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2019.10.6「ひたすら十字架に向かって」(ルカ9:37-45)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
台風19号(ハギビス)が現在(12日の19:00頃)伊豆半島に上陸というニュースの中でブログを記しています。
新潟市は、雨・風ともに少しずつ強くなっておりますが、避難注意・指示などは発令されていないようです。
せっかく教会の玄関前に出しておいたバザーの看板も撤収しました。台風が過ぎたあと、また掲示します。
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関東や東海地方のニュースを見ながら、どうか守られますようにと祈ります。
ほんとうに、祈ることしかできません。
二千年前にガリラヤ湖上の嵐の中で怯えていた弟子たちと、現代の私たちの姿は基本的に同じなのだと思わされます。
自然の脅威に対して無力です。恐れます。しかし台風を恐れるのではなく、すべての創造者をこそ恐れたいものです。
キリストが「黙れ、静まれ」と荒れ狂う空に向かって語ってくださるその時を待ちます。
定期的にこのブログに目を通してくださる方々の中には、今晩、避難所で夜を過ごす方もおられるかもしれません。どうか休めますように。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』9章37-45節


1.
 今日の聖書箇所は、マタイの福音書、マルコの福音書の中にも出て来る有名な箇所ですが、
このルカ福音書での物語を、マタイ、マルコと比べると、肝心な箇所が抜けています。
マタイ、マルコでは、あとからそっと弟子たちがイエス様にこう聞くのです。「なぜ私たちには悪霊を追い出せなかったのですか」
するとイエス様が答えます。マタイでは、信仰が足りないからです。マルコでは、祈りと断食によらなければでていきません。
すでに弟子たちは悪霊を追い出す力と権威を与えられていたのですが、それは自動的に発動するのではない。
信仰、祈り、また祈りに専念するための断食、といったものを働かせていく、と、わかりやすく適用することができます。
 ところがルカの福音書では、そういうやりとりは一切ありません。
それは、十字架に至るイエス様の苦しみを一続きとして集中して描いていくために、あえてそのような信仰の教訓をカットしているわけです。
しかし次のことばだけは、三つの福音書で共通して、記されています。41節をご覧ください。
「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。
いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい」。
イエス様はこの言葉をだれに対して言っているのでしょうか。
これも三つの福音書に共通しているのですが、弟子たちに対してではなく、この父親を含めて、群衆に向かって語っているのです。
 このことに、私たちは混乱します。イエス様は苦しんでいる者たちをあわれんでくださるお方ではないのでしょうか。
それなのに、「いつまであなたがたにがまんしなければならないのか」などと、突き放したことを言われるなんて、そんなことがあるのだろうか、と。
しかしここに、私たちに対する大切なメッセージが隠されています。
それは、イエスさまに何かを求める前に、あなたはイエスさまが何を求めておられるのか、知ろうとしていますか、ということです。
人々は、イエスに今日の食べ物を求め、地上の安定を求め、病のいやしを求め、悪霊の追い出しを求めました。
イエス様はどんなにご自分が疲れているときにも人々を迎え、そして与えられました。
しかしこの、我が子のためなら真剣そのものである、この父親でさえ、イエスが進もうとしておられる十字架の道を想像できていませんでした。
辛辣な表現をすれば、彼らにとってキリストは、求めれば何でも出てくるATMでしかなかったのです。

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posted by 近 at 19:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.9.29「彼の言うことを聞きなさい」(ルカ9:28-36)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
最近、関西電力関係者の贈収賄事件が連日報道されているのですが、
ふと気になるのは、背広仕立券だの何だのいろいろ贈ってた高浜町の旧助役(故人)についてはほとんど報道されないこと。
故人であるからということで、それこそ罪が忖度(そんたく)されているように思えてならないのは穿ちすぎでしょうか。
そして現・高浜町長もまるで他人事のように怒りの声を上げていますが、町民の責任は問われないのでしょうか。
私たちが福音書を読むとき、あるいは語るとき、群衆=哀れな羊という面が強調されるきらいがありますが、
実際にはイエス・キリストは、弟子たちよりも一般の人々に対して厳しい目を向けられることがありました。
(それは山上の変貌後の出来事のなかで、共観福音書が共通して語っていることです)
それにしても、いつも洋服の青○年末セールでツーパンツスーツばかり買っている私も、一度背広仕立券なるものを見てみたいものです。
送られてきても受け取れませんが。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』9章28-36節


1.
 イエス・キリストが30歳の時に故郷ナザレを離れ、十字架の死まで宣教活動をなされた期間は、約3年半と言われています。
これを公生涯と言いますが、今日の聖書箇所は、その3年半の公生涯のうち、最後の半年間のはじまりとなる箇所です。
新約聖書には、イエスの公生涯を記録した、福音書が四つありますが、どの書も三年半をバランスよく記しているというわけではありません。
このルカ福音書は、全部で24章あって、まだ9章ですから、イエスの公生涯の前半のように誤解しがちなのですが、
実際にはルカ福音書の大半は、最後の半年間にターゲットを絞って、イエスのことばや行いについて書かれています。

