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2019.8.4「慰めの子らとして歩む」(使徒9:23-31)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
さる7月24日(水)にTCUチャペルで行われた故・吉持章先生の合同お別れ会の写真をアップします。
IMG_20190724_121934.jpg 式場入口の案内板です。
IMG_20190724_121759.jpg 在学中は、毎日この中庭を通ってチャペルと食堂を往復しました
IMG_20190724_121745.jpg 二十年のあいだに、根っこがブロックを押上げていました
IMG_20190724_121305.jpg 若かりし頃の吉持章・東京キリスト教学園元理事長。
IMG_20190724_121247.jpg 聖書の裏表紙に書かれた、子どもたちの言葉。
IMG_20190724_121334.jpg 週報の挿絵。上手です
IMG_20190724_121232.jpg 天国にて、安らかにお過ごしください

週報はこちらです。

聖書箇所 『使徒の働き』9章23-31節


1.
 私たち豊栄キリスト教会では、この聖餐式がある週の直前の水曜祈祷会を、ある時期からバルナバ祈祷会と名づけました。
その祈祷会では、とくに教会から離れてしまったクリスチャンが礼拝に復帰できるように、名前を挙げて祈ります。
なぜ聖餐式の前の週に行うかというと、聖餐式が、クリスチャンに対する、神様の尽きることのない恵みを象徴しているからです。
聖餐式では、司式者が必ず次のことばを宣言します。「愛する兄弟姉妹たち、救い主イエス・キリストを信じ、バプテスマを受け、
キリストのしもべとしてふさわしく生きることを願っている者は、すべてこの聖餐に招かれています」と。
すべてこの聖餐に招かれています。
たとえ昨日まで、いや、その日の朝、家を出る直前に夫婦げんかをしてきたようなクリスチャンにさえ、「すべて」招かれています、と。
あるクリスチャンが何十年と教会を離れていたとしても、陪餐停止や除名といった戒規執行中でない限り、その人は聖餐に与ることができます。
実際に四日前のバルナバ祈祷会で、教会に来ている人も来ていない人も合わせた、教会員の名前のリストを参加者で分け合いながら、
私たちは祈りました。次の聖餐礼拝に、どうかこの○○さんが出席することができるように。あなたの前に戻ってくることができるように、と。
この祈り会に対して、私たちは「バルナバ」という名前をつけています。そのバルナバは、まさに今日の箇所に出てくるバルナバその人です。

 今日の聖書箇所の冒頭には、まず迫害者から伝道者に変えられた、サウロの姿が出てきます。
彼は復活のキリストに出会ったことで、それまでの罪を悔い改め、キリストを宣べ伝えるようになりました。
その真実なことば、熱心なる生き様は、まさに昨日までの友であったユダヤ人たちから命を狙われるほどのものでした。
それでもサウロは信仰を捨てません。驚くべき方法でダマスコの町を脱出し、やがてエルサレム教会の門を叩きました。
しかしエルサレム教会のみながサウロを弟子とは信じずに、恐れたとあります。当然かもしれません。
ついこの間まで、このサウロという男はエルサレム教会を破壊し、次々と兄弟姉妹を捕まえては牢に投げ込んだり殺したりしていたのです。
しかし神は、ひとりの人をサウロのために用意してくださっていました。それがバルナバです。27節をお読みします。
「ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコに行く途中で主を見た様子や、
主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した」。

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posted by 近 at 16:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.7.28「キリストにだけ頼りなさい」(マルコ2:13-17)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『マルコの福音書』2章13-17節


