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2018.5.20「『イスラエル』に立ち返る」(第一列王記18:20-35)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

 今週の礼拝は、私の母校である東京基督神学校、しかし今は発展的解消を果たし東京基督教大学大学院になりましたが、
その東京基督教大学の旧約特任教授である木内伸嘉(きうち・のぶよし)先生が礼拝説教をしてくださいました。
残念ながら、説教原稿も録画も公開の許可が出ませんでした。内容はタイトルから想像してください。

 今回、東京基督教大学の講演会のために来港(新潟市の場合、来県・来新と言わずに来港というそうです)してくださいました。
もう終わりましたが、講演会のチラシを貼っておきます。例によって制作者は私です。説教より得意分野になりました。
春をイメージしましたが、新潟の5月下旬ってもう夏ですね。かえって暑苦しいものになってしまいました。

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 チラシのプロフィールに書いてありますが、木内先生はそうそうたる経歴・業績を持ち、
今回改定された「新改訳2017」でも旧約主任を務めておられます。写真もちょっとコワモテです
私よりも10年先輩の先生方(90年代入学の50代)に聞くと、木内先生の印象はとにかく厳しくて泣かされたもの数知れず、だそうです。
しかし私が東京基督神学校に在籍していた頃の先生の授業は、ほとんど授業に関係ない漫談のようなものになっていました。

その劇的な変化はどこで生まれたのか。
今回、やはり東京基督教大学の出身であるK山先生も交えて一緒に食事をしたときに、
30年以上教えていて、人間の罪性を突き詰めようとする学生はほとんどいなかった」と言っておられました。
その大部分の学生に私やK山先生も入っているのかと顔を見合わせましたが、
後進の育成をあきらめたところから逆に自然体になったということでしょうか。
世の牧師たちにとって、牧会は結局、我欲の達成にすぎないんだよ」と、
まるで仙人のような諦観をもって開拓伝道に励んでおられる先生と色々話せて、私も刺激を受けました。

来週は、山形恵みキリスト教会の吉持尽主伝道師の説教です。
説教原稿と説教動画も、二ヶ月間限定で公開の許可が出ています。ご期待ください。
べ、べつにサボっているわけじゃないんだからね!週報はこちらです。


東京基督教大学の学生生活の紹介ムービー。シネマライクに作りすぎて、やや嘘くささが漂いますいい学校です
posted by 近 at 15:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.5.13「母のような父の愛」(ルカ15:11-32)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
私の妻、ゆ○りはおとなしそうに見えて、じつはゴールド系が大好き。思い出の場所はドゴール国際空港。行ったことないけど

録画データの入った金ラベルのSDカード(↑こんなやつ)を隙あらば奪ってしまうので、最近とみに更新が遅れます。

 さて、今週の礼拝では二組の夫妻の献児式を行いました。
そのため今日の説教は両親に対する具体的な勧告になっています。
プライバシー保護のために、子どもたちの実名は△△、□□としたら、なんか虫食い算みたいな説教原稿になってしまいました。
さらにそれぞれのお父さんはじつの兄弟ですので、説教ではどちらも名字は○○という共通の伏せ字になってします。ああ、紛らわしい。
○○家の若奥様二人に証しをしていただき、それからそれぞれの赤ちゃんの頭に私が手をおいて祝福の祈りをしました。
若奥様方の証しもすばらしい内容でした。録画してありますが公開の許可をとっておりませんので、メッセージから想像してください。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』15章11-32節 

1.
 今日は○○△△くんと○○□□ちゃんの献児式を行いました。
先ほど、ご両親からそれぞれ証ししていただきましたが、ひとつの共通したテーマに感銘を受けました。
それは、△△、□□は、すでに私たちに十分なほどに恵みを与えてくれた、という感謝があふれているということです。
△△くんは今月1歳の誕生日を迎え、□□ちゃんは生まれてからようやく半年。
二人とも、まだ満足に言葉も話せず、立ち上がることもできません。しかしすでにふたりはとんでもなくすごい働きをしてくれている、
それは、家族を改めてひとつにする、という尊い働きであって、それはこの赤子二人を通して神様が与えてくれた恵みなのだ、と。
それはお母さんだけの感想ではなく、お父さん、そしてお姉ちゃんたちに共通した思いでありましょう。
 英語と日本語が混じった表現ですが、「DoingではなくBeing」とう言葉を思い出しました。
Doingとは、何かをすること。それに対してBeingとはそこに存在すること。
私たちは大人になればなるほど、Doing、何かをする、ということにばかり目がいきます。
定年になって昼間から茶の間で寝そべっているご主人に、「そこにいてくれるだけでありがとう」と目を細めてくれる奥さんはめったにおりません。
「そんなに暇なら、ちょっとは家事も手伝ってよ」。
これがDoingです。何かをするから、何かをしてくれるから、存在価値があるというわけです。
ところが○○家は(どっちも○○家ですが)、いまBeingのすばらしさに目覚めているのです。
△△くんは洗濯もできません。□□ちゃんはお掃除もできません。しかしそれよりも、もっと大きなことを家族に与えてくれている。
存在そのものが祝福であって、そこにいてくれるだけで、家族の思いをひとつにしてくれる、と。まさに子どもは神様からの祝福です。
 とはいえ、二人がこれから大人に近づくにしたがって、だんだんBeingからDoingのほうへと、家族の目線も移っていってしまうのですが、
だからこそ、いまこのとき、神様が△△と□□を私たちに与えてくれて、この子の人生は神様のものです、と告白する献児式が重要なのです。
願わくは、そこにいてくれてありがとう、というこのBeingの精神を、
△□さん(母親1)、○△さん(母親2)はそれぞれ□△君(父親1)と△○君(父親2)にも注いであげてください。