 今日の聖書箇所に描かれている出来事は、山上の変貌と呼ばれます。最後の半年間の出発点となる箇所ですが、
このときのイエス様はいったいどのような状態であったでしょうか。信じられないかもしれませんが、だれにも理解されない、ひとりぼっちだったのです。
それまでの約三年間、イエスはユダヤ全土を回りながら、病をいやし、悪霊を追い出し、神の国が来たと語り続けていました。
それは、一見、多くの実を結んでいたように見えました。イエスの元に集まってくる者たちは日に日に増え、休む暇のないほどでした。
しかしほとんどの人々は、イエスを罪からの救い主とは見ていませんでした。
やれバプテスマのヨハネがよみがえった、やれエリヤだ、いや昔の預言者の生まれ変わりだと言っても、救い主としては見ていません。
モーセのように空から食べ物を降らせてくれる、あるいはダビデのようにイスラエル王国を再興してくれる、そんな願いしか託していません。
十二弟子でさえ、イエスがエルサレムで十字架にかかり、殺され、そしてよみがえらなければならない、ということばを受け入れられなかったのです。
ましてや人々が、イエスさまの心を理解できなかったのは当然かも知れません。イエス様は、人々に囲まれてはいても、孤独でした。

 今日の、イエス様が光り輝く御姿に変わられた出来事にはどのような意味があったのでしょうか。
まずひとつには、人々が決して理解しなかった、十字架にかかる救い主としての道を、父なる神はよろこんでくださった、ということです。
この出来事の一週間前に、ペテロは「あなたは神のキリストです」と告白しました。
しかし実際のところ、何をもって神のキリストなのか、ペテロを含めて、弟子のだれも、よくわかっていませんでした。
神のキリストの答えが、ここにあります。イエス様は父なる神に、自分の心を聞いていただくために山に登り、この出来事を経験しました。
これは、キリストが自分の意思で、自らの力をもって起こした変化ではありません。父なる神が、神の子として輝かせてくださったのです。
たとえ人々があなたの選び取った十字架を理解しなくても、まさにあなたが十字架へと向かうからこそ、私はあなたをわが子と認める、と。
あなたの十字架への決意は、わたしのみこころに完全にかなっている、だからわたしはあなたをよろこぶ、という光に満ちた励ましでした。

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posted by 近 at 23:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.9.22「わが救い主イエス」(ルカ9:7-9、18-27)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。うっかりしてブログを更新するのを忘れていました。
今日、何日ですか?10月1日になりました。いよいよ消費税も10%ですね。まさか10%だから10月にしたんじゃないですよね。
竹下内閣によって初めてわが国に消費税が導入されたとき、私は18歳でした。
3%なんて計算がややこしいから、10%くらいのほうがキリがいいんじゃないのとか思ってた高校生でした。
バカモノ、オマエは何もわかっていない。10%という数字の重みを・・・・(涙)ムキー
30年前の自分が目の前にいたら叱りつけてあげたい気分です。ああ、5%のうちに会堂建築を始めたかった。
こんな記念すべき夜に、ふと小学生の頃に友人の家にあった小説のタイトルを思い出しました。
フレッド・ホイル『10月1日では遅すぎる』(早川SF文庫)
変なタイトルだから、妙に頭に残っていました。古典過ぎて、もう絶版です。Amazonでもこんな写真しかありません。
消費税とは関係ない内容だったはずですが、タイムリーなタイトルなんで再版されるかもしれませんね。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』9章7-9、18-27節


ごめんなさい、今回録画に失敗して、メッセージ動画がありません。

1.
 インターネットで「イエス・キリスト」と打ち込み、検索すると、900万件以上の記事が出て来ます。
その900万件の中でイエス・キリストを救い主として教えている記事はどれくらいでしょうか。おそらく十分の一にも満たないことでしょう。
数え切れない人々が、イエス・キリストを偉大な人物として崇めています。900万件という数字は、その表れです。
しかし同時に、あまりにも多くの人々がイエス・キリストを単なる偉大な人物でまとめてしまい、救い主とは認めません。
もし救い主だと認めてしまったら、自分が救いを必要としていることを認めることになります。いいや、私は救いなど必要としていない。
自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の足で立ち上がることのできる、確固とした生き様を持っている人間なのだと信じたいのです。

