最近の記事

2019.6.9「願いを託された者たち」(マタイ28:16-20)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
本日は(といっても現在の時点で六日前ですが)ペンテコステ特別礼拝でした。
教団が派遣している数組の国外宣教師家族からのビデオレターを視聴し、メッセージを語りました。
ビデオレターに関しては、宣教地が特定されると危険な場合があるかもしれませんので、アップを控えさせていただきます。
それと、もう明日に迫りましたが、TCU新潟地区支援会の特別講演会を行います。来てね!
flyer-01.jpg
週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』28章16−20節


1.
 今、それぞれの宣教師家族からのビデオレターをご覧いただきました。
私たちが所属する、この日本同盟基督教団が、最初の海外宣教師を送り出してから、今年で55年になります。
ずいぶん昔のように思われるかもしれませんが、戦前から続く同盟教団の歴史に比べたら、始めるまでに時間がかかりました。
それは、今も聞こえてくる、クリスチャン自身の狭い考えにとらわれていたことは否めません。
国内宣教でさえ、まだ1%しか進んでいないではないか。海外に宣教師を送る予算と人材があれば、まず国内宣教に力を注ぐべきだ。
それが確立して余裕が生まれたら、海外宣教師を派遣すべきだ。
しかし55年前の教団理事たちは先見の明がありました。余裕が生まれるのを待っていたら、いつまで経っても派遣できなかったでしょう。
最初の派遣まで時間がかかったとは言え、55年にわたって着実に海外宣教師を送り、支えてきた、この教団の歩みを感謝します。
 国外宣教は、すでに二千年前から、イエス様が私たちにゆだねられた働きです。
さきほど、司会者に呼んで頂いた聖書のなかで、イエス様はこう語っておられます。
「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」。
これは日本語では「大宣教命令」、英語では「the Great Commission」と呼ばれます。
Greatは「大」ですが、じつはCommissionには命令という意味はありません。
「委託」です。本来自分がする仕事を誰かに代わりにしてもらうということです。
このイエス様の言葉は、じつは命令ではないのです。ご自分がしたいと願っていることを、私たちに分けてくださったのです。
私は、救われたばかりの頃にこのみことばが大宣教命令と言うのだと知りました。
最初は、「命令」という言葉に心が震え、背筋がシャンとするのを感じました。しかしそのうち面倒くさくなり、背筋も丸くなりました。
なぜでしょうか。「命令」を果たせるだけの熱意も賜物も自分にはない、とあきらめてしまったからです。
代わりに、牧師や宣教師の皆さん頑張ってください、と考えて、献金を少し増やしました。
イエス様は、私の命令は重荷にはなりませんと聖書のどこかで約束しておられますが、実際重荷に思った人が実際いたわけです。
 しかしイエス様は弟子たちに、命令ではなく、委託として宣教を任せられました。
「委託」という言葉は、「命令」に比べると、どうしても弱っちい響きがあります。
しかし「委託」には、それをやり遂げる力をはじめから認められているゆえの約束事というニュアンスがあります。

続きを読む
posted by 近 at 17:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.6.2「敵は本能にあり」(ロマ7:14-25)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今日の説教題は、だれもが思いつきそうなネタで申し訳ありません。お恥ずかしい限りです。
日曜日がちょうど6月2日(本能寺の変の当日)と重なる日を狙っていたのですが、
今回を逃すと次は2024年になってしまいますので、明智光秀と同じようにためらいながらも決行しました。
歴史の授業ではイスカリオテのユダと並んで裏切り者の代名詞のような光秀氏ですが、近年再評価が進んでいるようです。
・側室を持つことが当たり前の時代、正室しか持たず、最後まで添い遂げた
・娘はクリスチャンになった(明智玉子=細川ガラシャ)
・信長からキンカ頭(禿?)とあだ名をつけられたが、我慢し続けた
個人的には25年前の大河ドラマで村上弘明さんが演じた光秀の誠実なイメージが印象に残っています。週報はこちらです。

