こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
私が卒業した敬和学園大学はキリスト教主義の学校ですが、私はその大学がちょうど創立された年に入学しました。
その4ヶ月前のクリスマスに受洗したばかりでしたが、なりゆきで聖書研究会を立ち上げることになりました。
クリスチャン学生数名と、求道者が若干名集まって来ましたが、人生でいちばん信仰について勉強した時期でした。
牧師から説教集を借りたり、キリスト教書店で買ったりして、聖研に初めて来た人にもわかりやすく伝えられるように必死で学びました。
うまく伝えられないことにもどかしい思いを抱えながら、聖書のエッセンスを伝えられるように「努力」しました。
思うに、多くのクリスチャンが、間違ったことを語ったらいけないと思うあまり、自分で聖書を語る努力から逃げていませんか。
救いは恵みであって努力ではありませんが、救いの結実のためには、神は人の努力をないがしろにはいたしません。
冷や汗をかきながら伝え、間違いに気づいて、また直して語って、それを繰り返して、少しずつ成長していきます。
「伝道できるように訓練してくれ」と頼まれることがありますが、まず自分でナントカ頑張ろうという気概がほしいところです。
決して突き放しているわけではなく、人間追い込まれないと本気になれないからです。
本気になれば、書籍でもネットでも使って、自分で必要なものを手に入れることのできる時代です。
お願いしたいのは、人に教えられなければ何もできないという思い込みから脱却して、いくらでも恥を経験してみることです。
そういう意味で、「なりふり構わず」は決して悪い言葉とは思いません。むしろ私の好きな言葉です。
いつでもなりふり構わず生きています。週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』12章20-26節
序.
私は行ったことがありませんが、伝統のある高級料理店などでは、「一見さんお断り」という張り紙がしていることがあるそうです。
「一見さん」とは、紹介のないお客さんのこと。つまり、その店の常連客の紹介がなければ、その店には入れません、ということです。
私たち教会とはまったく逆ですね。どの教会も、「どなたでも遠慮なくお越しください」とホームページやパンフレットには書いています。
ところがある牧師が面白いことを書いていました。いっそのこと教会も、「一見さんお断り」と玄関に書いておいたらどうか、と。
なんてひどいことを、と憤慨する方もいるかもしれませんが、その牧師いわく、なぜ一見さんお断りの店がしぶとく何百年も残っているのか。
それは、選ばれた客しか入ることはできないというプレミア感が、逆に人々を惹きつけ、何としても入ってやるという情熱を生むのだ、と。
私にはその先生の主張が正しいかわかりませんし、もし正しいとしてもなかなか提案に従う勇気はわいてきませんが、
クリスチャンも求道者の方も、教会の座席に座れたのは自分が神さまに選ばれた上客だから、とたまにかみしめてみるのもよいかもしれません。
1.
さて、イエス様に会おうとしたギリシヤ人たちは、それこそ一見さんということになるのでしょうか。20節をお読みします。
「さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。
この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。
ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。」
イエス様は、弟子を二、三人も経なければお会いできないような方ではなかったでしょう。
しかしこの20節を注意深く読んでみると、面白いことに気づきます。
ひとつはピリポが「ガリラヤのベツサイダの人」とわざわざ説明されていること、
そしてギリシヤ人たちはそのピリポを「先生」、直訳すると「主よ」と、まるでイエス様自身のように呼びかけていることです。
ガリラヤもベツサイダも、当時の感覚では田舎者というニュアンスです。その出身のピリポに対して「主よ」と呼びかけているギリシヤ人の姿。
田舎の漁師にすぎない弟子に対して「主よ」と呼びかけている彼らの姿は、ある意味、非常に滑稽です。
しかし彼らの行動は、神に直接出会うためならば、たとえどんなに滑稽に見えたとしても、何でも利用するというものとは言えないでしょうか。
京都で実際にあった話です。ある新入社員が、会社の先輩に、本格的な料亭に連れて行ってやると誘われました。
ところが例によって、そこは「一見さんお断り」でした。しかもその先輩もそれを知らないで、新入社員を連れて行ってしまったそうです。
店の中に入り、主人に断られて、一度は店を出た先輩でしたが、このままでは後輩にしめしがつかない。
そこで出てすぐにまた同じ店に入って行き、「これで二回目だから一見ではありませんよね」と言うと、主人が笑い出し、入れてくれたそうです。
「求めよ、さらば与えられん」とイエス様が言われたことばを思い出します。
救いは、人間の努力によって獲得するものではありません。
それは、人間が自分から神を求めなくても、向こうからやってくるものだという意味でしょうか。決してそうではありません。
あらゆる人間は、生まれた時すでに神がわからなくなっています。だから、聖書のことばや教会の門をたたくきっかけは何でもよいのです。
しかし、そのきっかけをただのきっかけで終わらせず、そこから神さまを求めていく生き方を、人もまた神さまから求められています。
確かに、聖書のあるところには、私たちが救われたのは、この世界が造られる前から、神によって定められていたということが書いてあります。
しかしそれは、人間の真剣な求道心や、死に物狂いで神に近づいていこうとする態度を軽んじるものでは決してないのです。
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最近の記事
(04/20)重要なお知らせ
(09/24)2023.9.24主日礼拝のライブ中継
(09/23)2023.9.17「家族を顧みない信仰者」(創世19:1-8,30-38)
(09/15)2023.9.10「安息日は喜びの日」(マルコ2:23-3:6)
(09/08)2023.9.3「私たちはキリストの花嫁」(マルコ2:18-22)
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(09/23)2023.9.17「家族を顧みない信仰者」(創世19:1-8,30-38)
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(09/08)2023.9.3「私たちはキリストの花嫁」(マルコ2:18-22)
2018.8.5「美味くて不味いもの」(マタイ5:10-16)
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
当教会では日曜午前9:00〜10:00までが教会学校の時間なのですが、実際には9:30から賛美やメッセージが始まります。
それまでの30分、子どもたちは少しずつ集まってくるのですが、やや時間を持て余しているような感じになっています。そこで考えました。
子どもも大人も時間を忘れて夢中になれる遊びはないか。できれば遊びに疲れて、メッセージの時静かになるようなやつ。
あります。ピンポンです。いや卓球です。もと中条中学校卓球部の私が言うのですから間違いありません。
とはいえ本格的な卓球台を導入するには会堂がちと狭すぎます。子どもたちにも本格卓球は敷居が高すぎるでしょう。
そこでコンパクトかつ折りたためて、アウトドアでも使えるようなものを探してみました。参考にしていただけたら幸いです。
1)キャプテンスタッグ 卓球台ポータブルセット UX-2549 (市場平均価格19,000円)


キャンプ用品のシェアNo.1、ヘラジカのマークで有名な「キャプテンスタッグ」(パール金属)の製品です。
うちの洗面所で使っているマグカップもキャプテンスタッグです。新潟県三条市に本社があります。
バーベキューの後はピンポン!みたいなノリでしょうか。足元は普通のアルミテーブルと変わらないじゃんと突っ込みたくなります。
2)カイザー ミニ卓球台 KW-363 (市場平均価格9,000円)


見かけは上記キャプテンスタッグ製品とほとんど変わらないように見えますが、価格は半額です。
その分、造りが甘いのかもしれませんが、高さを二段階に調節できるので、子どもから大人まで楽しめそうです。
3)ニッタク ミニ卓球台「ピポン」(NT-3301) (市場平均価格16,000円)

卓球少年少女のあいだで知らない者はいない、卓球用品メーカーの帝王「Nittaku(ニッタク)」。
当時、Nittakuのボール(ピンポン玉)は一つ星(ワンスター)から三つ星(スリースター)まで販売されていて、
違いがわからないのに三つ星を持っているだけで上手いと思われていた中坊時代でした。Nittakuのせいじゃないけど。
そんな卓球界の専制君主Nittakuが、まさか邪道ともいうべきコンパクト台に手を広げていたとは。フランス革命よりビックリです。
とはいえさすがNittaku。いかにも卓球台という黒板色がなんとも言えません。しかもキャプテンスタッグより安いのね。
ところが帝王Nittakuの威光さえ軽く吹き飛んでしまうような、驚愕の卓球台を発見しました!
4)三英(サンエイ) ITTF公認卓球台 インフィニティー (市場平均価格860,000円)

ククク・・・・この圧倒的デザイン、ほとんど聖餐卓。
教会学校では卓球台として、礼拝では聖餐卓として使用したら夢のようです。そんな不埒な考えさえ起こしてしまうインフィニティ(無限)。
ただしお値段は税込86万円とまさに悪夢です。妄想だけで満足すべきですね。今週の物欲のコーナーでした。
週報はこちらです。
聖書箇所 『マタイの福音書』5章10-16節
1.
