今週、わが同盟教団の第70回総会が東京・両国にある国際ファッションセンター(KFC)で開催されました。ケン○ッキーじゃないです。
私は、昨年をもって宣教区長から退きましたので不参加ですが、会場の名前からするとこんな感じでしょうか。

冗談はさておき、今回の教団総会で個人的に気になっていたのは、第6号議案「教師試験規定変更の件」。
細かい文言はさておき、変更理由は「教会奉仕に差し障るほどの負担を軽減し、実践的なものとし、より適正な人物評価をすることを目指して、教師試験規定を変更する」とのこと。
「教会奉仕に差し障るほどの負担」って、そんなことを訴えていた受験生がいたんでしょうか。福音派も優しくなりましたね。
「より適正な人物評価」のための変更点も、神学校で一緒に寮生活を二年以上過ごした人に推薦書を書いてもらう決まりの追加だそうです。
でも牧会の現場で?な人って、じつは独身寮よりは家族寮出身者に目立つというのが率直な感想です。
自分は社会で実績を挙げ、家族も養ってきた、それを捨てて献身したのだ、といつまでも自負していたら、教会員ともぶつかります。
社会人経験者にもコマッタ人はいるし、大卒からのストレート組でも、しっかりしている人はいるんですよ。牧師に限りませんが。
メールで送られてきた議事録によれば、この第6号議案も賛成多数で通過したようですが、改悪にならないか不安を感じます。
備えの日なのに、ちょっと辛口ですね。教団批判ではなく、私自身への戒めとして受け止めてください。ね、理事長。ね、ね。
週報はこちらです。
聖書箇所 『詩篇』127篇1-5節
序.
昔、クリスチャンの方が家を新築するときに、工務店の社長さんにこの聖書のことばをお伝えしたら、妙に納得されたそうです。
社長さんいわく、「聖書というのはすごいね。あっしら家を建てる人間が、つねづね思っていたことをずばっと言っているんだから。
あるじが奥さんやお子さんの声ばかり聞いてふらふら間取りを変えちゃ、建つものも建たんのですよ。ご主人、いっしょにがんばりやしょう」
ただここで言われているのはあるじが家を建てるのではなく、主が家を建てる、ということです。主というのはいうまでもなく神さまのことです。
家を建てること、町を守ること、この二つのことが象徴しているのは、それぞれ家庭生活と社会生活と言えるでしょう。
人は、家庭で育まれ、社会に仕えます。朝、社会へと向かい、夕に家庭へと戻り、翌朝また社会へと向かっていきます。
この家と町という繰り返しを通して、私たちの人生は作り出されていきます。そして聖書は私たちにこう呼びかけるのです。
あなたの人生すべてにおいて、あなたは自分をあるじとするのではなく、神ご自身をあなたの主人として認めていますか。
生活の主導権を握っているのは人間ですか、神ですか。
どんな人の心の中にも、その真ん中には心の王座というものがあります。
その王座に座っているのは、あなた自身ですか、それともイエス・キリストですか。
主を片隅に追いやって、自分があるじとして、ふんぞり返っているということはありませんか。
そんな問いかけを自分自身へのものとして発しているのが、今日のこのみことばです。一緒に、このみことばを味わっていきたいと願います。
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