 国主ヘロデも、そのような現代人と同じでした。彼は、自分に罪の悔い改めを迫っていたバプテスマのヨハネを殺しました。
しかし彼は、自分のプライドを守るため、成り行き上でヨハネを殺しました。そのことが常にヘロデの心を責めています。
小さいとはいえ、一国の王である自分が、その優柔不断さのゆえに流されていく現実に対して彼は彼なりに嘆いていました。
「ひどく当惑していた」ということばは、彼の中にあったそんな不安を物語っています。彼はイエスに会ってみようとも思いました。
もしそれが口先のものではなく、自分からイエスに会いに行くために立ち上がるほどの求道心であれば、彼の人生は変わっていたでしょう。
しかし彼は自分からは動きませんでした。自分からイエスに会いに動くためには、王としてのプライドを捨てる必要があったからです。
そして彼の人生は最後まで変わりませんでした。
まわりに流され続けた彼は、最後には身内に欺かれてローマ皇帝への反逆者として処罰され、遠い流刑地で寂しく死んでいったのです。

 現代に生きる、数え切れない人々が、ヘロデと同じ道を歩んでいます。
自分が不安を抱えていることを感じている。その不安は、いま自分が持っているものでは解消できないことも知っている。
しかし自分がその不安から解き放たれるために救い主を求めることは、おのれのプライドが許さず、他人の目も気になる。
イエス・キリストは、私たち一人ひとりにこう問いかけます。「あなたは、わたしをだれだと言いますか」と。
答えはたくさんあるように見えて、じつは二者選択しかありません。救い主か、そうでないかです。
私たちが人々の前で、イエスは救い主であると認めるならば、イエス・キリストも私たちを救われるべき者として認めてくださいます。
しかし私たちが、イエスを救い主として公に言い表さないのであれば、キリストも私たちを知らないと言うでしょう。
あなたは、イエスを人々に何と言いますか。人々の前で、この方を私の救い主と告白することは勇気がいることです。
しかし恐れてはなりません。イエスは、私の救い主です、と大胆に告白する人は、必ずそれにふさわしい恵みを受け取ります。

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posted by 近 at 01:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.9.15「祈りの両輪」(ルカ9:10-17)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
このたびの台風15号で被災した方々、また停電の中で不便な生活を強いられている方々が励まされますように。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』9章10-17節


1.
 新約聖書の中で、「使徒」という言葉は約100回出て来ますが、福音書の中にはほとんど出てきません。
しかしそのわずかな、「使徒」という特別な表現が出てくる場面、それは弟子たちがとりわけ大切な訓練を受けている出来事を意味しています。
今日の聖書箇所の冒頭、10節では、まずこのように述べられます。
「さて、使徒たちは帰って来て、自分たちのして来たことを報告した。それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた。」
 これより前、弟子たちは、イエス様から力と権威を与えられて伝道旅行に遣わされていました。
華々しい報告を持ち帰った弟子たちですが、どの福音書でも、このあとイエス様は彼らを寂しいところへ行かせて休ませたと書かれています。
これがその、大切な訓練という意味です。使徒たちは、神の大きな働きに加わったあとだからこそ、本気で休む必要があったのです。
クリスチャンは聖霊の力に満ちているから疲れることはない、と言いたいところですが、聖書全体を読むと、そうは教えていません。
神様の働きに携わるからこそ、よく休まなければならない。休むのにも信仰が必要とされます。
イエス様でさえそうでした。自ら選び取って、朝早くから起きて、寂しい所で父なる神と向き合い、交わりの時を持っておられました。
 宗教改革の中心人物であったドイツのマルティン・ルターは、忙しいときにこそ、よく祈った人だったと言われています。
この場合の「祈る」というのは、完全に手を休めて、密室で神様に向き合って祈ったということです。
それは課題や願いを挙げていく祈りではなく、幼子が親に何でも語りかけるような、まさに魂の休息としての祈りの時でした。
 私たちは大きく分けて二種類の祈りの時を持っています。一つは、抱えている課題や願いを神様に訴えていくこと、
そしてもう一つは、何も願わず、ひたすら神様と心の中で語り合い、魂を休ませるものです。
この二種類の祈りの時は、車の両輪のようなもので、どちらかが欠けてもアンバランスな信仰になります。
ただ、私たちはもっぱら祈りを、願うことばかりに用いやすいことは確かです。
そして祈りが仕事のひとつのようになってしまい、人によっては祈ることが苦手になってしまいます。
しかしただ神様に現状を打ち明け、幼子が母親に言葉を聞いてもらうような、もうひとつの祈りの時、これは仕事ではなく、真の休息です。

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posted by 近 at 16:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.9.8「福音こそ人をいやす力」(ルカ9:1-6)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
このたびの台風15号で被災した方々、また停電の中で不便な生活を強いられている方々が励まされますように。
同盟教団に所属する教会の被災情報については、こちらをご覧ください。またお祈りください。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』9章1-6節