イエス様は、ご自分の弟子たちに語りました。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」。
義とは、正義という意味ではありません。何が正義は、その時代において変わってくるからです。
今から73年前の1945年8月5日、広島に原爆が落とされる前日、現人神である天皇のために命を捨てることがその時代の正義でした。
しかしわずか10日後の8月15日には戦争が終結し、天皇の人間宣言をもって、正義の意味は変わりました。
日本だけではなく、世界中がその時代ごとで正義とは何かをころころ変えてきました。
「義のために」とは、そのような人の正義、世の正義ではなく、神の正義です。
神の正義とは、聖書に示された神のみこころ。それにしたがって生きていくことです。
そして移りゆく人の正義と、変わらない神の義とはしばしば対立します。しかしイエス様はそこで私たちにこのように語られているのです。
「この二つの義が対立する世界において、あなたはどちらを選ぶのか。・・・神の義を選ぶ者は幸いである。
人の義を第一とする者たちが、ありもしないことであなたをののしり、迫害し、悪口を浴びせるとき、あなたは幸いである。
そのとき、天の御国は、すでにあなたのものなのだから。」
先日、『沈黙』という映画を有志で鑑賞しました。小説を読んだのは高校生の時でしたが、その時私はまだクリスチャンではありませんでした。
数十年経ってその映画を見たときに、キリシタンたちが命を賭けた「踏み絵」や「逆さ十字架」を、リアルな思いをもって受けとめました。
「殉教者の血は教会の種子である」という言葉が映画の中でも語られます。
これはイエス様がこれを語られたときから約200年後、ローマ帝国による大迫害の時代に生きたクリスチャン、テルトゥリアヌスのことばです。
その言葉のとおり、帝国から迫害を受け続けたクリスチャンは、約300年間の忍耐のあと、勝利を勝ち取るのです。
対して、日本の教会はどうでしょうか。歴史の中で、キリスト教が大ブームになった時代が3回ありました。
一度目は、戦国時代から安土桃山時代。映画「沈黙」はその直後にあたります。この時の宣教師がフランシスコ・ザビエルです。
二度目は、明治から大正にかけての頃。ローマ字で有名なヘボン、また「少年よ大志を抱け」のクラーク博士もそこに入るかもしれません。
そして三度目は昭和の終戦後からのしばらくの期間。マッカーサーの肝いりで、とくにアメリカから宣教師がたくさん来日しました。
しかしその三つのどれも、人々が惹かれたのは聖書の教えでもイエス・キリストでもなく、宣教師が持ち込む珍しい文化の香りでした。
最初の時代には南蛮文化、明治大正期には欧米文化、終戦後は豊かな物質文化、
しかしそのいずれも、人々は聖書の教えを受け入れる前に文化に飽きてしまい、教会から去って行ったのです。
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当教会では日曜午前9:00〜10:00までが教会学校の時間なのですが、実際には9:30から賛美やメッセージが始まります。
それまでの30分、子どもたちは少しずつ集まってくるのですが、やや時間を持て余しているような感じになっています。そこで考えました。
子どもも大人も時間を忘れて夢中になれる遊びはないか。できれば遊びに疲れて、メッセージの時静かになるようなやつ。
あります。ピンポンです。いや卓球です。もと中条中学校卓球部の私が言うのですから間違いありません。
とはいえ本格的な卓球台を導入するには会堂がちと狭すぎます。子どもたちにも本格卓球は敷居が高すぎるでしょう。
そこでコンパクトかつ折りたためて、アウトドアでも使えるようなものを探してみました。参考にしていただけたら幸いです。
1)キャプテンスタッグ 卓球台ポータブルセット UX-2549 (市場平均価格19,000円)
キャンプ用品のシェアNo.1、ヘラジカのマークで有名な「キャプテンスタッグ」(パール金属)の製品です。
うちの洗面所で使っているマグカップもキャプテンスタッグです。新潟県三条市に本社があります。
バーベキューの後はピンポン!みたいなノリでしょうか。足元は普通のアルミテーブルと変わらないじゃんと突っ込みたくなります。
2)カイザー ミニ卓球台 KW-363 (市場平均価格9,000円)
見かけは上記キャプテンスタッグ製品とほとんど変わらないように見えますが、価格は半額です。
その分、造りが甘いのかもしれませんが、高さを二段階に調節できるので、子どもから大人まで楽しめそうです。
3)ニッタク ミニ卓球台「ピポン」(NT-3301) (市場平均価格16,000円)

卓球少年少女のあいだで知らない者はいない、卓球用品メーカーの帝王「Nittaku(ニッタク)」。
当時、Nittakuのボール(ピンポン玉)は一つ星(ワンスター)から三つ星(スリースター)まで販売されていて、
違いがわからないのに三つ星を持っているだけで上手いと思われていた中坊時代でした。Nittakuのせいじゃないけど。
そんな卓球界の専制君主Nittakuが、まさか邪道ともいうべきコンパクト台に手を広げていたとは。フランス革命よりビックリです。
とはいえさすがNittaku。いかにも卓球台という黒板色がなんとも言えません。しかもキャプテンスタッグより安いのね。
ところが帝王Nittakuの威光さえ軽く吹き飛んでしまうような、驚愕の卓球台を発見しました!
4)三英(サンエイ) ITTF公認卓球台 インフィニティー (市場平均価格860,000円)

ククク・・・・この圧倒的デザイン、ほとんど聖餐卓。
教会学校では卓球台として、礼拝では聖餐卓として使用したら夢のようです。そんな不埒な考えさえ起こしてしまうインフィニティ(無限)。
ただしお値段は税込86万円とまさに悪夢です。妄想だけで満足すべきですね。今週の物欲のコーナーでした。
週報はこちらです。
聖書箇所 『マタイの福音書』5章10-16節
1.
イエス様は、ご自分の弟子たちに語りました。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」。
義とは、正義という意味ではありません。何が正義は、その時代において変わってくるからです。
今から73年前の1945年8月5日、広島に原爆が落とされる前日、現人神である天皇のために命を捨てることがその時代の正義でした。
しかしわずか10日後の8月15日には戦争が終結し、天皇の人間宣言をもって、正義の意味は変わりました。
日本だけではなく、世界中がその時代ごとで正義とは何かをころころ変えてきました。
「義のために」とは、そのような人の正義、世の正義ではなく、神の正義です。
神の正義とは、聖書に示された神のみこころ。それにしたがって生きていくことです。
そして移りゆく人の正義と、変わらない神の義とはしばしば対立します。しかしイエス様はそこで私たちにこのように語られているのです。
「この二つの義が対立する世界において、あなたはどちらを選ぶのか。・・・神の義を選ぶ者は幸いである。
人の義を第一とする者たちが、ありもしないことであなたをののしり、迫害し、悪口を浴びせるとき、あなたは幸いである。
そのとき、天の御国は、すでにあなたのものなのだから。」
先日、『沈黙』という映画を有志で鑑賞しました。小説を読んだのは高校生の時でしたが、その時私はまだクリスチャンではありませんでした。
数十年経ってその映画を見たときに、キリシタンたちが命を賭けた「踏み絵」や「逆さ十字架」を、リアルな思いをもって受けとめました。
「殉教者の血は教会の種子である」という言葉が映画の中でも語られます。
これはイエス様がこれを語られたときから約200年後、ローマ帝国による大迫害の時代に生きたクリスチャン、テルトゥリアヌスのことばです。
その言葉のとおり、帝国から迫害を受け続けたクリスチャンは、約300年間の忍耐のあと、勝利を勝ち取るのです。
対して、日本の教会はどうでしょうか。歴史の中で、キリスト教が大ブームになった時代が3回ありました。
一度目は、戦国時代から安土桃山時代。映画「沈黙」はその直後にあたります。この時の宣教師がフランシスコ・ザビエルです。
二度目は、明治から大正にかけての頃。ローマ字で有名なヘボン、また「少年よ大志を抱け」のクラーク博士もそこに入るかもしれません。
そして三度目は昭和の終戦後からのしばらくの期間。マッカーサーの肝いりで、とくにアメリカから宣教師がたくさん来日しました。
しかしその三つのどれも、人々が惹かれたのは聖書の教えでもイエス・キリストでもなく、宣教師が持ち込む珍しい文化の香りでした。
最初の時代には南蛮文化、明治大正期には欧米文化、終戦後は豊かな物質文化、
しかしそのいずれも、人々は聖書の教えを受け入れる前に文化に飽きてしまい、教会から去って行ったのです。
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2018.7.29「人生を裏返す出会い」(ヨハネ4:1-30)
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
この教会ブログを開設したのは2012年からですが、それ以前の約10年間の説教原稿も一応データで残してあります。
8年前(2010年)の礼拝説教に、今回と同じ聖書箇所から語った「水がめ下ろしたサチコさん」というメッセージがありました。
今は、幸いなことに教会に子どもたちが増えたので、こんなオトナ向けの導入はなかなかできませんが、懐かしかったので参考までに。
あれから8年、アベノミクスで株価は2倍になりましたが、多くの人の生活は変わっていないどころかむしろ悪化しているかもしれません。
二千年前のサマリヤ人女性の姿に、生活に苦しむ現代人の姿を重ねる説教の視点は、あの時も今も変わりません。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』4章1-30節
1.
