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2020.9.13主日礼拝説教「生きた信仰、死んだ信仰」(ルカ14:1-6)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 今回の説教の導入にて、今から35年前に私が大学病院に入院していた頃の経験を記しています。
主治医のさらに上司にあたり、私の骨肉腫の執刀をされた教授に、何も聞かされないまま病室から連れ出されたこと、
気づいたら医学部の大講堂のようなところで、パンツ一丁で切断部位を披露させられたこと。
今では立派なハラスメントですが、当時(昭和)は「これくらい患者は我慢して当然」という、まさに「白い巨塔」の時代でした。

 とはいえ古い記憶なので、あれが本当に大講堂だったのか自信がありません。
ただGoogleマップで確認すると、現在でも病棟から渡り廊下で教室棟が繋がっており、さらにその先には「大講義室」があるようです。
余談ですが、私の手術の際には三名の医学生が献血してくださり、母が「これで頭がよくなるね」と喜んでいたのを思い出します。
今でも鼻血を出すと、心なしか、少しアカデミックな香りがします

 くだんの教授は、退院後も数年間、年一回の定期検診の時に私を診てくださいました。
コワモテの方であり、先の殿中連れ回しの刑の経験もあったので、あまり心を開くことはできませんでしたが、
私が高校生になったときのこと、定期検診が終わった後にその教授がまた例によって、私を別の部屋に連れ出したことがありました。
トラウマがよみがえったのですが、今度は何もない小部屋でした。
そして回りにだれもいないことを確認すると、その教授が真剣にこう聞いてきたのです。
「あなた、敬和学園高校に入ったんだって?あそこはキリスト教の高校なんでしょ。
私はこんな人間だからアレなんだけど、息子はそういうところに入れてあげたいと思っているんだけど、実際どんな学校?」

 大学病院の中で、教授の地位を勝ち取るためには、犠牲にしてきたものも多かったのでしょう。
しかしお子さんは出世や成績競争とは関係ない、自由な校風の中で学校生活を楽しんでほしい、という親の情愛を見ました。
だから、今でもその教授を恨んでいるというわけでは決してありませんので、どうぞお間違えなきように。
むしろ、その教授の執刀のおかげで、骨肉腫が肺に転移してもすぐに取り除くことができたわけで、私の命の恩人です。
とはいえ、もうあんな衆人環視の経験はこりごりですが。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』14章1-6節


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2020.9.6主日礼拝説教「保留の代償」(ルカ13:31-35)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 先日また一人、俳優が違法薬物所持の容疑によって逮捕されました。その代償はあまりにも大きいと言えるでしょう。
しかし薬物はじめ、あらゆる依存症は本人の努力だけでは決して回復できず、周囲の理解と励ましが不可欠です。
心ない言葉で責めるよりも、本人が贖罪を果たし、周囲が回復を支える方向を目指すことができるようにと祈ります。
 彼の逮捕に関連して、上岡龍太郎氏のこんな言葉が間接的に紹介されていました。
「芸人になって一度でも爆笑をとったことがあるヤツはドラッグなんかに手を出さんでしょう。
満員の会場で客席が波打つように笑うあの快感はドラッグ以上ですよ」
「ドラッグ以上」と言ったら失礼ですが、クリスチャンが誰かと関わり続け、その方が信仰へと導かれたときの経験は、まさにそのものです。

 同盟教団の教師試験は、補教師であれ正教師であれ、理事会との最終面接が待ち受けています。
補教師のグループ面接のとき、当時のA江理事長から「あなたがたは人を導いた経験がありますか」と質問されたことがありました。
思わずびびってしまい、「人を導いたこともないような奴が牧師になるな」ということかと意気消沈したものです。
しかし牧師として二十年近く歩み、いま振り返ってみると、あの言葉の真意は、
人を導く喜びを味わったら、もうやめられないよ」ということだったのかもしれないと思います。
多くのクリスチャンは、自分には聖書知識もなく、経験もないと怖(お)じてしまい、人を導くこと(伝道)を避けます。
しかし人を導く喜びを知らなかったら、その人がいくら「信仰生活は喜び」と強調したところでおそらくむなしいだけです。
 伝道(証し)は、ポーカーや麻雀に似ています。配られた手札から始めなければなりません。
与えられた賜物を使い尽くす覚悟で、ひたすら冷や汗を流しながら、人と関わっていきます。その意味では恋愛にも似ていますね。
そしてやがて目の前の人がイエスを受け入れる、その喜びは「満員の会場で客席が波打つように笑うあの快感」さえ及びません(たぶん)。
 「伝道の賜物」など存在しません。どんな賜物も伝道に繋がるのです。
どんな賜物も、本人には大したことがないように映るものです。だから新しい賜物を求めるクリスチャンが多いのは確かです。
しかし今あるものをフル回転させて人と関わるとき、神がその人の心を開いてくださる時がやってきます。
一人でも多くのクリスチャンの方が、人を導く喜びを味わうことができたらよいですね。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』13章31-35節