序.
 今から何百年も前の話ですが、あるお金持ちが、外国の商人からある大きな生きものを手に入れました。
ところがあまりにも大きすぎて、玄関に入らない。外につないで盗まれるのも困るので、いそいで倉のなかにその動物を入れておきました。
近所の人は、その珍しい生きものを見せてくださいと頼みましたが、金持ちは盗まれるのがいやで断り続けました。
そこで人々は塀越しに、倉の小さな窓からチラリと見える姿から、その生きものが何か想像したそうです。
ある人は、あれは大きな蛇だと言いました。おれが窓からみたら、灰色をした長い蛇がくねくね動いているのを見たぞ。
別の人が言いました。いやいや、確かに灰色をしていたが、あれは蛇なんかじゃなかった。翼をぱたぱた動かしているのがちらっと見えた。
さらにもう一人が言いました。いいや、あれは角のばかでかい牛だ。真っ白い、それは大きな角が、天に向かって突き出されていたぞ。
有名な話ですので、この生きものの正体が何かはおわかりでしょう。答えは象です。
蛇に見えたものは長い鼻、翼に見えたものはぱたぱた動く耳、そして角に見えたものは、大きく反り返った牙だったというわけです。
この話はある教訓を秘めています。それは、ひとつの同じものや出来事でも、人によって注目する点や受け取るものが違うということです。

1.
 今日の聖書箇所である、イエス様が12使徒を派遣するできごとは、マタイ、マルコ、ルカそれぞれの福音書に共通して記されています。
しかし先ほどの象の印象のように、福音書によって、強調されている点が異なります。
マルコの福音書から先に見てみると、そこでは、イエス様が伝道旅行に弟子たちを二人ずつ組にして派遣したことを強調しています。
マルコ自身は12使徒ではありませんでしたが、彼は後にペテロの通訳をしています。おそらくマルコはペテロから話を聞いたのでしょう。
ペテロは自分の兄弟であるアンデレとペアになって、遣わされたところでよい働きをしたのかもしれません。
マルコは、ペテロの通訳をする前に、いとこであるバルナバと、パウロの伝道旅行に助手としてついていった経験もしています。
コンビ伝道とでも言いましょうか、お互いの欠点を補い、長所を伸ばしていく、その伝道スタイルをマルコはとくに強調して記しているようです。
 では、マタイの福音書ではどうでしょうか。
マタイの場合、実際に派遣されたコンビのグループリストを挙げてはいますが、マルコほど二人組を強調してはいません。
代わりに彼が強調しているのは、イエス様が派遣前に語られた説教です。
マルコとルカが、派遣前の説教を注意書きのように数行しか語っていないのに対して、マタイはなんと2頁も費やして説教を記しています。
これは私の想像になってしまいますが、ペテロが兄弟のアンデレと組になって、気の合う兄弟と伝道を楽しんだのに対して、
マタイはパートナーとの信頼関係に不安をおぼえながら、頼るのはイエス様のおことばのみという思いで説教を心に刻んだのかもしれません。
ちなみにマタイの福音書では、マタイのパートナーはトマスになっています。ちょっと面倒くさい人だったのかも知れません。

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posted by 近 at 23:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.9.1「送り出されて勝利」(使徒13:1-12)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『使徒の働き』13章1-12節


1.
 新潟市の西区にあるI教会は、新潟大学の近くにあるので、昔から学生たちがよく集まってきていました。
今日の聖書箇所に出てくるアンテオケ教会を思い巡らしていると、昔そこの牧師先生が話してくださったことばが思い出されてきました。
「新潟大学の学生たちは、その6割が新潟県外に実家がある。そして卒業後は新潟にとどまらず、地元に戻るか東京で就職する。
教会に通っているクリスチャンたちも例外ではない。彼らが卒業した後も新潟、この教会に残ってくれたらなと思うこともある。
だが、ここはもともと宣教師が学生センターとして建てた教会だ。
私たちの教会が心がけていることは、卒業するまで彼らにクリスチャンのイロハを教え、自信をもって別の教会へ送り出せるようにすることだ」と。

 せっかくこの教会に導かれたのに、この教会で救われたのに、送り出さなければならない。つらいことです。
I教会に限らず、私たちの教会も含めて、多くの教会が、「送り出す」という痛みをしばしば経験してきました。
しかしそれは痛みだけで終わることはなく、必ずそれにまさる恵みをもたらしてくれることを、アンテオケ教会の姿が教えてくれます。
もし送り出すことを命じたのが神様ご自身であるならば、送り出した者たちを用いて、神様は大いなるみわざを現してくださるのだ、と。