聖書箇所 『ローマ人への手紙』7章14節−25節


1.
 今から約440年前の、ちょうど今日6月2日、日本の歴史で外すことのできない、「本能寺の変」という出来事が起こりました。
今日の説教題は、そのとき織田信長を裏切った家来、明智光秀の言葉、「敵は本能寺にあり」をもじったものです。
なんか思いつきで説教を作っているのかと言われそうですが、決してそんなことはなく、今日の説教は構想に何年もかけております。
これ以前に6月2日が日曜日だったのが2013年。それから6年間、本能寺の変と日曜日が重なる日を待ち続け、今日を迎えました。
 なぜ「本能寺の変」が起きたのか、つまりなぜ明智光秀が織田信長を裏切ったのか。これは日本史最大のミステリーと呼ばれています。
私が子どもの頃、本で読んだのは、織田信長という人間は有能だが、短気な性格で、光秀もいじめられていたから、というものでした。
ところが、近年の研究で明らかになったのは、信長は短気どころか、あの徳川家康も及ばないほど、忍耐深い人であったという事実です。
こんな狂歌を聞いたことはないでしょうか。「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」。これは織田信長の性格を指したものだと言われます。
それに対して、徳川家康が「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」。
でもじつは家康は、子どもの頃から信長を兄のように慕っていて、「鳴くまで待とう」は信長をそのまま真似ていたのだというのです。
忍耐がなかったら、信長も秀吉も家康も、だれであろうとも、天下を取ることはできないのですね。
よかった、聖書とつながりました。一に忍耐、二に忍耐、忍耐してこそ、約束のものを手に入れることができるのです。
 このように信長のイメージがずっと誤解されてきたように、信仰の世界にもずっと誤解されてきた言葉があります。
それは、「律法」です。律法とは、旧約時代に神がイスラエルに与えられたさまざまな命令を指します。
この「律法」から「律法主義」という言葉が生まれました。神の命令を完全に守ることで救われるという、間違った考えです。
でも律法と律法主義はまったく異なるのです。律法は、恵みの反対語ではなく、律法そのものが神の恵みのひとつです。
14節をご覧ください。パウロはこう語っています。「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています」。
「霊的」とは、神から来たもの、という意味です。神は私たちに幸いを与えるために律法を与えられた。それを実行するならば確かに救われる。
ですがこの言葉には続きがあります。パウロはため息交じりにこう語ります。「しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」。
私、これはすべての人間、と読み替えてください。律法がどんなによいものであったとしても、それを行う力がない、それが私たちなのです。

続きを読む
posted by 近 at 17:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.5.26「私を遣わしてください」(イザヤ6:1-8)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週は、新潟山形宣教区の一斉講壇交換でした。
当教会では、前新潟福音教会牧師で、現在ニューヨーク日本人教会への派遣を控えておられる笹川雅弘先生をお迎えしました。
笹川先生から、説教のアップロードを許可していただきましたので、しばらく公開いたします。
説教の後半、パワーポイントによるプレゼンがありますが、カメラが壁面固定式なので音声しか入っていません。残念。
週報はこちらです。

聖書箇所 『イザヤ書』6章1−8節


posted by 近 at 20:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.5.19「賛美の祝福」(詩29:1-11)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週は、村上福音キリスト教会での説教奉仕のため、説教代理者として、新発田キリスト教会の田中敬子伝道師をお迎えしました。
当ブログの熱心な読者の方には、すでにおなじみですね。説教映像をアップするとどーんとアクセス数が跳ね上がります。悔しいわ。
じつは当日の礼拝に、先日天に召されました長谷部芳江姉のご遺族の方が出席してくださるという連絡がありました。
もちろん葬儀で顔を合わせているのですが、せっかく礼拝に来られてもお会いできないのは少し残念。
そこで週報の表紙は、芳江姉が好きだったというコスモスの花を選びました。
2019.5.19.jpg