「依存症」という言葉を聞いたことがあるかと思います。
よく言われているのは、やめたくてもやめられない、それが依存症である、と。
アルコール依存、薬物依存、ニコチン依存、カフェイン依存という物質系のものから、
ギャンプル依存、買い物依存、インターネット依存、仕事依存、パチンコ依存、
しかしアルコール依存の人がアルコールを断つ、ネット依存の若者がパソコンやスマホを捨てる、
それは本当の解決にはならない、と専門家は言います。
「なになに依存」の「なになに」に問題があるのではない、
問題はそれらにすがらなければ自分をありのままで受け入れることができない、という心の深みにあるものだ、と。
これらに関しては、人の受け売りである私の説明よりも、
実際に家族や本人が経験し、戦っている方々がこの中にもおられるかもしれません。
しかしこの問題は、決して現代特有のものではないということを聖書は伝えています。
二千年前の人物であるこのサマリヤ人の女性は、男性への依存を抱えていました。
彼女が今まで5人の男性を夫とし、いま一緒に暮らしているのはあなたの夫ではない、とイエス・キリストは彼女の人生をえぐりました。
幸せな結婚生活、理想的な夫婦生活をだれよりも望んでいながら、それを何度リセットしても途中で破綻してしまう、
それを繰り返し続ける人生パターンの中に、彼女は苦しんでいます。
自分ではその苦しみを認めようとしないけれど、心の奥に深い痛みを抱えています。
その証拠に、彼女は第6時、すなわち正午に水を汲みに来ました。
当時のイスラエルでは、井戸に水をくみに来る仕事は早朝と夕暮れ前、女性たちが行う日課でした。
そして井戸端が女性たちにとってのコミュニケーションの場になっていたのは、イスラエルに限らず万国共通です。
しかし彼女が正午に井戸に水をくみに来たのは、彼女が他の人々と関わりを避けていたということを表しています。
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この教会ブログを開設したのは2012年からですが、それ以前の約10年間の説教原稿も一応データで残してあります。
8年前(2010年)の礼拝説教に、今回と同じ聖書箇所から語った「水がめ下ろしたサチコさん」というメッセージがありました。
今は、幸いなことに教会に子どもたちが増えたので、こんなオトナ向けの導入はなかなかできませんが、懐かしかったので参考までに。
私の名前はサチコ。幸せな子と書く。幸せな人生を歩めますように、と数年前に死んだ母親がつけた。当時はリーマンショックからまだ立ち上がれていないような頃で、派遣切りや生活保護のことがマスコミでよく取り上げられていました。
でもその願いとは裏腹に、もう5回、結婚に失敗した。同棲相手はいるけれど、最近は二週間に一回しか帰ってこない。
母親は彼を連れてきた時、開口一番「お前はつくづく男運がないね」とため息をついた。
でも私に男運がないのは母親のせい。母親だって結婚に失敗したじゃないか。私は父親の顔を知らないまま大人になった。
もし子どもが生まれたら、私や母親と同じような痛みは与えたくない。両親が揃っている家族の温かさを教えてあげたい。
だけど5回の結婚生活は、どれも子どもが生まれる前に終わってしまった。
今は派遣社員として隣町の自動車部品工場で働いている。
毎朝、工場から迎えに来るマイクロバスに乗り、一日部品を組み立て、夕方になるとまたバスに揺られて安アパートに帰ってくる。
帰宅後の楽しみは新聞の折り込みチラシに目を通すことくらい。タイムセールの文字を見つけると、宝島を発見したような気分になる。
でも私は絶対タイムセールには行かない。客が一番少ない時間を見計らって、必要なものだけをさっと買い、さっと帰る。
知り合いに会いたくないし、話したくないからだ。誰にも私の生活を見られたくない。誰にも私の心の中身を見せたくない。
あれから8年、アベノミクスで株価は2倍になりましたが、多くの人の生活は変わっていないどころかむしろ悪化しているかもしれません。
二千年前のサマリヤ人女性の姿に、生活に苦しむ現代人の姿を重ねる説教の視点は、あの時も今も変わりません。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』4章1-30節
1.
「依存症」という言葉を聞いたことがあるかと思います。
よく言われているのは、やめたくてもやめられない、それが依存症である、と。
アルコール依存、薬物依存、ニコチン依存、カフェイン依存という物質系のものから、
ギャンプル依存、買い物依存、インターネット依存、仕事依存、パチンコ依存、
しかしアルコール依存の人がアルコールを断つ、ネット依存の若者がパソコンやスマホを捨てる、
それは本当の解決にはならない、と専門家は言います。
「なになに依存」の「なになに」に問題があるのではない、
問題はそれらにすがらなければ自分をありのままで受け入れることができない、という心の深みにあるものだ、と。
これらに関しては、人の受け売りである私の説明よりも、
実際に家族や本人が経験し、戦っている方々がこの中にもおられるかもしれません。
しかしこの問題は、決して現代特有のものではないということを聖書は伝えています。
二千年前の人物であるこのサマリヤ人の女性は、男性への依存を抱えていました。
彼女が今まで5人の男性を夫とし、いま一緒に暮らしているのはあなたの夫ではない、とイエス・キリストは彼女の人生をえぐりました。
幸せな結婚生活、理想的な夫婦生活をだれよりも望んでいながら、それを何度リセットしても途中で破綻してしまう、
それを繰り返し続ける人生パターンの中に、彼女は苦しんでいます。
自分ではその苦しみを認めようとしないけれど、心の奥に深い痛みを抱えています。
その証拠に、彼女は第6時、すなわち正午に水を汲みに来ました。
当時のイスラエルでは、井戸に水をくみに来る仕事は早朝と夕暮れ前、女性たちが行う日課でした。
そして井戸端が女性たちにとってのコミュニケーションの場になっていたのは、イスラエルに限らず万国共通です。
しかし彼女が正午に井戸に水をくみに来たのは、彼女が他の人々と関わりを避けていたということを表しています。
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2018.7.22「捨てきれないのはなぜ」(ルカ18:15-23)
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
最後の「たとえ血だらけに・・・」のくだりは、氏が「勝手に付け加えた」(友人)とのことだそうです。
松本氏の評価は人によって異なるでしょうが、教会の現実もこの名言にあてはまると思います。
確かに牧師は大牧者(イエス)から信徒を養う務めをゆだねられています。しかし同時に、信徒によって牧師は育てられるのです。
私の所属する同盟教団でも、若手の伝道師や牧師が疲れ果てて、休職や退職を選んでしまう例が多く見られます。
牧者よりも羊のほうが、美味しい牧草が生えているところを知っているかもしれません。
牧者よりも羊のほうが、羊独自の悩みやトラブルについてよく知っていることもあるでしょう。
しかしだからといって、羊が自分の牧者を他の牧者と比較することばかり続けていたら、牧者の心は折れてしまいます。
どんな牧者でも、最初から上手に群を導くことなどできません。しかしその牧者は、羊のために命を捨てる覚悟をもってそこに来たのです。
牧師の説教や牧会に不満を抱えて、ドクターショッピングならぬパスターショッピングを続ける信徒の姿は、冒頭の言葉を彷彿とさせます。
客を血だらけにさせるほど剃り方が未熟でも、それでも毎月通ってくれる村人たちによって、床屋は成長します。
現代社会は、成長を待つことができず、すぐに白黒をつけたがる時代です。
だからこそ、教会は牧者も羊もゆっくりじっくり成長するところでありたいものです。週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』18章15-23節
1.