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posted by 近 at 22:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.5.6「毒麦のままでは終われない」(マタイ13:24-43)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
更新が遅くなり申し訳ありません。週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』13章24-43節 

序.
 今日の聖書箇所は、「天の御国」についてのイエス様のたとえ話です。
しかし「天の御国」とは、信仰者が死んだ後に迎えられる、いわゆる「天国」のことではありません。
では、「天の御国」とは何でしょうか。それは「天」とついていても、じつは地上のことを言っています。
天の御国、それは、人が自分の人生を神様に明け渡す、まったく新しい生き方のことです。
神を心から信じるとき、私たちは人生の主導権を自分自身から神様へと譲り渡します。
今までは、私が大事、私の生活が大事、という人生だったのが、神が喜ばれることは何かということをいつも考えながら歩むようになります。
地上の世界に生きていながら、人生の目標はこの地上での成功や安全ではなく、天の父なる神へと向かうようになります。
それを指してイエス・キリストは「天の御国」、または「神の御国」と呼んでいるのです。
 私たちがイエス・キリストを信じるとき、私たちは地上の住人ではなく天の住人になっています。
肉体と生活は地上に置きながらも、すべての望みを天におくようになります。
だから人生に不幸が起きても揺るぎません。病気や事故を恐れて生きていく必要がありません。
そしてイエス様は、その天の御国に、人生の軸足を移した人は決して何があっても失望することがない、ということを教えてくださっています。
キリストの肉と血をかみしめる聖餐礼拝のこの日、天の御国に入れられた祝福を今一度おぼえていきましょう。

1.
 ある人が自分の畑に麦の種を撒きました。しかし夜のあいだに、敵が毒麦の種も撒き、やがて良い麦に混じって毒麦も生えてきました。
イエス様がこのたとえ話を通して何を言おうとしているのか、弟子たちにはまるでわからず、あとでイエス様に尋ねました。
するとイエス様の答えは明快でした。良い麦の種を撒いた、主人とは「人の子」、つまりイエス・キリストのことであり、「畑」とは全世界。
そして良い麦とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことである、と。
ある人は、この良い麦は伝統的・正統的な教会で、毒麦は統一協会やエホバの証人のような異端であると言います。
しかしみことばを注意深く読みましょう。畑はこの世界であり、畑に蒔かれたのは良い麦か、毒麦の二種類のみです。
キリスト教の中で良い麦、毒麦二種類に分けられるのではなく、この世界のすべての人々が良い麦か毒麦に分けられています。
良い麦とは、イエス・キリストを信じて永遠のいのちを得た私たち、そして毒麦とは、それ以外のすべての人々を指すのです。
誤解と批判を恐れずにはっきりと言うならば、毒麦とは、イエスを救い主と信じないまま、死んでいく、すべての人です。
悲しいことですが、キリストを救い主として信じないならば、たとえどんなにすばらしい人格の持ち主であっても、悪い者の子どもたちです。
悪い者とは悪魔のことであり、その子どもとは悪魔に人生を支配されている者のことです。
生まれつき人間は、悪魔に自分の人生をいいように扱われていることに気づきもしない、そして自分は自由だと勘違いをしています。
イエス・キリストを信じて新しいいのちに生きる者か、信じないまま地上のことしか見えていない者か。どちらの人生が幸いでしょうか。
人生のすべての問題の解決は、キリストを信じるところから始まります。
そこをぼかしたままでは、一時的に苦しみは去っても、ほんとうの解決はありません。
すべてが手遅れになる、世の終わりの刈り入れの時がやってきます。
その日が来るまでに、天の御国の子どもとなるか、それとも悪魔に引きずられて自らも滅びの火に引き込まれるか、選ばなければなりません。
教会に導かれているみなさんが、答えを引き延ばしたまま、永遠に答えを失うことがないようにと、ひたすら願います。