 アンテオケ教会は、サウロとバルナバという、その教会にとってなくてはならない教師あるいは預言者を伝道旅行へ送り出しました。
それは教会にとって、犠牲を伴うことであったことは間違いありません。教会そのものがばらばらになってしまう危険だってありました。
しかし礼拝の中で聖霊の命令が語られたとき、彼らがためらったことを匂わせる記録はありません。かわりに、こう書いてあります。
「そこで彼らは、断食と祈りをし、ふたりの上に手を置いてから、送り出した」と。彼らはすぐさま聖霊の声に聞き従いました。
礼拝で語られたのです。聖霊が語られたのです。だから彼らはあくまでも神のみこころを選び取ったのです。

 神が用いられる教会は、人数が多い少ないに関係ありません。伝統があるかないか、経済的に余裕があるかどうかでもありません。
神が用いられる教会は、神の働きのために犠牲を払う覚悟を持っているかどうかです。
聖霊はアンテオケ教会のひとり一人に語られました。「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」。
礼拝で聖霊が語られるというのは具体的にどういうことでしょう。礼拝中に天から雷のような声が響いたということではありません。
ひとり一人の心に同じみことばが語られたとき、それぞれが同じチャレンジを受け取ったのです。それは聖霊にしかできないことです。
その意味で、みことばによる一致というのは、神だけがなすことのできるみわざです。人のかけ声によるものではありません。
それはひとり一人がみことばに真剣に臨むときに生まれます。いまこのとき、私たちがみことばに真剣に向き合うのです。

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posted by 近 at 22:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.8.25「上着を捨てたバルテマイ」(マルコ10:46-52)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
当教会では3週に一度のペースで、牧師にも教会学校のお話しが回ってきます。
今回はパウロがローマに行く途中で難破したけどいろいろあって助かった、あのお話し(使徒27-28章)。
今日も今日とて『成長』の視覚教材にパソコンでせっせと色をつけ、背景を別の画像からレイヤーで貼り付けたりと大忙し。
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ところが作っているうちに、なんとなくデジャビュ。あれ、前も同じような紙芝居を作ってなかったっけ。
そこでパソコンのフォルダを探してみた。すると2016.06.25という日付で確かにこんなのがありました。
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3年前のものはすでに引退された山田画伯の絵柄ですが、どう見ても同じ話ですね。妙な生きものも書き加えられていますが。
そもそもパウロの遭難の話を子どもたちに3年ごとに繰り返す必要があるんでしょうか。どうなんだ、成長。
恐ろしいことに、『成長』の9月のカリキュラムは、なんと毎週パウロ書簡から一書まるごとです。
一書説教なんて、牧師だって礼拝で躊躇するのに、教会学校でいけるのか。どうなんだ、成長。しつこい。
とまあ、さんざん文句をたれるわりには、いまだに『成長』を手放すことができないのも確かなんですが。
豊栄キリスト教会は『成長』を応援しています。週報はこちらです。

聖書箇所 『マルコの福音書』10章46-52節


1.
 妻と結婚して16年になりますが、新婚旅行に向かった先は北海道でした。途中、道南にある登別クマ牧場というところに行きました。
クマたちが観光客の姿を認めると手を振ったり、大開脚のポーズをとったりして、何とか自分に注目をひきつけてエサを投げてもらおうとします。
クマが愛想をふりまく挙動があまりにも面白くて、ずっとクマばかりを撮っていたら、いつのまにか妻がいなくなっています。
新婚旅行という目的を忘れてしまった私の責任で、帰りの道は平謝りでしたが、ある意味楽しい経験ではありました。
 クマたちは、客がいないときはもっぱら寝そべったりしているのですが、客の姿を認めるとやおら起き上がり、自己アピールを始めます。
人間の注目を少しでも多く惹きつけたものがエサを投げてもらえることを知っているのです。
バルテマイもまた、人々にどんなにたしなめられても、イエスのおられるかもしれない方向に向かって叫ぶことをやめませんでした。
彼は目が見えない物乞いであったとあります。物乞いは、ふだんは声を上げません。
ただ黙って、道行く人がいくらかの銅貨を投げ込んでくれるのをひたすら待っています。
今日もバルテマイは、そのようにだまり込んだまま、人々のあわれみにすがりながら一日を過ごすはずでした。
しかし彼は、今目の前を歩いている集団の中に、ナザレのイエスが混じっているということを耳にしました。
そして今までの沈黙が嘘のように、ひたすら「ダビデの子よ、あわれんでください」とひたすら声を上げて叫び続けたのです。
 クマとバルテマイを一緒にするのは失礼ですが、自分の持てる力を使い切る覚悟で、注目を集めようとしたことは同じです。
クマたちは、親が見たら泣くような大開脚ポーズで、まさにヒグマのプライドを捨ててまで観光客の注目を惹きつけようとしていました。
バルテマイは、まわりの人々にどれだけたしなめられましょうとも、叫び続けました。
目の見えないバルテマイには、前を歩いている人々のどこにイエスがおられるのかわかりません。
だからひたすら、あらゆる方向に向かって大声で叫び続けたのでしょう。イエスの目を惹くためです。
しかしクマとバルテマイは明らかにひとつの点で違っていました。
クマは、観光客が投げるエサを巡っての競争に敗れても、次の機会があります。
しかしバルテマイは、この機会を失ったら、自分の人生を変えるチャンスはないということを知っていました。
だから彼は死に物狂いで叫び続けたのです。