1.
 昨年の11月から教会に出席しておられたMさんは今日、バプテスマを受けてクリスチャンになりました。
私たちはこの洗礼の瞬間に立ち会うたびに感動をおぼえます。
そして私自身にとっても、今日の洗礼式は、今までの洗礼式に増して、大きな喜び、そして今までにない、緊張感の伴うものでした。
それは、M兄自身が、ご自分の証しの中で語られておりましたので、私も言葉を選びつつ述べますが、彼はある依存症と闘い続けてきました。
依存症は、それがどのようなたぐいのものであれ、「回復はしても完治はしない」と言われます。
依存症は、自らの欲望や行動について、コントロールが利かなくなるもので、その人の意思の力や努力ではどうにもならないものである、
たとえば20年間、アルコールから離れていた人が、一度誘惑に負けてしまえば、瞬く間にその力に飲み込まれてしまう。
だからこそ、「決して完治はしない」というショッキングなことが言われます。これは決して偏見ではなく、それほどまでに強力なものだということです。
Mさん自身は、今まで依存症と闘ってきた人生の中で、人間の無力さについては誰よりもよく知っていました。
だから罪に対する人間の無力さ、そしてイエス・キリストによってしか完全なる救いはないということについては、すぐに受け入れました。
しかし問題は、そこから先でした。
救われたからこそ、悪魔は彼の心の中に潜むネガティブなものを再び駆り立てて、再び無力感の泥沼へと引きずり下ろすことが予想されました。
救いに力がないという意味ではもちろんありません。
しかし悪魔は、クリスチャンが洗礼を受ける前や、洗礼を受けた直後のまだ未熟な時期に、とくに執拗な攻撃を繰り返してきます。
Mさんも、洗礼試問会まではある意味、順調でした。
しかしそこから洗礼を受ける今日この時まで、彼に対する大変な攻撃があったことを私は彼から直接聞き、そして祈ってきました。
それは、彼自身が、このような霊的状況で、洗礼を受けることができるのだろうかと悩むくらいです。しかしだからこそ受けるべきだ、と答えました。
洗礼は、私たちが清くなった証しではありません。どのような時にもキリストとともに生きるという決意を示すものです。
生きるのはキリストと一緒に、死ぬときもキリストと一緒に。その覚悟を、水と火のきよめを象徴するバプテスマは表しています。
Mさんの戦いは、これからも続くでしょう。しかし今までの人生で彼が繰り返してきたような、先の見えない戦い方はもうありません。
ただキリストの御名に頼る戦いを彼は知りました。そしてこのキリストに人生をゆだねる覚悟を、私たちに表しました。
彼が自らの依存症について役員の前でも私たちの前でも公に表したことは、それ自体が回復への確かな途上にあるということです。
これからも、彼とともに、そしてキリストとともに、私たちは互いに励まし合いながら歩んでいきたいと思います。

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posted by 近 at 17:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.7.21「救いは神の恵み」(使徒9:1-22)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先週の水曜日、わが同盟教団の元理事長である故・吉持章先生の合同お別れ会が千葉県印西市にあるTCUチャペルで行われました。
東京くらいだと新幹線でさっと行こうかなという気持ちになりますが、千葉となると、東京から先がまた遠いのですね。
水曜祈祷会もあるし、どうしようかなと思っていましたが、結局妻の勧めもあり、新潟−成田間を運行している飛行機で行きました。
ところが一日一便なので、水曜午後1時からのお別れ会に出るために、わざわざ前日、火曜日の午後2時の便で行かなければなりません。
夕方には予約したホテルのある駅に着いたので、早めの夕食を済まそうと近くのショッピングモールをぶらつきました。
すると、すれ違った、ひとりのご婦人から声をかけられました。失礼ながら、お顔に見覚えがありません。
「どなた様ですか」と聞くと「小林の妻です」という答え。ああ!二年前に帰天された小林高徳先生の奥様でした。
聞くと、二年前にご主人を亡くされたあと、インターネットでご主人の名前を検索していたときに、当ブログの記事を見かけたそうです。
http://toyosakakyokai.sblo.jp/article/181532570.html
http://toyosakakyokai.sblo.jp/article/181700515.html
一度メールをしたかったのですが、ということでした。なんという偶然、いやいや、神が与えてくださった邂逅でしょうか。
じつはこのような経験は初めてではなくて、5年前に石川弘司先生が亡くなられたときにも、私自身は葬儀に出席できなかったのですが、
「葬儀に出席してくださった方から近先生のブログ記事のコピーを見せていただいた」と、
ご遺族の方(現・鹿児島いずみ教会の牧師夫人、瓜生園子先生)が後日挨拶してくださったことがありました。
ブログを7年続けてコメントは25件(うち半分は私からの返事)しかなくても、見ておられる方はいるのですね。週報はこちらです。