週報の私物化?いいえ、牧会的配慮です
ちなみに田中先生にちょくちょく説教代務を依頼するのも、元奉仕神学生なので頼みやすいからではなく、牧会的配慮です
大切なことなので二回言いました。
「風つよし それより勁(つよ)し 秋桜」。芳江姉のご生涯にぴったりの俳句でした。
田中先生の説教、「賛美の祝福」も、心なしかこの句に合っているような気がします。週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』29篇1−11節



posted by 近 at 22:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.5.12「神の都を待ち望む」(黙21:22-22:5)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
高校から社会人時代にかけて、私の信仰を導いてくれた、元牧師夫人がさる5月9日深夜に急逝しました。満79歳でした。
ある事情で、半年前から豊栄教会の礼拝に出席していましたが、その背後にはとてつもなく深刻な事情があったことを聞いています。
どちらかというと口数の少ない人でしたので、誤解されることもあったでしょう。しかしその少ない言葉には重みがありました。
多くの教師たちが晩節を汚す言動を繰り返す中で、最後まで主にさばきをゆだねて自らは多くを語らない、立派な生涯でした。
葬儀は先日、私が司式をさせていただきました。いずれ、写真と共に詳しく報告させていただきます。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの黙示録』21章22節−22章5節


1.
 客会員としてこの半年間、ご主人と一緒に礼拝に出席されていた長谷部芳江姉が、先週の半ば、天に召されました。
夜中にご主人から電話を受け、急きょ搬送先の病院に駆けつけましたが、すでに息を引き取られた後でした。
ご本人および遺族の要望により、私が葬儀の司式を行わせていただくこととなり、山の下福音教会の先生方からも了解を頂きました。
先週の日曜日には、いつものように礼拝に出席され、お気をつけて、また来週、と声をかけて送り出した姉妹の亡骸を前にしたとき、
もちろんそういうことは、人並みに生きていれば、必ず経験することなのですが、あまりにも突然すぎて、涙も出てきませんでした。
 以前、長谷部姉から、もし私が亡くなったときには、葬儀は近先生か、長女の夫である下山田先生に司式してほしいと言われました。
それは次女である長谷部愛実先生がまだ山の下の牧師であったときのことだったので、愛実先生でいいのでは、と冗談でかわしましたら、
愛実は情が深いのでおそらく号泣してしまって司式にならない、だから近先生か下山田先生が適任だろう、と言われました。
私も下山田先生も、情のない牧師に見られているのかと思いましたが、それが彼女のユーモアだったのだろうと思います。

 さて、イエスさまはかつて弟子たちに、「わたしの父の家には住まいがたくさんあります」と言われました。
このヨハネの黙示録の最後には、私たちに約束されている神の国がひとつのイメージとして示されています。
イメージ、と言ったのは、永遠無限の神にふさわしい都は、決して人間の常識や感覚で捉えきれるものではないからです。
それでもあえて計算してみるならば、この神の都は、一辺が約2200キロメートルの角砂糖のような形と記されています。
ここに地球の総人口よりやや多い、100億人が入ったら、一人あたりの居住スペースはどれくらいになるでしょうか。
計算したら、幅1キロ、奥行1キロ、天上までの高さ1キロのワンルームに住める計算になります。しかしこんな計算は意味がありません。
永遠無限の神にふさわしい都が、人間が計算できるような枠にとらわれることは決してないからです。
都の大きさにせよ、その城門や土台を彩るさまざまな種類の宝石にせよ、それは現実のものというよりも、ある一つの真理を伝えています。
神の都は、神の子どもとされた私たちのために、神があらゆる富を惜しみなく使って用意した、永遠無限の愛が溢れたところなのです。
そしてイエス・キリストを信じた者たちには、この永遠の都に入る資格が与えられています。
どんなに自分をこの都にふさわしくないと思っても、キリストが私の身代わりとなったゆえに、私たちは神の都の住民票が保証されているのです。