先日、小学校の前でチラシ配りをするのであらかじめ校長先生のところへ挨拶に伺うことになり、急いで「名刺」を用意しました。
今はペーパーレス時代と言われて、本は電子ブックに、ノートはタブレットに代わりつつあります。
しかし名刺というのは、それこそペーパーレスに逆行していながら、なくなる気配はないようです。
それは、名刺というのが、ただの自己紹介のメモではなくて、そこにはその人を表す魂が宿っているものとされているからです。
サムライにとっての刀、料理人にとってのレシピ、牧師にとっての説教原稿のようなものです。これは決して大げさな意味ではありません。
名刺は魂が宿っているとされるからこそ、胸の位置より上で受け渡すのがマナーとされているわけです。
今日の後半に出てくる役人の姿を思い描いたとき、まるでイエス様の前に名刺を差し出しているように思いました。
彼はあらかじめ用意してきたであろう、完璧な挨拶と完璧な質問を自らの名刺代わりとして、イエス様にこのように言いました。
「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受け取ることができるでしょうか。」
神の子であるイエス様に「尊い」とつけるのを忘れずに、また永遠のいのちというイエス様が喜びそうな質問です。
ところがなんということでしょう。彼はイエス様からまったく予想もしていなかったダメ出しを喰らいます。
「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。」
いったい何が悪かったのでしょうか。イエス様を神そのものとして認めているからこそ「尊い」という言葉を付けたのに。
彼の挨拶は、非の打ち所のないものでした。しかし、イエス様は彼のことばではなく、心を見られたのです。
それは、神様の前に一寸の狂いもなく正しいことばで身構えながら近づこうとしている、彼の心に対してです。
言い換えるならば、正しくて、つけいる隙のない自分自身を装わなければ、神に近づくことができないと決めつけている心に対してです。
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村の床屋の腕が悪いからと言って、わざわざ都会まで出かけるようではいけない。『アエラ』の「追悼・松本龍元復興相」という記事の中で、松本氏がガンジーの孫引きとして良く口にしていた、と紹介されていました。
そのままひいきにして、その男の腕を磨いてもらった方が賢明である。たとえ血だらけになろうとも
最後の「たとえ血だらけに・・・」のくだりは、氏が「勝手に付け加えた」(友人)とのことだそうです。
松本氏の評価は人によって異なるでしょうが、教会の現実もこの名言にあてはまると思います。
確かに牧師は大牧者(イエス)から信徒を養う務めをゆだねられています。しかし同時に、信徒によって牧師は育てられるのです。
私の所属する同盟教団でも、若手の伝道師や牧師が疲れ果てて、休職や退職を選んでしまう例が多く見られます。
牧者よりも羊のほうが、美味しい牧草が生えているところを知っているかもしれません。
牧者よりも羊のほうが、羊独自の悩みやトラブルについてよく知っていることもあるでしょう。
しかしだからといって、羊が自分の牧者を他の牧者と比較することばかり続けていたら、牧者の心は折れてしまいます。
どんな牧者でも、最初から上手に群を導くことなどできません。しかしその牧者は、羊のために命を捨てる覚悟をもってそこに来たのです。
牧師の説教や牧会に不満を抱えて、ドクターショッピングならぬパスターショッピングを続ける信徒の姿は、冒頭の言葉を彷彿とさせます。
客を血だらけにさせるほど剃り方が未熟でも、それでも毎月通ってくれる村人たちによって、床屋は成長します。
現代社会は、成長を待つことができず、すぐに白黒をつけたがる時代です。
だからこそ、教会は牧者も羊もゆっくりじっくり成長するところでありたいものです。週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』18章15-23節
1.
先日、小学校の前でチラシ配りをするのであらかじめ校長先生のところへ挨拶に伺うことになり、急いで「名刺」を用意しました。
今はペーパーレス時代と言われて、本は電子ブックに、ノートはタブレットに代わりつつあります。
しかし名刺というのは、それこそペーパーレスに逆行していながら、なくなる気配はないようです。
それは、名刺というのが、ただの自己紹介のメモではなくて、そこにはその人を表す魂が宿っているものとされているからです。
サムライにとっての刀、料理人にとってのレシピ、牧師にとっての説教原稿のようなものです。これは決して大げさな意味ではありません。
名刺は魂が宿っているとされるからこそ、胸の位置より上で受け渡すのがマナーとされているわけです。
今日の後半に出てくる役人の姿を思い描いたとき、まるでイエス様の前に名刺を差し出しているように思いました。
彼はあらかじめ用意してきたであろう、完璧な挨拶と完璧な質問を自らの名刺代わりとして、イエス様にこのように言いました。
「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受け取ることができるでしょうか。」
神の子であるイエス様に「尊い」とつけるのを忘れずに、また永遠のいのちというイエス様が喜びそうな質問です。
ところがなんということでしょう。彼はイエス様からまったく予想もしていなかったダメ出しを喰らいます。
「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。」
いったい何が悪かったのでしょうか。イエス様を神そのものとして認めているからこそ「尊い」という言葉を付けたのに。
彼の挨拶は、非の打ち所のないものでした。しかし、イエス様は彼のことばではなく、心を見られたのです。
それは、神様の前に一寸の狂いもなく正しいことばで身構えながら近づこうとしている、彼の心に対してです。
言い換えるならば、正しくて、つけいる隙のない自分自身を装わなければ、神に近づくことができないと決めつけている心に対してです。
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2018.7.8「地上(ここ)から天へ」(マタイ20:1-16)
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
西日本豪雨の被災者・ご遺族の方々、また現地の諸教会の上に励ましと慰めがありますように祈ります。
何というタイトルか忘れましたが、昔読んだ星新一氏のショート・ショートにこんなあらすじの作品がありました。
さきの大阪北部地震での小学校ブロック倒壊から始まった調査で、全国で小中学校だけで800以上の危険状況が見つかったそうです。
また今回、予想外の豪雨とは言え200人以上の死亡者を出したことによって、全国の治水行政は早急の見直しを迫られることでしょう。
今回の説教(録画)の中で、オウム真理教の何が若きエリートたちを惹きつけたのかについて触れています。
バブル経済の背後での個人のレゾンデートル(存在価値・存在理由)の喪失につけ込んだ洗脳、そして暴走。
その彼らの死刑執行が一斉になされたことと、今回の天災でより露わになった「日本というシステムの金属疲労」・・・・。
「幕引き」どころかむしろ巻き込み繋がりながら、より深淵に向かって転がり続けているように思えます。
その中で、信仰は何を私たちに問いかけているのか。答えを聖書の中から探し続けていきたいものです。週報はこちらです。
聖書箇所 『マタイの福音書』20章1-16節
序.
昨年、教団の会議で千葉に出張した折り、新潟・成田間を往復する飛行機に乗ったことがありました。
ガラス窓におでこを貼り付けて下界をのぞき込む姿はいささか恥ずかしいものがありますが、
子どもの頃に飛行機に乗ったことがなかったので、もう40をすぎたいいおじさんになっても、いまだに童心に返ってしまいます。
景色にも感動するのですが、もっと感銘を受けるのは、地上で雨が降っていても、雲の上にはただ青空が広がっているということです。
今回、それを逆の形で経験しました。空の上では日光がまぶしいほどだったのに、新潟空港に下りたら雨がしとしと降っていました。
意外かもしれませんが、福音書の中で「天の御国」という言葉を使っているのは、このマタイだけです。
マルコの福音書、またルカの福音書では、「神の国」という言葉を使います。しかしマタイに限って、必ず「天」という言葉を使っています。
マタイはおそらく飛行機に乗ったことはないと思いますが、天という言葉の持つ圧倒的な解放感を知っていたのではないかと思います。
今までも繰り返し語ってきましたが、「天の御国」というのは、人が死んだ後に行く天国のことではありません。
私たちがこの人生でイエス・キリストを信じたときにすぐに始まる、神に祝福された新しい生き方のことです。
しかし天国と誤解されることを恐れないで、イエス様が説かれた神の国をマタイが必ず「天の御国」と書いていること、
それは地上で生きていても、私たちはこの解放的な天の醍醐味を、キリストを信じたその瞬間から味わうことができるということです。
もしかしたらクリスチャンの多くが、自分でもその醍醐味に気づいていないまま歩んでいるのかもしれません。
しかし私も実際に様々な失敗やトラブルを通してわかったことですが、神の知らないことはこの世界には何一つありません。
もう自分の手には負えない、と思うとき、そこには、すべてをはじめから終わりまでみつめておられる神のまなざしが必ずあるのです。
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西日本豪雨の被災者・ご遺族の方々、また現地の諸教会の上に励ましと慰めがありますように祈ります。
何というタイトルか忘れましたが、昔読んだ星新一氏のショート・ショートにこんなあらすじの作品がありました。
男が朝、目を覚ます。なぜか目覚ましが鳴らなかった。トースターからパンが出てこない。テレビのリモコンがつかない。小説はそこで終わっていました。30年以上前に読んだ作品なので、細かい所は違っているかもしれません。
電化製品だけでなく、新聞(印刷物)、テーブル(木製品)、およそ「モノ」と呼ばれるものすべての調子が悪くなっていた。
男はリモコンをあきらめて、テレビに近づいてスイッチを入れた。テレビは何十秒もかけてようやく、ぼんやりと画面を映し出した。
そこでは、今世界中で「モノ」が一斉に壊れていく事件について報道されていた。このおかしな現象は、男の家だけではなかったのだ。
番組の中でひとりの評論家が、「頭がおかしいと言われるかもしれないが」と前置きして、この現象の原因を説明していた。
「・・・あらゆる「モノ」が金属疲労を起こしているのです。いわば「モノ」たちが人間に奉仕することに疲れ果ててしまったのです・・・」
突然、映像が切れた。男はテレビにしがみついて懇願する。「頼むよ、もう一度映し出してくれ・・・」
そのとき、机、床、柱に亀裂が走る。電化製品が一斉に白煙をあげる。壁と土台が崩れ、闇が男と世界を飲み込んでいった。
さきの大阪北部地震での小学校ブロック倒壊から始まった調査で、全国で小中学校だけで800以上の危険状況が見つかったそうです。
また今回、予想外の豪雨とは言え200人以上の死亡者を出したことによって、全国の治水行政は早急の見直しを迫られることでしょう。
今回の説教(録画)の中で、オウム真理教の何が若きエリートたちを惹きつけたのかについて触れています。
バブル経済の背後での個人のレゾンデートル(存在価値・存在理由)の喪失につけ込んだ洗脳、そして暴走。
その彼らの死刑執行が一斉になされたことと、今回の天災でより露わになった「日本というシステムの金属疲労」・・・・。
「幕引き」どころかむしろ巻き込み繋がりながら、より深淵に向かって転がり続けているように思えます。
その中で、信仰は何を私たちに問いかけているのか。答えを聖書の中から探し続けていきたいものです。週報はこちらです。
聖書箇所 『マタイの福音書』20章1-16節
序.