聖書箇所 『使徒の働き』9章1-22節


1.
 今日は、救いは神の恵みであるという話をしたいと思います。
これには、二種類の意味を込めています。ひとつは、救いを経験する本人にとって、恵みであるということ。
そしてもうひとつは、ひとりの人の救いにあたって、神はまわりのクリスチャンもその救いの目撃者、協力者、当事者としてくださるという恵み。
 さて、サウロという青年がいました。彼はユダヤ人として英才教育を受けた人でした。
そして自分の知識と信仰に照らして、クリスチャンこそは偽りの教えを信じている、神の敵と信じ込んでいました。
クリスチャンを見つけては捕まえて牢に入れ、クリスチャンをこの地上から消し去ることに自分の全エネルギーを注ぎ込んでいました。
それでも彼は良心の呵責をおぼえることはありませんでした。なぜなら、クリスチャンを滅ぼすことが神の与えられた使命だと信じていたからです。
サウロは、クリスチャンが逃げた先であるシリヤのダマスコにまで追いかけていくための紹介状を得るために、しもべたちと道を進んでいました。
しかしそのときに、イエス・キリストは、まばゆい光としてサウロの前に突如現れたのです。それは彼に見えぬ光、彼にしか聞こえない声でした。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と。その経験こそ、多くの画家が描き残している、「サウロの回心」と呼ばれる出来事です。
もしサウロがこの時救われなかったら、キリスト教はここまで成長していなかっただろうと、多くの歴史家が口を揃えて言います。
しかし神は、サウロの能力にほれて突然救ったのではありません。この世界が造られる前から、サウロは救いに定められていたのです。
神にはじめから選ばれていた者でありながら、サウロはそのようなことはまったく知らず、良心の呵責もおぼえずに教会を迫害していました。
 そう考えてみると、救いというのはなんと不思議なのでしょうか。
この人は救われるはずがないと、クリスチャンがため息をつくような人でさえ、はじめから神に選ばれているかもしれないのです。
その人の心がいまはどうであろうとも、救われる希望はあらゆる人から取り去られてはいません。
サウロはクリスチャンをこの世から抹殺しようとしていました。しかし神はこのサウロを救われました。救いは、ただ一方的な、神のみわざです。
だからこそ、私たちには希望があります。もし救いが人に左右されるものであるとしたら、それは恵みではありません。
しかしたとえその人の心がどれだけ頑なに見えたとしても、神が働いてくださる時、その人は変わるのです。私たちもそうだったのではないでしょうか。
でも、確かに救われました。それは、私たちの救いを信じて、あきらめずに福音を伝えてくれた誰かがいたからです。
もしあなたが先に救われた者であれば、今度はあなたがあきらめずに福音を伝える誰かになるべきです。

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posted by 近 at 17:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.7.14「散らされてこそ生きる」(使徒8:4-8、26-40)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回の説教の冒頭で触れている、不思議な生き物、プラナリア。
私は説教の中に登場する事物について、週報の表紙に掲載することが多いのですが、さすがにこの生き物は掲載できませんでした。
確かに割りとかわいい顔をしてはいるのですが、やっぱり、こういうの苦手な人もいますしね。
  
クリックすると、Amazonの商品ページに飛びますが、突然課金されたりはしませんのでご安心ください。
 ちなみに変な生き物の能力を使える人たちが火星でゴ○ブリと対決するという壮大なマンガ『テラフォーマーズ』では、
13巻にプラナリアの詳しい解説がありますので、興味があったら読んでください。週報はこちらです。


聖書箇所 『使徒の働き』8章4-8、26-40節


1.
 プラナリアという生き物をご存じでしょうか。日本でも、川や池で見つけることができる、長さ3センチくらいの生き物です。
形はヒルに似ていて気持ち悪いのですが、よく見るとマンガみたいなどんぐり眼があって、だんだんかわいく見えてくるので不思議です。
このプラナリアの驚くべき再生能力が、近年、医学の分野で大変注目されています。
長さ3センチのプラナリアを頭から尻尾までメスで切って10こに分けると、なんとそれぞれに脳や内臓ができて10匹になったそうです。
一応雄と雌がいるようですが、別に相手がいなくても問題ない。
ある程度成長すると、からだの真ん中がくびれてきて、ぷつっと切れてしまう。そしてそれぞれが成長して、二匹に増えるのです。