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posted by 近 at 00:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.4.29「1%が100になり、99%が0になる」(マタイ25:31-46)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先日、大学病院でたまたまCT検査を受けたら、主治医から「骨密度が相当に低い」と言われました。
なんでも「65歳相当」だということ。ちなみにいま46歳。どうりで最近、妙にからだが軽いと思ってたわ
牧師からひと言」でも少し触れていますが、私は14歳から約二年のあいだ、骨肉腫の治療のために抗がん剤を使用していました。
その副作用で骨が脆くなっているそうです。30年経ってようやく知らされた真実。前から軽かったのね
80歳くらいになれば年相応の骨密度に回復すると言われましたが、それ回復と言えるのか。微妙なところです。
 ちょうどこの日曜日は恒例の召天者記念会でした。
骨密度が低いから転倒しないように足もとに気をつけるのも大事ですが、それ以上に天を見上げて歩んでいきたいものです。
週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』25章31-46節 

1.
 「水戸黄門」「遠山の金さん」「暴れん坊将軍」。
すでに放送が終了して久しいものもありますが、今挙げた三つの時代劇は、ひとつのことで共通しておりますが、何でしょうか。
それは、初めの登場シーンで、彼らは善人、悪人の前に身分を隠して登場します。
しかし終盤では本当の身分を明かし、悪人にはさばきを、善人にはゆるしを与えるということです。
 もしこれらの時代劇がお好きな方がおられるようであれば、今日の聖書のお話もよくわかってくださると思います。
まさにこれらの変身もの時代劇の原型ともいうべきお話が今日のお話、イエス様は二度別の姿でやってこられます。
最初は優しい救い主として地上に生まれ、十字架にかけられて殺され、よみがえられたイエス様。
しかし次に地上に来られるときには、厳かに御使いを引き連れて現れる、さばき主として来られます。
神ご自身であるイエス様が、人として地上にお生まれになったのは、私たちのたちの罪を十字架で背負うためでした。
そして二度目に来られるとき、それは、いつかはわかりませんが、この地上のすべてが終わりを告げるときです。
ある日、突然に天の御使いたちを従えて、栄光に輝いた姿でこの地上においでになります。
世界じゅう、いや宇宙そのものが、キリストの栄光によって照らされます。
地球の裏側にいたからイエス様が来たなんてわからなかったとかいうことのありえない、そんな日がやってきます。
その日には、人類の歴史が始まってから生まれ死んでいったすべての人間がよみがえります。
いま生きている80億人だけでなく、気の遠くなるような数になりますが、あらゆる人間が一人残らずキリストの前に集められます。
そしてすべての人間が、イエス・キリストの前にふたつの列に分けられます。
羊飼いが、羊とやぎを選別するように、すべての人は永遠のいのちにはいる羊と、永遠の刑罰に入るやぎとして、はっきりと分けられてしまいます。

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posted by 近 at 10:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.4.22「われ、傍観者にあらず」(マタイ28:16-20)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
牧師=清貧というイメージを崩してしまうのが申し訳なくて、二年以上黙っていましたが、
当教会の説教は、NEX-EA50JHというハイビジョンカメラで撮影しています。備品じゃありません。牧師の私物です。
中古ですが、ティンデル聖書注解が全巻買えるくらい値が張りました(一冊も持っていません)。
清水の舞台から何度も飛び降りて、何かにぶつかって気を失ったあげく、夢の中にイエス様が出てきて何か言われました
NEX-EA50JH.jpg
Sonyのホームページからカタログ画像を拝借。実機は窓際に置きっぱなしなのでホコリだらけ、小キズだらけです

 しかし二年間で撮ったものといえば、説教録画くらい。いつも低ビットレートの設定で撮影していることに気づきました。
Youtubeにアップするのが目的なので、ハイビジョンで撮影しても変換に時間がかかるためです。
これでは猫にゴールド、豚にパール(ルー○柴風に)。実際に撮影しなければ、知識もつきません。個人伝道と同じですね。
というわけで、今回はちょっとがんばってハイビジョンで撮ってみました。毎秒24フレーム、ザ・プログレッシブ・シネマ・モード発動です。
説明書を見ながら書いていて自分でも意味がよくわかりませんが、映画っぽく撮れるそうです。
気持ち、いつもよりハイテンションです。もっともいつもテンション高いと言われますが。
説教もいつものようにまた怒っています。映画のタイトルは「四十分の怒れる男」にしました。みんな、見てくれよな。
 週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』28章16-20節 