昨年、教団の会議で千葉に出張した折り、新潟・成田間を往復する飛行機に乗ったことがありました。
ガラス窓におでこを貼り付けて下界をのぞき込む姿はいささか恥ずかしいものがありますが、
子どもの頃に飛行機に乗ったことがなかったので、もう40をすぎたいいおじさんになっても、いまだに童心に返ってしまいます。
景色にも感動するのですが、もっと感銘を受けるのは、地上で雨が降っていても、雲の上にはただ青空が広がっているということです。
今回、それを逆の形で経験しました。空の上では日光がまぶしいほどだったのに、新潟空港に下りたら雨がしとしと降っていました。
意外かもしれませんが、福音書の中で「天の御国」という言葉を使っているのは、このマタイだけです。
マルコの福音書、またルカの福音書では、「神の国」という言葉を使います。しかしマタイに限って、必ず「天」という言葉を使っています。
マタイはおそらく飛行機に乗ったことはないと思いますが、天という言葉の持つ圧倒的な解放感を知っていたのではないかと思います。
今までも繰り返し語ってきましたが、「天の御国」というのは、人が死んだ後に行く天国のことではありません。
私たちがこの人生でイエス・キリストを信じたときにすぐに始まる、神に祝福された新しい生き方のことです。
しかし天国と誤解されることを恐れないで、イエス様が説かれた神の国をマタイが必ず「天の御国」と書いていること、
それは地上で生きていても、私たちはこの解放的な天の醍醐味を、キリストを信じたその瞬間から味わうことができるということです。
もしかしたらクリスチャンの多くが、自分でもその醍醐味に気づいていないまま歩んでいるのかもしれません。
しかし私も実際に様々な失敗やトラブルを通してわかったことですが、神の知らないことはこの世界には何一つありません。
もう自分の手には負えない、と思うとき、そこには、すべてをはじめから終わりまでみつめておられる神のまなざしが必ずあるのです。
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2018.7.1「礼拝はいそがしい」(マタイ12:1-14)
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先日、新潟聖書学院でカウンセリング技法の特別講義に参加してきました。
現在、牧会の中でカウンセリングは不可欠なものですが、私が神学校に在籍していた当時はあまり重要視されていませんでした。
むしろ説教を磨け!という感じでした。そんな潮目が変わったのは東日本大震災かもしれません。
被災者のケアのために「傾聴」ということがよく言われるようになりました。
しかし今回改めて講義に参加してみて、実際の傾聴とはじっくり聞くことだけではないということがわかりました。
相手の話を聞きながら、相手の言葉を繰り返し、明確化し、質問を行い、相手が自分自身で考えていくことを促していく。
聞くだけではなくて、五感を目まぐるしく働かせて、相手を理解することが傾聴だということを改めて思った次第です。
人間相手でさえそうなのだから、ましてや神の御前に自らをささげる礼拝で、私たちはどれほど五感を働かせているだろう。
今日の説教は、そんな視点から語っています。週報はこちらです。
聖書箇所 『マタイの福音書』12章1-14節
1.
今から十年以上前ですが、朝日新聞に玉村豊男さんという方が、おもしろいエッセイを連載していました。
この方はもともと作家ですが、ちょうどその頃、信州の山の中に農園を開いて、自給自足の生活を始めておられました。
すると取材に来た記者たちが、目の前の雄大な山並みを眺めながら、口を揃えてこう言ったそうです。
「都会の慌ただしさから離れて、ゆったりとした時間を楽しむ。先生、これぞまさしくスローライフですね。まったくうらやましい限りです」。
しかし玉村さんはその言葉に頷きながらも、田舎暮らしをスローライフと呼ぶ風潮を快く思っていなかったということでした。
都会では、誰かが運転するバスや電車に乗り、誰かが作った食べ物を買い、ゴミをステーションに出せば誰かが持って行ってくれる。
しかしこんな山の中ではそうはいかない。畑仕事も台所仕事もなんでも自分でやらなければならないし、手間もかかる。
とてもとても、これぞ自然に生きる人間的な生活、スローライフはすばらしいとか言っているような暇はない。
そしてその回のエッセイを、こんな言葉で閉じていました。「他人まかせの暮らしと違い、スローライフは忙しいのだ」。
この「スローライフ」と同じようにイメージばかりが先走っているのが、じつはキリスト教会の礼拝ではないかと思います。
平均的日本人が連想する教会の礼拝のイメージを挙げてみましょう。高い天井の会堂。金属製の燭台や十字架といった調度品。
荘厳な雰囲気に包まれながら、歴史の重みを感じさせる長椅子に腰をかけながら、牧師だか神父だかのありがたい話に耳を傾ける。
たまに起立して讃美歌を歌うことはあっても、ほとんどは長椅子に座って過ごし、そしてなんとなくきよめられたように感じながら教会を後にする。
しかし実際に、うちの教会を含めて、各地の教会に行けばわかりますが、そういう礼拝の姿はまさにイメージ、虚像でしかありません。
問題は、会堂の外観や内装がイメージしていたものとは違うというよりも、もっと本質的なことを人々は誤解しています。
礼拝とは、座っていればメニューが自然に出されるような、受け身のものではないのです。それこそ、礼拝はいそがしいのです。
忙しいという言葉を誤解しないでください。賛美の時に立ち上がり、献金の時に財布を取り出すという、その程度の忙しさではありません。
礼拝の初めから終わりに至るまで、自分の持っているすべての感覚を働かせて、全体のプログラムを通して神に近づいていくのが礼拝です。
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先日、新潟聖書学院でカウンセリング技法の特別講義に参加してきました。
現在、牧会の中でカウンセリングは不可欠なものですが、私が神学校に在籍していた当時はあまり重要視されていませんでした。
むしろ説教を磨け!という感じでした。そんな潮目が変わったのは東日本大震災かもしれません。
被災者のケアのために「傾聴」ということがよく言われるようになりました。
しかし今回改めて講義に参加してみて、実際の傾聴とはじっくり聞くことだけではないということがわかりました。
相手の話を聞きながら、相手の言葉を繰り返し、明確化し、質問を行い、相手が自分自身で考えていくことを促していく。
聞くだけではなくて、五感を目まぐるしく働かせて、相手を理解することが傾聴だということを改めて思った次第です。
人間相手でさえそうなのだから、ましてや神の御前に自らをささげる礼拝で、私たちはどれほど五感を働かせているだろう。
今日の説教は、そんな視点から語っています。週報はこちらです。
聖書箇所 『マタイの福音書』12章1-14節
1.