 ステパノの殉教から始まった大迫害によって、エルサレムから散らされていったクリスチャンたちは、まさにこのプラナリアのようでした。
ひとりひとりのクリスチャンは、その散らされた場所、ユダヤ、サマリヤなどでみことばを伝え、そこに信じる者の群れが生まれていったのです。
プラナリアのからだが切れ端から再生する以上に、神のからだは、どんなにばらばらに引きちぎられても、決して死ぬことはないのです。
振り返ってみると、迫害によってクリスチャンがエルサレム教会から散らされていくことは、はじめから計画されていた神のみこころでした。
イエス様は天に上る前に、弟子たちにこう約束しておられたからです。
聖霊を受けるとき、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレム、ユダヤ、サマリヤ、および地の果てにまで私の証人となる、と。
しかしペンテコステの出来事からしばらく経っても、宣教はエルサレムの外にはなかなか進んでいきませんでした。
神のカレンダーは、今こそめくられたのです。この迫害こそが、神の用意しておられた、そのときだったのです。
エルサレムにいた信者たちは無我夢中で、取るものも取りあえず、町の外に逃げ出していったはずです。
これからどうなるのか、という不安があったでしょう。どうして神はこのようなことを許されるのか、と叫んだことでしょう。
しかしギリシャ語で「散らされる」という言葉は、直訳すると「種が撒かれる」という意味です。
イスラエルの農業では、種を植えるとか苗を植えるという発想はありません。種を袋から取り出して勢いよくまき散らします。
まさにこれが神のやり方です。神は、世界に向かってクリスチャンという種をまき散らすことで、祝福を広げていくのです。

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posted by 近 at 22:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.7.7「ステパノのように」(使徒6:1-15、7:51-8:3)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
恒例のアイスクリームパーティのご案内です。恒例と言っても、去年からですが。
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楽しそうな様子が伝わるでしょうか。去年の牧師のコスプレは画家でしたが、今年はさらにスケールアップ!
パ○レ○ツ・オ○・カ○ビ○ンです。何かイベントがあるたびについコスプレをしてしまうんですが、悪い病気でしょうか。
とりあえずご期待ください。週報はこちらです。

聖書箇所 『使徒の働き』6章1-15、7章51-8章3節


1.
 信仰のゆえに迫害を受けて命を落とすことを殉教と言います。
初代教会は、この6章に至るまで、小さな迫害は受けていましたが、まだだれも殉教者は出していませんでした。
それどころか、先週の礼拝説教の最後の部分にあったように、ガマリエルという人物の口添えによって、安全が保証されていたのです。
ところが、じつは神様のご計画は、このまま教会が安全に宣教を進めていくということではなかったのです。
このステパノの殉教をきっかけとして、ガマリエルの仲裁を無視した、徹底的な迫害、弾圧、そして殺害が起こっていきます。
そしてこのステパノの殉教から約300年間のあいだ、教会は絶え間ない迫害の中に投げ込まれていくことになるのです。

 今日のステパノの殉教から学ぶことのできることは、たくさんあります。
まず、ステパノは使徒ではなく、執事でした。今日の言葉で言えば、牧師ではなく、役員であったと言えるでしょうか。
今日は、ひとりの求道者の方の洗礼試問会を行います。牧師がどんなに丹念に学びを行い、何年ぶりの受洗者であるとしても、
もし役員会が、この方の授洗はまだ早いのではないかと言えば、それは改めて学び、欠けを満たした上で受けなければなりません。
そんな大きな責任があるのだったら、役員は遠慮したい、と考える人もいるでしょう。
しかしもし受洗者が教会を離れてしまったとき、それでもその人は確かに救われている、と言えるのは、役員会の諮問を経ているからです。
父、御子、聖霊の御名によって洗礼を授けることができるのも、それは役員会の諮問があってのことです。
牧師は、一般の信徒には話すことができないような事柄でも、役員とは共有します。
牧会が誤った方向に進むとき、それを指摘し、場合によっては辞職を勧めるのも、役員の務めです。
それほどまでに、聖書では執事、すなわち役員は大きな責任と使命が与えられているのです。
その筆頭がステパノをはじめとする、選挙で選ばれた七人の執事でした。
およそどの教会の役員も、このステパノの姿を模範としながら歩んでいくべきです。
ステパノのように、命を引き換えにしてでも福音に最後までしがみつく生き方を役員が示す教会は、決して地上から消えることはありません。