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posted by 近 at 21:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.8.18「祈りを我らに」(使徒12:1-25)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
なかなか受洗者が与えられない当教会ですが、先月末、約一年ぶりに洗礼式を行うことができました。
信仰はみことばから始まり、成長のためには一日も早くみことば全体を把握すること。
そこでこれからの一年間、一緒に聖書通読を行い、週に一回分かち合うということを始めました。
聖書通読のコツは、わからなくても気にせず、とにかく動きを止めずに読み進めていくことだと言われます。
なのに、創世記序盤を読んでいると族長たちの年齢が頭の中をグルグル回り、進みません。
結局、こんなもの↓を作ってしまいました。
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画像を縮小していくと、鳥が羽ばたいている姿に見えないこともなかったので「次代の翼」と名づけました。
基本的には、子どもが生まれた年齢(オレンジ色)と、その後の人生(グリーン色)で分けています。
ただしアブラハム以降の方々は、ライフイベントがそれまでと比べて細かい描写になりますので、他の色も入っています。
そちらのほうの説明は、ヒマなときがあれば更新します。(こんなもの作っている時点ですでにヒマと言われそうですが)
・大洪水が起きた年にノアの祖父メトシェラがきっちり死去していたり(箱舟に入れてもらえなかった?)、
・ヨセフのライフイベントから、ヤコブが家を出た年齢を計算すると、少なくとも70歳を越えているはず(リベカは何歳なんだろ?)
他にもいろいろな発見があるかもしれません。「人の齢は120年にしよう」と宣告された割には、洪水後もみんな長生きなんですね。
二次使用も自由ですが、画像が4800×3200pxとデカイです。(容量は1.3MBくらい)ノークレームでお願いします。
なかなか役に立つブログでしょ。これからもごひいきに。週報はこちらです。

聖書箇所 『使徒の働き』12章1-25節


1.
 アリとキリギリスというイソップ童話がありますが、昆虫の中でもアリは働き者の代名詞のようなイメージがあります。
実際、子どもの頃、地面に落ちているものをアリたちが協力して運んでいる姿を見たことのある方もいるのではないでしょうか。
ところがアリの研究者たちの発表によると、本当に一生懸命働いているアリは、どの群れでも全体の1/4にすぎないのだそうです。
残りの3/4のアリのうち、働きアリと同じ1/4の数は、働かないアリ。
そして残り、つまり全体の半分は、適当に働いているアリだそうです。
どの巣、どの群れでも、全体の1/4しか働きアリがいないのだということが改めて確認されました。

 そこで研究者たちはこんな実験を思いつきました。同じ種類のアリの巣を四つ選ぶ。
それぞれから働きアリだけを取り出して一緒にすれば、全部働きアリという完璧なグループになるのではないか。
理論上はうまくいくはずでした。
ところが働きアリ同士を一つのまとめた途端、前の巣では働き者だったアリの中に怠ける奴が出てしまう。
結局、働きアリだけを集めても、最終的にはそのグループの中の1/4は働き者、1/4は怠け者、残りの1/2は普通のアリ、となってしまうのです。
 研究者たちはついでに逆の実験もしてみました。
四つの巣から怠けアリだけを集めて一つの巣に入れてみたのです。どうなったでしょうか。
ご想像のとおり、前の巣では怠け者だったアリたちが、やはり1/4は働きアリ、1/2は普通のアリとなったのです。
1/4は変わりませんでしたが。
 後日、同じような実験をアリだけでなく、ミツバチやサルといった群れを作る生きものに広げられましたが、同じような結果を生んだそうです。

 人間ではどうでしょうか。
あえて伏せますが、この実験結果は、神様が生きものに共通して与えられた、一つの恵みを表しているように思えます。
ヘロデ王は、教会などというものは使徒さえ取り除けば、あとは自然と崩壊していく、と考えて、最初にヤコブ、次にペテロに手を伸ばしました。
しかし指導者層である1/4を取り除いても、残りの3/4は烏合の衆では終わりません。
残りの者から誰かが立ち上がり、回復していきます。
教会に起きた迫害は、まさにそうでした。
たとえヤコブが殺され、ペテロが捕まえられても、無名の教会員たちは、祈り続けていたのです。