続きを読む
posted by 近 at 21:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.5.5「闇が闇でなくなる日」(詩139:1-12)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
私のパソコンには「G-DATAインターネットセキュリティ」というウイルス対策ソフトが入っているのですが、最近ブログを更新しようとすると、
不正コードが含まれているのでアクセスをブロックしました」というメッセージが出て、操作ができなくなってしまいました。
それで「さくらのブログ」の運営会社が対応してくれるのを待っていたのですが、ウンともスンとも。
どうもG-DATAのほうの誤検出のようで、ただでさえ一週間遅れの更新がさらに遅くなってしまいました。
こんなブログでも更新を心待ちにしてくださっている全国10人くらいの方々(推測)、たいへん申し訳ありません。
「さくらのブログ」はたぶん無実ですので、とりあえず安心してご閲覧ください。
「ドイツ生まれの、世界が認めたG-DATA」(某電気カミソリのキャッチコピーみたい)という宣伝文句に惹かれて信じていたのですが、
まことの神様以外には頼ってはならないということでしょうか。週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』139篇1−12節


1.
 新しい元号(げんごう)に入りました。
「令和」ということばは万葉集からとったそうですが、じっとこの漢字を見つめていましたら、すごい発見をしました。おそらく私が日本で最初です。
まずメガネをとります。そうすると令和という文字が、なんと「全知」、すべてを知るという二文字に見えてくるのです。それだけです。
しかしどうせ元号を探すならば、日本人しかわからない、というか、日本人でもほとんど知らない万葉集ではなくて、
世界共通のベストセラー、聖書を通読してそこから元号をとればよいのに、と思わされます。とりあえず私の中では、今年は全知元年です。

 さて、今日の説教のテーマはもちろん「神の令和」ではなくて、「神の全知」です。
神の全知とは、「神はすべてを知っておられる」という、まことの神が持っておられる特質を表すことばです。そしてそれは祝福に満ちています。
たとえこれからどんなことが起ころうとも、神がすべてを知っておられるというこの事実は、私たちが平安を受け取ることができる基盤です。
人生にはなぜ、どうして、理解できない、そんなことが数多く起こりますが、私にはわからなくても、主はそのすべてを知っておられるのです。
クリスチャンでも、いな、クリスチャンだからこそ、神さまの守りを実感できないような孤独と疑いの中での戦いも経験します。
しかし神は次に起こることをすべて知っておられます。そして私たち、神の子どもとされた者たちを決してないがしろにすることはありません。
どんな苦しみも、そこには意味があります。地上に起こるいかなる事柄も、神にとって想定外、などということは一切存在しません。
「主はすべてを知っておられる」。この「全知」という二文字からなる神のご性質は、冷たい神学用語ではなく、血の通ったことばです。
どんなにお手上げの事態の中でも、神が私たちの知らないところで、とっくに御手を動かしてくださっていることを確信、期待することができます。
だからこそ、クリスチャンはどんなに絶望的な状況の中でも、安心して悩むことができます。心ゆくまで悲しむことができます。
三浦綾子さんだったか、遠藤周作さんだったか忘れましたか、「安心して絶望できる」という状況が確かにあります。
reiwa_zenchi.jpg並べて書くとこんな感じ。ちなみにフォントは龍神改。