序.
 神学生の頃、説教演習という授業で、この箇所から語ったことがあります。
「イエス様が地上で残された最後の言葉を聞きましょう」と前置きして語ったら、さっそく後で、指導教師から注意されました。
「イエス様の最後の言葉はオリーブ山、ここはガリラヤの山。聖書をよく読みましょう」。慌てて聖書を開いてみたらそのとおりでした。
イエス様が弟子たちの見守る中、天に昇られていった物語が、使徒の働き1章にありますが、それはエルサレムの近くにあるオリーブ山。
それに対してこのマタイ28章は、エルサレムからはるか離れたガリラヤ地方の、どこかの山。紛らわしいので混同してしまったわけです。
 しかし今日の箇所がイエス様のお別れの言葉ではないとしても、私たちにとって一番大事な使命を託していることは間違いありません。
しかも興味深いのは、11人の弟子たちのうち、「ある者は疑った」とはっきり書いてあることです。
11人の弟子みんなが、復活のイエスに出会っても一つの心になっていたというわけではありませんでした。
しかしイエス・キリストはそれでも構わないとばかりに弟子たちに近づいてきて、力強くこう言われます。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」と。

1.
 何かを始めようとするとき、メンバーが一つの心になるというのは大切なことです。
しかし救い主イエス・キリストをこの世界に語っていく、ということに関する限り、私たちの一致よりも大切なことがあります。
それは、このイエス・キリストに与えられている「権威」だけを信頼して語っていく、ということです。
およそクリスチャンとして救われて、福音を伝えたくない、という人はいないでしょう。
福音を伝えたい、けれども語る力がない。勇気がない。機会がない。そういうなかで、なかなか伝えられないのではないでしょうか。
しかし、イエス様は言われます。あなた自身の力にすがって宣べ伝えるのではなく、ただわたし、イエス・キリストの権威のみにすがれ、と。
 自分の信仰は未熟だ、聖書の知識もない、口下手だ、人見知りが激しい、そういうことはまったく伝道に関係ない、ということです。
キリストは「天においても、地においても、わたしに一切の権威が与えられています」と言われました。「キリストに一切の権威」。
それは、このイエス・キリストを人々に伝えようとする者は、キリスト以外に一切の望みや期待を持たない、という意味です。
ただキリストにだけ期待します。
言葉のわかりやすさだとか、人当たりの良さだとか、そのようなものが伝道の成功失敗を決めるのではありません。
いや、そもそも伝道に成功・失敗はありません。もし成功があるとしたら、それは伝えたかどうかであって、信じたかどうかではありません。
信じるかどうかは、神の領分です。しかし人の領分は、伝えたかどうかです。伝えて、鼻で笑われても、それでよいのです。
 明治・大正期のキリスト教界の指導者で、ちょうど昭和元年になくなった、植村正久という牧師をご存じでしょうか。
彼の説教は「訥弁の能弁」と言われました。訥弁というのは、言葉がつかえたり、どもったりして、うまく伝えられないことです。
もちろん私も実際に聞いたことがあるわけではありませんが、聞き取りにくい説教であったのだろうと想像できます。
しかし植村の、その聞き取りにくい説教を通して、何千人という人々が罪を悔い改め、告白して、救われました。
それは、彼の説教が、訥弁と言われるほどの言葉のまずさを越えて、自分自身をさらけだし、
ただキリストの権威にのみ依存するものだったから、その欠けているところを満たしてくださる聖霊のみ力が働いたのです。
すべてのクリスチャンが植村のように偉大な業績を残せるわけではないし、残す必要もありません。
しかしこの人は救いを必要としていると思う人がそばにいたならば、ただキリストに望みをおきながら、彼のために、彼女のために祈る。
言葉をかける。時間をとって関わる。そして福音を何とかして伝える。それをイエス・キリストは信じるすべての者に願っておられます。

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posted by 近 at 22:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.4.15「信仰は無条件降伏」(ヨハネ20:19-31)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今さらで申し訳ないのですが、イースターの日、教会員有志がイースター・リースをささげてくださったのでご覧ください。
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力作ですね。私の方はというと、風邪をこじらせてしまって、今回はマスクをつけながらの説教です。
お聞き苦しいところがありましたら、ご容赦ください。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』20章19-31節 

序.
 いまどきの言葉に「キャラが立つ」という表現があります。
新年度が始まるこの時期、学校や会社では「今年うちに入ってきたやつはキャラが立っているなあ」というような使われ方をします。
「キャラ」というのは「キャラクター」の略ですが、日本語に訳すと「個性」とでもなるのでしょうか、
転じて「キャラが立っている」というのは、個性的だからおおぜい似たようなのがいるなかでもおぼえやすいという意味になるようです。
この表現を借りると、トマスは、イエスの12弟子の中でもペテロやイスカリオテのユダと並んで「キャラが立っている」と言えます。
英語辞書で「トマス」をひくと、「疑いやすい人」という説明が出てきます。
あわてんぼうのペテロ、裏切り者のユダと並んで、疑心暗鬼のトマス、イエスの12弟子の中での問題児3羽ガラスと言ったところでしょうか。
しかしトマスが登場する場面は決してここだけではありません。
このヨハネ福音書の中で、トマスのセリフはこの20章を合わせて全部で三回出て来ます。
それをひとつひとつひもといてみると、トマスが決してただの疑心暗鬼の、あまり親しくなりたくないタイプの人ではないということがわかります。