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2020.8.30主日礼拝説教「キリストだけが救いへの門」(ルカ13:22-30)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 今日(9/5土)の夕方、ひとりの婦人役員から、教会に一本の電話が入りました。
グループホームに入居中で、コロナが流行する前には毎週訪問させていただいていたTさんが、肺炎のために急逝されたという報告でした。
葬儀は、やはりコロナの影響のために、家族葬で行うとのことでした。
姉妹も涙ぐみ、私も驚きのあまり言葉が続かずに、電話を切った後、涙がこぼれました。

 Tさんは、もともと、十年以上前に亡くなられた教会員、N子姉のお兄さんでした。
生前のN子姉を訪問していたときには、別室でテレビを見ているばかりでほとんど会話もなかったのですが、
N子姉の葬儀を私たちがさせていただいたとき「N子への最高のはなむけだった」と喜んでくださり、それから親しい関係になりました。
Tさんはやがて自宅での生活が厳しくなり、教会の近所にあるグループホームに入居しましたが、
その後も先の役員を含む二人の姉妹が毎週訪問、しばらくして私も合流し、週一回、四人の幸いな時間が続けられてきました。
そのグループホームはそれぞれ一人部屋があてがわれており、童謡を歌ったり、聖書のお話しをさせていただきました。
3月からコロナのために外部からの訪問が禁じられましたが、一日も早く再開するようにと祈り続けていたところでした。

 Tさんは愉快な人でした。ユーモアがあり、人を不快にさせるジョークは一切語らず、いつも和ませてくださいました。
築ウン十年の古民家に住んでいたときには「すきま風ばかり吹くから、絶対に一酸化炭素中毒にはなりませんワ」と笑わせ、
グループホームにいたときには「きょうも首が痛い」。「だいじょうぶ?」と聞くと「借金で首が回りませんワ」。
 洗礼を授けるには至りませんでしたが、ある日の訪問で自分の罪を認め、キリストを信じると告白しました。
つい先日の役員会で、例の婦人役員から「あの時、先生の導きはなんか強引だなと思いましたが、
早く洗礼を受けられるといいですネ」と本気とも冗談ともつかない発言があり、数日間、その言葉がひっかかっていました。
振り返ってみると、たとえ強引と思われても、訪問できなくなる前に信仰決心に至ったことが、神様の恵みでした。
 救いに導く者も、救いに導かれる者も、救いの神が定めた「時」に動かされています。
いつでも語れるチャンスがあるわけでも、いつでも信じるチャンスがあるわけでもありません。
イエスの御霊が心の扉を叩いておられることに気づいたなら、内側から開けなければなりません。
躊躇していたならば、気づいたときには音はやみ、そして二度とないかもしれないのです。

 Tさん、やがて永遠の御国で会いましょう。御国では首が痛むこともありません。
でもきっと肩をすくめながら、あなたは何か面白いことを言うのでしょうね。期待しています。
そしてN子姉にもよろしくお伝えください。お二人に「センセイ」と言われて私は幸せでした。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』13章22-30節


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posted by 近 at 23:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ

2020.8.23主日礼拝説教「救われてからわかること」(ルカ13:18-21)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。
 
 昨日(8/28)、安倍首相が辞意を表明しました。
持病の悪化のためということですが、首相在任最長記録を達成したことでモティベーションも落ちてしまったのかもしれません。
ちょうどその数日前に、以下のような記事を興味深く読ませていただいたところでした。
安倍首相がもう一人の祖父「安倍寛」のことを口にしない理由(外部サイト)