今から十年以上前ですが、朝日新聞に玉村豊男さんという方が、おもしろいエッセイを連載していました。
この方はもともと作家ですが、ちょうどその頃、信州の山の中に農園を開いて、自給自足の生活を始めておられました。
すると取材に来た記者たちが、目の前の雄大な山並みを眺めながら、口を揃えてこう言ったそうです。
「都会の慌ただしさから離れて、ゆったりとした時間を楽しむ。先生、これぞまさしくスローライフですね。まったくうらやましい限りです」。
しかし玉村さんはその言葉に頷きながらも、田舎暮らしをスローライフと呼ぶ風潮を快く思っていなかったということでした。
都会では、誰かが運転するバスや電車に乗り、誰かが作った食べ物を買い、ゴミをステーションに出せば誰かが持って行ってくれる。
しかしこんな山の中ではそうはいかない。畑仕事も台所仕事もなんでも自分でやらなければならないし、手間もかかる。
とてもとても、これぞ自然に生きる人間的な生活、スローライフはすばらしいとか言っているような暇はない。
そしてその回のエッセイを、こんな言葉で閉じていました。「他人まかせの暮らしと違い、スローライフは忙しいのだ」。
この「スローライフ」と同じようにイメージばかりが先走っているのが、じつはキリスト教会の礼拝ではないかと思います。
平均的日本人が連想する教会の礼拝のイメージを挙げてみましょう。高い天井の会堂。金属製の燭台や十字架といった調度品。
荘厳な雰囲気に包まれながら、歴史の重みを感じさせる長椅子に腰をかけながら、牧師だか神父だかのありがたい話に耳を傾ける。
たまに起立して讃美歌を歌うことはあっても、ほとんどは長椅子に座って過ごし、そしてなんとなくきよめられたように感じながら教会を後にする。
しかし実際に、うちの教会を含めて、各地の教会に行けばわかりますが、そういう礼拝の姿はまさにイメージ、虚像でしかありません。
問題は、会堂の外観や内装がイメージしていたものとは違うというよりも、もっと本質的なことを人々は誤解しています。
礼拝とは、座っていればメニューが自然に出されるような、受け身のものではないのです。それこそ、礼拝はいそがしいのです。
忙しいという言葉を誤解しないでください。賛美の時に立ち上がり、献金の時に財布を取り出すという、その程度の忙しさではありません。
礼拝の初めから終わりに至るまで、自分の持っているすべての感覚を働かせて、全体のプログラムを通して神に近づいていくのが礼拝です。
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2018.6.24「あなたを捜して(関根弘興牧師メッセージ)」(ルカ15:1-10)
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週の礼拝は、いつもと趣向を変えまして、「ライフライン・デー歓迎礼拝」を行いました。
「ライフライン・デー」とは、全国13地域で放送されている福音番組「ライフ・ライン」を支援することを、新潟の協力教会でおぼえる日です。
今年のライフライン・デーは6/3なのですが、当教会では「ライフラインのつどい」もちょうど行われる24日を記念礼拝としました。
なんと説教を「ライフ・ライン」で放送された関根弘興牧師のメッセージDVDにするという大胆な礼拝形式です。
役員会でもあまり説明しておかなかったので、後から何か言われてしまうかも。今頃になってドキドキです。
決して説教をサボりたくてそういう形にしたのではないのですよ。
決して説教をサボりたくてそういう形にしたのではないのですよ。大切なことなので二回言いました。
ここまで福音をダイレクトに伝えている番組を、教会が支援していくということの大切さをかみしめるためなのです。
説教の代わりに、私が「ライフ・ラインの仕組み」というプレゼン形式での奨励を行いました。これを作るほうが説教準備より大変でした。
新潟では、BSNで毎週土曜朝5:15から放送されています
「サ○エさん」を例にとっていますが、どうか訴えないでください
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今週の礼拝は、いつもと趣向を変えまして、「ライフライン・デー歓迎礼拝」を行いました。
「ライフライン・デー」とは、全国13地域で放送されている福音番組「ライフ・ライン」を支援することを、新潟の協力教会でおぼえる日です。
今年のライフライン・デーは6/3なのですが、当教会では「ライフラインのつどい」もちょうど行われる24日を記念礼拝としました。
なんと説教を「ライフ・ライン」で放送された関根弘興牧師のメッセージDVDにするという大胆な礼拝形式です。
役員会でもあまり説明しておかなかったので、後から何か言われてしまうかも。今頃になってドキドキです。
決して説教をサボりたくてそういう形にしたのではないのですよ。
決して説教をサボりたくてそういう形にしたのではないのですよ。大切なことなので二回言いました。
ここまで福音をダイレクトに伝えている番組を、教会が支援していくということの大切さをかみしめるためなのです。
説教の代わりに、私が「ライフ・ラインの仕組み」というプレゼン形式での奨励を行いました。これを作るほうが説教準備より大変でした。


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2018.6.17「悲しみという名の扉」(マタイ5:4)
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先日、豊栄図書館で見つけた「教会ねずみとのんきなねこ」。幼児向け絵本なのに「Ministry」顔負けの牧会批評に思わずグッときました
グッときたポイントその1
サムソンが寝ぼけてネズミたちを追いかけ回して礼拝が破綻した後、なぜか普通にネコと会話できる牧師が、寝ぼけた理由を聞きました。
サムソン「いやあ、先生がまた同じような話をするもんで・・・あ、すいません、言いすぎました」 ネコのくせに言うことが役員レベル。
グッときたポイントその2
めちゃくちゃになった礼拝に、会衆は怒り心頭。一斉に立ち上がり家に帰り始める。そして牧師にこんなひと言。
「このバカネコを追いだしてください。さもないと、もう礼拝には来ません!」 ネコが役員レベルで、教会員は・・・お客様レベル?
グッときたポイントその3
一件落着のあと、ネズミたちがまたうるさくすると「ああ眠い。また寝ぼけて追いかけてしまうかも」と聞こえよがしに大あくびをするサムソン。
「そうすると二日くらいは静かになるのでした」とのナレーターのひと言。人間、そう簡単には変わりません。ネズミですが
二日という日数に、努力が続かないオトナの人生の酸っぱさを感じます。問題は幼児に果たして伝わるかどうか
かつて70年代にポプラ社、90年代にすぐ書房からシリーズが出されていましたが、今は絶版。
2011年以降、徳間書店から以下の3冊が出版されているようです。続きが読みたくなりました。週報はこちらです。
聖書箇所 『マタイの福音書』5章4節
1.
「悲しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」。
イエス・キリストのことばはいつも私たちの心を揺さぶります。いやむしろ逆撫ですると言ったほうがよいかもしれません。
「心の貧しい者は幸いである」という言葉が、もともとは乞食や物乞いを意味すると前回の説教で話しました。
いったい、乞食や物乞いと言われてああ私は幸せです、と思う人がいるでしょうか。
そしてそれに続く言葉が今日のこの言葉です。「悲しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」。
悲しむのが幸いだって?だったら私と代わってくれよ、こんな状態になっても、あんたは本当に幸せだと言えるのかい。
いま心から悲しんでいる人々がこの言葉を聞いたならば、そう反応してもおかしくありません。
イエス・キリストのことばは、聞く人の心を逆撫でします。しかしじつは逆撫でしているわけではありません。
人生の視点を変えて、いつも見ているところの裏側から見てごらん、
あなたが貧しくて不幸だと思っていたものがじつは神だけにしがみつける幸いなんだ、
悲しくて不幸だと思っていたものがじつは慰めに満ちた幸いなんだ、それがイエス様の伝えたかったことです。
ある人はそれを刺しゅう、糸と針を使う方の刺しゅうにたとえています。
どんなに美しい刺しゅうであっても、裏側から見たら糸が固まっていて、必ずどこかに見苦しいところがあります。
でもそんな不完全な裏側があるからこそ、表のほうではすばらしい刺しゅうが作られている。
貧しいこと、悲しいこと、苦しいこと、それがなかったら、人生の刺しゅうの表側は永遠に完成しない。
まず私たちは、悲しみは不幸だという思い込みを捨てるべきです。
私もまた自分にこう問いかけます。悲しみが私の中にもたらされるとき、私は不幸なのだろうか。
いや、むしろ悲しみがあるからこそ、私はいま生きているのだ、と。
続きを読む
先日、豊栄図書館で見つけた「教会ねずみとのんきなねこ」。幼児向け絵本なのに「Ministry」顔負けの牧会批評に思わずグッときました
ねずみのアーサーは、ネコのサムソンと、仲良く教会にくらしていましたが、仲間がほしくなり、町からたくさんのねずみを連れてきました。ある日、ネコのサムソンが、礼拝をめちゃめちゃにしてしまう事件を起こします。ネコがあばれる原因となったネズミたちは教会を追い出されそうになりますが、みんなで泥棒退治で活躍し、無事、教会でくらし続けられることになりました。(出版社のあらすじ紹介より)


サムソンが寝ぼけてネズミたちを追いかけ回して礼拝が破綻した後、なぜか普通にネコと会話できる牧師が、寝ぼけた理由を聞きました。
サムソン「いやあ、先生がまた同じような話をするもんで・・・あ、すいません、言いすぎました」 ネコのくせに言うことが役員レベル。


めちゃくちゃになった礼拝に、会衆は怒り心頭。一斉に立ち上がり家に帰り始める。そして牧師にこんなひと言。
「このバカネコを追いだしてください。さもないと、もう礼拝には来ません!」 ネコが役員レベルで、教会員は・・・お客様レベル?