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posted by 近 at 17:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.6.30「いのちのことばを握りしめて」(使徒5:17-42)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
わが同盟教団は、教団の公式ホームページの中に「緊急災害情報掲示板」というページがあります。
災害が起きると、教会が自発的に書き込んで安否を報告するというものなのですが、パスワード認証がかかっていません。
つまり、だれでも見れちゃいます。おそらく緊急の時には教会員の誰でも書き込めるようにということなのでしょう。
 ただ、機関紙の閲覧にはパスワードが必要なのに、こちらはダダ漏れというのはいささか違和感をおぼえます。
先日の新潟北部地震の際についテンションが上がった私がうっかり書き込んでしまった、
「(築50年の)教会が無事ならば、どの家も無事ですよと役員から言われた」なんてコメントも外部の方にダダ漏れ。
新潟弁で言うと、しょうしいわ(=恥ずかしいです)。だったら最初から書くなよ、と言われそうですが。
 気になるのは今回、九州南部を襲った水害に関しては、まったく誰も書き込んでおらず、今も放置状態であること。
毎日チェックしているのですが、開拓二年目の鹿児島いずみ教会は無事だったのでしょうか。
実際に掲示板に書き込んでみて思ったのですが、匿名でないので、最初に投稿するのは結構気を使います。
震度4くらいで書き込んでしまうと「これくらいで大騒ぎするなよ」と言われないだろうか、とか余計なことを考えてしまいます。
だから教団総主事なり社会局長なりが最初にスレッドを立ててくれると助かるのですね。ご検討ください。週報はこちらです。

聖書箇所 『使徒の働き』5章17-42節


1.
 「使徒の働き」という、現代訳での書名は、明治時代に出版された文語訳聖書では「使徒行伝」と訳されていました。
その時代のある牧師は、これは使徒行伝ではない、聖霊行伝であると言いました。
まさに、この書に書かれている出来事は、はじめから終わりまで、聖霊に導かれて初代教会が成長していった姿を描いています。
この5章では、まだ迫害は起きていませんが、ペテロたちがユダヤ人当局ににらまれ、宣教を禁じられる場面が記されています。
しかし私たちは、このような状況さえも、すべては聖霊なる神のご計画の中にあったのだということを忘れないで読んでいきたいと願います。
 まずこれらの聖書箇所から私がみなさんにお伝えしたいことは、世の中に神の知らないトラブルなど起こりようがないということです。
人の目にはトラブルと見えることが突然起こります。しかしそれは私たちが何かに気づかせるために、神が計画し与えられたものです。
その「何か」とは、多くの場合、自分の中に抱えていたが、がんとして認めようとしなかった、さまざまな事柄です。
トラブルの中で、人は気づき、悔い改めへと導かれることをよく経験します。
あるいは、私たちの信仰をさらに高みへと引き上げるために、神がトラブルを与えることもあります。それは聖書では試練とも呼ばれています。
初代教会にとって、サドカイ派の有力者たちに宣教を禁じられることは、彼らの信仰をより強めていくために、神が与えられた機会でした。
みなさんの生活や人間関係の中に、いま何らかのトラブルが起きていたとしても、それ自体は何ら恐れる必要はないものです。
しかし気をつけなければならないのは、そのトラブルにだけ目と心が向いてしまい、その背後に隠れている神から目を離してしまうことです。
神は、使徒たちがサドカイ人に捕らえられて投獄されたとき、御使いを遣わして彼らを解放しました。
しかしただ牢屋から解放するだけであれば、わざわざ御使いを遣わす必要はありません。遣わしたのは、次のことばを彼らに伝えるためでした。
それが20節のみことばです。「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」。
 ただ「行って」ではありません。「行って、宮の中に立ち」と言われています。「宮」とは言うまでもなく、神殿のことです。
この投獄の出来事を通して、神は次のことを使徒たちにお示しになりました。
本来、宮で神の言葉を語るはずの祭司、つまりサドカイ人たちはその役目を果たせなくなっているという事実です。
祭司たちが神殿で神に民のとりなしの祈りをささげるよりも、議会で使徒たちを罠にかける相談に時間を費やしていました。
宮から離れるべきでない祭司たちが、逆に守衛長から宮に呼び出されて、宮で使徒たちが説教している姿を聞く、なんと皮肉なことでしょうか。
宮も、宮で仕える働きも捨てていた祭司たちに対し、教会は神にこう命じられました。あなたがたが宮に立ち、いのちのことばを語りなさい、と。
そして神の命令は、今日も同じです。宮、すなわちこの礼拝をまず第一にするということ。そこから教会のすべての活動が始まっていきます。
クリスチャンはこの礼拝を通して、神のことばを受け取り、それを自分を養い、他の人々に祝福を与える力として用いていきます。
求道者は、この礼拝の中にあなたが求めている人生のまことの答えがあることをおぼえてください。
この礼拝の中に、クリスチャンであるかないかを問わず、神が与えようとしておられる祝福が凝縮されています。
この宮の中で、いのちのことばが語られ、聞かれ、心に受け止められ、そして実際の行動へと変えられていきます。
使徒たちが牢から解放して向かった先が神殿であったように、私たちもまず礼拝に向かうのです。そして今ここに集まられているのです。