1.
 トマスの最初の言葉はヨハネ11章、「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」。
かっこいいですね。熱心党員シモンなんかよりよっぽど熱いトマスの姿が描かれています。
二回目の言葉は、最後の晩餐でイエス様が長ーい説教を弟子たちにしていたときに質問した言葉。
「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう」。
ほとんどの弟子にとって、大学の哲学講座レベルの話に、トマスはついてきていました。
 以上のふたつのことばからわかるのは、トマスは情熱的な面と、理性的な面の両方を持っていた弟子であったということです。
しかしその情熱と理性が、この最後の場面では裏目に出ます。
25節後半「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」。
 このことばを、多くの人々はトマスの疑いやすい性格を表すものとして受け止めてきました。
しかし、この言葉は不信仰から出たものではあっても、疑いやすい性格を表しているわけではありません。
トマスはイエスが弟子たちの前に現れたとき、そこにいなかった。なぜ一人だけいなかったのでしょうか。
これがイエスが死んで三日目によみがえられた当日であったこと、そして彼らはユダヤ人の追跡を恐れて一つ所に隠れていたことを考えると、
彼だけがその場にいなかった理由は用事があったとかではなく、彼が意図的に弟子たちの交わりから離れていたと理解すべきです。
イエスがユダの裏切りによって群衆に捕らえられたとき、弟子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった。
その逃げる者たちの中にはこのトマスもいた。彼は逃げ隠れながら、何度も自分に叫んだことでしょう。
かつてはイエス様と一緒に死のうとまで言っていた自分がなぜ、どうして。
その深い心の傷はトマスの心をかたくなにし、残された弟子たちと共に励まし合うという思いもすべて拒絶してしまったのでしょう。

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2018.4.8「教会とは何か」(第一コリント1:1-3)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
当教会では、今年の教会総会で将来の会堂建築を決議しました。これから教会員を対象に、会堂建築についての学びを始めます。
しかし会堂建築に関する参考書籍は決して多いとは言えません。今、私の手元にある本は、
田淵諭「教会堂建築−構想から献堂まで−」(新教出版社、2006年)
加藤常昭ほか「教会建築」(日本基督教団出版局、1985年)
長久清「教会と教会堂」(日本基督教団出版局、1991年)
手束正昭「信仰の表現としての教会建築」(キリスト新聞社、1990年)
くらいでしょうか。他にもいくつか建築関係の本がありますが、写真や図面ばかりであまり役に立ちません。
福音派からの教会建築に関する発信が待たれます。いのち○ことば社さんに期待です。
 上記の書籍の中で一番とっつきやすいは、200頁もあるのにほぼフルカラー!なんと豪勢な田淵諭氏の本でしょうか。
その「まえがき」にこんな言葉が書いてありましたので、紹介します。
教会堂の設計では建物を建てることに目がいきがちですが、それ以前に、教会堂建築を通して一人ひとりが「教会とは何か」ということを改めて考える機会を、主が与えてくださったということに大きな意味があります。
至言ですね。建つもよし、建たぬもよし、いずれにしても教会と信仰を見つめ直す、最善の機会になります。
今日の説教は、そんな思いを込めて準備したものでした。とはいえ求道者の方には難しかったかもしれません。反省。
期待していきたいと思います。会堂建築も、牧会も、人生も。週報はこちらです。

