしいと願っています。
なまはげ同様、教会も実際には決してこわいところではないので、安心して来てください。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルツ記』1章1-22節 


1.
 新約聖書の最初の本、『マタイの福音書』には、のっけからイエス・キリストの系図が載っており、モアブ人「ルツ」という名前が出てきます。
イスラエルに敵対し、偶像と不品行の民であったモアブ人の中から、いかにしてルツのような女性が生まれたのか。
そしてルツがいかにしてイスラエル人に加えられ、ダビデ王家、ひいてはイエス・キリストへと繋がる血筋となったのか。
それが描かれているのが『ルツ記』です。しかしその導入は、罪に陥った家族の姿から始まります。
 ユダのベツレヘムで大ききんが起こりました。そこでエリメレクという人が、妻のナオミ、そして二人の息子を連れて、モアブの地に滞在しました。
「滞在」という、ずいぶんやわらかな言葉を使っていますが、実際のところは逃げ出した、ということです。
イスラエルにおいては、土地というものは神の祝福そのものであり、簡単に売り買いすることもできないものでした。
ききんが起きたから、土地を離れて外国へ移るというエリメレクの行い、それは相続地を与えられた神に対する、れっきとした反抗なのです。

 問題が起きたとき、逃げるということはひとつの手段です。しかし、逃げる方向を間違えてはなりません。
ウサギがキツネに、シカがライオンに襲われるとき、彼らは敵に対抗する牙や爪がありませんから、逃げ出すことしかできません。
しかし闇雲に逃げることはありません。自分の巣、あるいは自分の属する群のほうへと逃げていきます。
私たちも、時と場合によっては逃げてもよいのです。いや、逃げるしか道がないときさえあります。
しかし、私たちはそのときに逃げる方向を間違えてはなりません。神さまのほうに向かって逃げなければなりません。
エリメレクは逆でした。たとえどんなききんが起きても、そこが神の約束の場所であれば、何も恐れる必要はありませんでした。
しかし彼はむしろ神の約束の地を、とりあえずとは言え、見捨て、モアブに逃げてしまいました。
モアブに逃げたからこそルツが与えられたのではないか、というのはあまりにも都合の良すぎる解釈でしょう。
神が与えられた土地から逃げ出したことそのものが肯定されているわけではないのです。

icatch.jpgなまはげ太鼓団体「男鹿っ鼓」様のHPより。ほとんどA○Bのノリですね

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posted by 近 at 22:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.11.11「勝った、勝った!」(士師7:1-25)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
牧師をある程度長くやっていると、同じ聖書箇所からメッセージを語るということが何度かございます。
他の教会であれば何も問題ありませんが、自分の教会だとドキドキです。
信徒は遠慮して言いませんが、「そこ、前も語ったよね」と奥様から指摘されたことのある牧師先生方もさぞ多いことでしょう。
内容が同じだと「手抜き」と言われるし、かといって違ったりすると「先生、前はこう言ってたのに・・・・」と不信感を生みかねません。
 今回の説教は、約二年前にも同じ聖書箇所から(『成長』のせいです)語ったことがありました。
しかし我ながらなんと大胆な。内容を翻して「今はそうは思っていません」と説教の中で言い切ってしまいました。
これを潔いと呼ぶか、変節漢と呼ぶかは人それぞれ。しかし説教とは常に成長し続けるもの。
狙ったわけではありませんが、新旧どちらのメッセージでも、なぜか戦国大名・北条氏康にまつわるエピソードを紹介しています。
二年前のメッセージと、今回のメッセージ。どこらへんが違うのか、ぜひ自らの目で、耳で、比べて、吟味してください。
2018_11_15-21-28-32-230.jpgコピーライトマークコーエーテクモゲームス
30年以上の歴史を持つ歴史ゲーム『信長の野望』での北条氏康の顔グラフィックの変遷。
最近のものは「顔に大きな刀傷があった」という伝承が反映されています。
説教というものも、このように常に新しいものを取り入れて変わり続けていくものだと思っています。
週報はこちらです。