続きを読む
posted by 近 at 20:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2018.4.28「賛美がのろいを飲み込んだ」(詩137:1-9)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
本日のニュース記事に「ホリエモンロケット、打ち上げ成功 民間単独で国内初」という見出しが躍っていました。おめでとうございます。
ホリエモンは青年時代にアニメ「オネアミスの翼」を見て以来、ロケットの打ち上げを夢見ていたと聞いたことがあります。
彼と同年代である私も高校生のとき、新潟市の映画館で5回これを観て、人生が変わったと言っても過言ではありません。
ただしホリエモンがロケット発射へのストーリーに注目したのに対し、私は別のところに影響を受けました。
ネタバレ注意ですが、主人公であるシロツグ(声:森本レオ)が路傍でリイクニという少女からいわゆるトラクトを受け取ります。
求道者を装いつつ、その子目当てに教会(?)に入り浸る中、ロケット打ち上げ計画に巻き込まれていく・・・・
(というか、彼女に良いところを見せようと自分から言い出しっぺになる)ストーリーが、当時の私にとって他人事と思えませんでした。
シロツグとリイクニはその後あれやこれやありましたが、結局、思いが結ばれることなく、危険な打ち上げへと向かいます。
信仰をカモフラージュしているように見えた彼でしたが、最後にはロケットの中で、人類に対する赦しと守りを「神」に祈るシーンが印象的です。
(といっても死んでしまうわけではなく、エンディングのラフ画からすると、ちゃんと帰還したようです)

音楽はあの坂本龍一、制作は後にエヴァンゲリオンで社会現象を起こした面々ですので、紛れもない名作です。
ふだんアニメなど見ないクリスチャンの方に一度は観て頂きたいと思いますが、感想には個人差があるでしょう。
しかし少なくともホリエモンと私はこの作品で人生が変わりました。勝手に友だちのように扱ってしまってすみません。
週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』137篇1−9節


1.
 県外から友人が来たときに一番困るのは、新潟市の観光名所に連れて行ってくれと頼まれることです。
もと新潟市職員の私が言うのも何ですが、新潟市の名所って何だろ、と本気で悩んでしまいます。
マリンピア日本海、新潟ふるさと村、朱鷺メッセ、他にもいろいろありますが、平成になってできたものばかりです。歴史的名所とは言えません。
豊栄に住むようになって、河川蒸気というお菓子を知りました。そのパッケージに、川を悠々と進む蒸気船が書いてあります。
聞いたら、戦後しばらくまでは、こんな光景が新潟の川にはあったそうで、とくにむかし新潟市の中心部には、堀が張り巡らされていたそうです。
ところが昭和39年の新潟国体の前に、堀を全部埋め立てて、道路にしてしまった、と。なんと勿体ない。
堀を残しておけば、それだけでりっぱな観光資源になり、県外から来た友人も小舟に乗ってご満悦、となったのではないかと思います。
 じつはバビロンという町も、水路が張り巡らされた都市であったと言われています。
1節をお読みします。「バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた」。
異国の町、柳の木が植えられた水路のそばで竪琴を奏でる人々の姿、何かロマンチックな場面に思えますが、そこには痛みがありました。
エルサレムの人々は、このバビロン軍に町を滅ぼされて、このバビロンに強制的に移住させられていました。
そしてエルサレムから連れてこられたひとりであるこの詩人は、バビロンの人々から、故郷の歌を歌ってみろと言われたのでしょう。
しかしシオンの歌、つまりイスラエルの歌は神をほめたたえる賛美です。それは神にささげられるために作られ、歌われたものです。
決して宴会の余興で歌えるようなものではない。そこで詩人は、木に竪琴をかけて、歌を拒絶し、バビロンの人々は彼を嘲りました。
 しかし詩人は、彼らの前では歌うことを拒みましたが、その一方で、決して神への賛美を忘れまいと心に誓いました。
5節から6節にはこうあります。「エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右の手がその巧みさを忘れるように。
もしも私がお前を思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。」
イスラエルの人々は、故郷エルサレムとはまったく風土の違うバビロンという異国で、まるで奴隷のように明日の見えない生活を過ごしていました。
その中で、唯一彼らの心の支えになっていたものは何でしょうか。それは、エルサレムに対する、たぎる思いでした。
エルサレムという町そのものをほめたたえるのではありません。エルサレムを神の都として建ててくださった、神への賛美。神への感謝です。