聖書箇所 『コリント人への手紙 第一』1章1-3節 

序.
 さる2月末の教会総会にて、将来の会堂建築を決議しました。あるクリスチャンの建築家がこのように言っています。
「会堂建設とは、建物を建てることではない。ひとり一人が「教会とは何か」ということを改めて考える機会を、主が与えてくださったのだ」と。
そういう意味では、私たちは「教会とは何か」ということについて、今までどれだけ考えたことがあったでしょうか。
そして私も考え込みます。今までどれだけ「教会とは何か」について語ってきただろうか、と。
これから一年間、この毎月第二週は、教会の来たるべき会堂建築のために、学び、分かち合い、祈る日とします。
礼拝でそのテーマに即した説教が語られたあと、礼拝後にはグループになって短く分かち合いをします。
そして昼食後はまたそれをもとにして分かち合いながら学びを深め、祈り、備えていきたいと願っています。
 さて、まず私たちは「教会とは何か」について、考えていきましょう。
「教会とは何か」ということを一番わかりやすく教えている聖書箇所はどこだろうかと考えたとき、今日の聖書箇所のほかにはないと思われます。
多くの人々は、教会と聞くと建物のほうを連想しますが、聖書が教えているのはそうではありません。2節をご覧ください。
「私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、
聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた」者たち、それこそが教会であるとパウロは言います。
この言葉の中から、教会について三つの大事なことを学びましょう。
第一に、教会とはイエス・キリストを救い主として信じ、その御名を呼び求めている人たちのことなのだ、ということ。
第二に、教会とは自分の教会だけではなく、世界じゅうの至る所でキリストの御名を呼び求めている、すべての人々を指しているということ。
そして第三に、キリストにあって聖なるものとされた人々のことなのだ、ということ。
「聖なるもの」とは神にささげられる聖なるいけにえとしてのクリスチャンを指します。教会は、自らを神にささげる者たちが集められたところです。

 定価5500円なのに、amazonでも残り一冊、16500円!間違えて購入した場合、責任は負えません。

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2018.4.1「よみがえれ、わが内なるみことばよ」(ルカ24:1-12)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。イースターおめでとうございます。
ご近所に配るイースターエッグが余りまして、あとは牧師家で 処分 美味しく頂戴いたしました
急激な大量の卵摂取によるコレステロール値の上昇が心配です。これが十字架を背負うという生き方なのですね。うっぷ
 ところで、今回のメッセージの導入で「4/1とイースターが重なるのは62年ぶり、次は11年後」という話をしています。
いちいちカレンダーを調べたのかよ。暇だなあ。なんて思った人のために先に種明かしをいたしますと、
今橋朗『礼拝を豊かに』(日本基督教団出版局)の巻末に、なんと200年分のイースターの日程が掲載されているのです。
インターネットでもある程度検索はできますが、1900〜2099年までのイースターが一目瞭然なのは、アキラだけ。
なぜそんな長期にわたる一覧表を載せているのかは謎ですが、ありがとうアキラ先生。いくら長生きしても平気です。
ちなみに2099年のイースターは4/12です。ねっ、便利でしょ。週報はこちらです。

200年分のイースター一覧表を載せたいところですが、著作権侵害の恐れがありますので、本買ってください

聖書箇所 『ルカの福音書』24章1-12節 

序.
 イースターおめでとうございます。
先週は、イエス・キリストが十字架にかかる苦しみをおぼえる受難週でした。みなさんは先週をどのように過ごされたでしょうか。
とくに、今年は、3月の最後、いわゆる年度末と言われる一週間とこの受難週が重なってしまいました。
私に関して言えば、引き継ぎやら新年度の準備やらでばたばたしたなかで、今日のイースターを迎えてしまいました。
牧師になってから17回目のイースターになりますが、こんなに心の準備ができていないイースターは初めてです。
4/1という新年度の始まりに日曜日が来て、しかもそれがイースターという日はいったい何年ぶりなのだろう。
ふとそう考えて、カレンダーを調べてみました。じつに、同じような状況が起きた年は、1956年、62年ぶりのことでした。
こんなに忙しいのは初めてだわ、と思うわけです。牧師になるどころか、生まれてもいません。
しかし安心してはいけません。
前回から今年までは62年ぶりですが、次に4/1がイースターという日は、わずか11年後の2029年にやってきます。
次こそは、年度末という名の魔物に飲み込まれそうになっても、十分に心の備えをして4/1のイースターに臨みたいと、今から思わされます。

1.
 それにしても、カレンダーを調べながら思いました。
年度末なのは確かだが、それにしたってふだんから神さまと歩調を合わせて歩んでいけば、年度末のせいにしなくてもよいのに、と。
そうです。ほんとうは年度末なんていう魔物はいません。私自身の心と信仰のありようです。
今年のイースターが4/1にやってくることはずっと前からわかっていたのに、どうしてばたばたしているのか。
その答えも知っています。それは私の目が神のことよりも日常の生活のほうにばかり向いているからです。
ことあるごとにみことばに頼るよりも自分の判断に従って動いているから、みことばの恵みが生活の中からそぎ落とされているのです。
 今日の聖書箇所では、イエスさまに葬りの油を塗るために墓へと向かう女性たちが登場します。
このルカ福音書だけでなく、すべての福音書に描かれている光景です。
しかしその中でルカがとくに強調しているのは、「女たちはイエスのみことばを思い出した」という一文です。
確かに彼女たちはイエス様への愛を忘れていませんでした。信仰によって、命の危険を顧みず、墓へと向かいました。
しかし、その心のうちからは、みことばが抜けていたのです。
彼女たちの関心は、ほかの福音書で書かれているように、「あの墓の重い石の扉を、いったい誰が開けてくれるだろうか」ということだけでした。
あらかじめ彼女たちにイエス様自身がこう語っておられました。わたしは十字架にかけられたあと、必ず三日目によみがえる、と。
しかしその約束のことばが彼女たちの記憶の中からすっかり抜けていました。