聖書箇所 『士師記』7章1-25節 


序.
 神学生として千葉で学んでいた頃、人に頼まれて、東京のある教会に届け物をすることがありました。
その教会は、あえて名前を伏せますが、大変に有名な教会です。
日本の福音派の指導者として活躍された先生方によって牧会されて、その教会で訓練を受けられる神学生は幸せ、みたいな感じでした。
しかし教会は有名でも、そこへの行き方がわかりません。そこで友人である、その幸せ者の奉仕神学生に行き方を尋ねました。
そしたら、「渋谷駅行きのバスに乗って、ナントカとかいうバス停で降りて、環七通りをそのまま進んでいけばそのうち着くよ」
なんとも大雑把な説明と、それでも簡単な地図を書いてくれました。
そこで言われたとおり、ナントカというバス停で降りて、てくてく歩いて行くと、右手にりゅーとぴあみたいに大きい、荘厳な教会が見えてきました。
おお、あれが○○教会か。さすが日本で一番有名な教会だけはある。ところがどうも地図とその場所は違っています。
もう少し歩いてたら、狭い路地があって、その前に案内看板がありました。それに従って歩いてくと、やがて本物の教会に着きました。
しかし確かに母教会より大きい教会ではあるのですが、先ほどりゅーとぴあみたいな教会を見ているので、どうしても見劣りがします。
チャイムを押して、伝道師に届け物をしたあと、さきほどの建物について聞いてみました。立正佼成会の東京大聖堂だそうです。
「いやあ、よく間違われるんですよ」と伝道師は言っていましたが、建物の大きさからいえば、比べものにならないなあと思いました。

1.
 もし、宗教の建物の大きさ、収容人数などが、その教えの正しさを図るモノサシだとしたら、日本の教会はまったくランク外でしょう。
あの立正佼成会の大聖堂と、そのキリスト教会がもし並んで立っていたら、人々はまず大聖堂をもつあちら側に軍配をあげるに違いありません。
じつは私たちの中にも、そのような視点というのがあります。
正しい教えならば、それだけ人が集まってくるはずではないか。人が少ないのは、何かが足りないからではないのか、と。
しかし聖書は、神さまが戦いのために必要としているのは数の多さではなく、勝利のために必要なのは武器の強さでもないと教えています。
 いま、イスラエルとミデヤン人の戦いが始まろうとしていました。
聖書の記録によれば、ミデヤン軍の数は少なくとも13万人。それに対して、ギデオンの下に集まった兵士たちは全部かき集めても3万人あまり。
すでに4倍の開きがあります。しかし神は、それでさえ「多すぎる」と言われるのです。そして二回のテストを通して、300人にしぼりました。
 私たち人間は、目に見えるものに頼りやすいものです。
あるものが信頼できるかどうかを「これだけの人に支持されているから」という基準で判断することがあります。
いまはネットで商品を買う人が増えていますが、デザインや価格よりも、どれだけレビュー、よい感想を集めているのかを参考にするそうです。
しかし人が見るように、神は見ません。神の戦いに必要なのは数ではありません。武器の質でもありません。ただ信仰です。
人が集まっているからそれは正しい、ということではありません。聖書、神のことばを通して、私たちは何を信じ、何を選び取るかを学ぶのです。
人は間違えます。大勢の人が集まると、思考が止まり、吟味する暇もないままに突き進んでしまうことさえも起こるのです。
しかしどんなに数が少なくとも、その中心に神のことばがあるならば、私たちは決して恐れることはありません。