 安倍首相が母方の祖父である岸信介を政治的・人間的両面において師と仰いでいたことは有名ですが、
父方の祖父である「安倍寛」については沈黙するのはなぜか   この名前を私も初めて知りました。
安倍首相の父であり、将来の首相として嘱望されていたが早逝した、故・安倍晋太郎は
「自分は岸信介の娘婿である前に、安倍寛の息子だ」と父を誇りにしていたそうです。
晋太郎はかつて息子に「お前は政治家として最も必要な“情”が足りない」と言ったそうですが、真偽は定かではありません。
しかし政治家の家系には、外からは見えない、さまざまな痛みや軋轢があるのだろうと思います。

 世襲政治家の典型のような安倍首相ですが、牧師の世界でも「世襲」と言えるような状況は起こります。
貧しくても教会に献身的に仕える両親の姿を見て牧師になるのであれば世襲ではなく本物ですが、
「でもしか牧師」(牧師でもやるか・牧師しかできない)のような人々もいないわけではありません。
どんなに経験のない牧師でも、教会に赴任すれば、その規模に関係なく、一国一城の主です。
新卒がいきなり支店長クラスで迎えられるようなものですから、高ぶってしまう誘惑が満ちています。
「献身者も少なくなった・・・簡単に辞めてほしくない・・・代わりがいなければ無牧になってしまう」
そんな恐れが甘えになり、民間企業では考えられないほどの愚行さえも許されてしまうようになれば、
そこはもはやみことばを語る教会とはたり得ず、むしろみことばを騙るものとなってしまうことでしょう。

 それを避けるために説教者が自らに打ち込むべき楔は、人の喜ぶ言葉ではなく神の喜ぶ言葉を語るということです。
自分の説教が、みことばを語っているのか、それともみことばを騙っているのか、自分には見えなくなることもあります。
だから批判されるのは覚悟のうえで、私は説教の音声だけではなく原稿も公開しています。批判は力であり、宝です。
私の恩師は「非難は人を殺すが、批判は人を生かす」と教えてくれました。安倍首相は「批判は宝」として受け止めていたでしょうか?
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』13章18-21節


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2020.8.16主日礼拝説教「束縛からの解放」(ルカ13:10-17)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 世に教会は数あれど、週報の表紙が毎回変わるという、ウチみたいなところは少ないでしょう。
最近では、礼拝当日が何の記念日にあたるかを調べて、トリビア的なコメントを加えるようなことをよくやっています。
今週(8/16)の表紙は、その日が「女子大生の日」であるということで、ナデシコの画像を用いて控えめにこんな説明をしていました。
2020.8.16_page-0002.jpg 
撫子(大和撫子)は秋の七草の一つ。7〜10月にかけて薄紅色の花を幾何学模様(正五角形)につける。美しさと聡明さを兼ね備えた日本女性の象徴とされるようになった。今から107年前の1913(大正2)年8月16日、東北帝国大学に三名の女性が入学。日本最初の女子大生と言われる。そのうちの一人、黒田チカは日本初の女性理学博士となった。
そしたらなんということでしょう。つい昨日(8/21)のニュースにこんなものが出てきてビックリ。
「女子大生の日」 ホントはきょうなのに・・・ 日付誤認の理由は?
 インターネットで検索すると、「8月16日は女子大生の日」と紹介するサイトが複数ヒットする。1913(大正2)年のこの日、東北帝国大が女性3人の合格を発表した、との記述がある。
 東北大に確認すると、16日は東京朝日新聞が「女性3人が入学を許可され、16日の官報で発表される」との記事を掲載した日だという。ところが実際の官報に掲載されたのは8月21日だった。
 東北大の大隅典子副学長は、8月16日という誤った日付が記事やインターネットで話題になることが気になっていたという。そこで東北大はことし6月、日本記念日協会(長野県佐久市)に8月21日を「女子大生の日」として申請し、7月に登録された。
 しかし、東北大の動きは世間にあまりに認知されなかったようだ。行政文書を管理、保存する国立公文書館は8月16日、「今日は女子大生の日」と誤った情報を会員制交流サイト(SNS)に投稿してしまった。(以下省略、河北新報)
国立公文書館が間違えるくらいだから、ウチの教会が間違えてもまあいいかとも思わないでもありませんが、
一応、週報は、教会にとっては永年保存として扱うものですので、謝るべき・・・だよね。
とはいえ明日の礼拝でわざわざ報告するものでもなし(妻いわく「みんな読んでない」)、この場を借りて謝罪いたします。ごめんね。
いくらネットでそれっぽく書かれていても、よく調べなければいかん、と悔い改めました。な、国立公文書館。
説教で紹介したわけではなかったのがせめてもの救いでした。
もっとも、振り返ってみるともっとひどいうろ覚えの情報をアドリブでポロッと出してしまうこともありましたが。スシ○ーの回転スピードとか。
これからは気をつけます。特に明日の説教。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』13章10-17節


