こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
わが同盟教団は、教団の公式ホームページの中に「
緊急災害情報掲示板」というページがあります。
災害が起きると、教会が自発的に書き込んで安否を報告するというものなのですが、パスワード認証がかかっていません。
つまり、
だれでも見れちゃいます。おそらく緊急の時には教会員の誰でも書き込めるようにということなのでしょう。
ただ、機関紙の閲覧にはパスワードが必要なのに、こちらはダダ漏れというのはいささか違和感をおぼえます。
先日の新潟北部地震の際についテンションが上がった私がうっかり書き込んでしまった、
「(築50年の)
教会が無事ならば、どの家も無事ですよと役員から言われた」なんてコメントも外部の方にダダ漏れ。
新潟弁で言うと、しょうしいわ(=恥ずかしいです)。だったら最初から書くなよ、と言われそうですが。
気になるのは今回、九州南部を襲った水害に関しては、まったく誰も書き込んでおらず、今も放置状態であること。
毎日チェックしているのですが、開拓二年目の
鹿児島いずみ教会は無事だったのでしょうか。
実際に掲示板に書き込んでみて思ったのですが、匿名でないので、最初に投稿するのは結構気を使います。
震度4くらいで書き込んでしまうと「これくらいで大騒ぎするなよ」と言われないだろうか、とか余計なことを考えてしまいます。
だから教団総主事なり社会局長なりが最初にスレッドを立ててくれると助かるのですね。ご検討ください。週報は
こちらです。
聖書箇所 『使徒の働き』5章17-42節
17 そこで、大祭司とその仲間たち全部、すなわちサドカイ派の者はみな、ねたみに燃えて立ち上がり、18 使徒たちを捕らえ、留置場に入れた。19 ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し、20 「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」と言った。21 彼らはこれを聞くと、夜明けごろ宮に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間たちは集まって来て、議会とイスラエル人のすべての長老を召集し、使徒たちを引き出して来させるために、人を獄舎にやった。22 ところが役人たちが行ってみると、牢の中には彼らがいなかったので、引き返してこう報告した。23 「獄舎は完全にしまっており、番人たちが戸口に立っていましたが、あけてみると、中にはだれもおりませんでした。」24 宮の守衛長や祭司長たちは、このことばを聞いて、いったいこれはどうなって行くのかと、使徒たちのことで当惑した。25 そこへ、ある人がやって来て、「大変です。あなたがたが牢に入れた人たちが、宮の中に立って、人々を教えています」と告げた。26 そこで、宮の守衛長は役人たちといっしょに出て行き、使徒たちを連れて来た。しかし、手荒なことはしなかった。人々に石で打ち殺されるのを恐れたからである。27 彼らが使徒たちを連れて来て議会の中に立たせると、大祭司は使徒たちを問いただして、28 言った。「あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」29 ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。30 私たちの父祖たちの神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。31 そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。32 私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」
33 彼らはこれを聞いて怒り狂い、使徒たちを殺そうと計った。34 ところが、すべての人に尊敬されている律法学者で、ガマリエルというパリサイ人が議会の中に立ち、使徒たちをしばらく外に出させるように命じた。35 それから、議員たちに向かってこう言った。「イスラエルの皆さん。この人々をどう扱うか、よく気をつけてください。36 というのは、先ごろチゥダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどありましたが、結局、彼は殺され、従った者はみな散らされて、あとかたもなくなりました。37 その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました。38 そこで今、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。39 しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」彼らは彼に説得され、40 使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。41 そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。42 そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。
1.
「使徒の働き」という、現代訳での書名は、明治時代に出版された文語訳聖書では「使徒行伝」と訳されていました。
その時代のある牧師は、これは使徒行伝ではない、聖霊行伝であると言いました。
まさに、この書に書かれている出来事は、はじめから終わりまで、聖霊に導かれて初代教会が成長していった姿を描いています。
この5章では、まだ迫害は起きていませんが、ペテロたちがユダヤ人当局ににらまれ、宣教を禁じられる場面が記されています。
しかし私たちは、このような状況さえも、すべては聖霊なる神のご計画の中にあったのだということを忘れないで読んでいきたいと願います。
まずこれらの聖書箇所から私がみなさんにお伝えしたいことは、世の中に神の知らないトラブルなど起こりようがないということです。
人の目にはトラブルと見えることが突然起こります。しかしそれは私たちが何かに気づかせるために、神が計画し与えられたものです。
その「何か」とは、多くの場合、自分の中に抱えていたが、がんとして認めようとしなかった、さまざまな事柄です。
トラブルの中で、人は気づき、悔い改めへと導かれることをよく経験します。
あるいは、私たちの信仰をさらに高みへと引き上げるために、神がトラブルを与えることもあります。それは聖書では試練とも呼ばれています。
初代教会にとって、サドカイ派の有力者たちに宣教を禁じられることは、彼らの信仰をより強めていくために、神が与えられた機会でした。
みなさんの生活や人間関係の中に、いま何らかのトラブルが起きていたとしても、それ自体は何ら恐れる必要はないものです。
しかし気をつけなければならないのは、そのトラブルにだけ目と心が向いてしまい、その背後に隠れている神から目を離してしまうことです。
神は、使徒たちがサドカイ人に捕らえられて投獄されたとき、御使いを遣わして彼らを解放しました。
しかしただ牢屋から解放するだけであれば、わざわざ御使いを遣わす必要はありません。遣わしたのは、次のことばを彼らに伝えるためでした。
それが20節のみことばです。「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」。
ただ「行って」ではありません。「行って、宮の中に立ち」と言われています。「宮」とは言うまでもなく、神殿のことです。
この投獄の出来事を通して、神は次のことを使徒たちにお示しになりました。
本来、宮で神の言葉を語るはずの祭司、つまりサドカイ人たちはその役目を果たせなくなっているという事実です。
祭司たちが神殿で神に民のとりなしの祈りをささげるよりも、議会で使徒たちを罠にかける相談に時間を費やしていました。
宮から離れるべきでない祭司たちが、逆に守衛長から宮に呼び出されて、宮で使徒たちが説教している姿を聞く、なんと皮肉なことでしょうか。
宮も、宮で仕える働きも捨てていた祭司たちに対し、教会は神にこう命じられました。あなたがたが宮に立ち、いのちのことばを語りなさい、と。
そして神の命令は、今日も同じです。宮、すなわちこの礼拝をまず第一にするということ。そこから教会のすべての活動が始まっていきます。
クリスチャンはこの礼拝を通して、神のことばを受け取り、それを自分を養い、他の人々に祝福を与える力として用いていきます。
求道者は、この礼拝の中にあなたが求めている人生のまことの答えがあることをおぼえてください。
この礼拝の中に、クリスチャンであるかないかを問わず、神が与えようとしておられる祝福が凝縮されています。
この宮の中で、いのちのことばが語られ、聞かれ、心に受け止められ、そして実際の行動へと変えられていきます。
使徒たちが牢から解放して向かった先が神殿であったように、私たちもまず礼拝に向かうのです。そして今ここに集まられているのです。
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