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2018.3.25「選択」(ルカ23:32-43)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
更新が遅くなって申し訳ありません。イエス様が十字架にかかられた受難週・・・・どうして年度末と重なるの。忙しすぎます。
逆に考えると、当時のユダヤの宗教指導者たちが過越の前にイエス様の処刑をねじ込もうとした姿は、
様々な仕事を、年度を繰り越さないように淡々と処理していく私たちの姿にも重なるわけで、
イエス様をそこまで貶めたのは自分自身の罪であるということが迫ってきます。とくに今年の場合は
いのちと誠実を尽くすべき事柄を、忙しさと年度末を理由に適当に済ませてしまったことはなかったか、心の中を探られているところです。
 さて、そんなわけで、いよいよ村上教会の1年9ヶ月に及んだ代務も引き継ぎを終え、新任の面f先生へゆだねられました。
名前、なんて読むの。そう思った方は下の画像をクリック!ニュースレターも最新の最終版を含めて全部読めます。
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しばらくトップを飾っていた献金趣意書も向こうのブログへ移転しました。募集期間の前半を終え、ちょうど目標額の半分に達しました。
こうして見ると当教会の旧ブログ「村の小さな教会」のテイストをかなり残していますね。だって作った人が同じですもの。
どうぞ姉妹ブログをよろしく。勝手に姉妹にしてしまいました。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』23章32-43節 

序.
 今日から、キリスト教の暦では受難週に入ります。
受難週というのは、イエス・キリストの地上での生涯の最後の一週間をあらわします。
その中でも、イエス様が十字架にかけられた日である金曜日は、英語ではグッド・フライデーと呼ばれています。
日本では受難日、苦難を受けた日と書く同じ日が、アメリカではグッド・フライデー、よい金曜日と呼ばれる。面白いですね。
日本人の感覚でいうと、救い主が十字架につけられた金曜日ですもの、むしろバッド・フライデーではないでしょうか。でもグッド・フライデー。
グッドとかバッドというのは人間の受け取り方で変わります。しかし神のご計画においては、グッドもバッドもありません。
「禍福はあざなえる縄のごとし」ということわざがあります。不幸や幸せは、撚り合わせた縄のようにかわりばんこにやってくるという意味です。
しかし実のところ、不幸と幸せは待っていればかわりばんこにやってくるということではありません。
私たち自身が、自分自身を、人生をどのようなものとして見ているか。
その態度が、不幸を幸いへの下ごしらえと受け止めることもできるし、せっかくの幸いに気づかず、不幸のまま終わってしまうこともあります。
ではどうすれば、不幸を幸いに変えることができるでしょうか。
神を中心とする正しい人生観を持つこと、そしてそのみことばの基準に基づいて、正しい選択を行うことです。

1.
 今日、私たちは三本の十字架を見つめています。しかしちょっと考えてみてください。なぜ三本なのでしょうか。
ローマ帝国は皇帝による独裁とはいえ、曲がりなりにも法治国家としての形を取っていました。
ローマの法律に限りませんが、同じ日、同じ場所、同じ方法による刑罰を受けるのは、同じ罪を犯した者に限られます。
つまり、イエスがユダヤ人の告発どおりに神を冒とくした罪で十字架につけられるとすれば、
同じ死刑囚とはいえ、強盗殺人を犯した者たちといっしょに処刑するということは、本来ローマの法律ではあり得ないことでした。
しかし歴史を治めておられる神は、このとき、人の作った決まりを越えて、イエスと他のふたりを一緒に十字架につけたのです。
 なぜでしょうか。色々な理由が考えられます。
たとえば、神の子が強盗たちと一緒に処刑されるという耐えがたい恥を背負うほどに、イエスは罪人のために命を捨てられたことを示すため。
あるいは、このひとりの強盗が回心し救われるために、この日イエスは彼らと共に十字架へと向かわれたということかもしれません。
これは取税人ザアカイが救われるために、イエスがわざわざエリコへと向かわれたということに似ています。
しかし、三本の十字架が立っている情景を思い描きながら、もっと大胆に思い巡らしてみましょう。
イエスのかけられた真ん中の十字架を中心として、右に十字架、左にも十字架。でも別にイエスが真ん中じゃなくてもよかったのではないか。
いや、罪人のひとりとして、とことんまで恥をすする人生を選ばれたならば、中央よりもむしろ端の十字架のほうがふさわしいような気さえします。
しかしイエスを真ん中に、一人は右に、一人は左に。
片方の十字架につけられた強盗は信じて救われ、もう片方の十字架につけられた強盗は信じず嘲り続けました。
イエスを中心として、右に、左に。その鮮烈なイメージの中で、永遠のいのちと永遠の滅びがはっきりと分けられています。
三本の十字架は、選択という二文字を私たちに呼びかけています
イエスの十字架を前にし、私たちは右を選ぶか、左を選ぶか。いのちを選ぶか、死を選ぶか。信じるほうを選ぶか、信じないほうを選ぶか。
イエス様は、たとえ話の中で数え切れないくらい、二つからひとつを選ぶことについて語っておられます。
広い門、狭い門。岩の上に建てた家、砂の上に建てた家。神に仕えるか、富に仕えるか。この世の水と、いのちの水。
しかしこの三本の十字架ほど、数々の二者択一の話の中で、最も切迫した箇所はありません。
三本の十字架は、私たちが真ん中の十字架を見つめつつ、どちらの十字架を選ぶべきかということを呼びかけているのです。