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posted by 近 at 20:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ

2020.8.9主日礼拝説教「さばきについての三つの誤解」(ルカ13:1-9)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 実際の説教では割愛しましたが。今回の原稿の中で、17世紀の清教徒革命のエピソードが出て来ます。
清教徒革命と言えば革命軍の指導者クロムウェルが有名ですが、彼は軍事的天才でした。
それに対し革命を裏方として支えたジョン・ミルトンは思想的天才であったと言えるでしょう。
高校の世界史の授業で聞いた話ですが、チャールズ一世の処刑の際にミルトンはこう呟いたそうです。
「It's cruel, but necessary」(残酷だ、しかし必要だ)



 しかし革命はその後、内部分裂により瓦解。国外逃亡していた王の息子チャールズ二世が帰国し、王政が復活します。
革命の担い手であった清教徒(ピューリタン)に対する迫害は激化し、彼らの一部は新天地を求めてアメリカへ脱出。
ここからピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖)と呼ばれる、アメリカ建国物語が始まっていきます。
イギリス本国では、結局チャールズ二世も時代を見極められず国外に追放、名誉革命が成立しました。

 教会の中にも、時として「Cruel」(ひどい)と言われるような、悲しいことが起こります。
牧師は傷つき、会衆はつまずき、信仰から離れてしまう。そういう例を牧会の事例のなかでいくつも見てきました。
しかしそれも、いつか必ず「necessary」(必要だった)と振り返ることができる時がやってきます。
悪を益と変える聖霊の働きを妨げるのは、見ても学ばず、経験に蓋をする、人間の事なかれ主義にあります。
牧師は祭司であると同時に預言者であり続けなければなりません。そしてさばきは神の家から始まります。
いまキリスト教会の中に世俗化の風潮はないでしょうか。牧師自身が自己批判の視線を失ってはならないと思わされます。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』13章1-9節



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2020.8.2主日礼拝説教「手遅れになる前に」(ルカ12:54-59)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 本日(8/8)のyahoo!ニュースで、「北海道→鹿児島3泊4日」乗り換え駆使した弾丸ツアー、今なぜ爆誕?というのがありました。
たまたまリンク先で読んでみたら、この記者さん(withnews 北林慎也氏)が書かれた、たいへん興味深い記事がありました。

キリスト看板、貼られる瞬間を見た 聖書配布協力会の伝道活動に密着(2019/11/19)
「死後さばきにあう」は廃版だった キリスト看板、制作の裏側に迫る(2019/11/20)
「キリスト看板」聖書配布協力会の今 コロナの中、看板設置に変化(2020/5/7)
bibleoutreach.jpgbibleoutreach2.jpg
そう、田舎の農具小屋から都心のビルディングまで。日本全国の外壁から時代を見つめる、例の黒看板のルポルタージュです。
決してイロモノ的な扱いではなく、好意的な視点で書かれています。非常に励まされました。
ぜひリンク先の記事からご覧ください。放送伝道同様、途絶えさせてはならない働きだと思います。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』12章54-59節



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2020.7.26主日礼拝説教「真の平和は分裂の後に」(ルカ12:49-53)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 毎週、牧師は説教準備という苦行の連続ですが、そこで不可欠なものに「原語釈義」というプロセスがあります。
旧約聖書はヘブル語、新約聖書はギリシャ語で記されていることはよく知られていますが、
それを各国の言葉に翻訳したものが、たとえば日本であれば新改訳や新共同訳にあたります。
そして、いずれの翻訳であれ、わずかながらも翻訳者独自の解釈が含まれることは免れません
たとえば「救う」を意味する、ソーゾーという新約ギリシャ語があります。これは「(病を)直す」という意味もあります。
12年間長血で苦しんでいた女性(マルコ5:34)にイエス様が語られたのは「あなたを救った」か、「あなたを直した」か。
口語訳、新共同訳では「救った」ですが、新改訳第三版では「直訳:救った」という小さな注をつけたうえで「直した」と訳していました。
新改訳2017では「救った」になっています。
 実際に説教を語るとき、その教会が公に用いている聖書の言葉に立って語らないと、会衆が混乱してしまいます。
(神学生の頃は説教の中に「ここは原語では・・・」と頻繁に使いましたが、逆効果であったことを牧師になってから気づきました)
翻訳に依存せず、また翻訳を無視せず、原語が本来語ろうとしていたことを結晶化してゆく営み、それが原語釈義です。