続きを読む
posted by 近 at 21:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.4.21「復活−恐ろしさから喜びへ」(マルコ16:1-8)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先週はブログを更新することを忘れていました。我ながらこのモティベーションの低さ。継続が危ぶまれます。
さて、もう明日に迫ってしまいましたが、今年もNBIバザーで茶会をやります。
今回のポスターは、フォントは「エヴァ文字」で有名なマティスEBを縦110%、横90%で雰囲気を出してみました。
茶会のイメージは、歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」からです。許可をとっていませんが。
てなわけで、来てね。週報はこちらです。
2019tyakai.jpgコピーライトマークコーエーテクモホールディングス

聖書箇所 『マルコの福音書』16章1−8節



1.
 イースターおめでとうございます。「あけましておめでとうございます」ではありませんが、
いつか日本中でイースターおめでとうございますという挨拶が飛び交うようになればよいと思いながら、いつもこの時期を迎えていました。
しかし少しずつですが「イースター」という言葉が、日本でも知名度を上げて来たように思います。
数年前ですが、スーパーで妻がプリンを買ってきたら、かわいいウサギの絵が描いてあって、「イースター」と書いてありました。
何でも卵をウサギが運んでくるからだそうです。
じつは聖書の中ではウサギもたまごもほとんど出てこないのですが、まあ良しとしましょう。
ウサギはともかく、卵は、いのちがその中に詰まっているものであり、古来よりキリストのよみがえりの象徴とされてきました。
 イースターとは、キリストのよみがえりのことです。
そしてキリストのよみがえりは、キリストの十字架と表裏一体、どちらが欠けても救いは成り立ちません。
イエス様は、私たちが受けるべき罪の罰の身代わりとなって、十字架の上で私たちのために死んでくださいました。
私たちは「死」が当たり前の世界に住んでいるので、死の本質に気づかないかもしれません。
聖書は、死は罪の報酬であると言っています。
ひらたくいうと、私たちは生まれつき罪人であるがゆえに、生まれたときすでに死に囲まれています。
しかしキリストは死んで三日目によみがえり、墓の中から出てこられました。
それは、キリストが死を打ち破ったこと、ひいては死の根源である罪を打ち破ったことを意味しています。
きょうは、イースターであると同時に、私たちの教会にとっては、先に天に召された信仰者の方々をおぼえる日でもあります。
愛するあの方々は、確かに死んでいきました。私が葬儀をしたのです。
しかし肉体は死にましたが、信仰によって今も生きています。
 イースター、それは私たちが信じたイエス・キリストが、確かに十字架で罪を打ち破り、確かに復活で死を克服したことを表すものです。
そしてこのキリストを救い主として信じる者は、死んでも生きるのです。そのことを私たちは改めて信じましょう。

続きを読む
posted by 近 at 20:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.4.14「パラダイスはどこにある」(ルカ23:32-49)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週の礼拝では、役員就任式・CS教師任命式・子ども進級式(祝福式)を行いました。礼拝後は恒例の記念撮影です。
DSC01232.JPG
こういうのって、目線入れたりとかモザイクかけるべきなんでしょうか。ちょっとわかりません。
外部から来ている子どもは含まれていないので、いいのかわるいのか。
一脚だけ誰も座っていない椅子が気になりますが、人によってはイエス様が見えるかもしれません。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』23章32−49節