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posted by 近 at 16:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.3.18「祈りのチカラ」(マタイ26:36-46)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週の水〜木は、横浜の某コンベンションセンターにてわが同盟教団の総会が開催されるので行ってまいります。
帰ってくるとヘロヘロになって、そのまま寝込んでしまうのが常ですので、今のうちに急いで更新しておきます。
教団総会でようやく人事発表です。それが終わってようやく村上の新任教師もオープンにできます。
・・・長かった・・・今だから言いますが、ストレスでなんとかディスペプシアとかいう病気にもなりました。もう直ったけど。兼牧って大変ですね。
というわけで来週は村上で歓送会です。ボクの。自分で自分の歓送会を言い出すのも勇気がいりましたが。週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』26章36-46節 

序.
 「お祈りメール」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
その温かいイメージとは裏腹に、企業の不採用通知を指す言葉です。
不採用を伝えるメールの最後に、「○○様の今後のご活躍をお祈りしております」とまとめているので、「お祈りメール」と呼ぶそうです。
しかしクリスチャンが「お祈りメール」と聞けば、同じ兄弟姉妹から「祈っています」という励ましの言葉を思い浮かべると思います。
「お祈りしています」というこの一つの言葉は、この世の人々とクリスチャンとのあいだではまったく受け取り方が違うのですね。
この世の人々にとって、「お祈り」とは気休めか、悪い知らせをオブラートに包むような意味でしかありません。
しかしクリスチャンは、文字通り働く、祈りの力を信じています。
祈りの力を信じ、実際に体験することができるのは、クリスチャンの特権です。
私たちはなぜ「祈ってください」と頼むのか。あるいは他の人に対して「祈っています」と励ますのか。
それは、「祈り」がこの世の現実を変える神の力である、と本気で信じているからです。
これは世の人々にとっては愚かに見えます。しかし私たちにとっては神の約束です。
求道者のために、別帳会員のために、他の教会のために、隣町の一軒一軒のために、私たちは名前を挙げて祈っています。
神は、私たちの祈りを取るにたりないものとは決して言われません。
どんな小さな祈りも、神の御前でかぐわしい香としておぼえられています。
そしてイエス・キリストがゲツセマネの園で弟子たちに語った言葉からも、私たちは祈りの力を学ぶことができるのです。

1.
 エルサレム郊外にあるゲツセマネの園で、イエス・キリストは弟子たちに言いました。
36節、「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。
そしてイエスは弟子たちの中からペテロ、ヨハネ、ヤコブの三名を選び、彼らを連れて園の奥に入っていかれました。
この三人は、12人の直弟子たちの中で自分たちだけが選ばれたことに誇らしく思ったでしょうか。
いいえ、彼らは決して見たくはなかった、イエス様の姿を見るハメになりました。
まるで神の子にふさわしくない、弱々しい言葉をはくイエス様の姿を見ることになりました。
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と。
 今、目の前にいるイエス・キリストは、彼らの知っているイエスとは明らかに違いました。
パリサイ人に対しても一歩も引くことのなかった神の御子が、まるでおびえた子犬のように悲しみもだえられています。
主は三人に懇願します。「ここを離れないでくれ。わたしといっしょに目をさましていてくれ」。
日本語の翻訳では味気ない命令口調に聞こえるかもしれません。
しかしここで主が語られている、弟子たちにすがりつくイエスの姿から目をそむけてはなりません。
私をひとりにしないでくれ。わたしと一緒に、目をさまして祈ってくれ。
そのようなイエスの姿につまずきを覚える人もいるかもしれません。
だとしたら、その同じつまずきを、この三人の弟子たちも感じていたことは確かなことです。

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posted by 近 at 20:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