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2019.6.23「みことばが届いていますか」(使徒4:32-5:11)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『使徒の働き』4章32節−5章11節


1.
 32節、「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた」。
教会は、当時の社会では想像できないような、自由な世界でした。奴隷も主人もない世界。異邦人もユダヤ人もない世界。
どんな人間も、それこそ肌の色でも、あるいは人格でもなく、ただイエス・キリストを救い主として信じたことで、すべてを分かち合える世界。
それが教会でした。信じる者たちは、ただ自発的な意思に基づいて、仲間のためにささげていました。
ささげたからといってみなの前でほめられることはありません。ささげなかったからといってみなの前で糾弾されることもありません。
ただ自発的な意思に基づいて、すべての恵みを共有できる国。それが教会でした。
 その力の源はどこにあったのでしょうか。続く33節にはこう書いてあります。
「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった」。
力の源はみことばでした。財産が目減りしていく不安をかき消したのは、やがて天の御国でいただける希望でした。
みことばを通して、彼らは地上の財産に比べられない、大きな恵みを与えられていました。
使徒たちは力強く証ししました。イエスはよみがえられた。そして私たちも、たとえ死んだとしてもイエスと共によみがえるのだと。
 地上のものに対する執着を、みことばはイエスに対する執着へと変えました。
人種、国籍、職業、血筋、すべての壁がこわされ、そこにあるのはキリストの復活を信じる者というひとつだけ。
その恵みへの感謝として、静かに使徒の足もとに財産をささげ、乏しい者がひとりもいない。そこには完全な自由がありました。
自分だけが自由であればよいという混沌じみた自由ではなく、隣人を顧みて、何をすべきかを考えていく秩序立った自由がありました。
私たちに自由を与えるのは教会の居心地のよさではありません。自由を与えてくださったイエス・キリストとそのことばをかみしめることです。
この世では何をどれだけ持っているかということが大切にされます。しかし教会ではそのような誇りは何の役にも立ちません。
生まれた時からすり込まれてきた価値観がみことばによって砕かれるとき、そこには自由があります。
自由は、人を変えます。自由は、変わることを恐れません。真の自由は、一人ひとりがみことばをかみしめていくことでもたらされていきます。

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2016.6.16「この御名以外に救いなし」(使徒4:1-12)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週の月〜火にかけて、教団の退職金委員会があって、東京・幡ヶ谷の教団事務所で一泊してまいりました。
火曜の夕方、会議も滞りなく終わり、いざ帰ろうとしたら、教団総主事のSO田先生から「村上おめでとうございます」と言われました。
献堂式は一年くらい前に終わっているので何か違和感をおぼえながら、とりあえずお礼を言って帰って来たのですが、
乗り継ぎの待ち時間やらに時間がかかって、教会に着いたのは夜の10時前でした。
帰宅の感謝を妻と一緒に祈り、牧師館の書斎に戻ってパソコンを立ち上げたところ、すぐに大きな揺れが!!
物が落ちたり壊れたりというのはなかったのですが、しばらくしてニュースを確認したら、県内では村上の被害が大きいということ。
経費節減に努めてなんとか建てた村上の新会堂が頭をよぎりました。しかし後で主任牧師にメールで確認したら、無事だったということ。
「村上おめでとうございます」という時機を逸したような挨拶は、まさかこのことだったのか、と一瞬思いましたが、たぶん気のせいですね。
あるいはエスパー?とりあえずお祈りくださった県外の皆様、ありがとうございました。週報はこちらです。
esper.png アメリカの次期国防長官もエスパーだそうです。名字が。