一件落着のあと、ネズミたちがまたうるさくすると「ああ眠い。また寝ぼけて追いかけてしまうかも」と聞こえよがしに大あくびをするサムソン。
「そうすると二日くらいは静かになるのでした」とのナレーターのひと言。人間、そう簡単には変わりません。ネズミですが
二日という日数に、努力が続かないオトナの人生の酸っぱさを感じます。問題は幼児に果たして伝わるかどうか
かつて70年代にポプラ社、90年代にすぐ書房からシリーズが出されていましたが、今は絶版。
2011年以降、徳間書店から以下の3冊が出版されているようです。続きが読みたくなりました。週報はこちらです。
聖書箇所 『マタイの福音書』5章4節
1.
「悲しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」。
イエス・キリストのことばはいつも私たちの心を揺さぶります。いやむしろ逆撫ですると言ったほうがよいかもしれません。
「心の貧しい者は幸いである」という言葉が、もともとは乞食や物乞いを意味すると前回の説教で話しました。
いったい、乞食や物乞いと言われてああ私は幸せです、と思う人がいるでしょうか。
そしてそれに続く言葉が今日のこの言葉です。「悲しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」。
悲しむのが幸いだって?だったら私と代わってくれよ、こんな状態になっても、あんたは本当に幸せだと言えるのかい。
いま心から悲しんでいる人々がこの言葉を聞いたならば、そう反応してもおかしくありません。
イエス・キリストのことばは、聞く人の心を逆撫でします。しかしじつは逆撫でしているわけではありません。
人生の視点を変えて、いつも見ているところの裏側から見てごらん、
あなたが貧しくて不幸だと思っていたものがじつは神だけにしがみつける幸いなんだ、
悲しくて不幸だと思っていたものがじつは慰めに満ちた幸いなんだ、それがイエス様の伝えたかったことです。
ある人はそれを刺しゅう、糸と針を使う方の刺しゅうにたとえています。
どんなに美しい刺しゅうであっても、裏側から見たら糸が固まっていて、必ずどこかに見苦しいところがあります。
でもそんな不完全な裏側があるからこそ、表のほうではすばらしい刺しゅうが作られている。
貧しいこと、悲しいこと、苦しいこと、それがなかったら、人生の刺しゅうの表側は永遠に完成しない。
まず私たちは、悲しみは不幸だという思い込みを捨てるべきです。
私もまた自分にこう問いかけます。悲しみが私の中にもたらされるとき、私は不幸なのだろうか。
いや、むしろ悲しみがあるからこそ、私はいま生きているのだ、と。
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2018.6.10「心貧しきがゆえの幸い」(マタイ4:23-25、5:1-3)
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
毎日、家族のために栄養バランスを考えた献立を考えて、食事を用意しているお母さんがいました。
そんなとき、家族がもう一人増えました。弟が生まれたのです。家族は心から喜び、成長を祈りました。
そしてお母さんは、末っ子のための乳児食と、家族のための食事の両方を準備するようになりました。ごく自然なことです。
しかしこれを礼拝説教にあてはめてみるとどうでしょうか。
求道者(乳児)と信徒(他の家族)が同じ食事を提供されているというのが、日本の大部分の教会の礼拝の姿です。
それが教会の一致だとか、「子どもと大人一緒の礼拝」だとか言われます。
でも説教で人は養われるとすれば、求道者向けのものと信徒向けのもの、それぞれが必要なのではないでしょうか。
乳児が大人向けの食事を食べられるはずがなく、同時に大人が乳児向けの食事で満たされるはずがありません。
この、どの教会の礼拝でも見られるであろうジレンマは、だいたいの場合、大人のほうが譲歩します。
「先生、求道者の方にもわかりやすい話をしてください」と言われたことがない牧師はいないはずです。
しかしそれは求道者を配慮したものであっても、「私たちへの食事は必要ありません」と言っているのと同じなのです。
大人は少し食事を抜いたからといってすぐに健康を崩すことはありませんが、それも限界があります。
牧師にとって、主日礼拝は信徒をみことばによって養育する時でもあります。求道者だけではありません。
もし教会員が礼拝説教で十分に養われなければ、ディボーションは空腹を満たすための間食のようになってしまいます。
しかし現実的には、一つの説教で、信徒と求道者それぞれの必要に向き合わなければならないのが日本の教会の現実です。
どこか釈然としない思いを抱きながら、説教者は言葉を磨き、選び、祈りつつ準備します。ただ聖霊が働いてくださることを信じながら。
週報はこちらです。
聖書箇所 『マタイの福音書』4章23-25、5章1-3節
1.
イエス様の最初の宣教活動において、人々のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直されたという姿をマタイは強調しています。
さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人、あらゆる人々がイエス様によっていやされました。
しかしたとえそれがいやされたとしても、イエス様から見て人々はいまだ凍えて震え続ける、迷子の羊のようでした。
健康上の不安は取り除かれたとしても、彼らの心の中にはいまだに不安が残っている姿をイエス様はご覧になりました。
だからこそ、山に登り、従って来た老若男女に向かって、彼らの人生に平安と励ましを与えるみことばを語られました。
しかしその始まりの言葉は、何と謎に満ちていることでしょうか。心の貧しい者は幸いです、天の御国はその人たちのものだから、と。
「心が貧しい」人がなぜ幸いなのか、だれもが頭を抱え込むでしょう。
この言葉は、愛情に欠けた人や、金銭に汚い人への批判として私たちは使うからです。
なぜこんな人たちが幸いで、しかも天の御国はこんな人たちのものなのか。
天の御国についてよくわからないが、少なくともそんなところには行きたくないな、と思う人さえいるのではないでしょうか。
ここで「貧しい」と訳されている言葉は、もともとは「縮こまる」とか「うずくまる」という動詞から来た言葉です。
それは、ただ貧しいというだけでなく、乞食、物ごいを表す言葉として使われました。
背骨が折れそうなくらいに身を縮こまらせて、地面にうずくまり、通行人から何かを恵んでもらう、乞食、物ごいの姿です。
「心の貧しい」とイエス様が言葉を出したとき、聴いている人々はこの乞食や物ごいの姿を必ず連想したはずです。
そのうえで、あなたの心がその乞食、物ごいのようだと認めるならば、あなたはむしろ幸いなのだ。
イエス様のこの短い言葉の裏に隠れている思いを、こんな言葉で表してみます。
確かにあなたはわたしに悪霊を追い出され、病をいやされ、痛みを取り除いてもらったね。
でもわたしがあなたに与えようとしている幸いはそんなものではない。病は年を経ればまた現れ、老いを重ね、死が訪れる。
しかし自分がみじめなものにすぎず、神の助けを必要とする、まさに乞食や物ごいなのだと認めるならば、あなたの人生は裏返るのだ。
あなたの生きている世界がどれだけ不平等で残酷な世界であろうとも、自分のみじめさを受け入れて神にしがみつくとき、
あなたはすでに天の御国の国籍を持っているのだ、と。
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毎日、家族のために栄養バランスを考えた献立を考えて、食事を用意しているお母さんがいました。
そんなとき、家族がもう一人増えました。弟が生まれたのです。家族は心から喜び、成長を祈りました。
そしてお母さんは、末っ子のための乳児食と、家族のための食事の両方を準備するようになりました。ごく自然なことです。
しかしこれを礼拝説教にあてはめてみるとどうでしょうか。
求道者(乳児)と信徒(他の家族)が同じ食事を提供されているというのが、日本の大部分の教会の礼拝の姿です。
それが教会の一致だとか、「子どもと大人一緒の礼拝」だとか言われます。
でも説教で人は養われるとすれば、求道者向けのものと信徒向けのもの、それぞれが必要なのではないでしょうか。
乳児が大人向けの食事を食べられるはずがなく、同時に大人が乳児向けの食事で満たされるはずがありません。
この、どの教会の礼拝でも見られるであろうジレンマは、だいたいの場合、大人のほうが譲歩します。
「先生、求道者の方にもわかりやすい話をしてください」と言われたことがない牧師はいないはずです。
しかしそれは求道者を配慮したものであっても、「私たちへの食事は必要ありません」と言っているのと同じなのです。
大人は少し食事を抜いたからといってすぐに健康を崩すことはありませんが、それも限界があります。
牧師にとって、主日礼拝は信徒をみことばによって養育する時でもあります。求道者だけではありません。
もし教会員が礼拝説教で十分に養われなければ、ディボーションは空腹を満たすための間食のようになってしまいます。
しかし現実的には、一つの説教で、信徒と求道者それぞれの必要に向き合わなければならないのが日本の教会の現実です。
どこか釈然としない思いを抱きながら、説教者は言葉を磨き、選び、祈りつつ準備します。ただ聖霊が働いてくださることを信じながら。
週報はこちらです。
聖書箇所 『マタイの福音書』4章23-25、5章1-3節
1.