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posted by 近 at 22:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.11.4「反抗期ギデオン」(士師6:11-24)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先月あたりから、再びCS成長センターの『成長』の年間カリキュラムに合わせて、礼拝説教をしております。
『成長』とは直接関係ありませんが、このブログの読者に紹介したいサイトがあります。
banner_kohitsuji.gif 日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団教会教育部
凄まじい量の、CS教材の宝庫。
インターネットという名の大海で、ついにひと繋ぎの財宝が隠された小島にたどり着いた、海賊王の気分です。ワンピース!
しかも「教会の働きのために自由にお使いください」という気前のよさ。い○ち○こ○ば社にも見習ってほしいものです。
 わが同盟教団も、過去60年分の教団機関紙をPDF化していますが、現在は教師専用ページからしかアクセスできません。
所属教会には、価格×教会員数の金額を送金することが建前になっているので、ただでは見せられん、ということでしょうか。
バックナンバーくらい他教団の方でも自由に見られるようにしたらいいのに。出版局の方が見ていたら、ご検討ください。
 なお『こひつじ』では運営のための献金も募集しています。私もあとでやっておきます。(←適当)
週報はこちらです。

聖書箇所 『士師記』6章11-24節 


1.
 私は説教のタイトルをつけるのにずいぶんと悩む口ですが、今回はすぐに決まりました。「反抗期ギデオン」。
主の使いが何を語りかけても、ギデオンはことごとく逆らう、まるで反抗期の少年のようだからです。
御使いは開口一番、こう呼びかけました。「勇士よ、主があなたといっしょにおられる」。
ところが彼はこう答えます。「もし【主】が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか」。
もう少し新潟っぽく訳すと「なんでこんげなん」となるでしょう。万事この調子です。
「主があなたを遣わすのだ」と言えば、「俺みたいなのが、そんなことできるわけねえねっか」。
そして最後には「おめさん、本物だろうな。神さまだったら、しるし見せれや」。

 ただ不思議なのは、神さまが、こんな反抗青年であるギデオンを叱ることもなく、いつまでも、どこまでも譲歩されているということです。
人一倍臆病なくせに、口だけは達者なギデオンになぜ神はここまで執着するのか。
当時のイスラエルは、そこまで人材不足であったのか。
いや、むしろ、私たちがイエス・キリストによって神さまに選ばれたということが、どれだけの恵みであるのか、ということを改めてかみしめます。
ギデオンがどれだけ臆病であろうが、どれだけ自信なさげであろうが、どれだけ近視眼的な人間であろうが、まったく神さまは動じません。
彼がどんな人間性を持っていようが関係ない。
どんな能力があるかないかということも関係ない。
ましてやマナセ部族の中でどのくらいの家柄なのか、本家か分家かという一切関係がない。
私たちもそうです。私たちが神を愛したからではなく、神が私たちを愛したがゆえに、私たちは選ばれました。
私たちがいのちをかけて努力したからではなく、イエス・キリストが私たちのためにいのちを捨ててくださったからこそ救われました。
ただ永遠に定められていた神のご計画のゆえに、ギデオン、そして私たちは選ばれたのです。

 だから私たちは、自分の能力や実績で、神との親子関係を疑う必要はないし、決してしてはなりません。
日々の信仰生活の中で、自分自身に失望してしまうときにも、神は私たちに失望していないことを心に刻みましょう。
神は私たちができないことを命じません。
ただ信仰をもって決断さえすれば、後は神がすべてを支え、導いてくださるのです。
神はここでも、ギデオンにめいっぱいあわれみを示されるのですね。
見えるものしか信じられないギデオンは、そんな生き方にふさわしく、かたちから入ります。
贈り物をしますから、しるしを見せてください。
こんな要求に対して、神はそれを叱ることも否定することもなく、「あなたが戻ってくるまで待つ」と言われるのです。

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2018.10.28「罪人を招くために」(マルコ2:13-17)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週は、約4年ぶりに新発田キリスト教会の田中敬子伝道師が当教会で説教をしてくださいました。
なお、当教会での田中先生の過去のメッセージは以下で見ることができます。説教者として成長の跡をたどっていくのもまた一興。
2012.7.15「働く信仰 〜神の“みわざ”が私の内に!〜」田中敬子神学生
2012.10.28「幼稚な教えに惑わされず…」田中敬子神学生
2014.8.31「あなたはどう応えますか?」田中敬子姉
かつての奉仕神学生が隣町の教会で伝道師として活躍しておられるのは嬉しい限りです。週報はこちらです。

聖書箇所 『マルコの福音書』2章13-17節 



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