 私がこの箇所で励まされるのは、この祈っている人たちが、信仰の勇者というよりはむしろ未熟な者たちであったということです。
ペテロのために祈っていたとあるのに、実際にペテロが現れると、だれも本物だと信じないのです。
しかしここに一つの本質があります。
彼らは聖人ではありません。未熟な者たちでした。
しかしそれでも彼らには、祈りという武器が与えられていて、彼らは使徒たちの姿を真似た。
祈りがかなえられることを自ら信じないような者たちだったけれども、それでも祈り続けていた。
それが彼らに与えられた唯一の力だったから。

 日本の教会は、いまだに全人口の1%と言われ、世界の教会の中でも下のほうの1/4のように自虐的に見てしまう傾向があります。
しかしどんなに信仰が弱く、未熟な者たちであっても、祈りという唯一与えられた力から手を離さないならば、必ず神は動いてくださいます。
神は、祈り手である私たちの真実さによって祈りを現実化してくださるのではありません。
その祈りがみこころにかなっているかどうかです。
どんなに信仰の弱い者たちであっても、その祈りが神のみこころと合致するときに、祈りは叶えられます。
だから私たちは今日も祈るのです。

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2019.8.11「キリストのみ」(使徒11:19-26)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今から18年前の2001年、CS成長センターから「あの説教、いつ終わるの?」という大変おそろしいタイトルの本が出版されました。
サブタイトルは「子どもを礼拝に参加させるためのヒント」ですが、あまりにも攻めすぎなタイトルのゆえに日本では絶版です。
インターネットで検索すると、著者はアメリカ人(たぶん)で「ロビー・キャッスルマン」とあります。Robby?Lobby?
ロビーはともかくキャッスルマンはCastleman(城男)なんだろうと思って、改めてAmazon.comで検索してみると、やや、ありました。
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原題は「Parenting in the Pew−Guiding your children into the joy of worship
なんだ、普通のタイトルじゃん。昔聞いた、「Stagecoach」という洋画を日本で公開したときのエピソードを思い出しました。
なんでも配給会社のエライ人が「地獄馬車」という邦題に決めていたのを故・淀川長治さんが「駅馬車」にしたとのこと。それと逆ですね。
「Pew」というのは、会堂の長椅子を指すようです。別室ではなく会堂に子どもたちを座らせたまま、親子ともに礼拝を喜ぶ、ということかな。
最近、「大人も子どもも一緒の礼拝」という言葉を聞きますが、うちみたいなワンルームチャーチはもとから一緒です(えっ意味ちがう?)
みんな(大人も子どもも)説教長くてごめんね。まさに「あの説教いつ終わるの?」という感じです。毎回、心で泣きながら講壇を降りています。
説教原稿はせいぜい3000字前後なのに、どうして40分、50分になってしまうのか。原稿にないことを付け加えてしまうからですね。
今回の説教も、原稿と聞き比べたらわかるのですが、原稿にないことがメインになってしまっています。
しかもちょっとやばいことまで口走っています。まだ理事会でも確定していないかもしれないのに。(教団じゃなくて学校法人のほう)
明日は何とか30分以内でまとめることができるように頑張ります。あくまで願望です。週報はこちらです。

聖書箇所 『使徒の働き』11章19-26節


1.
 長岡のある教会の牧師先生から聞いたお話です。その教会の特別伝道集会に、全国的に有名なM牧師をお呼びしました。
当時その教会には、会堂に大きな文字で、次のような標語ポスターが掲示されていました。「長岡から日本、それから世界へ福音宣教」。
集会の前に会堂に入った講師は、その標語をじっと見つめていました。
私にその時のことを話してくれた牧師先生は、「おっ、M先生、この標語に感銘を受けているのかな?」と期待したそうです。
すると突然、M牧師がその先生のほうへ振り向き、「先生、これ聖書の教えとは違ってますよね」と、なんとダメ出しをしてきました。
「長岡から日本」はいいとして、『それから世界へ』じゃないでしょ。日本へも、世界へも、並行して宣教していくのが主のみこころじゃないですか」。

 私たちは、仕事や生活のうえでよく優先順位ということを考えます。まずこれを片付けてから、次にあれをしようという具合に。
これを戦国時代の城攻めの方法にたとえて、外堀、内堀といった言い方をすることもあります。まず外堀を埋めてから、内堀を埋める、と。
しかし福音を伝えていくということに関しては、内堀、外堀、優先順位はありません。
私たちは家庭でみことばを伝えつつ、社会でみことばを伝えます。日本の福音化のために祈りつつ、国外宣教のためにも祈ります。
その長岡の教会では、講師からダメ出しを喰らった後、「長岡から日本、それから世界へ」を「日本、同時に世界へ」と書き換えたそうです。
私たち豊栄の教会はどうでしょうか。豊栄に伝道してから近隣の市町村に、それから世界に、と考える必要はありません。
豊栄に伝道しつつ、この近隣の新発田、阿賀野、新潟市の川向こうへと伝道することもでき、さらに国外宣教のために仕えることもできます。