 今回の聖書箇所で登場する「分裂」と訳されたギリシャ語「ディアメリスモス」は、聖書の中でここにしか出てきません。
すべての聖書翻訳で「分裂(division)」と訳されていますが、ここにしか言及がないということは、
それが「分裂」という言葉で正しいのか、比較する対象がないということです。その場合、それが語られている文脈で判断します。
51節で「ディアメリスモス」を語られたあと、52、53節で動詞形「ディアメリゾー」をイエス様は語られます。
この言葉は「分ける」という意味で聖書に11回登場します。それで「分裂」と確定的に訳されているのでしょう。
しかしこのディアメリゾーが新約聖書に登場するのは、福音書と使徒の働きだけです。
「分裂」についてあれほど語られているパウロ書簡で、「ディアメリゾー」は一切使われていません。
つまりこの「分裂」は、私たちが想像するような内部分裂とは少し違うものを意味しているようです。
 さらに言えば、11回のうち4回は「分裂」(ルカ11:17・18、12:52・53)ですが、
残りの4回はイエスの着物を兵士たちが「分けた」こと(マタイ27:35、マルコ15:24、ルカ23:34、ヨハネ19:24)、
残りの3つはそれぞれ、聖餐のときに「分けて」飲みなさいと主が命じたこと(ルカ22:17)、
聖霊が「分かれた」舌のように下ってこられたこと(使徒2:3)、
初期の信者たちが財産を「分けて」生活していたこと(ルカ2:45)と、二つは明らかに積極的な意味で使われています。

 その意味で、ディアメリゾーやディアメリスモスは、単に「分裂」という消極的な意味ではないと解釈されます。
「分裂」と訳されたこの言葉は、言語的には「共有」と紙一重であり、キリスト者や教会にとって、恐れるものではありません。
逆に分裂を恐れて、家庭・職場・教会(教団)のなかで何も言えなくなってしまうとしたら、その方がはるかに問題と言えるでしょう。
「真の平和は分裂の後で」と説教題につけましたが、もしかしたら分裂のように見える事柄そのものが、実際には分裂ではなく、
そこに気づくとき、何ものにも揺るがされることのない平和がすでに生まれているのかもしれません。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』12章49-53節



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2020.7.19主日礼拝説教「きよくなるために打たれる」(ルカ12:41-48)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 福音書にあるイエス様の言葉を学ぶとき、多くの読者は「その言葉が人々に語られた時代状況」を想定して聞くことでしょう。
たとえば山上の説教で言えば、紀元30年前後、イエス様の宣教活動の初期、群衆に語られたメッセージとして聞きます。
ただ共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)にちょくちょく出てくる、並行記事の相違点に着目するとき、
それ以外にも「その福音書が書かれた時代」についても考慮するとさらに理解が深まります。

 イエス様が実際に語られた時代と、それが福音書としてまとめられた時代には約30年、一世代に相当する時間差があります。
たとえば今日の箇所は、マタイ福音書24:45〜51にほとんど同じ記事が掲載されていますが、
ルカのほうには「ペテロの質問」(41節)と「主人の心を知っていた悪いしもべと、知らなかったしもべ」(47-48節)が加筆されています。
どちらも同じイエス様のメッセージなのに、なぜその違いが生まれているのか。
それを読み解く鍵が、十二弟子のひとりとしてリアルタイムで聞いていたマタイと、
改めてイエスの語られた言葉を収集し、それを一世代またいだ時代の中で再構成しているルカとの違いです。