序.
 遠藤周作の『沈黙』という小説を原作として作られた「サイレンス」という映画の中に、印象深い場面が登場します。
主人公である外国人司祭が、幕府の役人に捕らえられて、みずぼらしい牢屋のようなところに入れられてしまいます。
するとすでにそこにはやはり同じように捕らえられた日本人の信徒たちがいました。そしてその中のひとりが主人公にこう尋ねてくるのです。
「司祭様、私たちが殉教したあとに行くパライソは素晴らしいところなのですよね?」
「パライソ」とは、「天国」を意味するポルトガル語です。
そしてこの言葉は、新約聖書に三回だけ出てくる、「パラダイス」というギリシャ語から派生した言葉です。
「パライソは素晴らしいところなのですよね?」と聞かれたとき、この外国人司祭は、しばし何と答えて良いかわからず、沈黙します。
なぜ彼はしばらく言葉が出なかったのか。それは、彼らはパラダイスを死んだ後に行くところとは教えていなかったからです。
パラダイスは、信じた者にすぐに起こる新しい生き方です。死んだ後ではなく、信じたときに生まれる、新しいいのちそのものです。
しかし日本人の信者たちはパラダイスを浄土真宗で言う「極楽」と混同して受け止めていました。
遠藤周作がこのやりとりの中に含めたメッセージは、たいへん辛辣なものであると言えるでしょう。
いまも日本のクリスチャンは、彼らと変わらないのではないか。パラダイスを死んだ後に行く世界と考えているのではないか。
むしろ信じたときに確かに起こる、人が内側から変えられる奇跡そのもの、それが「きょう、パラダイスにいます」という言葉のまことの意味です。


続きを読む
posted by 近 at 18:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.4.7「見よ、善きかな、楽しきかな」(詩133、134篇)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』133、134篇



1.
 「あなたにとって、日曜日にはどうしても欠かせないものは何ですか」と聞かれたら、当然ここにおられる方々は「礼拝」と答えるでしょう。
しかし巷では、サザエさんと答える方も多いようです。あるいは平成生まれの世代は「ちびまる子ちゃん」と答えるのでしょうか。
「サザエさん症候群」という、ストレス症候群があるそうです。
日曜日にサザエさんを見終わると、心の中にむなしい風が吹き、ああ、日曜日終わっちゃう、明日から学校かあ、会社かあ、いやだなあ。
そう考えずにはいられないというもの。ドキッとした方もいるのではないでしょうか。
月曜日のことを考えると憂鬱でたまらない現実の人々に比べると、サザエさんの登場人物は気楽でいいよなあ、と思いませんか。
しかしサザエさんを長年にわたって研究している、あるグループによれば、むしろ彼らの方がよほど大変だ、というのです。
この研究グループは、サザエさんの原作本に出てくるすべての会話を調べて、登場人物の年齢を割り出しました。
それによると、一家の大黒柱である波平さんは54歳、お母さんのフネは48歳だそうです。ところが長男のカツオは、まだ小学生。
60歳定年の頃に書かれたサザエさんにおいて、波平さんは子どもを大学に行かせるために、
定年になってもまだまだ仕事を探し続けなければならない、厳しい老後が待っているのだということです。
彼らの生活レベルの鍵を握っているのは、同居するフグ田家の存在。彼らがどれくらい援助してくれるかという、生々しい話が続きます。
 それでも、家族がみな同じ家で生活している、サザエさん、あるいは、ちびまる子ちゃんの世界に、私たちは惹かれます。
家族全員が、同じテーブルに座り、同じ食事をつついている、何気ないけれども今となっては貴重な姿がそこには現れます。
来年、2020年は56年ぶりに東京でオリンピックが開かれます。前のオリンピックの時、東京にやってきた外国人記者たちは、
わずか20坪ばかりの、同じような形の家がずらっと並んでいる、長屋のような日本の住宅街を見て、ウサギ小屋と揶揄しました。
しかしどんなにささやかであっても、人々が自分の家を持とうとした理由、それは家族団らんこそが人生のしあわせだと信じていたからです。
それから半世紀、日本人のライフスタイルは変わりました。家族のすべての世代が、一緒に暮らし、一緒に食事をする家庭は少数派です。
しかしたとえ平成生まれの若い人でも、サザエさんやちびまる子ちゃんのような家族団らんの風景を知っている人がほとんどです。
だから家族がひとつに集まることは、いまの時代では困難なことはあっても、本来は普通のことなのだという感覚は、日本人に共通しています。
しかし、この詩篇の背景である、イスラエルにおいては、家族が共に集まるということは普通どころか、奇跡そのものだったのです。

続きを読む
posted by 近 at 21:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