イエス様の最初の宣教活動において、人々のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直されたという姿をマタイは強調しています。
さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人、あらゆる人々がイエス様によっていやされました。
しかしたとえそれがいやされたとしても、イエス様から見て人々はいまだ凍えて震え続ける、迷子の羊のようでした。
健康上の不安は取り除かれたとしても、彼らの心の中にはいまだに不安が残っている姿をイエス様はご覧になりました。
だからこそ、山に登り、従って来た老若男女に向かって、彼らの人生に平安と励ましを与えるみことばを語られました。
しかしその始まりの言葉は、何と謎に満ちていることでしょうか。心の貧しい者は幸いです、天の御国はその人たちのものだから、と。
「心が貧しい」人がなぜ幸いなのか、だれもが頭を抱え込むでしょう。
この言葉は、愛情に欠けた人や、金銭に汚い人への批判として私たちは使うからです。
なぜこんな人たちが幸いで、しかも天の御国はこんな人たちのものなのか。
天の御国についてよくわからないが、少なくともそんなところには行きたくないな、と思う人さえいるのではないでしょうか。
ここで「貧しい」と訳されている言葉は、もともとは「縮こまる」とか「うずくまる」という動詞から来た言葉です。
それは、ただ貧しいというだけでなく、乞食、物ごいを表す言葉として使われました。
背骨が折れそうなくらいに身を縮こまらせて、地面にうずくまり、通行人から何かを恵んでもらう、乞食、物ごいの姿です。
「心の貧しい」とイエス様が言葉を出したとき、聴いている人々はこの乞食や物ごいの姿を必ず連想したはずです。
そのうえで、あなたの心がその乞食、物ごいのようだと認めるならば、あなたはむしろ幸いなのだ。
イエス様のこの短い言葉の裏に隠れている思いを、こんな言葉で表してみます。
確かにあなたはわたしに悪霊を追い出され、病をいやされ、痛みを取り除いてもらったね。
でもわたしがあなたに与えようとしている幸いはそんなものではない。病は年を経ればまた現れ、老いを重ね、死が訪れる。
しかし自分がみじめなものにすぎず、神の助けを必要とする、まさに乞食や物ごいなのだと認めるならば、あなたの人生は裏返るのだ。
あなたの生きている世界がどれだけ不平等で残酷な世界であろうとも、自分のみじめさを受け入れて神にしがみつくとき、
あなたはすでに天の御国の国籍を持っているのだ、と。
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2018.6.3「探していたのはどちら」(マタイ13:44-46)
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
三週間ぶりの豊栄での礼拝説教奉仕です(おい)。なんとなく病み上がり的な感じで、カメラも曲がっています
今回の説教は、もっぱら人間の求道心や決意といった文脈でメッセージされることが多い箇所を、神の側の探求という視点から語りました。
ところが語っているときに示されたのは、一方は「畑に隠された宝」でもう一方は「真珠を探している商人」になっていること。
「宝と真珠」ということでもなく「宝を探している人と真珠商人」でもない。
つまり「天の御国」について、神の側、人の側それぞれからの視点を提示していると言えるかもしれません。
原稿にないものを語ると軌道修正が大変なので、実際の説教では触れていませんが。
って、説教の後で修正するなよ、と突っ込まれそうですが、語りながら新しいことを示されるというのもじつはよくあることです。
説教は生物(なまもの)、教会は生物(いきもの)、牧会は水物(みずもの)※です。
誰の言葉か忘れましたが、同じ状況でも同じ答えはない、ということでしょうか。三つ目が語呂合わせっぽいですが。
しかし聖書とイエス・キリストは変わることがありません。週報はこちらです。
※水物=そのときの条件によって変わりやすく、予想しにくい物事。「選挙は水物だ」(デジタル大辞泉より)
聖書箇所 『マタイの福音書』13章44-46節
1.
ある坊やがデパートで迷子になり、お母さんとはぐれてしまいました。
お母さんは坊やの行きそうなおもちゃ売り場や試食コーナーなどを必死で探し回りましたが、どこにも見当たりません。
最後に、デパートのサービスカウンターへ行って、坊やが迷子になったことを店員さんに伝えて、館内放送で呼び出してもらいました。
数分後、放送で名前を呼ばれた坊やがサービスカウンターへ走ってきました。しかしそこで坊やが口をとがらせてこう言いました。
「ママ、どうして迷子になったの。一生懸命、ママの行きそうな所を探していたんだよ」。
信仰の世界にも同じようなことがあります。私たちが一生懸命救いを求めたから、イエス・キリストを見つけたのか。
それとも、神が私たちを懸命に探しておられ、見つけられたのは私たちのほうなのに、そのことに気づかないのか。
今日のたとえ話は、そんなことを私たちに考えさせるものだと言えるでしょう。
多くの人は、このふたつのたとえ話に出てくる人々を、私たちの姿として解釈します。
ひとつめのたとえ話では、永遠の救いというかけがえのない宝物を見つけた人は、全財産を売り払ってその畑を購入してでも、その宝、
すなわち永遠の救いを手に入れようとします。
二つ目のたとえ話では、すばらしい値打ちの真珠もまた永遠の救いを指していて、私たちはそれを探し続けている商人であり、
やはり持ち物を全部売り払ってでもそれを手に入れる、と。
でもこれは、先ほどの坊やが、迷子になったのは自分の方なのに、お母さんのほうが迷子になったと考えるのに似ていないでしょうか。
つまり、土の中の宝や、すばらしい真珠とは、永遠の救いを指しているのではなく、むしろ私たち一人ひとりのほうではないか、ということです。
宝物を見つけた人、あるいは真珠商人とは、救いを探している私たちのほうではなく、むしろ神様であって、
私たちは見つけだした者ではなくて、むしろ私たちが見つけられたほうなのです。
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三週間ぶりの豊栄での礼拝説教奉仕です(おい)。なんとなく病み上がり的な感じで、カメラも曲がっています
今回の説教は、もっぱら人間の求道心や決意といった文脈でメッセージされることが多い箇所を、神の側の探求という視点から語りました。
ところが語っているときに示されたのは、一方は「畑に隠された宝」でもう一方は「真珠を探している商人」になっていること。
「宝と真珠」ということでもなく「宝を探している人と真珠商人」でもない。
つまり「天の御国」について、神の側、人の側それぞれからの視点を提示していると言えるかもしれません。
原稿にないものを語ると軌道修正が大変なので、実際の説教では触れていませんが。
って、説教の後で修正するなよ、と突っ込まれそうですが、語りながら新しいことを示されるというのもじつはよくあることです。
説教は生物(なまもの)、教会は生物(いきもの)、牧会は水物(みずもの)※です。
誰の言葉か忘れましたが、同じ状況でも同じ答えはない、ということでしょうか。三つ目が語呂合わせっぽいですが。
しかし聖書とイエス・キリストは変わることがありません。週報はこちらです。
※水物=そのときの条件によって変わりやすく、予想しにくい物事。「選挙は水物だ」(デジタル大辞泉より)
聖書箇所 『マタイの福音書』13章44-46節
1.
ある坊やがデパートで迷子になり、お母さんとはぐれてしまいました。
お母さんは坊やの行きそうなおもちゃ売り場や試食コーナーなどを必死で探し回りましたが、どこにも見当たりません。
最後に、デパートのサービスカウンターへ行って、坊やが迷子になったことを店員さんに伝えて、館内放送で呼び出してもらいました。
数分後、放送で名前を呼ばれた坊やがサービスカウンターへ走ってきました。しかしそこで坊やが口をとがらせてこう言いました。
「ママ、どうして迷子になったの。一生懸命、ママの行きそうな所を探していたんだよ」。
信仰の世界にも同じようなことがあります。私たちが一生懸命救いを求めたから、イエス・キリストを見つけたのか。
それとも、神が私たちを懸命に探しておられ、見つけられたのは私たちのほうなのに、そのことに気づかないのか。
今日のたとえ話は、そんなことを私たちに考えさせるものだと言えるでしょう。
多くの人は、このふたつのたとえ話に出てくる人々を、私たちの姿として解釈します。
ひとつめのたとえ話では、永遠の救いというかけがえのない宝物を見つけた人は、全財産を売り払ってその畑を購入してでも、その宝、
すなわち永遠の救いを手に入れようとします。
二つ目のたとえ話では、すばらしい値打ちの真珠もまた永遠の救いを指していて、私たちはそれを探し続けている商人であり、
やはり持ち物を全部売り払ってでもそれを手に入れる、と。
でもこれは、先ほどの坊やが、迷子になったのは自分の方なのに、お母さんのほうが迷子になったと考えるのに似ていないでしょうか。
つまり、土の中の宝や、すばらしい真珠とは、永遠の救いを指しているのではなく、むしろ私たち一人ひとりのほうではないか、ということです。
宝物を見つけた人、あるいは真珠商人とは、救いを探している私たちのほうではなく、むしろ神様であって、
私たちは見つけだした者ではなくて、むしろ私たちが見つけられたほうなのです。
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