 すなわちルカが加筆した「この話はみんなに語っているのか、それとも私たちに語っているのか」というペテロの質問は、
イエス様の時代から少し下って教会の中に生まれていた、執事や監督などの管理職に対する特別な心構えを提供しています。
また同じ不忠実なしもべなのに、「主人の心を知っているか、知らないか」というたとえ話も、
イエスを直接見たことがないが信じている、第二・第三世代のクリスチャンに対する、特別な励ましとして見ることができます。
 うがちすぎと言われるかもしれませんが、そんな違いに着目してみるのも、また楽しいものです。
ウチの妻はいま同じ説教を四回聞いていますが、「何度聞いても、なぜ再臨なのに役員会が出てくるのかワカランふらふら」と言っていました。
楽しいのは私だけでした。ムズカシイ説教を繰り返して申し訳ありません。スマン、妻よ。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』12章41-48節



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2020.7.12主日礼拝説教「喜びと忍耐をもって待ち望む」(ルカ12:35-40)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 新型コロナウイルスの流行によるテレワークの普及により、迷惑メールが激増しているそうです。
ヒトゴトみたいに書いてますが、うちの教会にも、今日一日だけで9件もメールが届いています。
meiwaku.jpg
なに、このアマゾン祭り。しかし教会としてはアマゾンに加入しておりませんので、だまされません。

 ここで注意喚起を兼ねて分析すると、偽のアマゾンメールは次の二つに分類されます五つに増えましたので、追記します(7/21)
(1)「お支払い方法の情報を更新
(2)「セキュリティ警告:サインインが検出されました
(3)「Amazon.co.jpにご登録のアカウント(名前、パスワード、その他個人情報)の確認
(4)「Amazonプライムの自動更新設定を解除いたしました!番号:○○(12けたの無作為の数字)
(5)「Amazon.co.jp ご注文の確認「最新モデルApple MacBook Pro・・・(以下略)
実際の文面は、青字をクリックしてください高額請求されるようなことはありません

最後のメールがとくに狡猾です。赤ペンで消したところは調べたところ、実際に存在する住所でした。
Amazonのほうで電子メールを暗号化することはできないのでしょうか。
それが不可能であれば、電子メールに対する法整備を急いで進めるべきだと考えます。
たとえば今ホームページは「https://」というセキュリティ認証が普及し、見分けることが容易になっています。
今は野放し状態になっているメールにも、これと似た仕組みを導入してほしいと思います。

 なお、このブログはhttpに「s」がつけられないので、グーグルの検索ロボットからしょっちゅうはじかれるようです。
ブログの運営会社であるさくらインターネットの仕様なので仕方がありません。
現在、各社のブログシステムの中で「s」に対応しているのは、はてなブログPro(有料)だけのようです。
乗り換えを検討しているのですが、記事の引っ越しが大変、また編集方法も一から学び直しなので、保留しています。
とにかく、あやしいメールが来たら、スマホではなくてパソコンのほうで確認してください。
そうすれば、見分けやすくなります。一手間増えますが、だまされたら一手間どころではすみません。

 現在、キリスト教会でも「見破る」ということが大事になっています。
かつては異端の御三家と呼ばれる「T協会」「Eの証人」「MM教」だけ気をつけていればよかったのですが、
いまは正統派の教団・教派に属しているにもかかわらず、カルト的な傾向の教師もおり、教師試験の質的改革が追いつきません。
「私(牧師)に反対すると天国に行けない」「○○をしない(できない)信徒は救われていない」
まさかそんなことが教会で語られるはずがないと思いつつも、宣教区長時代にもそういう事例の相談を受けていました。

 講壇で牧師を通して語られることが、聖書に根拠を置いているかどうか、信徒自身が見極める目が必要です。
オンライン礼拝の普及で、説教を動画で公開する教会は増えましたが、原稿まで公開しているところは少ないようです。
当教会はその少数派のひとつですが、炎上のリスクを冒してもそれをする理由は、
教会の健全度を量るモノサシのひとつが説教であり、それを文字として公開することで、安心して通っていただくためです。
「この程度の説教しか語れない牧師なのか」と批判されるんじゃないか、といつもドキドキです。
それでも公開することで、間違いを指摘されたときは反省し、聖書に基づく神学を堅持していくことができます。
その意味で、同盟教団のすべての教会は、説教を文字ベースで公開すべきだと思っています。
なにしろ前理事長の十八番の説教がワ●ピースネタなので。やべ、また言ってしまった。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』12章35-40節



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