聖書箇所 『使徒の働き』4章1−12節


1.
 少し前に、ある教会を訪問したことがありました。そこはできたばかりの教会堂で、まだ木の香りが漂うような、すばらしい造りでした。
しかし新しい会堂へのねたみでは決してありませんが、ひとつだけ、どうしても違和感をおぼえずにはいられなかったものがありました。
それは会堂正面の十字架です。ちょうど皆さんから見たら、私の後ろに見える、壁のこの十字架です。
その十字架が、壁に固定されておらず、三方から太い針金で固定されていたのです。これだけはとても残念なことでした。
みなさんが他の教会に出席してみるとわかりますが、どこの教会でも十字架は壁に取り付けられていると思います。
教会によっては、壁そのものに十字架の模様が刻まれていたり、壁が十字架のようなデザインの扉になっているところもあります。
これは神学的背景があるのです。十字架はこの世界にしっかりと打ちつけられ、動かざるもの、という信仰告白が表れているのです。
十字架の縦棒は神と私との関係、十字架の横棒は私と他人またはこの世界との関係を表しています。
縦棒のほうが長いのは、神と私との関係が回復することがまず必要だからです。それができて、横棒つまり他者との関係も祝福されます。
この十字架は空中に浮かんでいるものでは世を変えることができません。この世界に、しっかりと打ちつけられなければならないのです。
 とはいえ、この世界は、あまりにも地盤が脆すぎて、十字架が打ち立てられてもそれを受け止めることができないというのも確かなことです。
地盤とは文字通りの意味ではなく、人々の心です。「空気を読め」と言われます。長いものに巻き付き、杭が打たれないように身をひそめ、
平均的な高齢者世帯の収入が毎月5万円不足しているという報告は、はじめから見なかったことにされます。
矛盾をオブラートに包み、危機を先送りする世界。学校、家庭、職場、地域、あらゆる場所で、クリスチャンは傷つき、悩みます。
しかしまずこのことを忘れないでください。私たちの持っている福音は、世の矛盾をえぐり出すのです。
人々が触れてほしくない矛盾、隠しておきたい罪、悪と知っていてもそれをなあなあにしてしまう慣例、そのようなものを福音はえぐり出します。
今日の聖書箇所である、使徒ペテロのことばは、まさにそのような戦いの中で告白されたものなのです。

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posted by 近 at 17:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.6.9「願いを託された者たち」(マタイ28:16-20)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
本日は(といっても現在の時点で六日前ですが)ペンテコステ特別礼拝でした。
教団が派遣している数組の国外宣教師家族からのビデオレターを視聴し、メッセージを語りました。
ビデオレターに関しては、宣教地が特定されると危険な場合があるかもしれませんので、アップを控えさせていただきます。
それと、もう明日に迫りましたが、TCU新潟地区支援会の特別講演会を行います。来てね!
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週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』28章16−20節


1.
 今、それぞれの宣教師家族からのビデオレターをご覧いただきました。
私たちが所属する、この日本同盟基督教団が、最初の海外宣教師を送り出してから、今年で55年になります。
ずいぶん昔のように思われるかもしれませんが、戦前から続く同盟教団の歴史に比べたら、始めるまでに時間がかかりました。
それは、今も聞こえてくる、クリスチャン自身の狭い考えにとらわれていたことは否めません。
国内宣教でさえ、まだ1%しか進んでいないではないか。海外に宣教師を送る予算と人材があれば、まず国内宣教に力を注ぐべきだ。
それが確立して余裕が生まれたら、海外宣教師を派遣すべきだ。
しかし55年前の教団理事たちは先見の明がありました。余裕が生まれるのを待っていたら、いつまで経っても派遣できなかったでしょう。
最初の派遣まで時間がかかったとは言え、55年にわたって着実に海外宣教師を送り、支えてきた、この教団の歩みを感謝します。
 国外宣教は、すでに二千年前から、イエス様が私たちにゆだねられた働きです。
さきほど、司会者に呼んで頂いた聖書のなかで、イエス様はこう語っておられます。
「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」。
これは日本語では「大宣教命令」、英語では「the Great Commission」と呼ばれます。
Greatは「大」ですが、じつはCommissionには命令という意味はありません。
「委託」です。本来自分がする仕事を誰かに代わりにしてもらうということです。
このイエス様の言葉は、じつは命令ではないのです。ご自分がしたいと願っていることを、私たちに分けてくださったのです。
私は、救われたばかりの頃にこのみことばが大宣教命令と言うのだと知りました。
最初は、「命令」という言葉に心が震え、背筋がシャンとするのを感じました。しかしそのうち面倒くさくなり、背筋も丸くなりました。
なぜでしょうか。「命令」を果たせるだけの熱意も賜物も自分にはない、とあきらめてしまったからです。
代わりに、牧師や宣教師の皆さん頑張ってください、と考えて、献金を少し増やしました。
イエス様は、私の命令は重荷にはなりませんと聖書のどこかで約束しておられますが、実際重荷に思った人が実際いたわけです。
 しかしイエス様は弟子たちに、命令ではなく、委託として宣教を任せられました。
「委託」という言葉は、「命令」に比べると、どうしても弱っちい響きがあります。
しかし「委託」には、それをやり遂げる力をはじめから認められているゆえの約束事というニュアンスがあります。