 19節をご覧ください。エルサレム教会から散らされた人々も、同じ問題を抱えていました。彼らはユダヤ人にしか語らなかったのです。
福音をユダヤ人にしか語らない。それは復活したイエス・キリストが望んでおられたことでしょうか。とてもそうは思えません。
初代教会のクリスチャンでさえ、まずユダヤ人を優先順位の筆頭に置き、あとはそれから、という呪縛に囚われていたのです。
その見えない鎖を解き放ったのは、ユダヤ人クリスチャンではなく、キプロス人やクレネ人といった、外国人から改宗した人々でした。
教会の中には、色々な人が集まっています。だからよいのです。自分には気づかない視点を、他の人が持っているからです。
教会に限らず、人が集まるところでありがちな失敗は、多数派こそが代表であり、正しい視点を提供していると考えてしまうことです。
しかし圧倒的多数派であるユダヤ人クリスチャンたちが気づかなかった、外国人への福音宣教を始めたのは少数派である改宗者たちでした。
教会は、小さな声を拾い上げていくとき、そこに自由があります。しかし多数派の都合で小さな声がかき消されてしまう危険もあります。
だからこそ、みことばに聞く礼拝が大切にされ、また信徒や求道者のあいだの小さな交わりが尊重されていくことをおぼえたいと思います。

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posted by 近 at 21:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.8.4「慰めの子らとして歩む」(使徒9:23-31)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
さる7月24日(水)にTCUチャペルで行われた故・吉持章先生の合同お別れ会の写真をアップします。
IMG_20190724_121934.jpg 式場入口の案内板です。
IMG_20190724_121759.jpg 在学中は、毎日この中庭を通ってチャペルと食堂を往復しました
IMG_20190724_121745.jpg 二十年のあいだに、根っこがブロックを押上げていました
IMG_20190724_121305.jpg 若かりし頃の吉持章・東京キリスト教学園元理事長。
IMG_20190724_121247.jpg 聖書の裏表紙に書かれた、子どもたちの言葉。
IMG_20190724_121334.jpg 週報の挿絵。上手です
IMG_20190724_121232.jpg 天国にて、安らかにお過ごしください

週報はこちらです。

聖書箇所 『使徒の働き』9章23-31節


1.
 私たち豊栄キリスト教会では、この聖餐式がある週の直前の水曜祈祷会を、ある時期からバルナバ祈祷会と名づけました。
その祈祷会では、とくに教会から離れてしまったクリスチャンが礼拝に復帰できるように、名前を挙げて祈ります。
なぜ聖餐式の前の週に行うかというと、聖餐式が、クリスチャンに対する、神様の尽きることのない恵みを象徴しているからです。
聖餐式では、司式者が必ず次のことばを宣言します。「愛する兄弟姉妹たち、救い主イエス・キリストを信じ、バプテスマを受け、
キリストのしもべとしてふさわしく生きることを願っている者は、すべてこの聖餐に招かれています」と。
すべてこの聖餐に招かれています。
たとえ昨日まで、いや、その日の朝、家を出る直前に夫婦げんかをしてきたようなクリスチャンにさえ、「すべて」招かれています、と。
あるクリスチャンが何十年と教会を離れていたとしても、陪餐停止や除名といった戒規執行中でない限り、その人は聖餐に与ることができます。
実際に四日前のバルナバ祈祷会で、教会に来ている人も来ていない人も合わせた、教会員の名前のリストを参加者で分け合いながら、
私たちは祈りました。次の聖餐礼拝に、どうかこの○○さんが出席することができるように。あなたの前に戻ってくることができるように、と。
この祈り会に対して、私たちは「バルナバ」という名前をつけています。そのバルナバは、まさに今日の箇所に出てくるバルナバその人です。

 今日の聖書箇所の冒頭には、まず迫害者から伝道者に変えられた、サウロの姿が出てきます。
彼は復活のキリストに出会ったことで、それまでの罪を悔い改め、キリストを宣べ伝えるようになりました。
その真実なことば、熱心なる生き様は、まさに昨日までの友であったユダヤ人たちから命を狙われるほどのものでした。
それでもサウロは信仰を捨てません。驚くべき方法でダマスコの町を脱出し、やがてエルサレム教会の門を叩きました。
しかしエルサレム教会のみながサウロを弟子とは信じずに、恐れたとあります。当然かもしれません。
ついこの間まで、このサウロという男はエルサレム教会を破壊し、次々と兄弟姉妹を捕まえては牢に投げ込んだり殺したりしていたのです。
しかし神は、ひとりの人をサウロのために用意してくださっていました。それがバルナバです。27節をお読みします。
「ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコに行く途中で主を見た様子や、
主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した」。

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posted by 近 at 16:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