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posted by 近 at 17:20 | Comment(2) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.6.2「敵は本能にあり」(ロマ7:14-25)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今日の説教題は、だれもが思いつきそうなネタで申し訳ありません。お恥ずかしい限りです。
日曜日がちょうど6月2日(本能寺の変の当日)と重なる日を狙っていたのですが、
今回を逃すと次は2024年になってしまいますので、明智光秀と同じようにためらいながらも決行しました。
歴史の授業ではイスカリオテのユダと並んで裏切り者の代名詞のような光秀氏ですが、近年再評価が進んでいるようです。
・側室を持つことが当たり前の時代、正室しか持たず、最後まで添い遂げた
・娘はクリスチャンになった(明智玉子=細川ガラシャ)
・信長からキンカ頭(禿?)とあだ名をつけられたが、我慢し続けた
個人的には25年前の大河ドラマで村上弘明さんが演じた光秀の誠実なイメージが印象に残っています。週報はこちらです。

聖書箇所 『ローマ人への手紙』7章14節−25節


1.
 今から約440年前の、ちょうど今日6月2日、日本の歴史で外すことのできない、「本能寺の変」という出来事が起こりました。
今日の説教題は、そのとき織田信長を裏切った家来、明智光秀の言葉、「敵は本能寺にあり」をもじったものです。
なんか思いつきで説教を作っているのかと言われそうですが、決してそんなことはなく、今日の説教は構想に何年もかけております。
これ以前に6月2日が日曜日だったのが2013年。それから6年間、本能寺の変と日曜日が重なる日を待ち続け、今日を迎えました。
 なぜ「本能寺の変」が起きたのか、つまりなぜ明智光秀が織田信長を裏切ったのか。これは日本史最大のミステリーと呼ばれています。
私が子どもの頃、本で読んだのは、織田信長という人間は有能だが、短気な性格で、光秀もいじめられていたから、というものでした。
ところが、近年の研究で明らかになったのは、信長は短気どころか、あの徳川家康も及ばないほど、忍耐深い人であったという事実です。
こんな狂歌を聞いたことはないでしょうか。「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」。これは織田信長の性格を指したものだと言われます。
それに対して、徳川家康が「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」。
でもじつは家康は、子どもの頃から信長を兄のように慕っていて、「鳴くまで待とう」は信長をそのまま真似ていたのだというのです。
忍耐がなかったら、信長も秀吉も家康も、だれであろうとも、天下を取ることはできないのですね。
よかった、聖書とつながりました。一に忍耐、二に忍耐、忍耐してこそ、約束のものを手に入れることができるのです。
 このように信長のイメージがずっと誤解されてきたように、信仰の世界にもずっと誤解されてきた言葉があります。
それは、「律法」です。律法とは、旧約時代に神がイスラエルに与えられたさまざまな命令を指します。
この「律法」から「律法主義」という言葉が生まれました。神の命令を完全に守ることで救われるという、間違った考えです。
でも律法と律法主義はまったく異なるのです。律法は、恵みの反対語ではなく、律法そのものが神の恵みのひとつです。
14節をご覧ください。パウロはこう語っています。「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています」。
「霊的」とは、神から来たもの、という意味です。神は私たちに幸いを与えるために律法を与えられた。それを実行するならば確かに救われる。
ですがこの言葉には続きがあります。パウロはため息交じりにこう語ります。「しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」。
私、これはすべての人間、と読み替えてください。律法がどんなによいものであったとしても、それを行う力がない、それが私たちなのです。

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posted by 近 at 17:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